蓋
蓋をして、鍵をかけて、鎖で何重にもがんじがらめにして、記憶の奥底に閉じ込める。そうしないといけないほどの出来事って、人生でどのくらいあるんだろうね。
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四人家族の母。パート。私の肩書きなんて、それで事足りる。家族のことは大好きだけど、時々無性に一人になりたくなる時がある。一人になったら何がやりたいかと聞かれれば、特にやりたいことや趣味があるわけでもないが、とにかく一人の空間に行って、無駄な時間をだらだらと過ごしたいのだ。そんなことを思いながら、パートと育児と家事であっという間に過ぎ去って行く一日を、苛々悶々としながら繰り返している。
子ども達が寝静まった頃、テレビをつけてiPhoneをいじる。さほど面白い番組も記事もない。もう寝ようか、と思う。でも、このまま寝てしまうのも勿体ないな、とも思う。二つの寝息を聴きながら、夫の帰りもいつも通り日付を跨ぐだろうな、とため息をつきながら、ふと、玄関の方を見た。いつもなら思いとどまるが、今夜はちょっとだけ…と、欲に身を任せて外に出てしまった。
エレベーターを降りて、マンションの隣にある小さな公園のベンチに腰を下ろす。iPhoneくらい持ってくれば良かったかな。寝ているとはいえ、子ども達を置いてきてしまったという罪悪感と、心地よい夜風に当たることの解放感が入り混じり、複雑な心境のまま目を閉じる。そして、深呼吸を、一つ。ほんの数分だけの現実逃避。名残惜しさもあるが、ゆっくりと立ち上がり、夜空を仰いだ。三日月が笑うように自分を見下ろすから、とてつもなく不安になって、少し早歩きでエレベーターホールに向かう。上ボタンを押してエレベーターを待っていると、ガツン、と鈍い音がして、思わず「ひっ!」と声が出た。帽子を目深に被ってマスクをした男性が、よろめいて扉にぶつかったようだ。
目が合った。同時に、エレベーターの扉が開く。
瞬きも出来ず、体も動かず、エレベーターの扉が閉まる。
嫌な予感がして、ズボンのポケットに手を突っ込むと、奇跡的にビニール袋が入っていた。男性がえずいてうずくまったところにすかさず近づき、ビニール袋を広げてマスクをひっぺがす。嘔吐物は、綺麗にビニール袋の中におさまった。ついさっきはスローモーションのドラマのワンシーンのようだったのに、急に二倍速。むせて唸っている男性の背中をさすると、夫の背中よりもはるかに広い。少し後ろめたい気持ちもありつつ、このまま放っておくこともできず、男性の背中をゆっくりとさすり続けた。
「すみ…ませ…」と、小さな声が聞こえ、口元を隠しながら顔をあげた男性と再び目が合って心臓が跳ねた。なんて整ったお顔なんでしょう!吐いたせいで顔真っ白だけど。私よりも年下なのは一目瞭然。動揺を悟られないように「大丈夫ですか?」と尋ねると、「はい…」と目を逸らされ、なぜか少しだけ残念な気持ちになった。男性は壁を支えに立ち上がろとするが、ふらついて危なげ。そんなになるまで飲んだのか。若いなぁ。「ここだと人来るかもだから」と、隣の公園に誘導してベンチに座らせると、二人でふーっと、長い息を吐いた。
体感ではずいぶん時間が流れた気がした。遠くで、我が子の泣き声が聞こえた気がして、我に返る。戻るところだったことを思い出し、立ち上がろうとしたが、立ち上がれなかった。なんと、隣に座っていた男性が、膝に頭を乗せているではありませんか!目深に被っていた帽子は外されていて、無防備なつむじが露わになっていた。どうしてそんな状況になっているのか分からず狼狽えていると、「ごめんなさい、キモイですよね、でも、少しだけこのままで…」と、小さく早口で言う男性が小刻みに震えていて、どうしようもなく、慰めてあげたくなってしまった。かけてあげられる言葉はなく、ただただ、頭を撫でた。柔らかい髪の感触。若い子の色艶。だらしない部屋着で、すっぴんで、家の鍵一つしか持っていない私だけど、名前も知らないこの人に、意味のあることをしてあげられているのかと思うと、心の底から何かが込み上げてくる。それは決して、体の外に出してはいけないものなのだと、分かっていた。
心地いい沈黙にもっと浸っていたいという気持ちを抑えて、「ごめんね、もう、行かないと」と伝える。「そうですよね…」と体を起こした男性は、そっぽを向いたまま帽子を被り直す。そして、ゆっくりとこちらを向いて、「もっと慰めてはもらえないですか?」と言う。目が合って、全身がブワッと熱くなって、体に変な力が入ったが、すぐさま、夫と子ども達の顔が浮かんだ。「帰らなきゃ」と伝えながら立ち上がり、その場から走り去った。
家に戻って、子ども達の様子を真っ先に見に行くと、二人はぐっすり寝入っていて安堵する。夫もまだ帰ってきていない。ソファーに腰掛けようと思ったが、ふわりとあの男性の匂いがして、忙しなく服を着替えて洗濯機に突っ込み、布団に潜り込んだ。シャワーは浴びる気になれなかった。
四人家族の母。パート。私の肩書きなんて、それだけでいい。今ある幸せを壊してまで手に入れたい物なんて、この世に何一つとしてないのだから。