何も起きていない、という判断
精霊界は、今日も静かだった。
空とも大地ともつかない場所に、微かな揺らぎが生まれ、また消える。
そこには建物も玉座もない。ただ、意思だけが存在する。
「……人界で、微細な変化があった」
誰かがそう伝えた。
声ではない。概念が、そのまま流れ込む。
「波形は?」
「乱れはない」
「むしろ、整っている」
それが異常だという認識は、全員が共有していた。
本来、人の世界で力が使われれば、精霊界には“引っかかり”が残る。
小さくても、必ずだ。
だが今回は違った。
「流出がない」
「精霊契約も確認されない」
「それでいて、結果だけが残っている」
誰かが、ほんの少しだけ間を置いた。
「……管理領域か?」
その問いに、即答はなかった。
否定も、肯定もされない。
それ自体が、答えに近い。
「介入の必要は?」
問いは形式的だった。
「不要」
「こちらが触れれば、初めて歪む」
「現状は“自然”だ」
合意は静かに成立する。
精霊たちは、世界を守る存在ではない。
世界が壊れないよう、見ているだけだ。
「対象は?」
「特定しない」
「名を与えない」
「記録もしない」
それが、最も安全な処置だった。
精霊界にとって、
名を知ることは、関与を意味する。
「観測は続行」
「距離は維持」
「沈黙を選ぶ」
その判断に、異論は出なかった。
⸻
一方、人の世界。
ミリアは宿屋の裏口で、洗濯物を干していた。
「うーん、やっぱりこの服、可愛い」
ピンクのコートを軽く揺らし、満足そうに頷く。
フリルの位置も、ちゃんと整えて。
周囲の空気は穏やかで、
精霊にとって“触れる理由”がないほど安定していた。
本人は知らない。
つい先ほど、
世界の外側で「問題なし」と判断されたことを。
⸻
精霊界では、すでに別の話題に移っていた。
「魔界側は?」
「沈静」
「神界は?」
「……変化なし」
その報告に、わずかな“余白”が残る。
だが、誰もそこを掘り下げない。
「なら、問題はない」
「世界は、正しく回っている」
それで十分だった。
⸻
ミリアは、洗濯を終えると、宿屋の中に戻る。
「今日のご飯、何かなぁ」
そんなことを考えながら。
精霊たちは知っている。
本当に危険な存在は、
こんなふうに世界に馴染まない。
だから――
今は、何もしない。
それが、最良の選択だった。




