最初のズレ
王都アステルは、今日も穏やかだった。
朝の鐘は正確に鳴り、商人たちは決まった時間に店を開ける。冒険者ギルドの扉は軋みもせず、依頼掲示板には昨日と似た内容の紙が並んでいた。
誰が見ても、平和そのものだ。
だが――
その平和は、どこか「整いすぎて」いた。
ミリアはギルドの中で、何となく周囲を見渡していた。
「……変わらん、はずやのに」
自分の声が、妙に遠く感じる。
昨日までと何も違わない。空気の温度も、人の流れも、魔力の濃度も。
それでも、胸の奥に小さな引っかかりがあった。
受付嬢が依頼書を数えている。
「……一、二、三……」
そこで、ほんの一瞬だけ手が止まった。
理由はない。ただ、紙の重なり方が“しっくり来なかった”。
もう一度数える。
数は合っている。内容にも問題はない。
「……気のせいね」
受付嬢はそう言って仕事を続けた。
周囲の誰も気に留めない。
だがミリアだけは、その一瞬を見逃さなかった。
「今の……なんやろ」
世界が、ほんのわずかだけ“考えた”ように見えた。
昼、街を歩く。
露店の主人が釣り銭を渡す指を一拍遅らせ、
荷車を引く少年が石につまずきかけ、だが倒れず、
噴水の水音が、なぜか一拍長く響く。
どれも事故ではない。
むしろ、事故にならなかった。
「……うまくいきすぎや」
ミリアは小さく息を吐いた。
不運が起きない。
危険が成立しない。
それは安心できるはずのことなのに、どこか不自然だった。
同じ頃――
神々の側では、観測が続いていた。
四天王の一柱が、秩序盤を指でなぞる。
「数値は……正常。だが」
ログは滑らかだ。
異常波形も、逸脱反応もない。
だが、連続性にわずかな“遊び”が生まれている。
「測定誤差の範囲だな」
そう結論づけられ、記録は更新されない。
警告も出ない。
秩序は、まだ秩序のままだ。
精霊界では、風の精霊が一瞬だけ流れを失った。
精霊王は足を止める。
風は正しく吹いている。
だが、次の風向きが“未定”になっている。
「……」
これは異常ではない。
だが、以前はあり得なかった。
精霊女王のもとへ報告するべきか――
そう考え、精霊王は言葉を飲み込んだ。
異常ではない。
秩序に反していない。
報告の理由が、存在しない。
夕暮れ。
ミリアは城壁近くの道を歩いていた。
風が止まる。
雲が、一瞬だけ空に貼り付いたように動かなくなる。
ほんの一瞬。
誰も気づかない。
だがミリアは立ち止まった。
「……今、止まったやろ」
胸の奥が、静かに震える。
恐怖ではない。
懐かしさとも違う。
自分自身に、触れかけている感覚。
「まだ……やな」
そう呟くと、世界は何事もなかったように動き出す。
雲は流れ、風は吹き、人々は歩き続ける。
秩序は崩れていない。
異常は、まだ無い。
だが――
完全だった世界は、確かに一度、躓いた。
それが
最初のズレだった。




