やさしい夜と、届かない祈り
宿屋の扉を開けると、木の匂いと温かい空気が迎えてくれた。
「おかえりなさーい!」
カウンターの向こうから、同じくらいの年頃の女の子が手を振る。
この宿屋で働いている、名前を呼び合うくらいには仲良くなった子だ。
「ただいま。依頼、終わったよ」
「早っ! また無茶したんじゃない?」
「してない、してない。たまたま」
いつものやり取り。
それが、少しだけ心地いい。
部屋に戻ると、ベッドに腰を下ろして大きく息を吐いた。
「……ふぅ」
疲れているはずなのに、体は軽い。
魔力も減った感じがしない。
「回復、効きすぎじゃない?」
独り言を言いながら、ブーツを脱ぐ。
フリルのついた靴は、相変わらず可愛い。
――可愛い、という自覚はないけれど。
「……あ」
ふと、窓の外に視線を向ける。
月明かりの下、何かが揺れた気がした。
「……また?」
昨日、森で感じた、あの気配。
でも、今は何も見えない。
ただ、夜風がカーテンを揺らすだけ。
「気のせい、だよね」
ベッドに横になり、目を閉じる。
安心できる場所。
誰にも追われない、普通の夜。
そう思った瞬間――
胸の奥が、ほんのりあたたかくなった。
「……おやすみ」
誰に向けた言葉かも分からないまま、眠りに落ちた。
*
同じ夜。
街の教会では、深夜の祈祷が行われていた。
神官たちは静かに膝をつき、神像に祈りを捧げている。
――だが。
「……?」
一人の神官が、ふと顔を上げた。
「今、何か……」
「どうしました?」
「祈りが……届いていない、というより……」
言葉を探す。
「……重なった?」
老神官が、ゆっくりと目を開く。
「また、か」
「また、ですか?」
「最近、祈祷が“遮られる”ことがある」
「遮断、ではなく……」
「上書き、に近い」
神官たちの間に、ざわめきが走る。
「それは……神の御業では?」
「違う」
老神官は、静かに首を振った。
「神なら、もっと明確だ。
これは――柔らかすぎる」
神像を見上げる。
ピンク色の衣をまとった、名を持たぬ女神。
「まるで……誰かが、無意識に祈っているような」
「無意識に?」
「そう。
守ろうとしている、とも言える」
沈黙。
「……人が?」
「分からん」
老神官は、ゆっくりと立ち上がる。
「だが、人界に“祈らずして、守る力”があるとすれば……」
言葉を、そこで止めた。
それ以上は、考えてはいけない。
「……例の冒険者は?」
「ミリア、ですね。
本日も依頼を即日完了しています」
「……そうか」
老神官は、神像から視線を外した。
「しばらく、静観する」
「監視は?」
「不要だ」
静かに、しかしはっきりと告げる。
「“気づいていない者”に、こちらから触れるべきではない」
神官たちは、深く頷いた。
*
その頃、宿屋の一室。
ミリアは、穏やかな寝息を立てて眠っている。
何も知らず。
何も自覚せず。
ただ、今日も少しだけ――
世界を守ってしまったことに、気づかないまま。




