第三話 父と娘の困惑
今回は、かなり長めです。適度な休憩を挟んでご覧ください。
三年が過ぎていた。小さな村の診療所で、あの赤ん坊は三歳の時を迎えていた。立って歩けるようになると、彼女には明確な意思のようなものが生じていた。じっとものを見つめ、口の中で何かを呟く。隣家にいる同じ年頃の子供とは、違った存在に感じられる。
薬を入れた小瓶の並ぶ棚の前で、彼女は身じろぎもせずにそれを眺めている。茶色い陶器の表面に書かれた、中身を示す文字を読んでいるように見えた。
「薬に、興味があるのか?」
声をかけると、彼女の肩がぴくりと震えた。恐る恐る、振り向いた瞳の中には、探るような色が見えた。
「……あい」
舌っ足らずな声を出し、彼女はそっとうなずく。私は、首を横へ振った。
「無理をして、喋り方を変える必要は無い。さっきは、ちゃんと発音していただろう」
さっと、彼女の顔に怯えが拡がってゆく。
「あ……あの、私……」
それは、やはり三つになったばかりの子供らしさとは、かけ離れていた。
「薬に興味を持つのは、良いことだ。使い方を誤らなければ、それは命を救うものなのだから」
言いながら、私は小瓶のひとつを棚の最上段に置き直す。
「これには、触らないように」
私の言葉に、彼女は小さくうなずく。
「……はい、わかりました」
素直にうなずく彼女の頭へ、手を伸ばす。びくん、と彼女の全身が震える。私は、彼女の背後にある小瓶のひとつを手に取った。
「君のいた世界、ニホンといったか。そこにも似たような薬はあったかも知れないが、これが、基本的な傷薬になる。怪我をしたら、これを塗って乾かすといい」
小瓶を差し出すと、小さな手のひらがそれを受け取った。たどたどしい動きで封を開けて、彼女が鼻を近づける。くん、と鳴らしたあと、くしゃりと幼い顔が歪んだ。
「……ひどい臭い、ですね」
封をし直した小瓶を、彼女が差し出してくる。受け取って、それを棚へと戻した。
「だが、効果は保証できる。ちょっとした怪我には、よく効くんだ」
「良薬は口に苦し、ですか」
彼女の言葉に、私の思考が一瞬止まった。
「……口にするのは、やめておいたほうがいいだろう。これは、塗り薬だから」
「ごめんなさい。そういうことじゃなくって……私のいた、世界、の言葉なんです」
彼女が、小さく頭を下げる。
「良い薬ほど、苦い……? 一概に、そうだと言い切れないと思うのだけれど」
「……忘れてください」
首を傾げる私に、彼女は小さな声で言った。
「そうだな。君の元いた世界の常識は、こちらでは通用しないものもある。そのことは、覚えておいたほうがいいだろう」
こちらへ、と患者用の椅子を指し示し、彼女を座らせる。正対するかたちで、私も自分の椅子へ腰を下ろした。
「初めまして。どうやら、君の本性というべきものに会うのは、これが初めてだね。私は、フォルシス。医師をしている者だ。君の名前は、スズナ、で良かっただろうか」
問いかけると、彼女は大きな瞳を真ん丸に見開いた。
「……はい、そうです。でも、どうして」
「赤ん坊だった君を包んでいた布に、刺繍してあった。恐らくは、神様とやらの仕業なのだろうね」
「神様の……」
何かを思い浮かべるような表情で、彼女が小さく息を吐く。
「君の目的は、わからない。勇者として転生してきたようだが、あいにく今のこの世界には、それを必要とする事態は起きてはいない。だから君は、君の目的のために、生きればいい。成人するまでは、私が面倒を見る。それまでは、ここで暮らせばいい」
私の言葉に、彼女は顔を俯ける。私は構わず、様々な常識を彼女に語って聞かせた。それは普通の子供であれば、少しずつ覚えてゆくものだった。彼女は幼い瞳を瞬かせ、歳不相応な真剣さで聴き入っていた。
不意に、目が覚めた。精神の休眠状態から覚めた私を待っていたのは、一人の白衣の男性だった。この世界の文字が、理解できる。そのことに驚いていると、後ろから急に声をかけられたのだ。とっさに幼児のふりをして返事をしたが、男性にはそれを見透かされていた。小瓶の文字を口の中で読んだ声を、聞かれていたのだ。
男性は物腰は静かで、落ち着いた雰囲気を持っていた。私に向けてくる感情には、どこか冷たさを感じる。私が目覚める前、このひとはどんな表情で私に接していたのだろう。気になるのは、そんなことばかりだった。
この世界はどうやら、地球で言うところの中世くらいの文明らしかった。ここは小さな村で、山を越えれば大きな町がある。遠くへの移動には、馬車を使うか自分の足で歩く。煮炊きには薪や炭を使い、暗くなれば眠りにつく。男性は、ひとつひとつ丁寧に、この世界について説明してくれた。
この世界では、十五歳で人は成人を迎えるらしい。それまでは、この家で暮らしてゆけるということだった。
「……ありがとうございます」
一通りの話を聞き終えて、私は礼を言って頭を下げた。
「……礼には、及ばない。常識を知っておいてもらうのは、私にとっても大事なことだから」
そう言った男性の顔からは、表情を読み取ることはできなかった。
「それでも、私を養って下さっているのですから、お礼は言わせてください」
「……君が気にすることでは無い。君を養った程度で、傾く蓄えではないのだから」
男性が、立ち上がる。
「夕飯の時間だ」
言われてみれば、自分のお腹がくぅと鳴った。恥ずかしさに俯くと、男性が柔らかく息を吐いた。
「胃腸の働きが、正常ということだ。何も、恥じることは無い。君の身体は、まだ子供なのだから」
「……ありがとう、ございます」
言いながら私も椅子から降りて、歩き出した男性の後を追う。
「……どこまで、行くんですか?」
男性について診療所から外へ出て、私は問いかける。
「隣の家だ。君が目覚める前から、食事の世話をしてもらっている。失礼の無いように、振る舞ってほしい」
男性に向けてうなずき、隣家の前までやってくる。丸太を組んで作られた、簡素な家だった。開け放たれた窓からは、暖かな空気が流れてくる。
「こんばんは。フォルシスです」
ノックと共に男性が声をかければ、隣家のドアは勢いよく開かれた。
「スズナ!」
顔を見せるのは、幼い、三歳くらいの男の子だ。こちらへ、元気よく呼びかけてくる。
「こら、ピーター。飛び出して行っちゃ、駄目でしょう」
ドアの向こうから外へ飛び出そうとする男の子の襟首を、掴んだ腕があった。ほっそりとした大人の女性が、続いて顔を見せる。
「こんばんは、フォルシスさん。それに、スズナちゃんも。ごめんなさいね、うちのピーターがうるさくって」
苦笑しながら男の子の頭を押さえつけ、女性が言った。茶色い髪をひっつめにした、優しそうな顔だった。男の子のほうは、女性にじゃれつくように身をよじり、こちらへ笑みを向けてくる。
「風邪は、もう治り切ったようですね、グレアさん。スズナも、挨拶しなさい」
前に立つ男性に促され、私は少し頭を下げた。
「……こんばん、は」
「あらあら。今日は少し、大人しいわね、スズナちゃん」
「……今日は本を読んでやったので、少し疲れているのかも知れません。お気になさらず。今日も、夕食を戴きたいのですが」
こちらを覗き込んでくる女性の視線から庇うように立ち、男性が言った。
「そうですか。疲れているなら、仕方ないですね。今日は、シチューを作りましたの。よろしければ、上がって召し上がられます?」
女性の提案に、男性は首を横へ振る。
「いえ、食事を作っていただけるだけで、充分です。それに、夫君の留守に良からぬ噂が立つのは、困るでしょう」
男性の言葉に、女性が一瞬、陰りのある表情を浮かべた。だがすぐに、それは笑顔で上書きされる。
「それでは、これを。まだ熱いので、気をつけて運んでくださいね」
「ありがとうございます」
女性の差し出す小鍋を受け取り、男性が頭を下げた。
「スズナ、あしたはいっしょにあそぼうね!」
女性の後ろから、男の子が顔を出して言った。曖昧に笑い返し、私はうなずく。
「鍋は、明日スズナに返しに来させます。では……行こうか」
男性が、くるりと身を翻す。私も続いて、後を追って歩く。
「……明日には、もう少し元気に振る舞ってあげるといい。ピーターくんは、君とはとても仲が良かった」
「そうなんですか?」
「ああ。赤ん坊の頃からの付き合いだ。君もピーターくんも、グレアさんの母乳で育ったのだから」
「……はい、わかりました。他に、注意するべきことは、ありますか?」
内心の驚きを隠し、私は男性に問う。
「……子供らしい、喋り方を心がけてくれ。グレアさんと、ピーターくんの前だけでいい。それから、あまり詮索はしないで欲しい。グレアさんは、少し不安定だから」
男性は言って、少し隙間を開けてきた家のドアに足先を差し込み器用に開ける。
「わかりました」
返事をして、私も家の中へと入った。
夕食のシチューは温かく、素朴な味がした。かなりの薄味だったが、私にはとても美味しく感じられた。
二度の春を越して、私は五歳になっていた。勇者に転生した、とはいっても幼年時代にはそれほどの危険もないのだろう。フォルシス医師のもとで薬草や医療についての勉強をしつつ、隣家のピーターくんと遊ぶ毎日が続いていた。
精神年齢の差があるので、ピーターくんは私の中で弟のような存在になっていた。実際に乳兄弟でもあるわけで、その考えは恐らく間違ってはいない。もっとも、ピーターくんの中では私は村にいる唯一の同年代、相棒のようなものらしかった。
「スズナ、あそぼうよ!」
挨拶もせずに、診療所のドアを開いて大声を出す。ピーターくんだった。薬草植物を記した図入りのノートに見入っていた私は顔を上げて、フォルシス医師を見た。
「……行ってくるといい。ただし、あまり遠くへは行かないように」
薬鉢で薬草をすり潰しながら、フォルシス医師が言う。彼が目を向けるのは、ドアから笑顔をのぞかせているピーターくんにである。
「はい。行ってきます」
ノートを机の上に戻し、私はピーターくんと一緒に村を走り回る。身体があまり強くないのか、ピーターくんはほどなく息を切らせ始めた。
「ちょっと、休もっか」
村を見下ろす丘の上で、私は提案する。木の柵に囲まれた、小さな村が眼下に見えた。
「う、うん。スズナ、すごいね。はやく、ながく、はしれるもんね」
途切れ途切れに言って、ピーターくんが草の上に大の字になって横たわる。母親のグレアさんと同じ、茶色の髪の毛がさわさわと風に揺れている。私は、そこへ手を伸ばす。
「ピーターくんも、頑張ったね。ここまで、一息に走り抜けてきたもの」
「くすぐったいよ、スズナ」
口ではそう言いながら、ピーターくんは微笑を浮かべてされるままになっていた。平和で、のんびりとした時の流れ。かつての世界では、無かった風景だった。遠い世界の記憶が、ふっと蘇ろうとする。
「ねえ、スズナ! あの木、のぼれるかな?」
目の前に、ピーターくんの顔が現れる。指さすほうを見やると、一本の大きな木が立っていた。どっしりとした幹に、太い枝が何本も横へ張っている。日本では、そうそうお目にかかれないような大きな木だった。
「あれくらいなら、登れそうね。見ていて」
さっと助走をつけて、私は大木に駆け寄る。木のコブや枝に手足をかけて、どんどん上へと登ってゆく。身体が、軽い。勇者として生まれた私の肉体は、その能力を充分に発揮して、大木の天辺へとたどり着く。丘の上からよりもさらに高い展望に、少しくらりとするくらいだった。
「いい風……」
頬を吹き抜けてゆく風に、私は目を細めた。下を見れば、豆粒ほどになったピーターくんが手を振っていた。手を振り返すと、ピーターくんが幹に飛びついた。ここまで、登ってくるつもりなのかも知れない。ピーターくんの体力から鑑みて、それは不可能に近い。だから、私は木の中ほどあたりまで降りて引っ張り上げることにした。
「ピーターくん、ほら、手、出して」
枝を足場に、右手を伸ばす。ふうふうと息を弾ませながら、ピーターくんが私の手を取る。直後、ばきりと足元でいやな音がした。木の幹が、するすると動いてゆく。地面が、近づいてくる。私はピーターくんの身体を抱きかかえ、衝撃に備えた。
建物の、五階くらいから落下する。日本での経験は無いが、何となくそんな感じだったのだろう。ばくばくと心臓を鳴らしながら、頭の中でそんなことを考えた。
「う、うぅ……」
胸の中に抱えたピーターくんの頭から、くぐもった声が聞こえてくる。
「だ、大丈夫、ピーターくん?」
軽い痛みを覚えたが、私はすぐに身を起こしてピーターくんを解放した。頭も腕も、大丈夫だった。だが、ピーターくんの足が、曲がっている。足首から急角度で、曲がっている。やがてそこは、青黒い内出血を見せ始めた。
「い、いああああ! いたい、よ、スズナああ!」
足の異変を見つけたピーターくんが、泣き始めた。
「ピーターくん、大丈夫、大丈夫だから! フォルシスさんに、診てもらおう!」
ピーターくんの膝の裏へ私は腕を差し入れ、もう片方の腕で背を抱いて持ち上げる。体格差があまり無いので、出来ることだった。私は無我夢中で、ピーターくんを診療所へと運び入れた。
「フォルシスさん! 大変です!」
ドアを開けて叫ぶ私に、フォルシス医師は驚いたように目を見開き、それから視線を鋭くする。
「……まずは、落ち着くんだ、スズナ。ピーターくんを寝台へ」
うなずいた私から、フォルシス医師がピーターくんの身体を受け取り寝台へと寝かせる。
「少し痛いが、我慢できるな?」
「う、うん……ああああっ!」
寝台へ寝かされたピーターくんが、手足をばたつかせる。フォルシス医師が、ちらりと私を見た。
「ピーターくん、大丈夫だから、大人しくして? すぐに、治してあげるから」
暴れる両手を捕まえて、胸の前にかき抱く。その間に、フォルシス医師がピーターくんの顔に布を当てた。くたり、とピーターくんの身体から力が抜けて、目が閉じられた。
「何の薬を?」
「睡眠薬だ。心配はない。それより、何があった?」
手早くピーターくんの足を診始めたフォルシス医師が、鋭い声を飛ばす。
「その……木登りを、していて……落ちちゃったんです」
力の抜けた両手を整え、そっと置いて私は言った。
「……危険なことはするなと、言っておいたはずだが」
ぐきり、とフォルシス医師の手元で、鈍い音が鳴った。反射なのか、意識を失ったままのピーターくんの身体がびくんと跳ねた。
「……ごめんなさい」
「……膏薬を、棚から取ってくれないか」
いくぶんか落ち着いた声音で、フォルシス医師が指示を出す。私は言われた通り、膏薬の小瓶を取って手渡した。
「……緊急時だったとはいえ、君は私の娘ということになっている。呼び方は、もう少しなんとかしたほうがいいかも知れない」
添え木を巻きつけながら、フォルシス医師がぽつりと言った。私は黙って、ただ俯いていることしかできない。二年間、私は彼と生活をしてはいるが、一度も父と呼びかけたことは無かった。私の中では、その呼び名は決して好ましいものでは無い。だから、なのかも知れない。
「……君は、怪我をしなかったか」
ピーターくんの治療を終えて、険しい顔をしたフォルシス医師がこちらを向いた。
「はい、私は……なんともありませんでした」
ピーターくんにだけ、怪我を負わせてしまった。そのことに申し訳なさを感じて、俯いてしまう。フォルシス医師の大きな身体が、私に近づいた。
「少し、足を擦りむいているようだ。薬を塗るから、足を出しなさい」
フォルシス医師の言葉に、私は自分の右足を見る。木の幹か何かで擦ってしまったのか、ほんの小さな傷が出来てしまっていた。
「す、すみません。でも、このくらいなら」
「医師のいう事は、聞くものだ。それとも、私の診断に、不服でもあるのか」
言いながら、フォルシス医師は私の足首にさっと薬を塗った。それは、よく染みる薬だった。悲鳴を上げそうになるのを、私は必死に押し殺す。フォルシス医師が、小さく息を吐いた。
スズナを拾ってから、七年が過ぎた。近頃では、些末な家事がこなせるようになってきていた。二年前、隣家の子供が大怪我を負った際、その子供の世話として身の回りのことを覚えたのだろう。もしかすると、隣家のグレア夫人が色々と仕込んでくれたのかも知れない。
週に一度、特別な患者の来る日があった。ローブ姿の、大柄な老人である。なんとなく顔を合わせる機会のなかった老人を初めて見たスズナが、ガイジンサンだ、と小さく呟いていた。
「やあ、初めまして、お嬢さん。わしは、ゴーマという。フォルシスとは、古い友人でね」
私の後ろへ身を隠したスズナへ、ゴーマが声をかける。
「すっ、スズナです。よろしく、お願いします」
大柄なゴーマが、柔和な表情で出した手をスズナが取った。
「ふむ」
握手を交わしたゴーマが、声を漏らす。
「何か?」
問いかけた私に、ゴーマは首を横へ振った。
「いや、何でも。お前さんが拾ったというのは、この子か?」
「そうだ。今は私の娘として育てている。成人を迎えるまでは、そうするつもりだ」
「なるほど……では、しばらく話をしても?」
「……好きにすればいい。スズナ、私はグレアさんの所へ行く。その間に、ゴーマにこの薬を飲ませておいてほしい」
ゴーマは気心の知れた友人だった。人とは少し違うかも知れないが、悪さをするような男ではない。そして、万一のことがあろうとスズナにはもう勇者としての力の片鱗といえるらしきものは、備わっていた。彼女ならば、何があっても無事だろう。
「わかりました。おばさまに、よろしくお伝えください」
私の差し出した薬包を受け取り、小さな声でスズナが言った。他人行儀な態度であったが、それは仕方のないことだった。いずれ、彼女はここを出てゆく。勇者として転生をしたからには、そうなるのだろう。余計な情を与えることは、互いの為にはならない。彼女への接し方を、私は変えるつもりは無い。さっさと背を向けて、隣家へと向かった。
「こんにちは、フォルシスです」
ドアを叩き、呼びかけてしばらくするとドアが開いた。
「こんにちは、おじさん。母さんは、さっき目が覚めました」
迎え入れるように、ピーターがお辞儀をする。身体つきは、それなりに立派になっていた。遠い面影の子供がその姿に重なり、私はわずかに首を振る。
「そうか。診察をするので、お邪魔するよ」
「おじさん、スズナは……」
不安そうな顔で、ピーターは問う。
「来ていない。うちに、ちょっとした患者さんがいてね。その相手を、させている」
私の言葉に、ピーターがほっと胸を撫で下ろす。私も、その仕草には同意をする。このところスズナには、グレアに会わせてはいない。今の姿を、彼女に見せるのは酷であるというのは、ピーターと私の共通見解だった。
「グレアさん。フォルシスです。診察に上がりました」
居間を抜けて、グレアの寝室へと続く戸をノックする。どうぞ、と細い声に導かれ、私はドアを開く。その向こうには、ベッドに半身を起こした状態のグレアがいた。白い寝間着の上から、薄手の上着を引っ掛けていた。ふっくらとしていた頬は痩せ、頬骨が浮いている。その枕もとには、白く細長い箱が置いてあった。
「……ごめんなさい、フォルシスさん。何のおもてなしもできず」
恐縮しきった声を出すグレアに、私は努めて笑顔を浮かべて歩み寄る。ピーターが、背後でドアをそっと閉じた。
「お加減は、いかがですか」
問いかけに、グレアはやつれた顔を背け、窓のほうを見やる。
「今日は、天気も良いみたいですね。スズナちゃんは、元気にしていますか?」
それは、質問に対する答えではなかった。
「薬は、きちんと飲んでいますか」
再度の問いに、グレアは遠い目で窓外の景色を見つめる。その瞳には、私の診療所が映っている。だが、心の中はそうではないのかも知れない。
「今度来たときに、シチューの作り方を、教えてあげようと思うんです。スズナちゃんは、うちの子と違って、物覚えがとても良いから」
「母さん」
ピーターが、少し尖った声を上げる。それは、母親の自分への評価に対する抗議の声ではない。わかっている、というふうに、私はピーターの背を軽く叩いた。
「……お気持ちは、お察しいたします。けれども、どうか早く良くなってください。ピーターくんも、あなたを心配しています」
呼びかけることしか、今の私にはできなかった。
「……ごめんなさい」
謝罪の言葉を口にしたグレアの肩が、小刻みに震える。それは、あまり良くない兆候だった。
「ピーター、外へ出ていなさい」
言って、返事も聞かずに私はピーターの背を押した。
「……よろしく、お願いします。おじさん」
ピーターは私に頭を下げると、寝室をそっと出て行った。ピーターがいなくなると同時に、グレアの目から涙が流れ落ちる。
「あ、あああ……っ!」
両手で顔を覆い、グレアが号泣する。そっと手を伸ばし、背中を撫でる私の目の前で、白い箱が倒れて開く。中に入っているのは、ひと房の髪だった。茶色がかったその髪は、グレアの夫君シューゼンの遺髪である。
「グレアさん。どうか、落ち着いてください。悲しみ続けて、どうなるのですか。ピーターくんの為にも、今、あなたは立ち直らないと」
「うあああああっ!」
縋り付くグレアに、私は声をかけ続けることしか出来ない。遺髪が届いてからひと月、ずっとこの調子だった。食事も喉を通らず、無理に食べても全て吐いてしまう。水は飲むので、そこへ強壮薬を混ぜて何とか凌いでいるのが現状だった。
「夫が、夫がどうして、死ななければならなかったんですか! 魔王もいない、平和な世界で、どうして!」
どん、と私の胸を叩き、グレアがか細い叫びを上げる。だが、それは私にもわからないことだった。シューゼンは、長らく旅へ出ていた。そうして、紛争に巻き込まれて死んだ。遺髪を持ってきた人物が、そう言っていた。それ以上の詳しいことは、何もわからなかった。だから私には、かけてやる言葉が見つからない。ただ、やせ細ってしまったグレアの背を、優しく撫でてやることしか出来なかった。
しばらくそうしていると、体力が落ちて疲れやすくなっているのか、グレアは眠りについた。私はグレアの腕をそっと解き、ベッドへ寝かせてシーツを被せた。
部屋の外へ出ると、ピーターが後ろ手を組んで壁にもたれかかっていた。
「おじさん……ありがとう」
「こちらこそ。いつも、君たちにはお世話になっていたからね。それに、私は医師だ。病気の人を、治すのが仕事なんだ。気にすることはない」
下げられたピーターの頭に、手を置いた。
「母さんは、おじさんが来たあとは、ちゃんと薬を飲んでます。でも、どんどん痩せていってて……」
「薬だけでは、元気になれないからね。今度、スズナに滋養のあるものを作らせる。ちゃんとした食事を摂ってゆっくり休むのが、一番なんだ。苦しいだろうけれど、今が頑張りどきだよ」
手のひらの下で、ピーターがうなずいた。
「はい。おれも、頑張ります」
「その意気だ」
くしゃりと頭を撫でると、ピーターが笑顔を向けてくる。この笑顔だけは、曇らせてはいけない。心の中で決意を新たにして、私は隣家を辞した。
大柄な老人、ゴーマとの出会いは私に大きな運命をもたらした。それは、魔法の習得であった。
私の身の回りの大人には、魔法を使える人はいなかった。フォルシス医師は医師であり、グレアさんは普通の村人で、料理が上手だ。けれども、二人とも魔法は使えなかった。
フォルシス医師が隣家へ往診に出かけたあと、ゴーマは私を手招いた。私はただ、二メートル近くはありそうな彼の長身をじっと見つめ返すばかりだ。
「おいで。怖がらなくていい。君の中に眠っている、大きな資質を感じる。わしにはそれを、目覚めさせる手助けができるかもしれない」
重くしわがれた、けれども害意の無い声音だった。それに、フォルシス医師の友人である。思い返して、私は彼の近くへ寄った。重い手のひらが、私の頭の上に乗せられる。
「目を閉じて、イメージしなさい」
言われたとおり、目を閉じる。何を、と聞く前に、それは訪れた。
『魔力』
文字が、閉じた視界の中に浮かぶ。ゴーマのいる場所に、それは日本語で表示されていた。
「えっ?」
「もう、魔力が見えたのかい。素晴らしいね。魔力は、自在に形を変えられる。こんなふうに」
ゴーマの言葉とともに、魔力、の文字が歪み、光、という文字になった。瞼の向こうに、うっすらと光りを感じる。目を細く開けて見れば、ゴーマと私の間に光の球体が浮かんでいた。
「君の魔力で、作った光だよ。意識をすれば、動かせるはずだ」
うなずいて、私は再び目を閉じる。光、という文字を、動かすイメージ。前世のイメージで、光の位置を変えてゆく。天井に、張り付くように。蛍光灯。白く薄く光るそれを、強くイメージした。
「おお……」
ゴーマの、驚く声が耳に届く。薄目を開けて、私は光の文字の方を見やった。光は二本の棒状になり、天上にぴたりとくっついていた。この世界に来るまでは、幾度となく見ていた蛍光灯の光を、私はじっと見上げる。胸の中に、かすかな痛みが訪れた。
「やはり、素晴らしい素質を持っているようだ。魔力の移動、形状変化、そして分割までできるなんて……それが、異世界の魔法かな?」
眩しそうに光に目を向けていたゴーマが、言った。私は、素早くゴーマへ視線を向ける。
「……フォルシスさんから、聞いたのですか?」
問い返す私に、ゴーマは首を横へ振る。
「あのような灯りは、この世界のどこにも無いものだ。それに、君の魔力は、私の知らない文字で形成されている。だから、もしかしたら、と思ったのだが」
私の態度で、ゴーマは確信を得たのだろう。
「……はい。私は、異世界から、記憶を持ったまま転生しました。あの光は、私の世界では、とてもありふれたものでした。もちろん、魔法ではなく、科学を使ったものですけれど」
「闇を支配し、光を自在に操る。君の世界には、不思議なものがあったのだね」
ゴーマの言葉に、私の中に奇妙な感情が宿る。
「私から見れば、あなたのほうが不思議です」
思わずそう言うと、ゴーマはこちらへ目を向けて、低く笑った。
「お互いに、知らないことは多いようだね。まあ、いいさ。魔法の使い方は、覚えたようだ。あとは魔力の文字を、好きに変えてみればいい。そのうち、目を閉じなくてもできるようになるだろう。そうなれば、君は世界一の魔法使いにもなれる」
言いながら、ゴーマが右手を天井の光に向かって振った。うっすらと、彼の手から魔力が出て、消、という文字が光に向けて飛んでゆく。そして光とぶつかれば、蛍光灯のような魔法は消えてなくなった。
魔力の消えた天井を見据えていると、ゴーマが重い息をひとつ吐いた。患者のための椅子に、ひどく疲れた様子で腰を下ろす。
「……君の魔力は、強いね。わしの身体には、少し毒だったかも知れない。ああ、心配しなくていい。少し休めば、楽になるから」
慌てて背を支えようとした私に、ゴーマはやんわりと言った。
「それなら……」
私は目を閉じて、魔力をイメージする。楽、の漢字に変化させ、ゴーマへとぶつけてみた。
「ほっほっほ……いい気分だね。ありがとう」
「……少し、違う気がします」
「君のイメージと、文字の持つ本来の意味、それがかみ合わなかったのかも知れないね。まあ、色々と工夫してみるといい。君は、まだ若い。それよりも、薬をくれないかね?」
見るからに楽しげな笑顔を浮かべ、ゴーマが手のひらを差し出してくる。私は、フォルシス医師から受け取っていた薬包を、しわだらけの手の上に乗せた。
開かれた薬包を見て、私は台所からコップを持ってくる。目を閉じ、魔力をイメージ。清水、の文字を作り、コップの中へと移動させる。目を開ければ、コップに綺麗な水が満たされていた。コップを持つ手が少し濡れているのは、文字がはみ出してしまったからだろうか。
「どうぞ」
コップを渡すと、ゴーマは中身を一口含み、目を見開いたかと思うと一気に傾け干した。
「ありがとう。実に、美味しい水だったよ」
しみじみと言うゴーマの表情に、私は頬を緩めた。
ほどなくして、帰宅したフォルシス医師がゴーマの診察をした。簡単な診察が終わり、ゴーマが椅子から立ち上がる。
「それでは、息災でな、フォルシス。スズナちゃんも、元気で」
のっそりと立ち上がったゴーマに、フォルシス医師は呆れたような顔を見せる。
「来週も、また来るんだ。お前に、薬はまだ必要だからな」
「ああ、そうだな。では、また」
ずしん、ずしんと重い足音を立てて、ゴーマが去ってゆく。見送る私の前で、フォルシス医師が戸を閉めた。
「……薬を、きちんと飲ませてくれたようだな。ありがとう」
「いいえ、私は、別に……それより、グレアおばさまのお加減は、どうでしたか?」
問いかけに、フォルシス医師の表情が少し陰りを見せる。
「……ただの風邪だ。少し、長引いてはいるが。心配はいらない。うつるといけないので、君はもうしばらくは会わないほうがいいだろう」
フォルシス医師の言葉には、違和感があった。五年も一緒に暮らしていれば、見えてくるものはある。だが、重ねて問うことはしない。恐らく、まともに答えてはくれないだろう。それも、長い共同生活の間でわかったことだった。
「……ゴーマとは、どんな話を?」
「はい。魔法について……少し、教わりました」
「そうか」
それだけ言って、フォルシス医師は背中を見せた。机に向かい、一心にノートへ何かを書き綴る。しばらく見つめ続けた後、私は薬草のことを記したノートを開き、読んだ。何度も読んでいるため、ノートには折り目がついて、ぼろぼろになっていた。一ページ一ページを、私は大切にめくってゆく。それは、フォルシス医師が書いてくれた、ノートだから。ほとんど暗記している内容に目を落としていると、時間はあっという間に流れてゆくのだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次のお話で、最終回です。来週投稿となります。
お楽しみいただけましたら、何よりです。




