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二月十四日の六十センチメートル

作者: 高木直貴

 教室の窓から外を見てみると校庭はすっかりオレンジ色だった。流石にこの時間だと人も少なくて、いつもは中々使えない人気の遊具も今なら独り占め出来そうだ。

 放課後の教室は昼間のうるささが嘘みたいに静かで、漫画なら女の子が頬杖をついて窓の外を見たり夕日だけをたよりに本を読んだり、そういう気取ったそぶりをしているところだけど、実際は日の光がほとんど入ってこないせいで薄暗いから本なんか読めないし、正直おばけでも出てきそうな感じだ。だけど万が一今幽霊やら花子さんやら口裂け女が出てきたとしても今の僕はおばけなんか怖くない。

「今は外とかどうでもええねん。自分ほんまにに反省しとんのか?」

 今の僕にとっては向かい側に座ってる桜井先生の剣幕の方がよっぽど怖い。

「桜井先生、なんべんも言うてるけど僕ん家共働きでな、毎日家帰っても親が居らんから僕が風呂と便所の掃除して、夕飯も自分で作らなあかんねん」

 僕は先生に宿題が出来ない理由を一生懸命説明した。この説明をするのも今年に入って十回めくらいだけど、どんだけ分かりやすく言っても先生は僕の大変さを分かってくれない。

「あんなユウキ、俺は家事が終わった後にやれってお前が宿題忘れる度に言うてんねん。なんでそんなに言われてんのにやらんの?」

 大きなため息をついたあと、僕の目をしっかり見ながらそう言った。

 先生はガリガリというほどじゃないけど結構痩せてて色白だし、暗い教室で見るとほんもののおばけみたいですごく怖い。

「先生は大人やし実家暮らしやから分からんかも知れんけど、僕みたいなチビが大人とおんなじことしようとすると時間が倍かかってまうねん。それに僕学校終わったらユウタとかと遊んでから家帰るし着くんは大体五時過ぎ、そのあと風呂と便所掃除したらもう六時や。それから料理したり風呂入ったりしたらすぐに八時前になってしまうねん」

「八時前ならそれからやれるやろ。そんなん言い訳になってへんわ」

「でも僕親にも幼稚園の先生にもむかしっから八時までに寝ろって言われてきたんや。僕はそれをしっかり守ってるのになんで怒られなあかんの?」

「アホ。五年生にもなってそんなもん守っとんのはほんまのアホや。それに八時までに寝ろっちゅうのはいわばあれや。マナーみたいなもんや。でもな、宿題をやんのはルールや。マナーとルールやったらルールを優先すんのが常識や」

「そんなん僕は教えられてないもん」

 先生はまた大きなため息をついた。そして僕のことを睨みながら少し考えた後、口の形をずっとイの口のままにして「夜出来ひんのやったら朝にやれ」と少し震えた声で言った。

「朝は時間ないし、それに僕早生まれやから皆より宿題やるのに時間かかんねん。九九やって二年生の三学期になってやっと覚えたし、漢字テストも毎回ドベや。分数の計算なんか一時間くらいかかってまう」

「それは早生まれ関係無いわ。お前が宿題やらんからや。それにな時間かかんねやったら朝早く起きたらええ。五時に起こしてもらって宿題やれや」

 先生の声はまだ震えている。

「でもな、僕のお父さんもお母さんも一生懸命働いて帰ってくんのが夜の十時過ぎや。そっからご飯食べたりお風呂入って一時近くになってようやく寝れるみたいな生活してんねん。そんな人に朝起こしてくれって頼めるわけないやん」

「せやったら自分で目覚まし時計セットして起きたらええやんけ」

「そんなん起こしてもらうのと同じや。結局僕の目覚ましの音で二人とも起きてまうよ」

 先生は机を人差し指で叩き始めた。静かな教室ではやけにその音が響く。おでこやのどに汗がたれる。

「じゃあ朝に急いで準備して早く学校来てそっからせえ」

「そしたら宿題してないのバレるやん。タイチとかタカトに見つかったらクラスの皆からからかわれてまうわ」

 先生は鼻の上のとこに深く皺を作ったまま、息を吸ったり吐いたりした。

「もうええ。お前こんだけ言い訳考えれんのやったら十分賢いわ」

 先生は今日一番深いため息をついて中指で眼鏡を上げた。これがお決まりの終わりのサイン。僕はほっとして膝の上で握ってた手をグーからパーにした。

 ちょうど教室のスピーカーからアラームの音が爆音で流れてきた。


 目覚まし時計のアラーム音が脳天に突き刺さる。自分で選んで買った物だけど毎朝鬱陶しい。それに音が大き過ぎてどんな面白い夢や楽しい夢をみていても容赦なく爆音で起こされた嫌な気分に塗りつぶされてしまう。故に良い夢であれば良い夢であるほど記憶が飛びやすいし、逆に今日みたいな嫌な夢をみた時は嫌な気分が五割増しくらいになる。

 日頃の睡眠不足のせいかそれとも悪夢のせいかは分からないけど、上半身を起こしただけで昨日の夕飯で摂取したカロリーを全て消費した気分だ。あと頭もぼうっとしてるし食欲もない。冬の朝の風物詩である冷えきった空気で肺の温度が下がる感覚を味わえばスッキリすると思ったけど、そんなことは全然なかった。時期も時期だしもしかして風邪かな、じゃあ無理して学校行かなくて良いかな。

 そう思って僕が甘美なる二度寝をしようとしたところで再び爆音が鳴った。おのれスヌーズ機能め、とぼやきながら渋々ベッドを抜け出す。床に足をつけた瞬間思わず声が出てしまった。この時期のフローリングは多分アイスランドより冷たくなってると思う。アイスランドの気温のことはよく知らないけど。足元のフローリングに一歩ごとに体温が奪われていくのを感じる。僕は何故か誰も居ないのに「全然平気だし」と強がりながら足を進める。とりあえず今度どこかでスリッパを買ってこようと思う。

 一気に体が冷えたからかトイレに行きたくなった。幸いそこまで激しくもよおしているわけじゃないから用を足す前に電気ケトルでお湯を沸かしておこう。

 一晩人間が全く侵入していなかった廊下兼キッチン兼玄関は最早寒いとか冷たいとかじゃなく痛かった。全身の皮膚、特に手足の指先がヒリヒリと痛む。家の中なのにガタガタ震えながらケトルに水を入れ、台座に乗せてスイッチを押す。

 僕が住んでいる部屋はワンルームなので流しに立った状態で振り向けばそこにユニットバスに繋がるドアがある。便利と言えば便利だけど背後にトイレがある状態で料理をするっていうのは何となく気分が悪いし、なにより台所が狭くて移動が不便だ。

 ケトルが正常に動いたことを確認してからトイレのドアノブに手をかけた。その瞬間指先から短いながらも鋭い痛みと乾いた音が鳴る。真冬も真冬なのに僕はすっかり静電気の存在を忘れていた。チクショウ、その上築三十年近くのアパートのトイレに便座を温める機能なんてついてないし、このあとに尻から体温を奪われていくのは決定しているのでなお気が滅入る。朝から僕だけこんなに辛い目に逢うだなんて理不尽だ。僕が一体何をしたって言うんだろう。氷点下の便座に恐る恐る腰を下ろす。唯一人間らしい体温を保っていた体幹すら低温の暴力に曝されてしまった。こんなことなら便座カバーを買っておけば良かった。でも今年はもう冬も終わるし年末まで待とう。次の冬まで僕が覚えてられる確証はないけど。

 用を足して再びキッチンに戻ると幸いにもまだ電気ケトルはまだ空気が抜ける様な音を立てていた。僕は流しの下の収納を漁って朝食にふさわしいカップ麺をセレクションする。

 バリカタ濃厚豚骨、大盛札幌味噌ラーメン、極濃背脂醤油ラーメン、特盛かき揚げそば、ドロリ特濃鶏白湯、極濃背脂醤油ラーメン、ガッツリ汁なし担々麺、ピリ辛ソース焼きそば、屋台風ソース焼きそばマヨネーズ付、関西風カレーうどん、札幌の名店の味噌ラーメン、ドロリ特濃鶏白湯。カップ麺だから当たり前なんだけど朝食にしては重そうなラインナップばかりだ。どれもこれも朝から食べたくはないけど、体も温まるしこの中では消化も良さそうなカレーうどんで妥協しよう。

 そのうち電気ケトルの中の水がゴボゴボと言いながら激しく湯気を出し始めた。何か作業をしてるとあっという間に感じるのに、こうしてじっくり待ってみると水がお湯になるのは意外と時間がかかるもんなんだなあと思った。

 いつまでも寝間着のままじゃ寒いし、完全に沸騰するまでの間に着替えておこうかと考えてると、電気ケトルの取っ手にあるスイッチが弾けるような音を立てて元の位置に戻った。何かしようと思った途端にこれではケトルに意思があって僕に嫌がらせをしてるのではないかとついつい疑ってしまう。カップのカレーうどんにかやくと粉末スープを入れてから熱湯を注ぎタイマーをセットして五分待機。今度こそ着替えようかと思ったけどよく考えたら制服にカレーの匂いやシミがついたら面倒なのでやめた。かといってただ何もせず待つとなると今度は逆に手持ち無沙汰なので特に見たい番組があるわけではないが何となくテレビの電源を入れる。平日の朝はニュース番組くらいしかやってないから僕にとっては退屈なんだけど、なにもしないでカップ麺の出来上がりを待つよりは全然マシだ。

 しばらくお待ちくださいの表示が消えると丁度占いのコーナーの最中だった。僕は占いはそこまで信じていない。かといって血液型占いに信憑性がないとかムキになって言うほど頑なでもないから、別に占いを見ても不機嫌にはならない。しかし、この占いコーナーでは十二星座の運勢をランキング形式で発表していて、これから画面に出てくるのは七位から九位までの星座の発表だということが問題だった。既に六位までの発表が終わっているということは、このあと僕の属するうお座の運勢が発表される確率は五割。しかし万が一うお座が出てくれば占いの結果は見られても運勢は良くないということになり、逆に出てこなければ結果は知らないけどそれなりに運勢は良いらしいということになる。つまりどっちに転んでも僕が複雑な気持ちになることは間違いない。こういった場合、僕は占いを見て変に考えこんでしまうのが嫌だから有無を言わさずチャンネルを変える。

 回した先のチャンネルでは僕が知らない女優の熱愛報道が取り上げられていようと変える。イヤミなくらい爽やかに日焼けした男性アナウンサーの情報によると、どうやら十年前くらいのドラマでヒロイン役を演じてたらしいその女優は、一昔前の美人って感じの容姿であんまり僕の好みのタイプではない。服装もドラマ放送時の清純派路線と年相応のセクシー路線でいこうか迷ってるというのが見えていて中途半端だ。

 湘南のサーファーみたいに日焼けしたアナウンサーが交際相手はIT企業の社長らしいということを伝えたあたりでセットしていたタイマーが鳴った。未だに紙と言われてもイマイチ信用できない素材の蓋を開けて液体つゆを投入し、麺を箸でほぐしてから汁が跳ねないようにすすらず慎重に口に運ぶ。カップうどんの麺特有の平たくて少し芯が残った感じがするけど、僕はこれが嫌いじゃない。つゆも甘しょっぱい出汁とカレーの風味がマッチしてて辛みがマイルドになってる。少しとろみは強すぎるけど全体として悪くない。定番料理としてそんなに奇をてらっていなくて、知ってる味がするという安心感が僕の心を落ち着かせる。このカレーうどんはインスタントの中で考えればかなりハイレベルな出来だと思う。ただ、当たり前だけど朝食としては重すぎる。でもスパイスのおかげで登校中は寒さに震えることはないだろうなと僕は思った。


 いつもより三十分早い登校をすると学校の空気は明らかに違う。外ではまだ野球部やサッカー部が朝練してて、校内の人口密度は低く自分の足音もよく響く。

 今日は真っ直ぐ教室には向かわず、職員室前の廊下にある棚(クラスボックスと呼ばれている)から出席簿と配布物を回収してから行く。それが担任が日直に課したルール。正直高校生にもなって二人一組の日直なるシステムがあるとは思ってもなかったけど、うちの担任が採用してるんだから仕方ない。

 ところが僕がクラスボックスを確認すると中身はもう空になっていた。常識的に考えて日直の片割れが僕が来る前に回収していただけなのだが、僕をはじめとするクラスメイトにはそれが何より信じがたいことなのだ。

 僕は居ても立ってもいられなくなり、早く教室に行って確かめるために思わず駆け出しそうになった。無論ガラガラの廊下を走ったところで誰に迷惑をかけるわけでもないのだけど、何故かそれを確かめるためにわざわざ走るのが恥ずかしくて、僕は律儀に廊下を走らず早歩きで教室に向かっている。その上別に誰が見てる訳でもないのに「別に良いんだけどさ」とか言い訳がましい独り言をつぶやいてしまっている。自分のことながら実に惨めだ。

 教室では既に数人の生徒が彼女の周りに集まっていた。僕は自分の机の左側のフックに鞄をかけて出席簿ありがとう、と声をかけた。けれど彼女は気にせずクラスメイトとの会話を続けている。どうやら僕の声は届かなかったらしい。本当は日直の仕事の分担を話し合おうと思ったんだけど、忙しそうだから僕一人で日直の仕事を済ませてしまおう。

 しかし、意外なことに彼女は僕が席を立つとほぼ同時に立ち上がって取り巻きに何か言った後僕の後ろをついてきた。さっきは話に夢中で聞こえてなかったみたいだから改めて「出席簿と日誌ありがとう」と声をかけたら「大丈夫大丈夫」と弾けるような笑顔で返してきた。

「分担決めちゃおっか。今日岐部くんは黒板と花瓶どっちしたい?」

「僕は別にどっちでもええけど、どっちか言うたら花瓶かな」

「やっぱそうだよね。わたしも花瓶の方が良いかな」

 彼女は友達との会話を中断してきてるわけだし、出席簿も持ってきてもらってるからこの場合僕が折れた方が良いんだろう。

「じゃあ僕が黒板掃除するわ」

「いや、ここは公平にジャンケンで決めよ」

「ええって、日誌持ってきてもろたし僕がやるよ」

「えー、でもそれは流石に悪いよ」

 そのあとも何回かお互いに譲り合って決まらなかったので、結局じゃんけんで決めることになり、僕がチョキを出して負けたので当初の提案通り黒板掃除をすることになった。彼女はさっさと花瓶の水替えをすませて席に戻り取って巻きと楽しそうに話し込んでいる。一応教室に戻ってきたあとに手伝うと一声かけてくれたけど、手伝わせたらクラスメイトに何を言われるか分からないから断った。

 なんでここまで僕が彼女に気を使うのかといえば、僕の隣の席に座る朝井ミカという女の子はこの学校一の有名人だからである。というのも彼女は女子高生と女優という二足のわらじを颯爽と履きこなす器用な女の子であり、当然学校にとってもクラスにとっても良い意味でイレギュラーな存在なので、色々な特別待遇が存在する。まずは女優の仕事で遅刻や早退が多いから席は教室に出入りしやすい廊下側の一番後ろに固定で、怪我をしてドラマに影響が出ないよう体育の授業でも見学することが許されているし、各教科に彼女専用の補習も用意されている。さらに当たり前だけど学校だけでなく生徒からも特別扱いされていて、登校すれば机の周りは取り巻きの女子だらけになり、廊下には彼女を一目見ようという生徒や教師が集合するので常に監視されている状態。プライベートなはずの校内でも中々はっちゃけられないのは少し可哀想だと思う。

 しかし何より気の毒なのは一部の女子によって男子との接触を管理されていることだ。その女子達の言い分としては女優朝井ミカの清純なイメージを損なわないためらしい。まあ芸能活動に協力的なのは結構なのだが、そのせいで男子は告白はおろか淡い青春の一ページを期待して朝井ミカに近付くことすら許されていないし、朝井さんから男子への接触も制限されているので提出物も一度取り巻きを経由していて面倒臭そうだ。

 そんなことが学校側からも黙認されている中で、僕は日直という大義名分を持って唯一合法的に彼女と行動を共に出来る男子なのだ。それ故に自称朝井さんを守っている女子達にも、朝井さんとの淡い青春の一ページを狙ってる男子からも目の敵にされている。よって、僕は尋常じゃなく同じ高校の友達が少ない。

 黒板掃除を終えて席に戻ると、彼女の取り巻きの一人が僕の机の上に腰を下ろしていた。朝井さんと親しいからといってこの子が別に偉くなったわけではないし、勿論僕が遠慮する必要なんて微塵もありはしないけど、これ以上敵を作らない為になるべく自然な動きで方向転換して男子トイレに向かった。

 校内に敵が多い僕にとって男子トイレの個室は唯一のオアシスといっても過言ではない。ここに居れば誰からも非難の視線を浴びることも嫌みや小言を言われることもなく過ごせる。かといって流石にここで弁当を食べたりはしないけどさっきみたいに机が使われている時とか朝井さん目当ての男子生徒がクラスに殺到した時に一時的に避難する場所として重宝している。いつもの様にスマートフォンを取り出し、ゲームアプリを起動して一日一回の無料ガチャを引く。レア演出の後に出てきたのはレアの癖にこれといって使い道のないことからユーザーの間でゴミと呼ばれるキャラクター。こいつ自身何か悪いことをした訳でもないのに非難されるのが今の自分と重なって見えたので、いつもなら即刻ゲーム内通貨に変えるところを思いとどまった。

 そのままゲームで時間を潰し、そろそろ出ようかと思ったところで男子のグループが入ってきた。連れションなんて男子には珍しいと思いつつ、何となく自分が個室を使っているとバレたくないので、そのまま息をひそめて様子を伺う。小学校の頃に身に付いた学校で大の方をするのが恥ずかしいという感性は高校生になっても僕に染み付いてるらしい。まさに雀百まで踊り忘れずというやつだ。

「今日朝井さん来てるらしいね」

「ウッソ! マジかよ」

「でもどうせ女子に守られてて遠巻きに見るしかねえんだけどさ」

 どうやらもう朝井さんが出席していることは既に学校中に広まっているらしい。ということは教室の周りにはもう人だかりが出来ていて、相当ボルテージが上がっているだろうし、もしそんな中僕が自然に朝井さんの横の席に座れば暴動が起こるに違いない。今までもそうだったし、今日もそうだろう。

 ますます出づらくなったので一度立ち上がった便座にゆっくりと座り直して、スマートフォンを手にとった。ほとんど手癖でブラウザを立ち上げ、入学以来何度も検索した朝井ミカの名前を入力する。そしてこれまた何度も閲覧したフリーの百科事典サイトの彼女のページへジャンプする。


 朝井ミカとはニッポンカンパニー所属の日本の女優である。岐阜県生まれ東京都育ち。身長158㎝体重非公表

 略歴

 十五歳の時にスポーツドリンク『イオンプラス』のCMガールオーディションに受かって芸能界デビュー。

 翌年ネット配信限定ドラマの『ハルカとつぼみ』で主人公の一人つぼみ役でドラマ初主演。この時はほとんど演技の経験がなかった中での大抜擢となった。同年六月ドラマ『霧雨』の謎の少女トキコ役でゴールデンタイムの連続ドラマ初出演。

 人物

 プライベートでは見た目から清楚で落ち着いた性格に思われがちだが実際の性格はずぼらで部屋は散らかっている。

 生まれは岐阜県だが3才の時に両親の仕事の都合で東京都に引っ越したため岐阜の方言は話せない。

 幼稚園の卒業アルバムには将来の夢はアイドルと書いている。

 元々CMガールオーディションは友達の付き合いで応募したため親に内緒だったので芸能界デビューには猛反対された。

 『ハルカとつぼみ』の監督によれば上記のCMでの白いワンピース姿があまりに衝撃的で、この子は絶対売れるという確信のもと主演に抜擢したという。

 エピソード

 自分が貧乳であることを公言しており公式ブログ上でもたびたび自虐気味にネタにしている。

 小学校五年生の時の担任によれば算数や理科が得意だったが、反面国語などの文系科目にはあまり興味がなく特に登場人物の心情を察する問題は苦手だった。故にこの元担任教師はドラマの主演が決まった時は非常に驚いたらしい。

 また、国語以外にも無理矢理綺麗事を書かされてる気がするという理由で道徳の時間を嫌っていた。

 中学時代はソフトテニス部で一年生ながら団体戦のレギュラーになったが、実力ではなく周りが不良のような生徒ばかりで真面目に練習しているのが彼女を含めて数人しか居なかったからである。

 『ハルカとつぼみ』でダブル主演として共演した畠山アイとはプライベートでも交流を深めており、撮影中にお互いの誕生日プレゼントを交換した。

 目が大きく鼻も高いので中学時代の同級生からは入学から数ヵ月の間ハーフだと思われていた。


 ホームルーム開始五分前の余鈴が鳴って話し込んでいた二人組もトイレから出ていった。教室前にたむろっている連中も机の周りを囲んでる取り巻き達も僕が机に戻る頃には流石に帰るべき場所に帰ってるだろう。そう思っていても頭の片隅にまだ少しだけ朝井さん目当ての奴らが残っているんじゃないかという疑念があるので、自然と足取りは重くなる。こうやって人からの攻撃を避けてトイレに籠ったりわざと遅く歩いたりする自分の小心者加減が流石に嫌になってきた。

 歩幅を最小限にし、なるべく時間をかけて教室の前にやってきた。廊下には生徒指導の中村先生が立っている。どうやらあの人が朝井さん目当てに教室の周りでたむろしていた不埒な輩を追い払ったらしい。中村先生は余鈴が鳴っても朝井さんを観察するために教室に戻らない生徒をい厳しく取り締まっている。よって当然男子生徒から人気はない。その上見た目はただや日焼けしたおじさんだから女子生徒からも人気がない。そんな姿に僕は勝手にシンパシーを感じている。しかしたとえ味方が居なくても僕と違って毅然としているので密かに中村先生をかっこいいと思っている。それにこうして堂々と教室に戻れるのも中村先生の頑張りのおかげなので、中村先生には足を向けて寝られない。

 僕は中村先生に胸いっぱいの感謝を込めた笑顔を見せて軽く会釈してから教室に入った。すると中村先生は照れたように顔をそむけてしまった。個人的に尊敬している先生だけど、四十過ぎのおじさんにそんな反応をされるとなんだか気味が悪い。気まずくなって視線を落とし机の木目を凝視する。

「ねえ、今日の最初の授業って何だか分かる?」

 あまりに突然のことだったので僕は戸惑って「生物」というシンプルな返答しか出来なかった。朝井さんは隣の平凡な男子生徒が自分にそっけない対応をしても顔をしかめることもなく「ありがと」と微笑んだ。うちの男子にとって朝井さんの笑顔とは正にプライスレス。不埒な奴らはこの笑顔を見たいというとても不純な動機で彼女に過剰に優しく接している。彼女はそんな下心を一切知らないので誰にでも分け隔てなく笑顔を振り撒いている。おかげで一部からは太陽のようだと言われているらしい。あくまで噂に過ぎないけど。

 木目を凝視しているうちに教室の前の扉から浅黒くて四角い顔に四角い眼鏡をかけた男性が入ってきた。無論見ず知らずの男ではなく、クラス担任の楢崎先生なんだけど。ちなみに趣味のサーフィンで、その引き締まったその肉体は生徒からはもっぱら日本史の教師には全く不要な筋肉と日焼けだと言われている。

「皆も知ってるだろうけど今日は朝井さんが来ているので少し騒がしくなるとな思いますが、えーっと朝井さんは今日はいつまで居るのかな?」

「今日は最後まで居ます」

「最後まで居るということなので一日集中力を切らさずに過ごしてください」

 先生に悪気はないのだろうが僕にはまるでうちのクラスにとって朝井さんが居ることが迷惑みたいな言い方に聞こえて少しカチンときた。

 先生は僕の苛立ちなど知らず一日頑張りましょう的なことを歴史上の偉人の名言を引き合いに出して語っている。

 長い長い朝のホームルームも佳境に入った頃、また前の扉が開いて違う男が顔を出した。しかし僕の席からは角度の問題でよく見えない。その男は楢崎先生に「ちょっと良いですか?」と声をかけた。楢崎先生としてはホームルームもほぼ終わりかけで断る理由もなく首を縦に振った。

「えっとですね。今日の一時間目の生物なんですが、教材を運んで欲しいので日直はホームルームが終わったら生物準備室に来てください」

 突然の来訪者はどうやら生物の東先生だったらしい。楢崎先生と対照的に白くて細長い顔にしわしわの白衣を着ているさえない感じの先生なのだが、影のある理系男子ということで一部の女子生徒からは人気がある。ちなみに既婚者で子供も二人居るらしい。

「ということで朝井さんと岐部君はこのあとすぐに生物準備室に向かってください。以上です、日直!」

「起立、礼、着席」


 今回のように授業の前に何か準備が必要な場合、僕と朝井さんは誰よりも早く教室を出る。のろのろしているとその間に朝井さん目当ての奴らが、自分のクラスのホームルーム終了後に駆け足でやってきてしまうからだ。そうなると教室の周りに人だかりが出来てしまい物理的にも動きづらい上に大勢からに白い目で見られるので僕の精神的にも学校を歩きにくい。

 そんな僕の複雑な心情を知ってか知らずか彼女は早足で教室を飛び出した。僕は慌てて彼女を追う。流石に見失うほど遠くには行っていなかったけど、二人並んで歩くのは周りの目が怖いから少しだけ離れてついていくことにした。当然僕達に会話はない。

 彼女は校内を移動する時必ず生徒の居る教室の前を避けて移動する。 きっと人目について騒ぎになったり、そのまま後をつけられて大名行列のようになるのを警戒しての行動なんだろう。 僕らのクラスから生物準備室に行く時は一年生の教室の前を横切って校舎の東から西へ移動し、二階に上がるのが最も近いのだが、朝井さんはわざわざ一旦昇降口から外に出て人の少ない校舎裏の小道を通る。有名人というのも大変だ。

 校舎の陰になっているせいで陽が差さないのでこの時期にしては湿度も高く感じるし、実際アスファルトには黒いシミがいくつもある。おまけに側溝には苔がびっしりと生えている。人に見られたくなかろうと横に居るのがたとえクラスメイトだとしても、男と二人でこんな薄暗く人目につかない道を何の警戒もせず歩くというのはいささか無防備な気がする。それだけ僕が安全だと思われているのだと思うと誇っていいのか不甲斐なさを悔やむべきなのか分からなくなった。

 朝井さんは僕がそんなことを考えている間も校舎裏の小道を軽やかな足取りで進んでいく。一歩ごとに手に持った上履きが揺れて殆どすり減っていない靴底が見えた。

 西側にある簡素なドアの前で上履きに履き替えてから一番近くの階段を上ると目の前にあるのが生物室。入った時に向かって左側にある小さなドアの向こうが生物準備室。なのだがこういう時に大抵は生物室に入った時点で東先生が教材を用意して待ってくれている。

「悪いけどそこの二つ持っていってくれる? 大きい方が重いから岐部くんが持っていくと良いかな」

「分かりました」

 先生の指示通り僕が大きい方を持って朝井さんが小さい方の箱を持つ。どうやら僕が持った方がプロジェクターで朝井さんが持った方が何かの標本らしい。

 生物室からの帰る時も朝井さんが僕の前を歩く。当然ドアも朝井さんが開けることになる。きっとレディーファーストの精神が染み付いている欧米だったらあまり良くないんだろうけど、今までもそうしてきたから今さら変えるのもどうかと思うので変える予定はない

 あとは元来た道をそのまま戻るだけなので問題ないのだが、僕らの場合は一度校舎の外に出なければならないので普通に運ぶよりは多少の緊張感がある。廊下で落とそうと小道で落とそうと壊れる時は壊れるし、壊れない時は壊れないのだけど後者の方がなんだか付着する汚れや雑菌が多い気がするので、取り返しがつかないことをした気持ちになる。実際雑菌の量とかはどうなのか分からないけど。

 何とか人目を避けて教室に辿り着いた僕らは教卓に荷物を置いてから各々の席に戻る。朝井さんの方は問題なく席について友達と話をし始めたが、僕は机も椅子も取り巻きに占領されていたので仕方無く廊下に出ることにした。

 廊下に出たからといって何か暇を潰せるアテがあるわけでもなく、一人で校舎の中を歩きながら時間が過ぎるのを待つだけだ。すれ違う男子は誰も彼も小走りで移動していた。きっと朝井さん目当てで僕らのクラスに向かっていたんだろう。校舎の隅にある自動販売機で缶コーヒーを一本買った。飲み口の周りを制服の袖で拭いてから口をつける。

 僕自身学校で浮いてる自覚はもちろんある。かといって打ち解ける意思がないわけじゃない。むしろ誰とでも仲良く出来るのならそれに越したことはないと思ってる。が、逆恨みに近いとはいえ敵対視されていては僕もうかつに近付けない。当然僕の方から歩み寄らなければ敵は減らず増える一方で、時間が経てば経つほど益々身動きが取れなくなってきている。無論高校に友達が居ないわけではないけど、僕のために昇降口の前に立って友愛を説いてくれるようなことは当然してくれない。だからきっと僕は高校卒業までこの少し浮いた状態と付き合っていかなければならないんだろう。このことに関してはむしろ直接的に攻撃を受けない分マシかもしれない。

 缶コーヒーの中身が空になったのでゴミ箱に捨て、スマートフォンで時間を確認しつつ、ギリギリ始業に間に合うよう歩幅を調整しつつ教室に戻った。


 一時間目が終わると持ってきた教材を元の場所に帰しに行く。今度は東先生が僕らの前を先導するので心置きなく校舎の中を横切ることが出来る。のだが、それは朝井さんだけで僕はいつも通り白い目で見られている。しかもこうやって堂々と歩けるのは先生が居る行きだけで、帰りはきっとパニックになるだろう。

 僕は憂鬱な気持ちのまま生物室に教材を置いて、行きより憂鬱な気持ちで道を引き返さなければならない。いつもより距離をとるためにプロジェクターを置いたらさっさと生物室を出て、早歩きで男子トイレの個室に行こう。

 と考えていたのだが、生物室を出ようとしたあたりで「ちょっと待って」と朝井さんに引き留められた。そこで無視することは出来ないので、足を止めて振り返る。朝井さんが小走りで駆け寄ってきた。それだけでもなんか映画とかドラマのワンシーンみたいに見えた。これが様になるってことなのかな、なんて僕は呑気に思った。

「あ、歩きながらで良いよ」

 とは言っても僕は良くないのだ。二人並んで歩きながら話しているところなんて見られたりしたらまた敵が増えるし、余計な噂が立つかもしれない。

「あ、そう」

 けど結局僕は断りきれず二人並んで歩き始める。全く朝井さんにも僕の気の弱さにも困ったものだ。

「今日三時間目英語でしょ? 予習ノートを貸して欲しいんだけど、いいかな?」

「それくらいなら別にええよ。いつものことやし」

「そっか。ありがと。いつもいつも」

「しゃあないやん。仕事忙しいんやろうし」

 朝井さんは提出するタイプの宿題は忘れてこないけれど、こういった細々とした課題はたまに忘れて僕のものを写している。まあ忘れてくるというよりやる暇がないんだろう。それでもやる暇がないからと言って、課題をやらないわけにはいかないので、仕方無く誰かに借りて手っ取り早く終わらせたいんだろう。でも校内では何事もそつなくこなす朝井ミカというイメージがあるから男子はもちろん自分の取り巻きの女子にも頼るわけにはいかなくて隣の席だし友達も少ないから情報も漏れにくい僕が借りるには最適な人材だと判断したんだろう。

「でも、流石に岐部くんにばっか頼るのも良くないかな」

「構へんよ。役得もあるし」

「役得?」

 まずい。調子に乗って思わず余計なことを口走ってしまった。

「ほら、家で課題をするっていう習慣がついて、僕も成績が上がってるから気にせんでもええよ、っていうこと」

「ふーん。そっかそっか」

 一通り会話が終わったので、歩くペースを落として徐々に朝井さんから離れることを試みる。

「あ、そういえば今朝日誌読んでて気付いたんだけど岐部くんって文章書く時は標準語なんだね」

「うん」

「なんか不思議。昔からそうなの?」

 特に意識したことは無かったけど関東の人にとっては不思議なんだろうか。僕は割と本を読む方なので文章というのは標準語で書かれるイメージが強いし、自分が書く時もそれが普通のことだと思っていた。

「多分昔からそうやと思う。それに日誌は先生が読むもんし、関西弁より標準語の方がきちっとした感じになるからその方がええっていうのもあるけど」

 朝井さんは納得したようなしてないような曖昧な表情で「へえ」と声をもらした。

「あと、僕元々関西生まれちゃうし。それもあるのかもしらんな」

「そうなの!」

 別に隠していたつもりもないんだけど人に言ってもややこしくなるだけなので言う必要もないかな、と思って言ってこなかった。

「元々埼玉生まれで小学校あがる前に向こうに行ったから、喋り言葉は向こうのが染み付いてもうたけど今思えば頭で考える時も標準語やわ」

 朝井さんは僕の話を聞いて益々不思議そうな顔になった。どうやら頭で考えてるのと口から出る言葉が違うというのがあまりピンときていないようだ。

「そういや朝井さんこそ岐阜生まれなのに方言とか出ぇへんの?」

「わたし三才でこっちに越してきたから物心ついた時には標準語だったんだよね。だから逆に岐阜の時の思い出がほぼないから岐阜の人と話す時結構困るんだ」

 確かにそれはよくある。割と物心ついていた僕でさえ埼玉の地元企業のコマーシャルの話題を出されるとついていけない。しかもそういうのは大概向こうが共通の話題だと思っている分こちらも知らないとは言いづらい。

「岐阜に居た頃の記憶は全然ないの? 」

「一応あるにはあるんだけど、家の階段から落ちて泣いたってくらいなんだよね」

「言うたらあれやけどなんか岐阜ならでは感がないなあ」

「そ、だから東京来てからのことなのか岐阜に居る頃なのか自分でもはっきりしないんだけど、東京来てからはずっとマンションだしきっと岐阜なんじゃないかな」

 そう言うと朝井さんは笑った。でもいつもの元気な笑顔とは違って少し気まずそうで、それでいて少し大人っぽく見える不思議な表情だった。


 二時間目、数学Aの時間朝井さんは僕から受け取った予習ノートを一生懸命写していた。幸い数A担当の笹野先生は定年間近な上に一方的に授業を進めるので朝井さんに限らずどの生徒からも安心して内職が出来ると大人気だ。それが先生にとって良いことなのか悪いことなのかは分からないけれど。

 そんな笹野先生の退屈な授業の中僕はといえば授業の先取りをして練習問題を解きながら、暇さえあれば朝井さんの予習の進行具合を確認するということを繰り返していた。彼女が少しペンを止めただけで何か不備があったのかと不安になり、逆にスムーズに進みすぎても実は誤訳していて彼女に恥をかかせるんじゃないかと思ってしまい、とにかく気が気じゃない。

 不意に朝井さんがため息をついた。僕の訳に何か問題があったのだろうか? それとも単に撮影の疲れが溜まっているだけだろうか? どちらにしても僕がそのため息の意味を知ることは出来ない。

 僕の視線に気付いたのか、朝井さんがこちらを向いて照れ笑いをしながら口だけ動かして「見た?」と尋ねてきた。僕はどうして良いか分からず曖昧な苦笑いをすることしか出来なかった。

 すると彼女はノートの切れ端にペンを走らせ僕の机に置いた。渡された紙には綺麗な文字でヒマだね、とだけ書かれている。僕はその下にたしかにと書いて彼女の机の上にに返した。すかさず朝井さんはルーズリーフを一枚取り出して何かを書いたあと僕に渡してきた。

 しりとりしよーぜ、と朝井さん。僕はしりとりの始まりとしては定番中の定番であるりんごと書いてルーズリーフを返す。そのあとの朝井さんのゴリラという定番の返しにライチの変化球で応じると血で予想外の反撃を食らい、頭に浮かんだ直球の下ネタを一旦頭から排除しつつちくわで応戦。続いて輪投げが飛んできたので原稿でガードすると、今度はウリの追撃に僕はリングのクロスカウンターを合わせた。間一髪グラノーラでかわす朝井さん、なおもランプで攻める僕をプロペラで押し返し、負けじと僕もラップで追い詰める。僕は彼女の苦し紛れで逃げ込んだプールをループさせて今度こそ王手だと油断していたら、プランターを持ち出されて事態は一変。タバコで一旦落ち着こうとしても、すぐにコアラが返ってきた。ラグビーのタックルもビラの二文字ですかされる。いくら慌てたライブでも流石にブラではルール違反。彼女がブーツを用意する間に僕はつららの一転攻勢。こちらに迎撃の用意ありこのあとラジオと言われればオクラをぶつければいいし、もしランダムで戻ってきてもこっちにはまだ村がある。

 しばらくしりとりについてあれこれと戦略を立てたが、朝井さんからルーズリーフは返ってこない。意地悪し過ぎてもしかして機嫌を損ねたんじゃないかと俄然不安になる。一応予習ノートは先生が黒板の方を向いた隙に返してもらったけど、それも心なしかいつもよりぶっきらぼうに渡された気がした。それでも粘り強く待ってみたが数Aの時間にしりとりが再開されることはなく、その間僕は気まずさから朝井さんの顔を見ることすら出来なかった。

 それでもヒーターは変わらずうなり声と共に熱風を吐き出している。彼なりに一生懸命やっているのだろうが、その頑張りが廊下に近い僕らの所に届くことはない。

 休み時間になるといつも通り取り巻きが机の周りにやってきた。普段は隣に座っていると取り巻きからは容赦なく冷たい視線を注がれるし、自然と朝井さんと取り巻きの会話が耳に入ってくるのも嫌だからすぐその場を離れるんだけど、今日はなんだかそんな気になれなかった。

「あれ今日生足?」

「ううん、履いてる。薄いやつ」

 取り巻きと朝井さんの会話が聞こえる。

「流石に今日生足は死んじゃうよね」「でも来るとき膝真っ赤な子居たよ」「うわー、めっちゃ女子力」「でも今でも生足で撮影することあるでしょ?」

 取り巻き達が一斉にざわめく。きっと朝井さんにかまってもらいたくて必死なんだろう。

「全然あるよ。しかも外で待たされたりするから休憩中スカートの下にジャージ履いたりするし」

「めっちゃ意外なんだけど」「それちょーダサい」「でもちょっと見てみたいかも」

 今まで取り巻きを判別しようとも思わなかったけれど、こうして聞いていると意外と個性があるもんだ。

「いやでも休憩中だけだから」

「そいえば藤井くんって知ってる?」「四組の?」「違う違う。アイドルの藤井くん」「マイナーだよ。知ってんのバスケ部だけだろ」

「あー、一回だけ会ったことある」

「どっち?」「いや普通に考えてアイドルの方だろ」

「会ったっていうか、局の廊下ですれ違ったんだけど、結構静かだったよ」

「そうなんだ」「でも朝井さんとお似合いだよね」「確かに絵になるわ」

 ただ芸能人と話したいだけ、太鼓持ち、タメ口で他とは違う立場を演出するという三パターンが居るらしい。まあこういう風にポジショニングを意識するのは朝井さんの周りだけの特別なことじゃなくて女子のグループは大体こんな感じなんだろう。

 そういえば初めて日直になった日に僕につっかかって来たのは誰だっけ? たしか高橋だか高柳だかそんな名前だった気がする。朝井さんに触らない話しかけない、朝井さんが落とした物を勝手に拾わない、日直の仕事以外で二人きりにならない、机の距離は六十センチ以上にすることという条件を一方的に突きつけてきてきて以来見かけない。というかその高なんとかが朝井さんと一緒に居るところすら見たことがない。朝井さんの取り巻きにはそういう表に出てこない影の部隊みたいなのも居るのか。改めて朝井さんの大変さと影響力の強さを感じる。

 朝井さんのグループはまだ芸能関係の話を続けている。どうやらイケメン俳優とアイドルの熱愛報道のことついてらしい。今朝報道されていた女優と社長の熱愛に比べれば少しだけ興味深い話題だった。

「そういえば朝井さんは好きな人居ないの?」

 突然取り巻きの中の一人がそんなことを言った。自分達が男子から遠ざけている癖にそんなことを訊くなんてどうかしている。朝井さんから恋愛を取り上げようとしているのは彼女らじゃないのか?

「んー、彼氏とかはまだ良いかな。仕事忙しいし」

「せっかくの青春なのに」「そんなの絶対嘘だよ」「可愛いのにもったいなーい」

 取り巻き達がまたザワザワと盛り上がっている。

「うん、でも今でも十分充実してるから」

 ちらっと朝井さんと目があったような気がした。きっと普段居ない奴が居るもんだから気になったんだろうな。

「それに仕事だけじゃなくて勉強もあるからさ。おろそかにしちゃうと仕事辞めろって言われちゃうかもしれないしね」

 取り巻きたちはそれに「もったいない」やら「厳しい」と好き勝手に言い合っている。僕にしてみれば朝井さんを男子から切り離し、徹底的に自分達で独占しようとしている彼女らも十分厳しいと思う。

 その後、朝井さんの「辞書持ってくるね」という言葉をきっかけに机の周りに居た女子達は思い思いの方向に散っていった。


 数学のあとは特に日直が仕事を任せられることもなくあっという間に昼休みになった。数学の時のこともあってそれまでの間朝井さんと一言も話さず、しりとりみたいに紙を使ってのコミュニケーションも無かったのでいつもより時間が早く感じられた。

「お前今日も食堂行くだろ」

 ぼーっとしていると机の前に菅と酒井が居た。二人は僕の数少ない友人で、最初に席が前後の菅と話すようになって、その流れで菅と中学から友達の酒井とも仲良くなった。と言っても過剰にベタベタするわけでもなく休日や放課後に遊ぶわけでもなくて、単に学校で馬鹿話を出来る適度な距離感だ。少なくとも僕はそう思っている。

 鞄から財布をとって菅と酒井と教室を出た。相変わらず菅はよく喋り酒井は適当に相槌を打っている。駅前のファミレスに新しく入ったバイトの娘が可愛いけど、実は同じ学校の先輩かもしれないという話をしている。菅自体は色黒で短髪の素朴な野球部的な見た目だけど審美眼はあるのでその子もきっとかなり可愛いんだろう。

 食堂は白いテーブルと色とりどりの椅子が並んでいる。元々は椅子も統一されていたみたいだけど、老朽化とかで使えなくなった分を空き教室から補充しているうちに現在のような有り様になったらしい。僕らがいつも座るのは何故かいつも空いているウォーターサーバーのすぐ近く。そもそも食堂の利用者自体が少ないとはいえ毎回空いていると最早学校の七不思議級の謎である。お決まりの流れ通りに僕らは座る前にじゃんけんをした。今日は菅が負けたから人数分の水を持って来る当番としてウォーターサーバーに一番近い席に座り、その向かい側に僕、僕の左に酒井と座った。ちなみに水汲み当番は一度きりのものではなく食堂に居る間は要求される度におかわりを持ってこなければいけない。だから僕らはこのじゃんけんに対していつも本気だ。

「何たのんだ?」

 菅が水を持ってくるまでの間、といってもごく短い時間なんだけど酒井が珍しくそんな質問をしてきた。僕が驚いて咄嗟に「なんで?」と言ってしまい微妙な空気になる。

「いや、訊いちゃ悪かった?」

「悪いことはないけど酒井がそんなん言うの珍しいから、なんか普通にカツ丼たのんだ恥ずかしいなって思てさ」

「なんか悪いな」

「ああ、僕の方こそなんかすまん」

 ちょうどいいタイミングで菅がやってきて空気を壊してくれた。ナイス菅。

「最近面白いことあった?」

 と思ったが想像以上に最悪の切り口だった。

「そりゃ中々ないよな」

「あるにはあんねん。でもな、そのフリをされたらなんにも言われんようになるわ」

「俺が想像する限りその言葉の後で面白い話が出てくることはないな」

「じゃ面白くなくても良いからなんか言って」

 そういう問題じゃないんだ菅。

「あるって言うたのは僕やからスベる覚悟で言うわ。この前なたまたまバス待ってる時に二組の黒田、あのめっちゃヤンキーみたいな奴、わかる? あいつが前に並んでなんか電話しててん。まあ多分話の内容的に親と話してたんやけど、まあヤンキーやしぶっきらぼうってかなんか口調がキレ気味やったわ。僕も怖いな思いながらも近くに居るし話が聞こえてもうて、多分親と話してたんやけど、なんかいつ帰ってくんの? みたいなこと言われたんやろうな。黒田ちょいキレながら『八時だよ!』って言うて、いやめっちゃヤンキーなのに割と早い時間に帰るんやって思たら、わろたらあかんけどめっちゃおもろなってきて、そんでもぐっと堪えてたんやけどしばらくしたらまたキレ気味で『食べるよ』って言うてんのが聞こえてきてな、夕飯も家で食べるんやめっちゃいい子やんって思えてきて、僕もまた吹き出しそうになってん。んで流石に僕も次来たらもうあかんって状態の時に黒田がめっちゃ大声で『カレー』言うてん。八時に家帰って家族とカレー食うってもう真面目な野球少年やんか。めっちゃいい子やん。それ知ってから黒田と会う度にわろてしまいそうで思わず目ぇそらしてまうねん」

 僕が一生懸命期待に応えようととっておきのエピソードを話したのに菅は「気にしすぎじゃね」の一言で済ませた。

「お前が話振ったのに感動が薄すぎだろ」

 酒井の気遣いが有り難い。これで黒田も浮かばれるだろう。

「いやでも皆そんな話あるやろ? わろたらあかんけどおもろいみたいな、おもろ気まずいっちゅうか、気まずいのもまたおもろいみたいな話」

「わかるわかる。俺もさ、親父がめっちゃ気合い入れてゴキブリ叩いたのに普通に外した時とかさ、本人真剣だから笑えなかったもん」

「あー、それなら分かるわ。それはもうコントだもんな」

「本人が真剣やから笑えへんって言うたらこの間杉谷、あのシュッとした男前の杉谷がな、全力疾走しててなんかもう恋人が海外留学でもするんかなって思うくらい必死でもう男前が必死って時点でおもろいんやけど、その走り方がちょい内股やねん。でもそれこそ本人が真剣やから笑うに笑わへんしな。おもろ気まずかったわ」

「お前なんでそんなことばっか気にしてんだよ」

 酒井が半笑いでそんなことを言った。

「出くわしても気にしないよな」

 菅もそれに乗っかって僕をからかう。

「つーかお前のラーメン出来たみたいだし取ってきたら?」

 カウンターに背を向けている菅の代わりに酒井がおばちゃんの動きをチェックして伝える。にしてもこいついつもラーメンを注文してる気がする。そんなに美味しいものでも無かった気がするけど。

「あーマジか」

 菅はそう言って気だるげにのそのそと立ち上がると、上履きの裏で食堂の白い床を撫で付けながらカウンターに向かった。

「ついでに麻婆豆腐も持ってきて」

 酒井は意外とちゃっかりしてるところがあるのでたまにこういうことを言う。実際ラーメンと麻婆豆腐セットを同時に持ってくるのは不可能なので、わざわざ二往復して持ってこいということだ。

「やだよ」

「別に良いだろ。お前今日の当番じゃんあっ」

 はからずとも当番じゃんと豆板醤がかかってしまったようだ、麻婆豆腐だけに。意図しない不意打ちのダジャレは言った本人が一番ダメージを受ける。今回は自分で気付いたから良いものの、他人から指摘されていたらどうなっていたか分からない。

「ま、ようあるとは言えないけど、そんなトラップもあるって」

「うん、菅が気付いてないからいいよ」

 どうにも今日は酒井と二人だと気まずくなる日らしい。今日は菅に水を持ってきてもらうのは控えよう。

 しかし、そんな時に限って酒井は麻婆豆腐の辛さをやわらげるために水を沢山要求し、何故か菅もトイレに行く回数が多かったりと、何らかの意思が僕と酒井の二人きりにさせようとしているとしか思えない出来事が続いた。そんな日であっても食堂のカツ丼はいつも通りの味で、進歩も退化もなく突然グリーンピースが乗ったりすることもなく僕に一握りの安心を届けてくれている。

「なあ、今日二人とも変だぞ」

 菅は爪楊枝で奥歯に詰まったネギと格闘しながらそんなことを言ってきた。

「いやまあちょっとな」

 実際は何もないんだけど、今日は二人だと会話が続かないって素直に言うのも何だか気持ち悪くてぼかしたら余計気持ち悪い感じになってしまった。菅も気味悪がってそれ以上そのことは追及してこなかった。何か妙な想像してないだろうな。

 三人とも食べ終わって一通りそんな馬鹿話も終えたあと教室に戻ると丁度朝井さんが扉から出てきた。

「あ、岐部くん黒板やっといたから」

 僕の返事も待たずそのまま駆け出してしまった。またあの誰も寄り付かない手洗い場までわざわざ行って来るんだろうか。誰にも見られないように人目を避けて遠回りをしながら校舎の端まで向かう朝井さんの姿を想像して何だかとてもいたたまれなくなった。

 去年の五月、既にクラスに居づらい雰囲気を感じていた僕は何となく校内を徘徊していると、図書室の近くにある人気のない最果ての地みたいな手洗い場でたまたま朝井さんと出くわした。ただ手を洗っているだけなのに小さなすりガラスの窓から漏れる日光しかない薄暗さと、静かな雰囲気とが合わさり何だか神秘的に感じてついつい見とれてしまった。手を洗い終わった朝井さんは、ハンカチやポケットティッシュを取り出さずそのままブレザーの裾で手を拭いた。整ったその容姿とは裏腹にというほどではないけど、少しイメージと違うがさつな姿にとても惹かれ、同時にこの等身大の彼女を僕だけのものにしたいと思った。そして振り返った朝井さんは僕に気付くといたずらっぽく笑いながら「バレた」と言ったあと小走りで寄ってきて「内緒にしててね、わたしにもイメージあるからさ」と耳元で囁くとそのまま人気のない方へと消えていった。

 その時僕は、彼女はただちやほやされている芸能人じゃないんだな、と考えていた。彼女はたとえそれが一方的に押し付けられたイメージだろうと、勝手に完璧であることを期待されているだけであろうと自分を想ってくれる人を裏切らないために努力出来る強い女の子なんだと気付いた。だから僕は朝井さんの役に立ちたくて年度の始めに言われた条件を破っても、クラスの中で居心地が悪くなっても彼女の近くに居続けている。


 岐部くんの様子が何かおかしい。わたしはチョークの粉で汚れた手を洗いながらその原因を考えていた。岐部くんは元からそんなに積極的に話しかけてくれるわけじゃないし、クラスでは静かにしていることが多いけど、今日の三時間目以降明らかに元気が無くなった。もしかしたら誰からか嫌がらせをうけたのかもしれない。仮にそうだとしたらそれは確実にわたしのせいだ。わたしが周りからちやほやされて、浮かれて、年度の始めに彼女らの要求を受け入れてしまってたから、わたしと関われないその他の生徒から不満の捌け口として襲われてしまったのかもしれない。この学校にそんなに悪い人は居ないと思いたいけど、わたしから男子を引き離したいと思ってる伊東さん達がよかれと思って何かをする可能性だってある。

 一見うまくまとまっているように感じるけどきっとこのクラスは歪んでいる。そしてその歪みの影響は学校全体に広がりつつある。それらの根底にあるのはきっとわたしへの気遣いなんだろう。わたしという異物をどう扱うべきか分からないから過剰に丁寧に扱って、結果的に色んなルールをねじ曲げてしまったんだろう。

 そのせいで不自由な思いをしてるのがわたしだけならそれでもいい。けど現実には多くの男子にも不自由をさせてしまっているし、そのせいで岐部くんが嫉妬されたりしてる。彼は見た目は少しいかつくて近寄りがたい雰囲気はあるけど話してみれば案外気さくだし、わたしの隣にならなければこれほど邪険に扱われることもなかった、かは分からないけどもう少しクラスに馴染めていたはずだ。きっとそのせいで色んなことを我慢しているだろうに、岐部くんは辛そうな素振りを一切見せずに平然と過ごしている。そういう何かのために自分の幸せを手放せること、そしてその辛さを表に出さないのはとても尊いことだと思うけど、それでもいつか壊れてしまうんじゃないかと不安になる。自分もそんな岐部くんの優しさに甘えてしまっているからなおさらだ。

 岐部くんと今みたいな関係になるきっかけは夏休みのちょっと前のことだった。若くして女優として成功した上に勉強もしっかりとこなす完璧な生徒という周囲からの期待に応えようとするあまり物理的にも時間的にも無理をしたのが原因で、女優朝井ミカは肉体的にも精神的にもかなり疲れていた。わたしだって当然勉強だって嫌いだしやりたくない、仕事や学校を憂鬱に感じることもあるし、そもそも他の子と同じ時間しか与えられてないのにどれも完璧にこなすのは無理だ。でもそれを態度に出すことは誰も許してくれなかった。元々両親からは勉強するのは当たり前で仕事も好きでやってることだから泣き言を言うのはおかしいって言われてたし諦めてたけど、学校の友達までわたしに完璧を求めるのは予想外だった。そんな周囲の期待にわたしは押し潰されそうになってた。ちょうどその頃は仕事も忙しくて、数学の宿題のことなんてすっかり忘れてた。でも提出しなければ自分のイメージが崩れるから、恥を忍んで岐部くんに数学のノートを見せてくれるようお願いしてみた。保身のための行動だったのに岐部くんは「しゃあないやん、体はひとつしかないんやし」と失望する様子もなくあっさりと受け入れてくれた。今思えばその言葉でずいぶん救われた気がする。それどころかこれからも何かあったら頼ってくれとも言ってくれて、それ以来わたしにも心の拠り所が出来た。岐部くんに甘えっきりなのは良くないと思うけど主にめんどくさい上に提出しなくていい英語の予習はよく写させてもらっている。自分がクラスメイトから敵視される原因であるわたしにアテにされてる状況は彼にとってはあまりいいことではないのかもしれない。

 それでも岐部くんは笑っている。

 敵視されているのは自分のせいじゃない、だけどそうなってしまった以上嘆いても仕方ないと現状を受け入れてしまえる強さがある。そしてたとえ自分が苦しくても人に寄り添ってあげられるだけの優しさがある。だからこそ周囲の期待に応えなければと思うあまり無理して笑うことに耐えられなくて潰れてしまった弱いわたしは岐部くんを尊敬しているし、心から彼の幸福を望んでもいる。仮にわたしが岐部くんの近くにいることが彼の幸福や安らぎの妨げになっているのなら、わたしも彼と同じ様に、自分の安らぎを手放してでも彼のために行動しよう。勿論わたしの推測が正しいのなら、だけど。

 でももし本当に誰かが嫌がらせをしたならどうして今まで何もしなかったのに突然行動を起こしたんだろう。わたし達が一緒に居るのを見たから? だとしたら生物の前に二人で移動している時か、英語の予習ノートを借りた時か、数学Aのしりとりか、それよりも前の何かなのか。

 出来ればこんなことはわたしの思い違いであって欲しい。わたしだってそんな人が居るとは思いたくないしわたしと岐部くんの関係がこんな終わり方をするのは望まない。まだ岐部くんに何も伝えていないんだから。

 とにかく今ここでうだうだ考えても仕方ない、とりあえず周りの目がない時に質問してみよう。周りに誰も居ないことを確認してから濡れた手をブレザーの裾で拭いて教室に戻った。


 何一つ滞りなく放課後を迎えてしまった、それは良いのだが朝井さんとの会話ひとつすらないのはいかがなものか。厳密に言えばチャンスは何度かあったんだけどその度に心の中で色々言い訳を考えて諦めてしまって話せなかった。昔から思ってたけどやらない理由を考えることに関してだけは僕は一流みたいだ。それはともかく英語の授業から朝井さんと会話していない、ただそれだけでたった六十センチ隣に座っているはずの朝井さんがとても遠くに居るように感じてしまう。それでも無理矢理午後の出来事でなにかひとつポイントを上げるとすれば、食堂から戻ってきたあと朝井さんの机の上にチョコレートが入っているであろう紙袋が大量に積まれていたことくらいだ。

 何人かの生徒はそわそわしていて先生の話どころではないといった様子だ。おそらく放課後どこかに呼び出されているのか、一通りそういうイベントをこなしてこのあと初めてのデートをするんだろう。正直少し羨ましい。僕のこのあとの行事はせいぜい数学の宿題を回収して職員室まで運ぶくらいだ。だから出来ればこのホームルームを早く終わらせて用事を済ませてさっさと家に帰りたい、切実に。

「今日は放課後まで朝井さんが居ますけど、決してはしゃいで怪我をさせたりするんじゃないぞ。日直!」

「起立、礼!」

 さようなら、と言うと方々から数学のノートが押し付けられる。出席番号順に並べろとは言われていないので別に構わないんだけど、もう少し落ち着いて行動してもらえると僕としてもありがたい。だけどこのあと部活やらデートやら告白を控えた皆にとっては宿題の提出なんてやってらんないんだろう。現に僕もやってらんないと思っているし。

「岐部くん、半分持つよ」

「あ、うん」

 曖昧な返事をして気まずさを誤魔化す。思えば朝井さんに初めて宿題を写させてって言われたのは数学だったなあ。けど今は逆に僕の手に余る数学の宿題を朝井さんが受け持ってくれてる。

「少し遠回りすることになるけど、ごめんね」

 僕らは、というか朝井さんはまた人通りの少ない廊下を選んで職員室を目指す。それも教室でわざわざ生徒が少なくなる時間になるのを待ってから移動を始める用意周到さだ。その間ですらふたりの間に会話はない。一歩ごとに朝井さんの綺麗な髪が窓から入ってきた西日を反射しながら揺れている。

 職員室に入って笹野先生の机にノートの山を置くと僕らの苦労を知らない先生に「お疲れさん」とだけ言われて追い出された。朝井さんの足取りは心なしか行きよりも重いような気がする。まるで家に帰りたくないみたいだ。それとも誰かにバレンタインチョコを渡すつもりだから緊張をしているのか。家庭のことでもちょっとしたラブコメイベントでも芸能人ともなると大変なんだなあ。

「ねえ岐部くん、すぐ帰らなきゃいけない用事とかある?」

「別にないけど」

「よかった」

 一体何がよかったんだろう? もしかしてもう話しかけないでとかそういう話なのか。だとしたら僕は、きっと耐えられそうにない。聞いてしまったら立ち直れそうにない、だからそんな話は聞きたくない、用事を思い出したことにして逃げ出したい、誰にでもバレるようなお粗末なものでも良いから逃げる口実が欲しい。一刻も早く家に帰りたい、トイレの個室でもいい逃げ込む場所が欲しい。そうだわざと転んで教室に着くのを遅らせよう、そうすればこの時間はもっと長く続くはずだ。まだ朝井さんと離れる覚悟なんてない。だってまだしりとりのことすら謝ってないし、もっと

大切なことだって話せてない。とにかく僕はこんな形で別れるのは嫌だ。でも、当たり前なんだ。そもそも朝井さんは売り出し中の女優で近くに男が居ることだって良くないのに、こんな冴えない上にクラスメイトからも疎まれてる様な僕では朝井さんも迷惑してるんだろう。そもそも僕と彼女では住む世界が違うんだ。今までが間違ってただけで、むしろこれから正しい関係になるんだ。だから、唐突にこんな形で別れることになっても仕方ない。

 結局思考がまとまらないうちに教室に戻ってきてしまった。当然クラスメイトは一人も居らず、廊下や隣の教室にも生徒は残っていなかった。朝井さんは何やら浮かない顔をしている。そりゃそうだ、クラスメイトに一方的に期待を押し付けられても笑っているくらい優しい朝井さんなんだから人を拒絶する言葉なんて中々言えないはずだ。僕はそんな顔をとても直視できなくて思わず窓の方を向いた。空も雲も校庭もすっかり夕日と同じ色になっている。その光景はとても神秘的だけど、僕らが居る教室の空気の重苦しさを和らげてくれるほどではない。

「あのさ」

 僕がサッカー部の練習を眺め始めると同時に朝井さんは意を決したように口を開いた。慌てて向き直ると緊張と罪悪感からか唇や手は少し震えている。そんな顔はして欲しくない、いつもの笑顔でいて欲しい。あの時見せたいたずらっぽい笑顔をもう一度見せて欲しい。

「岐部くんもしかして誰かから嫌がらせとかされてる?」

「なんで?」

 予想外のことだったので疑問に疑問で返してしまった。

「英語のあとから元気なかったから。わたしの勘違いなら良いんだけど」

 どうやらしりとりの件で気に病んでいたのは朝井さんにバレバレだったらしい。けど、不思議と恥ずかしいという気持ちはなく、むしろ朝井さんが僕のことを気にかけてくれているのが無性に嬉しかった。それにしても僕ってそんなに顔に出やすいのかな。これからは菅と酒井の二人には気付かれないようにしなきゃな。

「あれはさ、そのしりとりで意地悪し過ぎて朝井さんが気ぃ悪くしたかな思て気が気でなかったから挙動不審になってただけで、誰かに何かされたってことはないよ」

 僕の話を聞き終わると朝井さんの顔色は一気に明るくなった。やっぱり笑顔の方が似合う。

「そっかー。でもなんでわたしが気分悪くしたって思ったの?」

「いや、だって急にしりとりやめて予習ノート返して来たやんか」

「あれ? ノートの中に紙入れたの気付かなかった?」

「全然」

 正直数Aの時間以降の授業は全くと言って良いほど手につかなかったので、予習ノートを開いたかどうかすら記憶が曖昧だ。

「そっかそっか。じゃあさ、もうひとつだけ質問しても良い?」

「ええよ」

 朝井さんの顔がまた険しくなった。能天気に答えたことをめちゃくちゃ後悔している。

「あのね岐部くん。わたしが親しげに接するのって迷惑じゃないかな?」

 どうしてこんな言葉を、こんな辛そうな顔で言うんだろう。早く否定する言葉を言わないと、迷惑なんかじゃないって伝えないといけないのに、どうしても唇が震えるだけで声が出ない。朝井さんは僕の言葉を待たずに続けざまに話し出す。

「自意識過剰かもしれないけど岐部くんが、その、クラスに馴染めない原因ってわたしの隣だからだと思うし、日直で一緒になるとはいえあんまり仲良くすると誰かに見られた時に岐部くんが恨まれるリスクもあるしさ。それに、なんて言うんだろう客観的に見て自分が追い詰められる原因の人から宿題を写させてくれって形でアテにされてるわけだし、迷惑じゃないかなって」

「確かに僕も朝井さんと一緒に居るとこ見られて、誰かに恨まれるのは怖いし、朝井さんの言う通り僕は利用されてるだけなのかもしれへん」

 窓から入る光の量が減って朝井さんの表情は読み取れない。でも辛うじてシルエットだけで俯いているのが分かる。

「でも、しゃあないやん」

 僕は朝と同じ言葉を繰り返す。

「歌でもあるやろ。あいつもこいつもあの席をってやつ。実際問題僕は朝井さんの隣に座ってて色々得してんねんから恨まれるのは当然やし、朝も言ったけど宿題出来へんのは仕事が忙しいからやし、僕にも役得があるから気にせんでもええって」

 廊下の蛍光灯が点いた。教室にも微かに明かりが漏れてきて、さっきに比べて明るくなった。

「そっかそっか。じゃあ、しばらく甘えさせてもらうね」

 そう言うと朝井さんは鞄の中からラッピングされた小箱を取り出した。

「はい、バレンタイン。今までよくしてくれたお礼と、あと今後ともよろしくってことで」

「ありがとう」

 あまりのことにそれしか言葉が出てこなかった。朝井さんからバレンタインチョコを貰えるなんて想像はしてたけど、期待してなかったから、どう反応するのが正解なのか全然わからなかった。

「ん。じゃまた明日ね。あとお返し、美味しいの期待してるから」

「あ、ちょっと待って。予習ノートに入ってる紙って何書いてあんの?」

「んー、秘密っ」

 朝井さんはあの時の手洗い場と同じいたずらっぽい笑顔をして教室から出ていった。僕の手の中にはしっかりと朝井さんからのバレンタインチョコが握られている。どうやらこれは夢や幻ではないらしい。


 家に帰って英語の予習ノートを確かめてみると確かに綺麗に折られたルーズリーフが出てきた。けどそこには僕を含めた男子高校生が期待するような内容は書かれておらず、わたしの負けといじわるという言葉が少し離れたところに書かれているだけだった。こんなことならあんな思わせ振りなことを言わなくても良かったのに。

 貰ったチョコを開けようか悩んでいると珍しく着信音が鳴った。相手は中学の友達の鶴岡だ。

「もしもし?」

「俺やけど、今大丈夫?」

 鶴岡の携帯からかかってきたんだからそんなことは分かってる。あ、でも鶴岡の家族が鶴岡から借りてかける可能性もあるのか。

「今は何もないからええよ」

「あ、そう。ほんなら単刀直入に言うけどもうすぐ姉ちゃんがそっち行くから、タイミング合うたら会いたいって言ってたんやけど、今月の末空いてるか?」

「基本平日でも夜は空いてるし、土日やったら昼からでもいけるわ。でもなんで突然来ることになったん?」

「アホ、大学入試や」

「なるほど」

 そっかそんなそういえばもうそんな時期だったか。それにしても鶴岡の姉ちゃんか、一年前の印象しかないけどあの田舎のギャルっぽかった人が無事大学に入ることは出来るのだろうか?

「あ、そういえば風の噂で聞いたんやけどお前の高校に朝井ミカが居るってほんまなん?」

「いや、知らんわ。なんか地下アイドルかなんかやってる女子が居るとは聞いてるけど、そいつとも会うたことないし」

「ふーん、所詮噂っちゅうことか」

「あ、でもこれ他の人に言うたらあかんで。こういうのってプライバシーの問題になるし、余計なトラブル起こしたくないから学校も発表していみたいやから」

「あー分かった、出来るだけ秘密にするわ。悪いな夜にかけて、ゆっくり寝てくれや」

「おう、おやすみ」

 僕自身どうしてわざわざ鶴岡にこんな嘘をついたのかは分からない。だけど今は何となく朝井さんのことを僕以外の誰にも知られたくない気分だった。

芸能人と恋愛したい(出来れば稼ぎでヒモになりたい)という原動力のみで書き上げた作品です。最初はもうちょっと切ない雰囲気で書きたかったんですが、それじゃあまりにも僕の理想とかけ離れているのでマイルドにしてみました。朝井さんの原型は夢で見た「朝井アサ」というアイドルの女の子で一人だけ命名の法則を無視しているので浮いているように感じるかもしれません。ラストの夕焼けの中で二人きりのシーンも夢で一番印象に残ってる場面の影響が強いです。

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