第8話 怪盗現る
「馬だ! 馬を牽けー! ……むぐううう」
寝言は寝てから言えと云うが、これ程明瞭に叫ばれると何ごとかと動揺するものだ。
傍で何やら書き物をしていたひよこはペンを落とし、猫は慌てて音の出所を塞いでいる。
「ああ! ダメだよ猫さん。顔の上に乗ったら先生が死んじゃうよ。ほら、苦しがってる! ボクなら大丈夫だから、手紙を書いてるだけだから」
だが当の荒川はむぐむぐと苦しがり、じたばたしているにも関わらず一向に目覚める気配がない。
人は、その日の記憶を睡眠中に整理するとか何とか聞いたことがあるが、これがそうなのだろうか。それにしても騒がしい寝言だ。
夕食を平らげた荒川は部屋に着くなりスライムのようにどろりと崩れ落ち、畳と一体化しつつ入り口から大よそ半径1.8メートル付近を扇形に占領していた。
「先生は慣れないことをしてとっても疲れているんだよ。ちょっと眠らせてあげて」
「にゃ~」
時刻は午後8時。まだ入浴を済ませていない汗だくの荒川は、深い深い、余りにも深すぎる仮眠の淵に没していた。
ここに戻った折渡された封筒の中のカードを見た彼は、それからというもの口数が減り、心なしか不機嫌そうにも見えた。食事中も心ここにあらずと云った具合に何か考えている素振りで、声を掛けるのも躊躇われる。ひよこは荒川の心を占めている存在に思いを馳せると自分史上未曽有の高揚感を禁じ得なかった。
時間を少し戻してみよう。
◆
【シナヌイユウキハ5ネンマエニキュウキュウハンソウサレテイル】
「先生、これは何ですか?」
「恐らく、回答だろう」
「怪盗!?」
「ああ」
「ボクたちを見張っているんですか?」
「間違いない。僕たちの行動を逐一把握して、忌々しいことに我々に先んじている」
「いったい、何が狙いなんでしょうか」
「目的はわからない。いつから見張られていたのかも――」
「ずっと見張られたままにしておくんですか?」
「僕はもう彼これ8年こんな感じだ」
「そんなにも昔から……つまり、この怪盗は先生のライバルってことですね!」
「うーん――回答がライバルか。そうだね、そう言う考え方もあるのかな。いずれにせよ、こんな過保護を受け入れていたら僕はいつになっても自立できないからね。自らこの回答に行きつくまでは一先ず保留するよ」
「わかりました。ボクたち、今それどころじゃあないですもんね怪盗の件は保留ですね。特に何かを予告してきてもいないし」
「予告? 示唆にすらなってない、恐らくはもろに回答だと思う」
「怪盗――ですか!」
噛み合う気配すらない。
◆
「猫さん、君はボクの恩人だからこっそり教えるけど、誰にも言っちゃいけないよ」
「にゃー!」
「先生にはどうやら犯行予告を送って来るような自己顕示欲の強いライバルがいるらしいんだ。怪盗……ひつじ? まぁ、そんな感じ!」
「にゃ、にゃ~……」
「みず~! 冷たい水が欲しい~」
他殺体のように転がっているゾンビが、またもやあからさまな本日の回想を叫ぶ。
「ああ! びっくりした。よっぽど温い水がショックだったんだね」
「にゃ~」
「そうだ、女将さんに氷を貰って来ようよ。口にいれたら喜ぶんじゃないかな」
「……」
(注:爆睡中、口の中に氷を入れてはいけません)
とんでもない悪戯か、はたまた親切心なのか。先生の要求(寝言)に素直に応える弟子は早速部屋を後にして女将を探した。猫も足元を離れない。
民宿多田はその名に相応しからぬ広々した旅荘で、2人に宛がわれた部屋から玄関部分までは少し距離がある。炊事場や食堂と云った施設もその辺りに集まっており、女将を探すには自然、そちらへと足が向く。
「喜八さん! 喜八さん! 大変だよ!」
囲炉裏のあるエントランスに近づいた時、誰かが大声を出しながら引き戸を開けて飛び込んでくる気配がした。どうやら村の男性らしいが只事でない様子は離れていても伝わって来る。
ひよこは咄嗟に壁際に張り付いて身を隠し、聞き耳を立てた。
「どうしたんだよ血相を変えて」
「鈴木さんとこの小町ちゃんが帰って来ないらしい!」
「おい! うちは今客がいるんだぞ!」
喜八が大声で話す男を制すと、男は「すまんすまん」と頭をかいてやり直した。
「てぇへんだ、てぇへんだ! 親分! 今しがたあっしが小耳に挟んだ……」
「まて。それは方言じゃないだろ、いや、そうじゃなくて、言葉じゃなくて話の内容だよ!」
「こいつはすまねぇ。生温かい目で見てやっておくんなさい」
日頃の鍛錬のなせる業か、余程気が動転しているせいなのかは定かでないが、得体のしれないテンションでの会話はひそひそと声を落とし、それでも男は身振り手振りで事の重大性を訴えている。
――うーん、よく聞こえないなぁ……
2人の会話を聞き取ろうとひよこが動いた時、お約束に基づいた展開が訪れた。床が音を立ててキイと軋んだのだ。
「誰かいるのか?」
当然の流れだ。
しかし、ここからが腕の見せ所とばかりに囲炉裏のある部屋に歩み出たのは猫だった。
通常ならひよこ自身が「にゃ~」とかいう白々しい小芝居を披露するところであるが、奇しくも本物がその大役を自ら買って出るというミラクル。百聞は一見に如かずとはこのことである。
「何だ、猫か」
喜八は悪巧みをしている庄屋宜しく、これまた定番の台詞を吐く。明らかに猫だ、疑う余地はない。
「取り敢えず、品縫会を集めるんだ、ああ、そうだ、うん、そうしよう……」
猫は囲炉裏端まで到達すると、そこでくるりと一回転し踵を返す。さながらランウェイを闊歩するモデルのようだ。しかし、残念ながらギャラリーはいない。喜八ほか一名は猫を視認して後は興味の対象とはなり得ないらしい。
だが、緊張のステージを務めたスーパーモデルの勇姿を目頭を熱くして見守っている瞳があった。ひよこである。
ひよこは彼(猫)が帰還すると力強く親指を立て、彼もそれに呼応して親指を……立てはしないまでも、誇らしげにすり寄った。
直後、喜八ほか一名は慌てて出掛けて行き、ひよこほか一匹は同様に慌てて取って返した。
「先生! 先生! 起きて下さい! 先生ってば!!」
まるで起きる気配が無い。生命反応の確認が必要のようだ。
ひよこは猫に視線を送る。猫は頷くかのようにちらりとひよこを見た。
「ふんぐううううううううううううううううううううううううううう!!!!!」
荒川の顔面にびろりんと猫が横たわる。それはダリの絵を彷彿とさせる、まったりとした光景だった。
「むぐうううううう!!!!」
にわかに活気付いた死体の右手が、バンバンと畳を叩く。
「先生、良かった。生きてる」
ひよこはそう言って嬉しそうに微笑んだ。