第6話 男装の麗人
「先生、大丈夫ですか」
大丈夫じゃない。
最初は緩やかだった石段は気付けばちょっとした登山コースとなっていた。
ひよこから早くも本日2回目の大丈夫ですかを授与された荒川は、はぁはぁ言っているだけで精いっぱい。思えば、ここ30分程は「はぁはぁ」意外の台詞は無かった。まぁ、普段から用もないのに運動したりしないのが荒川の基本方針であるのだから、それも無理からぬことと言える。
にも拘らず、かれこれ40分も休まずに山道に挑んでいるのだから褒めてやって頂きたい。
――嗚呼、鬱蒼とした道のその先に、こんなにも過酷な試練が待っていようとは想像すらしていなかった。
早くも運命に翻弄される荒川である。
「先生、大分お疲れのようですから少し休みましょう」
先を行くひよこは丁度大人が掛けられる程度の岩を木陰に見つけたようで、足場の悪い斜面を草履で難なく渡ると、座面の汚れを軽く払っていた。
遅れて、よたよたと辿り着いた荒川はひんやりとした岩肌に腰掛ける。それと同時に噴き出した汗を拭い、死んだ魚の眼で一点を見つめている様子は、辞世の句でも捻っているようだ。
「先生、お水をどうぞ」
どうやら宿を出る際に女将が持たせてくれたらしい。
「あ、ありが……!?」
力なく微笑み、手を伸ばした先に荒川が見た物は、そっと差し出されたひよこの手に握られる青々とした竹筒だった。
「何だか、こんなにも温い水を飲んだのは初めてな気がするよ」
「文句を言うならあげませんよ」
ひよこが竹水筒をどこに隠していたのかも謎だが、時代考証も謎だ。いや、本日のロケは時代劇なのだろうか。などと薄らぼんやり思考を巡らせる荒川だった、が「じゃぁ、そろそろ――」という言葉の行く手を阻むことだけはとてつもなく迅速だ。
「まだ! もう少し休ませて!」
しかし、この元気な一声を発したが為に今の休憩分はリセットされ、再びどんよりと一点を見つめる。
「しょうがないなぁ。こんなことなら馬を借りてくれば良かったですね」
きみ、もしかして馬が何だか知らないんじゃ――と口に出したいが、次々と襲いかかる疑問を口にする気力さえ、残されていない荒川だった。
◆
苦節70分。
参道を登り切る手前から不意に視界が開け、銅葺屋根が鳥居の奥に姿を現した。それは荒川たちを期待させるに十分な厳かな気配だった。
「ほぅ……」
残り数段を登り切り木製の鳥居を抜けると、そこには小さな村の鎮守とは思えない荘厳な社が鎮座しており、これまでの疲労を忘れるほど神秘的な空間が広がっていた。
ザアーと木々を揺らす風の音。
辺りには侵入者を拒むかのようなセミの音が止めどなく降り注ぎ木霊していた。
どこからか水のせせらぎが聞こえる。
「先生、この音はもしかして乳房岩の方から聞こえてくるのでしょうか」
「そうかもしれない」
荒川とひよこは招かれるように歩を進めた。
――パチンコ処『矢場』を出たのはかれこれ10時前だったのに、時計の針は既に11時に近いことを知らせている。思えば遠くへ――
荒川がそう思った瞬間。あれ程狂ったように鳴いていたセミたちがピタリと静まった。
虫さえも鳴りを潜める何かが始まるのか。と、思いきや、せせらぎの漏れ聞こえる反対側から懐かしい音が響いてきた。
エンジン音である。
よく見ると一台のセダンが鳥居脇の車道から姿を現した。
「車道――あったんだ……馬、借りればよかったかも……し、れ、な、い……」
「先生! 先生! しっかりしてください!! 先生!」
あまりにも残酷な運命を目の当たりにして、全ての疲労感が一斉に押し寄せた荒川は、昭和のコント芸人よろしくその場に倒れたかと思うと、息をするのさえも忘れそうな勢いでシャットダウンした。
「先生!!!」
◆
「先生! 良かった、気が付いたんですね!」
目覚めると、ひよこが潤んだ目でいきなり抱き付く。その、あまりに大仰な仕草に面喰いながらも、自分は死にかかっていたのだろうかと一抹の不安を覚える荒川だ。
落ち着いて辺りを見回すと、そこはどうやら社務所ではなく宮司の自宅である品縫家の様だ。先刻のセダンを運転していたのは宮司その人であり、何やら責任を感じて介抱してくれたらしい。――が、原因ではあっても責任は微塵も無い。ただの運動不足である。
「荒川さん。随分と驚かせてしまったようで、申し訳ありませんでした――」
50代前半と思しき宮司は品縫誠一と名乗った。
神社もそうだが、まして山の名前と同じ氏を持つということは、この村に多大な影響を与える存在という話に一層の信憑性をもたらす。成程、かなりの名士らしい。
「いえ、こちらこそ騒ぎ立ててしまってすみませんでした。先生はちょっと心臓が弱くて……宮司さんのせいじゃありませんから」
――おいおい、なぜきみが答える。いやまて、僕の心臓が弱いなんて初耳だぞ。
状況がまるで飲み込めない荒川だったが、目覚めた時の様子と云い、どうやら己が失神を宮司の自宅に上がり込むための口実に使われたらしいと気付く。それにしても、心臓が弱い者があの険しい参道をのぼって来たというのは無理があるんじゃないだろうかと少々不安を覚え、嘘くさく咳き込む小芝居をぶち込む。
「コ、コホン、コホンッ……」
「そうですか、あの道に70分。心臓に負担を掛けられないのでしたら、やはりそのくらいはかかるでしょうね」
小芝居を華麗にスルーされた行き場のない気恥ずかしさを抱え「だったらあなたは何分でのぼれるんですか」と詰め寄りたい荒川だったが現実問題起き上がる気力も無い。
「私も今はもう若い頃とは違いますから、30分くらいはかかってしまうかもしれませんが」
――嫌みなのか!? 聞いてもいないのに何故答える!
「お嬢さんは草履であの道を?」
「ええ。でもボクはお嬢さんじゃ……」
ひよこが口を尖らせた瞬間「失礼します」と声が掛かった。縁側の障子が音もなく引かれ現れた少女は、どこかひんやりとした空気を纏い、氷の浮かぶ緑茶を乗せた盆を手にして無表情に立っている。
短い黒髪に白いワイシャツ、黒い細身のスラックスという素っ気ない服装が年頃の娘にしては妙に目を引く。だが、むしろその愛想の無さが彼女本来の美しさを際立たせ、近寄り難い気配を放っていた。
「ああ、ゆうき。ありがとう」
ゆうきと呼ばれた少女は「いいえ」とだけ言うと、お茶を置いて出て行った。
「娘です、18にもなるのに愛想が無くてお恥ずかしい。母親を早くに亡くしたものですから――」
宮司はそう言うと、おかしなことを言ってしまった、忘れて下さい。と笑った。
◆
「結局、何もわかりませんでしたね」
「そうだね、ご神体も拝み損ねたし」
荒川の体調が幾分回復したころ、仮病患者を甚く案じた品縫の当主は2人をふもとまで送ってくれた。
因みに、車での所要時間が4分だったことは虚弱体質の心を喜ばせも虚しくもさせたことは余談である。
早い話、まんまと自宅へ潜り込んだまでは良かったが怪しげな2人組が俄かに重要な情報を引き出せる筈もなかった。
そもそも少女たちの神隠しとパチンコ処について品縫誠一を問いただす理由も権利も持ち合わせていないのだから、質問方法はそれとなく、遠まわしの表現となる。
結果、踏み込んだ答えは得られようもない。
「奥さんを亡くしたのが10年前であの娘さんとの二人暮らし。パチンコ経営を始めたのは6年前。支配人は開店当初から変わっていない。って、たったそれだけじゃ……」
「いや、あれだけ立派な社をいまだにあの状態で維持しているということは、品縫会の人たちがそれだけ熱心に支えていることの証じゃないかと思う。体力自慢をしたことを除けば宮司はそれなりの人格者だともわかったし、収穫はあったんじゃないかな」
「先生、もしかして山を登ったことを無駄だったと思いたくないだけじゃ――というか、体力自慢なんてしてましたっけ?」
ひよこの怪訝な顔に、やれやれと云った風に首を振り荒川は答える。
「きみは意外と鈍感なんだね。そんなことよりも、重要なのはあの男装の麗人だろう」
「ゆうきさん、ですか? 確かに美人でしたね。でも、何だか目が……」
「そう、目があまりにも暗かった。そして、胸がぺたんこだった」
「先生! なんてことを言うんです! 軽蔑します!」
「いや、違うんだ、そうじゃない!」
――そうじゃない。
品縫ゆうきが醸し出す得体のしれない違和感が荒川の心を支配していた。それが何なのか胸がぺったんこなのが原因なのか。荒川は単に面食いなのか……。
「先生! とにかく妹子ちゃんのお母さんに話を聞きに行きましょう。先生のお陰ですっかり遅くなっちゃったんですよ」
「ごめん。でも、妹子ちゃんね」
「知ってますっ!」
すっかりご機嫌斜めのひよこがずんずんと畦道を行く。
荒川は中折れ帽でパタパタと首筋に風を送りつつ、頭を搔き搔きその後を追うのだった。