第2話 ここ見ろにゃんにゃん
荒川は空気を読まない。
空気は吸うものである――などという偏屈な理由ではない。
その場の空気に合わせるということが最も的確な判断だとは思えないだけだ。
よって、自然、我が道を行く人と判断される。
まぁ、概ねはその通りだろうが、坊ちゃん育ちといってもいい。
「つまり、荒川クリ……荒川さんはミステリー作家さんでらっしゃると」
クリ……と言った瞬間、射るような眼で睨むならば何故そんな名刺を渡したのかという当然の不満を、もやっと抱える小野フィルムコミッション世話役・多田喜八である。
「ええ、まぁ……」
作品に先立って筆名があると云うのも何とはなしにバツが悪い。心の中で『ゆくゆくは』という但し書きを付けておく荒川である。
今年30になった荒川は己の置かれた立場が限りなく、著しくニートに近いものだと遅蒔きながら気付いた。何しろ、生活面に於いて何一つ不自由してはいなかったので大学卒業を機に余生を過ごしていたのだ。
元来、面倒なことが甚だ苦手と来ている。いや、苦手で済ませる問題ではないのだが資金力とは罪な物で、実際そうして時間を浪費して来た。
だが、ニートは世間体が悪い。そのくらいの空気は読んでみる而立。
どうやら職を求めているならばニートには属さないであろうということで、小説家になると言い出したわけだが、差し当たり2時間サスペンス的なミステリーを書こうと思い立ち、まずは佐久間に宣言した。
「成程、つまり坊ちゃまは推理小説家になられると、こういう訳でございますね?」
「まぁ、そう言うことだね」
「ならば、ペンネームをいかがいたしましょう」
いかがも何も、まだ一文字も書いていないのに筆名を考えるなどとは思いもよらないことである。
というより、他に聞くことはいくらでもありそうなものだというのに、ペンネームなのか? そこなのか?
坊ちゃまの混乱は甚だしい。
「どうなさるのです!?」
何故かは理解し難いが殊更に筆名に拘る佐久間に虚を衝かれた格好の荒川は、つい本棚に並ぶ海外ミステリー小説作家の名に救いを求めてしまった。
「あが――いや、荒川クリスティー」
かくして、この奇妙な筆名を思い付いたのが3日前である。
「しかし、取材と仰られてもねぇ。ミステリー映画のロケ地というだけで別段ミステリーの種が転がっているとは思えませんが……」
「そうでしょうか?」
多田は一瞬ドキリとした。
まるで全てを見透かしたような眼差しは、さながら名探偵の佇まい――いや、コスプレのなせる業だとは思うのだが。
「ここの村人は常にエキストラ態勢で取り組まれているようですが、どうにも腑に落ちないことがあるんですよ」
「それは一体?」
「言葉です」
荒川の口からこぼれたのは、多田の予見し恐れた物からはおおよそ見当違いの質問である。
「ここの人達は、何故そんな不自然極まりない方言を使っているのですか?」
ホッとした老人の口は軽やかだ。ミステリー作家の肩書に対する警戒心は格段に下がり、対不審者レベルにシフトする。
「方言は観光用ですよ。せっかくいらして下さったゲストには、それなりのおもてなしをしたいですからね。みなそれぞれに適当な方言を取り入れてます」
――適当過ぎる。だが、心意気だけは買ってやりたい。
尤もそれが”もてなし”になるかどうか定かではないが。
「それに……小野マトペのネイティブスピーカーも絶滅してしまいましたから」
――おいおい、何を言い出した?
今買った心意気を返品したくなる荒川である。
「おのまとぺ? のネイティブ……」
「小野地方特有の訛りです」
真に受けそうになった自分を心持ち恥じた荒川だったが、口に出していないのだから知られようもない。そんなことよりも、やはり食えない相手であると興味も一入だ。
「こんな所で立ち話もなんですから――いかがです、家へいらっしゃいませんか? こんな夕暮れ時にいらして、今夜の宿も決まってらっしゃらないのでは?」
「何故それを」
「この村で宿はうちの民宿だけですからね。さあさあ、行きましょう」
手毬唄を歌っていた少年たちにも話を聞きたいと思っていたが、多田はさっさと旅行カバンを持って行ってしまった。どう考えてもよそ者に知られたくない何かを隠す素振り。
さすがはミステリー作家……志望、こういう勘は鋭いのだ。
「ちょっと! 待って下さい!」
そうは言ってもやけに足の速い老人である。結局追いつくだけでいっぱいいっぱい、日頃の運動不足が如実に表れる荒川だ。
◆
畦道をずんずんと進む多田にようやっと追いついた頃、一匹の猫がけたたましく鳴く声が聞こえてきた。丁度、棚田になった段差の草むらに向かって大袈裟に騒ぎ立てる様子は、中に人でも入っているように意味ありげだが、よもやこのサイズの人間はいまい。
さては猫まで役者……という訳ではないらしいが、まるで二人になにかを知らせたい素振りである。
「おいおい、何をそんなに騒いでるんだ。どうしたどうした」
何故かいそいそと猫の誘いに乗る多田の様子からは、荒川の興味対象を手毬歌から逸らしたいことが透けて見える。だが、渡りに船というには少し様子がおかしい。
猫に招かれるように向かった草むらで、何かを見つけた彼の表情は途端に強張ったのだ。
「おいっ! 大丈夫か! しっかりしろ!」
老人は突然そう叫び、草むらに分け入る。
これも何かの仕込みだとしたら迫真の名演技だが、多分心底驚き、咄嗟にとった行動だろう。一歩引いた所から一部始終を眺めていた荒川も慌てて後を追った。
見ると、草丈50センチ程になった雑草の茂みの中に12、3歳くらいの少女が倒れている。
かなり華奢である身体には、ライダースーツに似たデザインの濃いブルーの上下。それはSF映画のコスプレのようで、この場にはあまりにもそぐわない。しかし、ショートカットの黒髪と薄いグレーのゴーグルが砂埃にまみれてはいるものの、整った顔立ちははっきりと目を引く美少女だ。
「どうしたんだ! しっかりしろ!」
第一発見猫はざらついた舌で少女の顔を舐めた。
「ここは……」
意識を取り戻した少女は荒川たちを見るや、悲しそうな顔をして――
「昭和……」
とだけ絞り出し、また意識を失ってしまった。
昭和ノスタルジーコンビは顔を見合わせ、近未来少女の救出に協力を惜しまぬ確認を互いに取り付けるとすぐさま作戦行動に移行した。