エピローグ
「先生、お迎えがいらしてますよ」
大きな囲炉裏を囲む広いエントランスに入ると、女将の八重子が飛んできた。
水を入れると固まる土でできた土間には予想を裏切らない初老の紳士が微笑み、直立している。
「ね?」
荒川はひよこにそう言うと、八重子に会計を依頼した。
「あの方、先生のお連れさんだったんですね」
八重子が小声で言う。
「うちの裏手は景観保全地区外なので駐車場はそちらにあるんですが、一昨日からそこへ車を止めさせてほしいっていらして。宿泊代金と同額支払って下さるっていうんです。私はお部屋へお誘いしたんですが――」
「それは、ご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、こちらこそ申し訳ないから、お風呂とお食事だけでもって、ね。でも、お風呂も食事も落ち着きなく、こそこそなさっているのでちょっと心配していたんです」
振り返ると佐久間は既にひよこと意気投合。怒るのも面倒になる荒川である。
◆
「ひつじさんの車、シートがふっかふかですねぇ。やっぱりひつじさんだからかなぁ」
「いえ、この車は私の持ち物では御座いません。坊ちゃまからのお預かり物でございます」
「坊ちゃまって、先生ですか? ひつじさん」
「左様でございます。ちなみに私はひつじではなく、しつじ。執事でございます」
女将の見送りを受け宿を出ると、車内では佐久間とひよこの掛け合い漫才が繰り広げられ、シートに身を埋めた荒川は船を漕ぎ出した。
「ところで先生。このままで良いんでしょうか」
突然ひよこが真面目な顔で、出航しかかった荒川をのぞき込む。
「このままって?」
「だって、誘拐事件ですよね。犯人が分かっているのに」
「証拠はない」
「多田さんは認めてましたよね。先生の推理が正しいってこと」
「ふぅん。理解はしていたんだね」
「当然です」
「ならば、もう2度と神隠しを起こさないと誓った言葉を信じるしかない。僕らは警察じゃないし、あの人たちは村を愛してる。子供が何日か行方不明になった人たちがどうするか、被害届を出すのか出さないのか。その判断に委ねればいいんじゃないかな」
「じゃぁ、推理小説は? 小野妹子失踪事件は?」
「まだ言ってるの?」
くすくすと笑う荒川に口を尖らせ、ひよこが「でも……」と言いかけた時。
「お話し中、相済みません」
佐久間が怯えた声を出す。
「私、先刻激しく強い光を浴びた夢を見ましたせいで、どうにも目の前がちかちかしておりまして……眼の錯覚だろうと……いえ、多分見間違いかと……」
「どうしたんだ。怯えた声で勿体付けないでくれよ。僕も怖くなるじゃないか」
「それが、その……暗闇に2つ小さな光るものが……初めは小型車のライトが遠くに見えるのかと思ったのですが、ずっと同じ車間で追ってくるのです。しかも思いの外、近うございます」
確かに、ルームミラーには小さな2つの光が映っている。
「ひつじさん止めて! 猫さんだ! 猫さんですよ先生!」
――いや、待ってくれ、猫がこの距離を自動車と同等のスピードで追ってきたというのか!
荒川は戦慄した。農道とはいえそれなりのスピードは出ていたはずの自動車を、そこそこの距離追うということが、果たして猫に叶う芸当なのだろうか。それともネコ科の大型動物の子供なのか。どちらにしても……
「止めるな! 佐久ま……あっ」
緊急停止。
「猫さぁーん」
車が止まるや否や、ひよこは飛び降りて後方へと走った。
「にゃにゃにゃにゃ~ん」
何だか会話に聞こえる辺りが少し怖い。
「ごめんね猫さん、サヨナラ言えなくて。見送りに来てくれたの?」
「にゃー」
「ありがとね、うんうん、うん、わかったよ」
――いったい何がわかったと云うんだ!
1人と1匹がひしと抱きあう光景を遠巻きに、2人の心中は片や感動、片やおののきを以て見つめられていた。
「ひよこ君。そろそろ行くよ」
「はい」
3人が各々シートベルトを締めると、佐久間はゆっくりとアクセルを踏み込んでゆく。
「猫さぁーん!!」
開け放たれたウインドウから身を乗り出すひよこの湿った声が、真っ暗な田舎道に響き渡る。
「にゃにゃにゃにゃ~ん」
それは怖いからやめて。
「駄目だよ! 危ないからもう走らないで猫さん! そんなに手を振っちゃ危ないよ! あ、転んだ!!」
「なんだって!?」
「猫さんが転んだ!」
「そこじゃない! 手を振ったって!?」
「車止めて下さい! 猫さんがっ!」
――駄目だ駄目だ駄目だ。逃げろ!
「佐久間っ!! スピードを上げろ! とまるなぁ!!」
「先生、酷いですよっ!」
荒川はオカルトに弱い。
後ろ足のみで走る猫なんて無理だ。
「また、会いに来るって約束したのに……」
その約束に僕は含まれないから。と荒川は独り言つのであった。
<荒川クリスティーの事件簿2ーあくまで手毬唄(小野妹子失踪事件ー おしまい>




