第12話 夏の終わり
「先生! 待って下さい!」
晴れ渡った空を灰色に染めて、激しい煙が音も無く立ち上る。
火元であるパチンコ処矢場を遠巻きに囲む人垣は昭和ノスタルジーは勿論、Tシャツ、ジーンズ、ジャージの上下など様々であり、これが現実であるという緊迫感が嫌でも伝わって来た。
呆然と立ち尽くす者、バケツリレーに加わる者、店主の身を案じ涙を流す者。
ただ、昨今の日本ならばこんな時どこでも見られる光景……決定的瞬間を映像にしようとする者の姿だけは無く、これを他人事と思っていない小野村の結束を見た荒川だった。
「妹子!!」
群衆の中で叫ぶ声がする。
「ママ!!」
人波をかき分けて抱き合う一組の母娘がいた。
「先生、あれって妹子ちゃんのお母さんですよね?! だったらあれが?」
「妹子ちゃんだろうね」
ひよこの問いかけに驚く素振りも無く答え、荒川はバケツリレーの列を目指す。
「先生、どこへ行くんですか?」
「今は消火が先だ」
「だったらボクも行きます!」
「君はここにいなさい。そんな華奢な子供がいたら周りの人が気を遣う」
だが、2人が押し問答をしていると背後から声がかけられた。
「その必要はありませんよ荒川さん。もう、火は消し止めましたから」
多田喜八だった。
「そうでしたか。だから煙ばかりで炎も、音も無かったのですね」
「……」
「それとも、何か中を見られたくない理由があるのですか?」
荒川がそう口にすると、それまで無表情で空を見ていた多田は、にわかに頬を紅潮させ瞳を真っ直ぐ見返し叫んだ。
「あんたたちが余計な詮索を始めるから! じゃなきゃ、あいつだってこんなことは……」
掌は固く握られていたものの、震える拳を振り上げることはしない。部外者に手を出せば警察の介入を招く可能性もある。彼はそうして今までも村を守って来たのだし、それが何よりも優先すべきことだった。
不意に、風が救急車の気配を運んだ。
サイレンが段々と音量を増し、やがて止む。
多田の掌はもう礫では無かった。
「妹子は戻ったんだ、あんたたちも気が済んだろう。もう、出てってくれ、出来るだけ早くだ」
多田は吐き捨てるようにそう言うと、元いた場所に戻って行った。
「先生……」
ひよこはポツリと灰色の声で呟き、荒川の袂を握り締めて俯く。
「先生?」
だが、荒川は違った。
「ずっと同じ場所にいちゃ何も変わらないからね」
それは、ともすれば自分自身に言い聞かせかのかもしれない。
だが、真っ向に顔をあげて進む彼の歩みに迷いはなかった。
「先生!」
荒川はいつもより広い歩幅で直線をなぞり、小走りに後を追うひよこの声は色彩を取り戻している。
視線の先にいるのは小野里美佐江、妹子の母だ。
「小野里さん、お嬢さんが無事見つかって良かった。少しお話を伺いたいのですが」
「ごめんなさい。妹子は今戻ったばかりで、お話しできるような状態じゃありませんので」
「いえ、僕がお話しを伺いたいのはあなたですよ美佐江さん。あなた、お嬢さんを連れ去った人物を最初からご存知だったのでは?」
「そ、そんなことは……」
言い淀む美佐江を歯牙にもかけず、妹子に向き直る。
「妹子ちゃん、四条さんは君に酷いことをしたの? 本当のことを言ってもいいんだよ?」
「止めろ!!」
妹子の兄、和樹が叫んだ。
「四条さんは、僕に妹子を迎えに来いって!」
「お兄ちゃんダメ!!」
妹子が激しく頭を振りながら和樹を遮る。
幼い兄妹は互いを支えながら、この傍若無人な異教徒に負けないよう必死で睨みつけた。
「大丈夫、心配しないで。君たちの気持ちはわかったよ。試すようなことをしてごめん」
「先生?」
傍らでひよこが荒川を見上げた。
バケツリレーに加わっていた者もぽつぽつと群衆に戻り始め、人々の関心は救急車の意味へと注がれている。後から参加した者たちはことの全容を知らぬようで、早い段階から消火活動をしていた者らを捕まえての情報収集が、あちらこちらで見受けられた。
「けが人がいたって事か?」
「どうやら、火元は建物本体じゃないらしいよ」
「元は古い建物だったから、防空豪へ通じていたらしいんだって?」
「煙の中に支配人が取り残されていたって聞いたが」
「煙草の不始末なんじゃないか?」
「しっ! 出て来たぞ!」
運び出されたのはやはり四条だった。
救急隊員たちは慌しく立ち働き、付き添いは多田が手を挙げた。
やがて、サイレンが再び鳴り響くと救急車は農道を走り出す。
直後、荒川とひよこの眼に映ったものは、群衆を分けて車両を追う華奢な影だった。
「ゆうきさん?」
「そのようだね」
小振りの消防車が救急車をやり過ごし近づいてくるのが見える。今更、という声がちらほらと聞こえたが、村人たちはそれを合図に三々五々散りじりとなって行った。
「僕らも戻ろう。小野村の夏は終わる」
「え?」
「妹子ちゃんは戻って来た、事件は解決したんだ」
「先生……」
二人は一言も交わさぬまま、宿へと歩きだした。
◆
「先生、せめてもう一泊なさったらいかがですか?」
民宿多田では女将が夕食の準備をして2人を待っていた。
宿泊の予約がある日だけ手伝いに来る近所の主婦の姿は無いようなので、残念ながら本日も貸し切りのようである。
だが、チェックアウトの申し出に落胆するのは何も商いとしての思惑だけではないだろう。
「ありがとうございます。ですが、こちらの社長さんにお許しを頂けるとは思えませんので」
「あら、この宿の主人は私ですからご心配なく。お飾り社長なんて気にしないで下さい」
しかし、先刻の様子はこれまでの態度とは明らかに異なる物だったし、然しもの荒川も気にするなと言われて、はい左様然らばとはなれる筈もない。
「では、せめて夕食だけでも召し上がりませんか。準備も済ませてしまいましたので」
「それでしたら喜んで」
火事などと云うあまりに衝撃的な事件を目の当たりにし、時の経過も空腹も気付かぬままだった。荒川がそう思い至った時、壁掛けの振り子時計が低い鐘の音を7つ鳴らした。
女将の手料理はどれも優しい家庭料理で、水分を補給しすぎたひよこの胃袋をほわりとさせる。
「八重子さんの御飯がもう食べられないのかと思うと、ボク……」
来月には17歳の男子がこんなことで目を潤ませる光景は珍事だ。
13歳女子、程度が妥当なのでは? と、蒸し返したくもなる荒川である。
「ひよこちゃん、嬉しいこと言ってくれるのね。その浴衣、記念にあげるわ」
「え? いいんですか?」
「勿論。とても似合ってるもの」
「ありがとうございます! ボク、これ好きです!」
それが女物だとわかっていないとは常識的に思えないが、実際問題わかっているとも思えない。
「ところで先生、夕方矢場で火事があったとか……そこで妹子ちゃんが見つかったと聞きましたが」
「ええ」
「やはり、四条さんが?」
「いえ、恐らく彼は守ろうとしたんだと思います」
「守る? 一体何を……」
最初、窺うような上目遣いで話を切り出した八重子だったが、その表情は見る間に憂いを帯び、最早言い知れぬ思いを隠すこともできないようだった。
「ご心配の通り、ご主人も無関係とは言えないでしょう。これが事件として公になれば、相応の責任は負うこととなると思います。気付いていたんでしょう? だから僕らに調べさせた」
「お察しの通りです。でも、私は……」
「何か良くないことに巻き込まれているのなら止めさせたかったんですね」
八重子はこくりと頷き、荒川に問うた。
「先生、あの人は一体何をしたんですか?」
夫の隠していることはただ事ではないと思い続け、毎年夏が来ることを恐れていたのだろう真剣な瞳が、食い入るように荒川を見つめる。
「……これからお話しすることは僕の推測でしかありません。作り話なのかもしれない」
「構いません、聞かせて下さい」
もう、これ以上何も知らないままではいられない。そんな八重子の声が聞こえたかのように、迷いを振り切る荒川だった。




