第9話 ヴァイオリンの調べ
「つまり、第2の神隠しが起きたということかな? ぺっぺっ」
荒川は畳の上に横たわったまま、視線のみひよこに向けていた。
「いえ、それはまだ何とも――ですが、その可能性は極めて高いと思います」
ひよこはその脇に神妙な面持ちで正座している。
「でも、いなくなったのは女の子だって言ってたの? ぺっぺっ。過去の神隠しは全て女の子だけが被害者だって話だが。ぺっぺっ」
「小町ちゃん、と言えば女の子ですよ」
「妹子と言えば男だよ。ぺっぺっ」
「先生、妹子じゃなくて妹子です。それより、うがいでもした方がいいんじゃないですか?」
猫の活躍が実を結び、死の淵へと立たされた……もとい、死の淵から舞い戻った荒川だったが、本人の記憶にない蘇生作業中の不運な出来事により、彼の口中は現在猫の毛に侵食されていた。ぺっぺっ。
「そうしたいのは山々だけど、うがいをしたところで果たしてこの得体のしれない不快な症状は改善されるのだろうか。それに、何故だか全身が熱を帯びたように痛くて思うように動けないんだよ、ぺっぺっ。僕は何か悪い病なんだろうか、ぺっぺっ」
荒川が未だかつて経験したことのない全身を隈なく襲う謎の痛みの正体は、そう、筋肉痛である。
猫はと言えば、まるで状況を把握しているかのようにひよこの背後に身を隠している。
「先生、それは恐らく命に係わるようなものではないと思います。今日一日を思い返すに、所謂かの筋肉痛ではないでしょうか」
「筋肉痛? これがあの有名な筋肉痛なのか! 話には聞いていたが、ぐえっ、げほげほ」
興奮し、やにわに声を荒らげたことが災いしたのか、猫の毛がのどの奥に張り付く。
無精者もこれには相当堪えたらしく、万障を排して洗面所へと向かうことを決意。出来得る限り四肢に刺激を与えないよう、慎重に移動する姿たるやロボットを思わせる。
荒川の無様な描写はさておき、この隙に猫は部屋を脱出し完全犯罪は奏功した。
<10分経過>
「どうです先生、良くなりましたか?」
「うん。何故だかおびただしい量の獣毛が出てきた。これは病気ではなく呪いとか祟りとかの類だね」
ふすまを開けるなり声を掛けて来たひよこに戯言を口にしつつも、その眼は室内を満遍なく見遣っている荒川は、今更ながら獣毛の出所に感付いたらしい。
「あの猫は?」
「そ……そんなことよりっ、今は神隠しの方ですよ!」
明らかに挙動の怪しいひよこを一瞥すると、そろりそろりと腰を下ろし、溜息ともつかぬ間の向けた空気を漏らす。
これは存外、死に至る筋肉痛かもしれない。そもそも、これまでに症例が無いからと言って、今後も一切その可能性が無いと断じてもいいのだろうか……などという一抹の不安が過ぎると猫のことは考えるだけ面倒な気がする荒川である。
「で、結局のところ小町ちゃんという子供が行方不明で、目下品縫会が捜索中。ということしかわからない訳だ。今は……もう9時近いな、確かに小さな子供が出歩く時間とは言い難い」
でも、だからと言ってどうする? 2人は顔を見合わせた。
小野村の住人は一見激しくフレンドリーだが、その実かなり用心深くて閉鎖的である。
殊に品縫会が排他的な組織であることは、頂点に立つ多田喜八が妻にさえ多くを語っていないことで想像が付く。
よそ者が子供の捜索に加わるといった所で素直に受け入れられるとは到底思えないのだ。
「まぁ、どちらにせよ先生は歩けるようには見えませんけど」
そう言って優しく微笑むひよこの真意を掴めぬ荒川は、返す言葉もない。
まんじりともせず、入浴もせず、筋肉痛で動くこともできず。夜の帳だけが色濃く静寂をもたらす頃、何やら外が騒がしい気配を見せた。
ひよこは様子を見に部屋を飛び出し、先刻身を潜めた廊下の壁にそっと背中を預ける。
荒川は部屋の畳に背中を預ける。
「お帰りなさい。どうでしたか?」
出迎えた女将がすぐに声を掛けた。引き戸をくぐったのは喜八一人、夜も遅い事から、それぞれの帰路についたのだろうか、ざわざわとした話し声は屋外にも既に無く、喜八にはかなりの疲労感が見て取れる。
「見つかったよ。参道の山道で泣いてる所を四条のやつが保護したらしい」
「パチンコ屋の?」
「ああ、矢場の四条だ」
矢場、とはパチンコ屋の屋号である。この、猫に犬という名前を付けるような紛らわしさは支配人の趣味らしい。
「鈴木さんとこの子は確か――」
「そうだ、女の子みたいな名前と顔をしているが男だからな。尤も、それが心配だったんだが……」
「え? それはどういう――」
妻の問いかけに、ハッとしたように口を閉じると、喜八は「風呂に入る」とだけ言い残して居住スペースへと引っ込んでしまった。
その一部始終を見届けると、そろりそろりと部屋に戻ろうとするひよこの足元に、いつしか猫が寄り添っている。
『お帰り、猫さん』
『みゅ~』
ぎりぎり聞こえる程度の会話をしつつ、部屋へ戻ると荒川が胡坐を組んで待っていた。
「で、何かわかったの?」
ひよこは今聞いたばかりの話をする。
「そうか、小町ちゃんは男の子か。ふーん」
「そこが重要なんですか? 僕はやっぱりあのパチンコ屋さんが気になります」
「まぁね。明日の朝、女将さんに話を聞いてみようか」
何で明日なの? 今じゃないの? というひよこの視線が、じっとりと湿った空気を生み出す。
「違うよ、僕は体が痛くて動きたくないからそう言っているのではなくてだね、喜八氏が在宅中に女将さんが満足な回答をしてくれるとは到底思えないということを……」
「あ!!」
「な、何?」
「回答で思い出した! 先生、猫さんが怪しい人を外で見かけたらしいんです。それって例の……」
「そうか、まぁ、そうかもね」
「いいんですか? 放っておいて」
「いいよ、好きにさせて置けば。手持無沙汰なんだろう」
「先生って、思った以上に大物ですね」
「それより、ずっと聞き捨てならないことがあるんだけど。きみ、猫が何だって?」
「怪しい人を見たって」
「言ったの?」
「さ、さぁ……、どうだったかなぁ」
「に、にゃー!」
「……」
人智を超えた感じの話になりそうだと察し、追及を止める荒川である。
◆
荒川は朝が弱い。
これは今に始まったことではないのだが、目覚めた頃には既に喜八の姿はなく、今日も今日とて村おこしに明け暮れているという。
その活動は言ってみればボランティア。ある種の名誉職ではあるものの、金銭的報酬は皆無だ。そんな道楽爺の生活を支えているのは妻であり民宿の女将である八重子の甲斐性に他ならない。
「先生、もう朝ご飯食べないと! ほら、起きて下さい」
午前9時。”ただ黙って待っていたのでは後2時間ほどは起きない可能性あり”という謎のメッセージカードがひよこの下に届く。名刺を2回りほど大きくしたセピア色の、右端に燕尾服の羊マーク入りカードだ。
少々低血圧の荒川は暖気運転中につき動作は緩慢だが、何とか朝食の席に着いた。朝食は和風の家庭料理であり、気怠い朝でも受け付けられる。
だが、本題はこの後。食事を済ませた荒川とひよこは女将、多田八重子に同席を依頼することとなった。質問は四条についてである。
「八重子さん、四条さんについて知っていることを教えていただけませんか」
「あの人が犯人なんですか?」
「いえ、それはわかりません。わからないから調べているんです。ただ、僕にはどうしても四条さんが無関係には思えないんですよ」
八重子は「わかりました」と答えると、四条について語り出した。
「あの人は、確か10年くらい……いえ、もっと以前だったかもしれません。都会からこの村にやって来たんです。当時は今よりも取っ付き難い感じで、やれリストラされたの前科があるんじゃないかだのと噂されていました。本当の所はわかりませんが何か辛いことから逃げて来たような、そんな雰囲気を感じたものです」
八重子は、ふと思いを巡らすように遠くを見ると、瞳を伏せて話を続けた。
「彼はこの村で『そうか! 村塾』とかいう子供の”気付き”を重視した塾を開いたんですが、なにぶん通う子供が圧倒的に少ないために、直ぐに経営は破綻しました」
どこからかヴァイオリンの切ない調べが聞こえて来る。
「そんな彼を娘の住み込み家庭教師に雇ったのが品縫さんだったんです。
品縫さんの所は代々続く宮司ですので先代さんはそれは男の子を欲しがっていたんですが、生まれた孫は女の子、嫁は早くに他界、息子は再婚せずな物ですから、怒りの矛先は常に孫のゆうきちゃんに向けられていたようで……ゆうきちゃんはいつも暗い色の、男の子のような服ばかりを着せられていたように思います」
「だから、あんな……」
ひよこが悲痛な声で呟く。
「先代と宮司さん、誰一人女性のいない環境で育ったゆうきちゃんは、いつの間にか男に産まれなかったことを自分のせいだと思うようになっていったのかもしれないわね……だから、次第に家に引き籠るようになり、学校へは行かなくなった。そして、遅れた勉強を見ていたのが四条さんなのよ。絵なんかも教えたりして、2人は上手く行っていたって話だったんだけど……あんなことが起こるまでは……」
八重子は言い淀み、唇を噛んでいた。




