序
そこでは夏休み、少女たちが次々と失踪する事件が起こっていた。
ものぐさな荒川の行動半径ぎりぎりに位置する小野村は某県小野郡に属する山間の村だ。
彼の地は郷愁を誘うロケーションから、多くの映画やドラマの撮影に重宝されていることで有名であり、観光客も珍しくない。
これは、そんな長閑な村で起きた謎の神隠しと、荒川が探偵っぽい何かになった切っ掛けの物語である。
◆
「佐久間、本当にこんな格好でおかしくないんだろうか?」
「よくお似合いです、お坊ちゃま」
「いや、似合うかどうかで言うならば――僕にはこの衣装、どうにも都心の電車には似つかわしいと思えないんだが」
憂慮すべきはそこなのか。彼の出で立ちは都心とか電車などと云う限定的なことに限らず、一般的な平成の世にはいささか不釣り合いな風体といえよう。
「坊ちゃまの門出に、この佐久間が最高の仕立物をご用意しておきましたのに……」
「わ、わかったよ佐久間。これでいいから――」
荒川は佐久間に弱い。
ともすると佐久間が荒川に強いのかもしれない。
何故ならこの執事兼運転手兼料理番、8年余りの間お坊ちゃまの生活全般を世話してきた保護者のような存在であるが雇い主は荒川の兄である。
つまり、お坊ちゃまとは直接の主従関係にないのだ。
「私は嬉しゅうございます。坊ちゃまが真人間になられるご決心をなさって下すって――ううう」
人間、歳をとると涙腺が緩くなるというが、佐久間も御多分に漏れずと云った具合だ。だが、これは8年前からそう変わらないことなので年齢との因果関係は立証できない。
空涙――という可能性、無きにしも……とは考えないのが本作主人公の間抜け――もとい、善人な所で、これなしに彼の長所を語るのは困難である。
「坊ちゃま、お忘れ物でございます。旅先ではカードの使用できない場所もございますので現金もお持ちになってくださいませ」
「知ってる、現金くらい使ったことあるから大丈夫」
「こちらもお持ちください」
「スマホなんて使い方知らないから要らないよ」
「ではこちらの携――」
「とにかく携帯電話はいらないから。僕ももう30歳なんだし、電車くらい一人でも乗れるから心配するな」
「さようでございますか……」
がっくりとうな垂れる初老の紳士を尻目に『その過保護からの卒業』を決意した彼は、本日、満を持して公共交通機関デビューを果たそうとしていた。
「では、せめてこちらを」
「なに、これ」
「社会人の嗜み、”お名刺”でございます――」
『羊たちのもふもふ』から遡ること約1年8か月。
荒川クリスティー(偽名)30歳4か月。
ひと夏の経験――――