夜明け前に
ごく平凡な会社員である相川修斗は、彼の飼う一匹の愛猫、スズとともに生活していた。ある日、残業で帰りが遅くなってしまった修斗は、ついついソファで眠り込んでしまう。その時修斗は、不思議な夢を見ていた―。
修斗は深いまどろみの中に立っていた。おぼろげで音のない空間で、ボロボロのダンボール箱を両手で抱えている。箱のフタは閉じられていて、その隙間は暗くてよく見えない。
しかし、彼はこの箱を知っている。スズたちが捨てられていた、あの箱だ。
モヤがかかっているかのようなぼんやりとした意識の中で修斗があたりを見渡すと、彼の正面、少し離れたところに、小さくてほのかな光るものがあった。薄暗いというべきか、灰色に満たされている、というべきか。そんな風景の中に浮かび上がる三つの小さな光点。それは光の粒をまきながら、寄り添うようにして停止している。修斗が歩み寄ろうとすると、三つの光はゆらゆらと上昇した。なんとなく、修斗が近づくことを拒んでいるかのように。光る三つの物体は、光る粉をまきながら修斗の背丈よりも高く上がると、それぞれがランダムに宙を舞いはじめた。ゆっくりと飛んだり、素早く飛んだり、空中で弧を描いて回ったり。まるで遊び戯れる動物のようにも見える。
修斗はその様子を眺めながら、胸の内に言い知れぬ温もりが芽生えてくるのを感じた。安堵感にも似た、あたたかい感情。頭上を舞い踊る三つの光を眺めながら、修斗は自らの口元がほころんでいることを知った。
ああ、よかったな。
胸中に浮かんだ安堵のことば。何に対してそう思ったのかは修斗自らにも分からない。ただ、あの三つの光を眺めていると、言い表せぬあたたかな感情が湧いてきて彼を包むのだ。いつのまにか灰色に満たされた風景は、やわらかいこがね色の光で溢れていた。あの小さな光たちが飛び回りながらまいた光の粒が、あたり一面に光の装飾をほどこしているかのようだ。
ふいに修斗の抱いたダンボール箱が、ぐいと重くなった。修斗はつんのめるように前に重心を崩したが、足を出してバランスをとりなおす。半分ほど開いたダンボール箱の隙間から、ほのかな光が漏れいでている。箱の中から両手を伝い、ドクン、ドクンという命の胎動が伝わってくる。箱を持つ両手のひらがにわかに熱を帯び、よりあたたかくなっていく。
「こ、これは・・・!」
箱の光はもはや溢れんばかりに拡散し、光の帯となって修斗の視界を満たしていった。視界の全てを光で満たされた瞬間、修斗の意識は何かに引き戻されるようにその場を離れ、遠い場所へ戻ろうとしていた。その間際の一瞬だけ、修斗は誰かが自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。
「ん・・・」
目を覚ました修斗は、自宅のリビングにいた。薄目を開けて見えるのは見慣れたリビングの天井。まだ夜明け前なのだろう、部屋の中は薄暗く、窓の外がわずかに明るみはじめている。どうやら昨晩、帰宅したあとにそのままソファで眠りにおちてしまったようだ。
頭のモヤが晴れて次第に意識がはっきりしてくる。
「ん・・・あっれぇ?俺、布団なんて持ってきてたっけ・・・」
ソファで横になっている修斗の上には、寝室でいつも使っている布団が無造作にかけてある。そういえば、照明は自分で消したんだっけ?記憶がはっきりとしないまま修斗は上体を起こそうとして・・・その異変に気づいた。
彼が今まさに横になっているこのソファ。中古品ながら品質もよく、深く腰を下ろして座れるので修斗のお気に入りのソファだ。しかし一人で横になって、こんなにも窮屈に思うほど狭かっただろうか。
・・・それに、仰向けに横になっている修斗の右脇が妙に温かい。冷え性気味の修斗にとってそれはとても心地よかったのだが、一体何があるのか・・・いや、何かいるのか?
一瞬スズの姿が頭をよぎったが、すぐにその考えを打ち消す。スズのサイズでは、こんなに布団が盛り上がることはない。明らかに人間と同じサイズの何かが、修斗と同じ布団の中にいるように思える。
修斗は恐る恐る、視線を自らの右側に向け、布団の中に何がいるのか確かめようとした。
「うわっ、うおおおっ!?」
次の刹那、修斗は布団から飛び出した。ソファから転げ落ちて床にヒザを強打してしまう。しかしそれに構っていられない。修斗の目に飛び込んできたのは、見たことのないヒト、それも、恐らく女の子であった。
「にゃー!」
修斗が飛び出した衝撃で、その女の子も驚いて飛び起きた。突然の衝撃と修斗の叫び声に驚き、彼女もまたソファを飛び出してその裏側に転げ落ちた。
「あ、あのっ!ど、どど、ど、どちら様ですくぁ!?」
修斗は頭が混乱している。この家に人間は自分しかいない。ならばさっきの女の子は一体誰?どこから入ってきたのか?なぜウチに入ってきたのか?もしかしたら、犯罪に巻き込まれて・・・。次々と考えを巡らせてるものの考えがまったくまとまらない。
言葉に詰まりながら謎の女の子に呼びかける。二人はソファを挟んでいる。修斗はテーブルの横に腰を抜かして座り込んでおり、あの女の子はソファの裏に隠れていて、姿を現さない。
チリンチリン。
「えっ?」
聞き覚えのある音色に修斗ははっとした。この鈴の音は、彼の飼っている猫、スズの首輪についている鈴のものだ。それにさっきの女の子の叫び声・・・にゃー?
修斗は部屋の周囲を見渡す。見える範囲の中には、スズの姿はない。
「・・・スズー?」
修斗はスズの名を呼んだ。いつもならば首の鈴の音をチリンチリンと鳴らしながら、足取り軽く修斗のもとへやってくる。今日も家のどこか、恐らくスズ用のベッドではなく、いつものように自分のベッドの中に潜り込んでいるだろうと考えた修斗は、ニ階も届くようにと大きな声で呼んだ。しかし、予想していない場所から驚くべき返事が返ってくることになる。
「・・・はい、ですにゃ」
修斗の心臓が大きく高鳴った!両眼を大きく見開いて声のした方向を向く。ソファの方向からだ。しかし彼の呼び声に応えたのはいつもの猫らしい猫の鳴き声ではなく、明らかに人の声、それも女の人の声そのものであった!語尾に「にゃ」と聞こえたきいがしたが混乱している今の修斗にとってそれを気にする余裕はない。修斗の両目両耳、五感に至る全神経がソファの裏にいるであろう謎の女の子に注がれた。
ソファの裏から、一人の影がゆっくりと立ち上がった。次の瞬間目にした光景に、修斗は息を飲んだ。
少女だった。衣類の一切を纏っていない、全裸の少女の姿が、そこにあった。細くくびれた腰、華奢な肩から伸びる、するりと美しい両腕。片腕でソファのふちを掴み、もう片腕で胸を隠そうとしている。が、その細腕一本では隠しきれないほどの胸。押さえつけているので、余計に強調されている。端正な顔立ちに、大きくてくりくりとした瞳。恥ずかしそうに顔を伏せながらも、両目はしっかりと修斗の姿を捉えていた。
彼女の胸を隠しきれていない腕に巻かれている物に、修斗は釘づけになった。それは普段スズがつけている、鈴付きの首輪そのものだ。なぜスズの首輪を、彼女が持っているのか。しかも、腕に巻いて。ならば、当のスズは一体どこに―。
そこまで考えて彼女の頭を見上げた彼の目は、ふたたび釘づけになった。
ぴこん。
猫耳である。
窓から日の出の光が差し込む。その光が謎の少女を後光のように照らし出す。肩まで伸びた、青みがかった頭髪。日の出の光を受けて、美しく艶やかに光をはねている。そしてその美しい頭髪から飛び出た、二つの突起。ふわふわと柔らかそうな毛が生えておりそれは流れるような髪の毛にならうようにしてへたりと倒れている。
修斗は何も考えられなかった。頭の中が真っ白だ。動悸が激しい。最高潮まで加速した鼓動の脈打ちが耳元で煩い。見開いた両目に日光が眩しい。それでも修斗は彼女の姿から目を離すことはなかった。できなかった。
「・・・・・・ス、ズ・・・?」
修斗はふたたび、謎の少女に向けて愛しい愛猫の名を呼びかける。
「・・・はい、ですにゃ」
スズは、確かに自らの主人の呼びかけに答え、恥ずかしそうに顔を赤らめながら応えた。
ピン、ピン、と彼女の倒れていた猫耳が立つ。修斗の脳裏に、日の光に浮かび上がった彼女のシルエットが焼き付いた。彼の鼓膜には、小さいながらも凛とした、彼女の声が、チリンチリンという鈴の音と共に響き渡った。
修斗はスズから目を離さない。スズもまた、修斗の姿をしっかりと捉え、目を逸らそうとしない。
互いに見つめ合う両者の間には、この室内だけ静止しているかのような静謐さと、窓から差し込む黎明の光だけが存在している。




