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この子、スズといいます

初作品になります。拙作ですが、読んで頂ければ幸せです。宜しくお願い致します。更新はできる限り早めに頑張ります。

 その日もまた、男は大きく肩を落としていた。ごく普通の会社員として働くこの男は、限られた業務時間内に課せられた高いノルマに押しつぶされながら、胃の痛むような日々を送っている。電車を降りて、表の大通りから入った住宅街を歩く後ろ姿は、いつにもまして小さく、みすぼらしく見える。残業に次ぐ残業、手直しに次ぐ手直しを経て提出した資料は、彼の上司によってシュレッダ行きを宣告されたのだった。こんな資料が何になる。もっと画期的な商品プランを練ってこい。お前は何も分かっていない―。数刻前に上司がこの男に浴びせかけた言葉が、頭の中をぐるぐると廻っている。それはぐるぐる廻るほどに、まるでワタアメのように大きくなって、頭の中を黒くてどんよりとしたネガティブな思考で満たしてゆく。べたべたとくっ付いて離れないくせに、噛みしめるほどに苦々しい。

 

ああ、僕はいったい、何のために働いているんだろう。


 疲れきった彼の心は、無機質で固く、寂しいこの路地のように、冷たく凝り固まっていた。

 しばらく歩くとこの男は、一軒の赤い屋根の家の門を開け、中に入っていった。表札には相川と書いてある。この家に住んでいる男の名は、相川修斗という。シュレッダ行きを宣告された哀れな資料の作り主の名であり、この物語の主人公となる男の名前である。



「ただいま」

修斗が家の鍵を開けて中へ入ると、チリンチリンと音を立てて、奥から一匹の猫が駆けてきた。アメリカンショートヘアのスズ。修斗の唯一の同居猫だ。スズは修斗の帰りを心待ちにしていたかのように足元に駆け寄ると、その存在を確かめるように体をすり寄せ、ニャアと一声鳴いた。

「あははっ、おいスズ、今はよせって。靴を脱げないだろう?」

 修斗は口ではそう言いながらも、顔をほこぼらせてスズの出迎えを喜んだ。スズもゴロゴロと喉を鳴らして、愛おしそうに修斗の足に絡みつく。修斗が靴を脱ごうとすると、スズは名残惜しそうに足元から退い、またニャアと一声鳴いた。修斗が靴を揃え直して玄関から上がり、リビングへと続く廊下を歩くその脇を、スズがお気に入りの鈴を鳴らしながらついて歩いた。

 リビングの照明を点けると、持っていた鞄とスーツの上着を脱いでソファに投げ出した。その足でキッチンに入り、冷蔵庫を開け、中からビールを一缶・・・と、足元でニャアニャアと催促するスズの為に、牛乳パックを取り出す。

「わかってる、分かってるって。そう慌てんなよ」

 スズは牛乳が大好きだ。水や、猫用のミルクよりも、牛乳を好む。与えすぎは良くないと聞いたので、最近は与えるのを控えめにしている。今日は残業のせいで帰りが遅くなったので、そのお詫び。スズ用の水トレイを取り、残っている水を流し台に捨てたあと、牛乳パックを開けてトレイに入れる。足元をそわそわと歩き回っていたスズが、我慢できなくなったのか台所の上にピョンと飛び乗ってきた。

 「ちょ、ちょっとこらっ、乗ったらダメだって言ってるだろ!」

牛乳の入ったトレイを慌てて掴みあげる。すると台所に乗ったスズは後ろ足で立ち前足で修斗の腕を掴み、その牛乳に顔を近づけて飲もうとする。それほど牛乳が好きなのか、それとも、ただのこらえ性のない食いしん坊なのだろうか。修斗はついにトレイを頭上に掲げるような姿勢になった。スズはしなやかな身体をさらに伸ばし、牛乳のトレイに向けて前足を伸ばす。スズが腕を掴んでいるため、修斗は下手に動くこともできない。はたから見れば、なんとも笑える「絵」になっていることだろう。

「だめだめっ、スズ!ちょっと離れて、ちゃんとあげるからさ、な!」

なんとかスズをなだめて降ろしたあとで、牛乳のトレイを床に置いた。待っていましたとばかりに、スズは牛乳を美味しそうに飲みはじめた。修斗はその様子を眺めて、ふぅと一息つくと、着替える為に鞄と上着を持って階段を上がっていった。

 この家は、修斗の両親が彼のために用意した二階建ての一軒家だ。土地も物件も、彼の両親の所有物である。修斗が会社へ通勤するのに都合が良かったので、就職する際にこの家に入居することに決まったのだ。しかし一人暮らしには如何せん部屋が多すぎて、一階と二階の自室のみしか使っていない。スズが来てから一人と一匹暮らしになったあともそうだ。特に不都合があるわけでもないので、使わない部屋はそのままにしてある。

 部屋着に着替えて階段を下りると、ちょうどスズが牛乳に満足して廊下に出てきたところだった。口の周りに僅かに牛乳を付けたまま、ニャアと鳴いて修斗を呼んだ。おいで、と言わずとも歩く後ろを付いてくるスズのことを、修斗は心底可愛がっていた。そんな修斗のことを、スズもまた好きだったし、よく懐いていた。リビングに戻るとキャットフードを開け、エサ用のトレイに入れる。牛乳を飲ませていたので、フードはいつもより少し少なめに。床にトレイを置いてスズが食べ始めると、テーブルの上に出しておいた缶ビールを開け、グビッと大きく呷った。キレのある炭酸が喉をほとばしり、アルコールとともに胃袋に落ちて浸透していく感覚。一日の終わりに味わうビールの味が、どんな高い料理や飲み物よりも好きだった。そのままソファにどかっと深く座り込み、大きく息を吐く。


 今日も、疲れた。毎日毎日、精神と神経をすり減らしながらやりたくもない仕事をこなしている。この仕事が嫌い、というわけではないけれど、やり甲斐があるわけでもない。朝起きて、満員電車に揺られて会社に行って、上司に怒られてなじられて、残業して、家に帰って、寝る。単調で潤いのない作業の繰り返し。次第に、何のためにこんなことを繰り返しているのだろうと思い悩むのも、致し方のないことなのかもしれない。

 いや、こんなことをいちいち悩むのはやめよう。現状を嘆いても何の解決にもなりはしないし。課せられた仕事をやるだけだ。明日も早いのだから、早く入浴して夕食を摂って寝なければ。

 修斗はもう一口ビールを呷ると、ソファにごろんと横になった。

 チリンチリン、と音を鳴らしながら、食事を終えたスズが台所からやってくる。ソファの脇まで来ると、横になった修斗の上にひょいと飛び乗った。

「ぐえ」

修斗はわざとらしく潰れた声を出したが、スズは軽いし飛び乗り方もいたって丁寧だ。腹の上に乗ったスズは、修斗の顔を覗き込むとニャアと一鳴きして、毛繕いをはじめる。修斗はその姿を眺めて目を細めた。軽く撫でようとすると、スズは毛繕いを一旦止めて、修斗の手に身を委ねた。気持ちよさそうに目を細めている。

 スズは、修斗にとってかけがえのない家族のような存在だった。仕事を終え、くたくたになって帰ってきた修斗に、スズは癒しを与えてくれる。砂漠の中にあるオアシスのように。どれだけ大変な砂漠であっても、オアシスの元に帰ってくることが出来るし、それがあるから、修斗は再び過酷な砂漠に飛び出すことができのだ。

 「おまえが俺のオアシスだよ、スズ」

そう言うと、スズは意味を知ってか知らずか、満足げに喉をゴロゴロと鳴らした。


 この家にスズがやってきたのは、修斗が社会人になって二年が過ぎた頃だった。

 あれは雨の降る寒い日。いつもと同じ、会社からの帰り道を歩いていると、ニィ、ニィ、と何かの小さな鳴き声が聞こえてきた。周囲を見渡すと、電柱の影にダンボール箱が置いてある。どうやらその中から聞こえてくるようだ。

 中には、くるめられたタオルの上に、ちいさな命が四つ。生まれて間もない、捨てられた子猫だった。小刻みにブルブルと震えていて、鳴き声にも力がない。一生懸命、母猫を呼んでいるのだろうか。

 修斗には動物を飼った経験はなかった。だけど、とてもそのままにしておくことは出来なかった。傘を持たぬ手でダンボール箱を抱きかかえると、雨の中を家へと走る。腕の中にある小さな命は、今まさに消え去ろうとしている。それも、人の勝手な都合でだ。修斗は自分のことを正義感が強い方とは考えていなかったが、目の前に突きつけられたその理不尽な現実がどうにも受け入れられなかった。

 ようやく家までたどり着いた。修斗は、あらゆる手を尽くして子猫を救おうと試みたものの、動物の飼育経験すらない修斗に、生後間もない、しかも死にかけている子猫を救う手立てなどありはしない。修斗は大慌てで最寄りの動物病院を探す。幸いにも、徒歩で行ける距離に見つけた。ダンボール箱に自分が着ていたスーツの上着を被せ、再び家を飛び出したのだった。時計の針は既に、11時を回って折り返し点にさしかかろうとしている。

 雨の降る夜道を駆け抜けて、動物病院についた。とっくに営業時間ではない。それでも修斗は、閉院の札が下げられた動物病院の門を叩き、大声で叫んだのだ。助けてください、お願いします、助けてください、と。

 建物の中に明かりが灯った!出てきた女性獣医に、修斗は状況を説明しようとしたが、興奮していてどうにも言葉が出てこない。修斗は自ら痺れを切らし、ダンボール箱をぐいと突き出し、助けてください、と力強く訴えた。

 事情を理解した獣医はダンボール箱を受け取ると、足早に建物の奥へと入っていく。修斗もあとに続き、中央に診察台のある部屋に入った。獣医が子猫たちの様子を診ている間、修斗は手持ち無沙汰だ。少し離れたところで邪魔にならないよう、様子を見守ることしかできない。

「今夜は遅いですし、この子はこちらで預かります。また後日、ご来院いただけますか」

 しばらく子猫を診察していた獣医は、目を離すことなく言った。

「ああ・・・はい、わかりました。そう、します」

 修斗は詰まりながら、そう答えた。捨てられた子猫は、全部で四匹居たはずだったが・・・獣医は、この子、といった。心臓がぎゅっと締まるような感覚を覚える。獣医に指定された通り、デスクの上のメモ用紙に名前と連絡先を記入する。

「あの・・・助かりますか」

連絡先を書きながら、獣医に尋ねる。それは質問というよりも、助かって欲しい、という願望にも近い言葉だった。

「分かりません。でも、全力は尽くします」

 それが、私の仕事ですから。女性獣医ははっきりとそう言った。頼もしい獣医さんだなと、修斗はそう感じた。

「動物の病気なら私に任せてもらいますけれど・・・、あなたが風邪をひいても、私は何もできないのよ」

女性獣医は修斗をちらと一瞥すると、冗談めいてそう言った。その時になってようやく、修斗は自らがずぶ濡れの状態であることを思い出したのだった。傘はさしていたが、箱が濡れないようにするのを第一に考えていたため、全身濡れてしまっている。

「ああ、あっ、そうですね。あはは、そうだな、帰らなくちゃ・・・その、よろしく、お願いします」

恥ずかしくなって愛想笑いしたが、確かにこのままだと風邪をひいてしまう。彼女は私のことも(おもんばか)って、帰宅を勧めてくれていたのだ。修斗は獣医に礼を言うと、動物病院をあとにした。

 

 修斗は在りし日のスズとの出会いを思い返して、懐かしそうに目を細めていた。今、飼い主の腹の上で優雅に寛いでいる猫こそが、あの日修斗が拾った捨て猫で唯一、一命を取り留めた猫なのだ。

「・・・こんなにでかくなってなぁ」

 感慨深く、一言つぶやく。スズは修斗にとって大切な、大切な存在だ。あの日、あの雨の日に人の都合で消えてしまうはずだった命を、たった一つだけ救うことができた。今では、彼の欠かすことのできないパートナーになっている。

「ほんと・・・こんなにでかく・・・よかったなあ・・・」

 修斗はスズとの至福のひと時を過ごしながら、次第に意識を闇へと溶かしていった。


まずはこの作品を読んでいただいたことに感謝します。処女作であり拙い点など多数ありますが、ご感想、評価など頂ければ、私の何よりの励みとなります。是非とも宜しくお願い致します。

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