8 ファントム
「ミハル」
その場に居る連中の注目が集まるように、わざと声を張って小娘の名前を口にした。
どこにでもあるようなインテリアのホール、その角を陣取った面子の視線がざっと俺に集中する。
小娘は壁際の長椅子で、茶髪の男の陰に押し込まれるように小さくなっていた。
「ミハル、おいで」
手のひらを上向けてちょいちょいと指で誘えば、俺を目にするなりみるみる黒い瞳を潤ませた娘が両手を伸ばしてきた。
その細っこい腕を取りつつ、隣にいた男に視線を投げる。突然現れた闖入者にむっとしたそいつが口を開く、その前にこちらから声をかけた。
「悪いな、面倒かけて」
───悪いな、獲物横取りして。
裏ではそう吐きつつ笑顔をくれてやると、茶髪の男はぽかんと虚をつかれたように固まった。外ヅラだけの友好姿勢に毒気を抜かれるようじゃまだまだだな。
その隙に囚われの姫君を己の腕へ引き寄せる。
テーブルと男が邪魔で動けない小娘の両脇に手を通し、持ち上げてそこから引っ張り出した。
ちまいと扱いやすくて都合がいい。
小娘確保。
あとは危険因子の殲滅だが、この分なら攻勢に出るまでもなさそうだ。
こちらから威嚇も牽制もする必要はねえ。要は元から敵うわけがないと、俺の所有するものに手を出した場合のリスクを感じさせればいいだけだ。
「ミハルの知り合いなんですかー?」
物怖じしない態度の女が好奇心に満ちた目で訊ねてくる。
「ああ、まだ帰ってないって聞いてちょっと心配になってな。コイツはあんまり酒に強くないし」
「えー優しいー」
間延びした別の女の声が横からかかる。
「せっかく来たんだから一緒に飲んでいきませんかぁ」
「悪い、車なんだ」
ポケットから取り出したキーホルダーの金具部分を指先に引っ掛けて軽く振り、ちゃりちゃりと鳴らす。
キーと一緒にぶら下がる、メーカーのエンブレムもよーく見えるように、ゆっくりと。
期待通り、猫が鼠を追うような視線がそこに集中した。いい反応だ。
制御のレスポンスが気に入って選んだ車だが、このメーカーは学生が持つには少々荷が勝ちすぎるハイエンドモデルばかり生産している。
大抵の男ならそのハンドルを握りたいと、女ならその助手席に座りたいと願う、金額に見合うだけの性能を持つ車だ。
つまり、これのオーナーであることは、それなりの稼ぎがあることを示唆する。
小さな金属片の価値を十分に知らしめたところで、それが一身に浴びる興味と羨望を引きちぎり、ポケットに収めた。
「ミハル、帰るか?」
傍らでぐらぐらしている小娘の様子を伺うが、今にも膝から崩れ落ちそうな状態で返答がない。
「酔いが醒めるまで少し待たせてもらっていいか」
いかにも心苦しい表情をつくってそう聞けば、二つ返事で場所を開けられた。
積極的なのは女だけだが。
コーヒーをオーダーしながらコートを脱いで小娘に被せ、そのまま上半身を俺の膝上へ横たわらせる。ちまっこいコンパクトな身体は余裕でそこに収まった。
野郎の視線から無防備なお姫様の寝顔を隠してやる意味もあったが、見知らぬ人間の素性を探るのに、体型というものは重要なファクターになる。
着膨れして動きにくくなるのがうざったくて、コートの下は薄手のシャツと細いニットのみ。肌にひたりと添うそれは、俺の身体の輪郭が目で見てわかりやすい。
表向き平和な政治のおかげでほぼ毎日ヒマを持て余し、身体を鍛えるほかにすることがない軍での生活は、余分なものを削ぎ落としてバランスのとれた筋肉だけを残している。
長期に渡る戦闘があると消耗して痩せてっちまうが、今は最適な状態だ。
俺が身体を武器として使うことに長けている、と想像するのは、酔っ払って思考が鈍った人間でも容易いだろう。
「名前なんていうの?」
「何してる人なんですかー」
「トシはー?」
たたみかけるように質問が飛んでくる。答える義理の無い立ち入ったことはシカトして、利用できるものだけ拾い上げた。
「公務員だ」
「ええースゴーイ」
何が凄いのかわからんが、公務員の言葉で不自然に顔を逸らした奴は数人いるな。未成年が酒の席に混じってるのか、それとも他に後ろ暗いことでもあるのか。
身体が資本の公務員で最初に思い浮かぶのはだいたい警察官だろうから、まあ無理もない。
コーヒーに口をつけることで退屈な会話を誤魔化しつつ、手慰みに小娘の黒髪を梳く。
「どういう関係?」
ちらちらと俺の腕の動きを伺いつつ出された問いに、少々おどけた様子を偽って胸元に手をあてた。
「コイツにここを撃ち抜かれちまっててな」
ついでにウインクを飛ばすサービスもつけてやる。嘘は言っちゃいない。
きゃー、と黄色い歓声が店内に響き渡った。なにそれ超らぶなのー、と目論見通りの反応には礼を言う、だがもうちょっと静かにしてくれ。
クライドの真似事だが、今のを同僚に見られたら俺は憤死しそうだ。効果はあれど、こんなこっ恥かしい真似を好きこのんでやりやがる奴の気が知れねえ。
どっと疲れがおしよせたのを誤魔化すように膝上の小娘へ視線を落とし、コートの下から覗いている旋毛を指先でくるりと回して遊ぶ。 …多少の鬱憤は晴れる気がする。
「もう起きなさそうだな」
これだけちょっかいをかけても目を覚まさねえなら、そろそろお暇してもおかしくないだろう。
ぞっこんでベタベタに惚れてるパフォーマンスも十二分だ。
茶髪の男は俺のほうを見ようともしない。
「連れて帰るよ。参加費はこれで足りるか?」
財布から最高額紙幣を取り出して近くにいた奴に握らせた。そう高い店じゃない。釣りが出るくらいだろうが、もう面倒くさくなってきた。そのまま押し付けて知らぬふりをする。
ぐったりしている小娘の身体を起こし、肩を抱き寄せて、その小さな頭を己にもたせかけた。
「帰ろうな、ミハル」
酩酊して力の抜けた身体はこちらの思うがままに動く。
わざとリップ音を響かせてこめかみに口付け、親密さを強調させる。この娘が素面だったら真っ赤になって慌てそうだが、幸いなことに意識はほぼ無い。周囲にはすんなりとキスを受け入れているように見えるだろう。何度も繰り返されている日常の一端のごとく。
こんだけやっときゃわざわざ小娘に手を出して俺の怒りを買おうとする輩は現れないと思うが。
抵抗を見せない小娘に心持ち満足しつつ、両膝の裏に腕を通して抱き上げる。
「折角誘ってくれたのにこんな状態で、悪かった。勘弁してやってくれ」
えーもう帰っちゃうの、という声は聞かなかった事にして、そそくさと店から抜け出した。
さて。
助手席に横たわらせた小娘の意識は完全に無い。
住所を知ってはいるが、あれはゲームで事故があった場合の緊急用の保険であって、職務以外に使うことは許されていない。本来は知っていてはいけない情報である。
よって俺は小娘の住所など知らない。
───小娘の意識は無い。
どこへ送ればいいのかわからないのだから、これは俺の部屋に連れ込まれても文句は言えねえと思うんだが。
「警戒心が足りねえな」
ぐっすりおやすみ中の眠り姫の頬を二、三度突付いてやわい感触を楽しんでから、俺はねぐらへと車を走らせることにした。
管理が面倒だとか、いついかなる時も緊急時に備えどうたらだとか、そもそも帰るのすら面倒くさがる奴もいるが、俺は軍舎の外に籍を置いている。
四六時中あのイカれた奴等と面つき合わせていると気が狂いそうになるからだ。
たまには一人でゆっくりしたい。
そう思って用意したこの部屋に、客人用の物なんざあいにくひとつもない。
とりあえずは小娘を俺のベッドに寝かせた。
玩具みたいに小さい靴を脱がし、細い腰のベルトを引き抜く。
色気のないジーンズが寝苦しそうだが、さすがにそこまで引っぺがすわけにもいかねえ。
飲み慣れてないようだし、中毒症状が進んだ場合の不安が残る一、二時間は様子を見ておいたほうがいいだろう。
それで問題が無さそうなら、俺も───
…毛布も一組しかねえんだよな。
わざわざ休日に雪中戦の訓練めいたことはしたくない。
「…まあいいか」
小娘が目を覚ます前にベッドから出ればいい。
寝るのはもう少し後、そう決めてテーブルから雑誌とビールを拾い上げ、ベッドの傍らに陣取った。
開封して時間の経ったビールは気が抜けていて、美味くない。憂さ晴らしに原因の一端である小娘の鼻をちょいとつまみ、もがく様を眺めた後で飲み干した。