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20 香餌



 呼び鈴が鳴らされた。


 ミハルには応えがなくても好きに入れと言い置いてある。続いて、予測していた通りにスペアキーを使ってドアを開く音が聞こえてきた。


 マメに食材を買ってくるから最初に向かうのは大抵キッチンだが、今はリビング以外の照明を点けていない。そのまま待てば案の定、少し怪訝そうなちまい娘がひょこりと顔をのぞかせた。

「お邪魔します、ルダーさん」


 ソファに座ったまま返答をしない俺に、小さく首を傾げる。黒髪が細い肩の上を滑り落ちた。その微かな音が聞こえそうなほど、陽が落ちた宵の口は静かだった。



 無言のまま手のひらを上向け、人差し指で呼ぶ。


 まるで犬でも呼ぶような、自分でもえらくぞんざいな招き方だと思ったが、小娘は特に不快に感じる様子も見せずに近付いてきた。


 間延びした足音をたてて。

 重心の定まっていない歩き方はなんの警戒もない。

 不思議そうに、ほんの少しの好奇心をにじませた黒い瞳で見つめてくる姿が、小さい毛玉とよく似ている。

 こちらの気分ひとつでどうとでもできる力の差があるというのに、それを己に揮われる可能性を想像もしていない。

 盲目的な信頼は滑稽にもみえる。


 一歩離れた位置で立ち止まったのをさらに手招いて近くに呼び寄せた。


 もっとだ。こっちへ。


「ルダーさん?」


 きょとんとした顔で、控えめに足を踏み出してくる。広げた膝の間に入り込むその距離は、俺がソファの背に預けた身体起こせば触れあいそうなほどに近い。

 が、しばらくの看護生活でそのへんの意識はずいぶん薄れているようだった。


 のこのこと、手の届く範囲まで。


「明日から復帰する。いろいろと、世話になった」


「そ、うですか。お役に立てたでしょうか」

「ああ。ありがとう」

「───よかった」


 押し付けられた面倒な雑事からようやく解放される知らせだというのに、小娘は妙に儚げに微笑んだ。




「ひとつ訊きたいことがある」


 俺が望むものを手に入れるには、その答えが必要な気がする。


「なぜ、泣いたんだ。病院で。俺が任務に就く事を知っていたら泣かなかったのか?」


 まさか今さら掘り返されるとは思っていなかったのだろう。軽く目を見開いた後にほんの少し頬を染め、おどおどと視線を泳がせた。

 立ったままのミハルの顔は、ソファに腰掛ける俺よりも少し高い位置にある。

 いつものように俯いても、その表情が隠されることはない。

「あの……ごめんなさい。泣くつもりはなかったんです」

 小娘の眉は情けなく歪んで、また泣きだしそうに見えた。

「責めてるわけじゃない。教えてくれ、知っていたら泣かないのか?」

 繰り返される問いに緊張を感じてか、呼吸が浅くなって、うすっぺらい身体が小さく揺れる。


「───ルダーさんは、軍人さん、ですよね。そんなことなければいいと思ってますけど、もしかしたら怪我で身体を、 …命も、失ってしまうかもしれない、お仕事で」

 言いにくそうに口にしてから、小さな唇がぐっと引き結ばれる。やはり言わなければよかったとでもいうように。

 この娘はどれだけの言葉を飲み込んでいたのだろう。続きを聞きたいと、無言のまま促した。

「───わたし、知っていたつもりでした。そういうお仕事だって。でも、きちんと理解していなかったんです。病院でルダーさんを見るまで、そういうことを、何の覚悟も持たずにいた自分が情けなくて、申し訳なくて───」

 たどたどしく紡がれる言葉は次第に小さく消え入りそうになっていく。


 ……回りくどくて要領を得ないが、つまるところ。


「俺を心配したかった?」


 しょんぼりと俯いていた小娘は、驚いたように顔をあげた。

 呆気に取られた表情が数拍の間を置いてじわじわ赤く染まり始める。

 図星か。そして無自覚だったか。


 ───こんの、小娘が。


 思わずもれた苦笑に、焦った反論が返ってきた。

「ち、違うんです、違う……!」

 真っ赤な顔して言われたところで何の説得力もない。

「違う? 心配はしてくれないのか」

 揚げ足を取ってわざとらしく見上げ、拗ねるように問いただせば、それを真に受けて慌てた弁解を始めた。

「し、心配は…だって、そんなの、失礼じゃないですか!」


「何が失礼なんだ」

 どうにもこの娘の思考は遠回りしすぎて難解に感じる。

 他者に譲ることばかり優先して、しまいには自分の道を見失い、迷子になっているような。

「だ、だって、ルダーさんはすごく自信に満ち溢れてて……とても、誇り高いひとに見えます」

 ……だいぶ買い被られてる気がする。そこまでご立派な人間じゃない。

「そんな人の心配をするなんて、おこがましいというか、必要ないはずだし、わ、わたし……わたし……が、」

 小娘は己の言葉に戸惑い、うろたえた様子でゆるく首を振る。

「違うんです…、ごめんなさい、わたしの勝手な感情で、泣くつもりなんか……」

 ふうん?

「勝手な感情って?」


 心配したかったというのなら、心配をするだけの好意はあるのだろう。

 そしてわざわざそれを否定して言い渋るのは、秘めておきたいと思っているのだろう。


 頬を紅く染めながら、隠そうとする好意。

 それは何だ。



 俯く顔を覗きこみ、意地悪く答えを促せば、頼りなげに眉を下げた娘の黒い瞳が水気を帯びはじめた。自分が無意識のまま何を言おうとしていたのか、ようやく理解してきたらしい。

 触れそうなほどに近い位置にある、小さな身体のふるえに、じれったく胸のうちをくすぐられているような気がする。



 ずいぶんと控えめで、クソ真面目で、人の良い───誘惑だった。




 喰っても、いいんだろうか。

 この、真っ白で、いい匂いのする、美味そうなやつを。





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