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19 呼水



 久々に戻った兵舎は、埃っぽくも己の身に馴染んだ匂いがした。

 慣れぬ変化にざわめいていた感情が平静を取り戻していくのを感じる。小奇麗に整えられた環境より、薄汚れた場所のほうが自分には似合いだということだろう。


 とりあえずはロッカーの私物の確認を済ませる。欠けているものがあれば回収が必要になると考えていたが、意外にも元のままに戻してあった。

 後は面倒だが仕事に復帰する前に片付けなきゃならん手続きがいくつか。まだ十全とはいえない足を動かして、事務室を目指した。



 兵舎から事務室がある中央棟に繋がる道筋、飾り気なんぞ皆無の殺風景な通路の途中に、兵士の休憩所を兼ねた広いスペースがある。

 いくつかのテーブルを囲む椅子と、端にドリンクの自動販売機が置かれているだけのお粗末なものだが、そこで寛ぐ集団から聞き覚えのある声が響いた。

「あれーもう帰ってきちゃったのー?」

 暑苦しい兵士の群れの中にひとり、少々毛色の違う華奢な人間が身体を捻ってこちらへ視線を投げかけている。

 改めてよく見れば、テーブルに集っているのは知った顔ばかりだった。クライドにバトーリ、サナイ、ゲンツ。この阿呆共の馬鹿騒ぎに普段は加わることがない堅物のリガレスまでいるのは珍しい。


「もうちょっとゆっくり蜜月を楽しんでくればいいのにー」

 いい加減にしろクソったれ。

 ふざけた台詞をのたまったクライドの背後まで歩み寄り、今までの怨みを込めて拳を叩きおろした。さすがにそろそろ腹に据えかねる。

「今日は書類にサインしに来ただけだ、覚えてろよてめえ」

「痛ったいわーそんなに怒ることないじゃんー」

 クライドは殴られた所を庇うように手を当て、不満気に口を尖らせた。その仕草はやめろ気持ち悪い。

「あれだけ引っ掻き回しておいてどの口が言いやがる。余計な真似しやがって」

 一発殴った程度じゃ気がおさまらん。手加減無しに耳朶を引っ張ってやれば、痛い痛いとやかましくわめいた。

 近距離でのその悲鳴が煩かったのだろう。傍らのサナイが無言のまま空いている椅子を引き、視線を寄越す。座れ。落ち着け。なによりも黙らせろ。平坦な表情のまま目がそう語る。

 そりゃごもっとも。

 完治していない足もしんどいことだし、有り難く腰を下ろした。

 取り立てて用はないが、不在だった期間に変わったことがないか把握しておきたい。


 同じテーブルを囲むバトーリが、コーヒーを啜りながら不思議そうに首を傾げる。

「なんかマズいとこあった? すごくいい子に見えたけど」

 まだその話を引っ張るのか。鬱陶しいが、ミハルの面目を思うなら否定をしておくべきだった。

「別に、ごく普通の真面目な娘だ」

 何がどうとか、さして言うような難があったわけじゃない。むしろよくやってくれていた。


「じゃあどーしてそんなにぴりぴりしてんのさー。アンタ『他人を巻き込むな』なんて言ういい子ちゃんじゃなかったくせに」

 ひやりとした揶揄を含んだ言葉だった。


 ───ああその通りだな。お人好しで馬鹿正直な小娘に毒されて、気付かぬうちに随分と日和見じみた思考になっていたらしい。

 もとより縁のないものに傾倒したところで、何の意味がある。

 ピリピリしてる? そうかもしれない。

「……あの平和そうなツラ見てると、苛つくんだ。こっちは飲まず喰わずで泥に塗れて戦場駆けずり回って、飢えて飢えて気が狂いそうなのに、目の前に場違いな真っ白いパンぶらさげられてるみてえな気分になる」


 ぶふ、と唐突にゲンツがむせた。コーヒーが気管に入ったらしい。苦しげに咳を繰り返している奴を後目に、クライドは怪訝そうに唇を曲げる。

「なんでそのパン食べないのさ」

「───汚れてるだろう、手が」


 泥で。

 そんな汚い手で掴めない。


「ちょっ、お、おま、泥臭い蛇だの鼠だの平気で喰えるくせに何を言ってんだ」

 バトーリが盛大に噴出して、腹を抱えながら身をよじった。


 不可解だった。なぜ笑う。

 その辺を這い回る動物と、皿の上に盛り付けられる手の込んだ食い物は同じじゃない。

「パンなんざスポンジと大して構造かわらねえんだぞ、あっというまに泥水吸ってだめになっちまう」

 喰えもしないものを見せびらかされたら腹が立つだろうが。


「泥なんか気にするタマだったか、お前」

 視線を茫洋と遠くに投げたまま、こちらにはあまり興味無さげにサナイが呟く。

「喰えばよかろう、そこにあるのなら。お前が喰いたくて喰いたくて仕方ないなら誰も止めはしない。パンのほうが逃げるのならばどうにもならんが」

 ……リガレスまでもが口を挟んでくるとは意外だった。


「何なんだお前ら寄ってたかって。何を企んでやがる」


 笑い転げるバトーリが目尻を拭いつつ、息も絶え絶えに言う。

「遊び半分にまぜっかえして悪かったよ、てっきり定番に飽きて変わったのをつまみにいったのかと」

 ……何の話だ。

「俺は本気なんだろうって思ってたけどさー。アンタ、汚したくなかったんだねー、あの子を」

 クライドが呆れたような生温い笑みを浮かべる。

「っ、似、合わない遠慮だな」

 いまだに咳を喉に絡ませているゲンツも、その顔に浮かべるのはにやにやした笑いだった。


 ───汚したくない?

 馬鹿げている。すいぶんとお奇麗な感傷だ。

 はなから無いものを望み、いずれ失うものに縋り、すべて偽りなのだと後から気付く愚か者になるのは御免被る。それだけだ。

「もー戻れよお前」

 反論を口にする暇もなく、俺が座る椅子の足をバトーリに蹴り飛ばされた。

 無理矢理に向きをかえられ、あさっての方向に―――立ち上がるには容易な方向に、椅子がずれる。


 会話はそれで打ち切られた。別の話題がふられ、話の方向は俺とは何の関係も無いものへ流れていく。

 釈然としない。が、こうなったら食い下がっても時間の無駄だろう。

 仕方なしに立ち上がって、当初の目的を片付けるべく中央棟へ足を向けた。


 背を向けた後方から、リガレスの説教くさい台詞が追いかけてくる。

「お前の他人を頼らない性質は美点だが、少々過ぎたきらいがあるな。今回の負傷も。お前は最初からチームの失敗を想定していただろう。結果として死亡者が無かったのはお前の功績だが、信頼されない者が何を感じているのか、お前は考えたことがあるか」





 他人に期待はしない。そのほうが気が楽だった。





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