13 名前を呼んで
「ま、待ってください、スウィ、 」
はっとした。なまえ、どうしよう。
視界の端ではその『名前』を教えろと要求する彼女がちらちらとこちらの様子を窺っている。ここで口に出したら知られてしまう───
「…『ルダー』」
躊躇していたら、電話の向こうの彼が呟いた。思わず「えっ」と洩らしたわたしに、さらに続けられる。
「名前を呼ぶ時に毎回つっかえていただろう。スウィフトが発音しにくいなら、ファーストネームで呼べばいい。ルダーと」
「え、あ、ああ、あの」
どどどどどうしよう、うん、ごめんなさい発音が難しくていつもつまずいてた、でも今呼べなかった理由はそれだけじゃなくて!
こんなことにも気を配ってくれるのはとても有り難いけれど、どうして今なのか。
混乱するわたしをよそに、電話の向こう側から再度バリトンが響く。
「『ルダー』」
反論を許さない強めのトーンには、復唱しろ、と暗に意味を込められている。ぐんぐん頭に血がのぼって、加熱した思考が空回りを始めた。
名前、呼ばなきゃいけないの…? 電話で? 今、ここで?
わたしが立っている場所は、講義を終えた学生があふれだす門柱の側だ。たくさんの人通りがある。
声だけを伝える機械を通して、名前だけを呼ぶ。せわしなく行き交う人波の中でそれを要求されていることが、なんだかすごく気恥ずかしい。
でも、大した意味はないはずだ。わたしがひとりでぐるぐるしすぎてるだけ。
大げさにならないように努めて小さく息を吸った。
「…ル、ダーさ 」
緊張しすぎてやっぱりつっかえた。あああああ…!
彼がくすりと笑う小さな音が聞こえる。
「もう一度。ああ───待て。今、門を出た通りにいるのか。見える」
ええええええ! 急すぎる!
あまりの展開に焦りながら道路を右、左、と見渡せば、記憶の中にあるきれいな流線形の銀の車と同じものが、消火栓を避けたのだろう、少し離れた場所で停止するところだった。
わたしが視線を釘付けにしているその車から降りた長身の影を見て、側に立っていた栗色の髪の女の子がパッと顔を輝かせる。
ああ、彼女のこと忘れてた!! とっても芳しくない事態に…!
重たげなブーツを踏み鳴らしてこちらへ歩み寄ってくるスウィフトさんに、彼女が巻き毛を跳ねさせながら小走りで駆け寄っていく。
「こんにちはー! 一昨日ぶりですね、私のこと覚えてますかー?」
歩く進路を遮られる形になったスウィフトさんは、無表情に近い穏やかさで一瞥を落とした。
「…ミハルの友達? 悪いな、あの時は人が多かったから」
はっきりと言葉にはせずに答えた彼の言葉の意味は『覚えていない』だ。
物腰は柔らかいけれど、一定以上の接近は許さない。そういう線引きをやんわりと示して、彼女の頭の上を悠々と跳び越す高い視点からわたしに目を留め、ふわりと翠の瞳を細くする。
「ミハル」
いつのまにか、通話は切れていた。
わたし以外の何にも視線をくれることなく真っ直ぐに見つめたまま、余計なものは視界に入らないとでもいわんばかりに『障害物』をするりとかわして近付いてくる。
半歩の距離までやってきて、わたしを見下ろしながらにこりと笑んでみせる彼の表情には見覚えがあった。
「ミハル、続きを」
…続きって。
まさか。
昨日の朝、わたしを言い負かせた時と同じだ。悪戯めいた企みがうっすら見える。きっとこういうのをほくそえむ、って言うんだろう。
この人、実はものすっごく、策士なんじゃないかって気がしてきた。
「ミハル?」
彼はほんの少し首を傾けて、ゆっくりと一度、まばたきをする。蜂蜜色の長い睫毛を見せつけるようなその仕草に、通りがかった周囲の女の子達がぽーっと見惚れているのが見えた。
この人は、自分が他人からどう見られているのか、よくわかっているんだ。だから先日の夜と同じように誤解をさせてしまおうとしている。
でもそれ、逆効果だと思うんだけど! 周囲にまで花とか星とかが飛び散りそうな真似は止めたほうがいいと思うんだけどっ?!
そう訴えたい。でも訴えられない、いうなれば今は舞台の上だ。観客の前で、演技はやめられない。
…どうしてこんなことになっちゃったの。
恥ずかしくて逃げ出してしまいたい自分をなんとかおさえて、息を吸い込んだ。
「ルダー、さん」
「もう一回」
即座に反復を要求される。泣きたい。
「ルダーさん」
「ん」
少々けだるげに、鼻を通してもらす短くて小さな返事はちょっとこどもっぽくて、成人した男性の声でそうするとすごく甘く聞こえる。
これ、まだ続けないと駄目なの?
「…ルダーさん?」
名前を口にのせるたびに、彼の笑みはさらに深く、喜びで蕩けるようにきらきらと変わっていって、名前を呼ばれることが本当に嬉しそうにみえる。
「うん」
すらりとした長身が屈められてきれいな顔が近付いてくるのに悲鳴をあげたくなった。
ちか、近い!! 絶対悪のりしてる、この人!
「遊んでませんか?」
「いいや? もっと」
小声で問い詰めてみるも、さらっとはぐらかされてさらに催促された。
「───ルダーさん!?」
「うん?」
自分の表情を周りから隠すためなんだろう、ルダーさんは高い位置にあったそれをわたしの頭の横まで下げて、わたしを盾にしてくすくすと声を殺して笑う。
「っもう!」
この人が優しいなんて、嘘だ。なんて名演技! 軍人より俳優のほうがきっと向いてるに違いない。
騙された? ううん違う、彼が騙したいのは周囲の人、とくにルダーさんの後ろに立つ彼女なんだろう。でもこれって、これって!
自分でも怒りたいのか恥ずかしいのか、このやり場のない感情をどうしたらいいのかよくわからない。
「ばっかじゃないの?!」
苛だった声が、目の前で壁みたいになっているルダーさんの身体越しに響いた。
振り向いた彼の向こうで、くっだらない、そう吐き捨てながら、栗毛の彼女は自分のバッグから財布を取り出して紙幣を数枚掴むと、こちらに向かって投げつける。
平たい紙はすぐに空気の抵抗を受けて、ひらひらとあたりに舞い踊り、彼女が狙ったようにわたしたちにぶつかることはなかったけれど。
ヒールを叩きつけるような勢いで歩き去っていく後姿を見送りながら、彼女の捨て台詞にすごく同意してしまった。
だって、往来の多い道端で人目もはばからず、ひたすら名前を呼ぶなんて、どれだけ自分の世界に浸ってるのやら。
わたしも自分達だけの世界を作ってるカップルと遭遇したら、見なかったことにしてる。彼らに干渉を試みるのは無意味なことだ。
でもまさか、自分自身が他者からそう思われることになるとは、考えてもいなかった。
周囲で好奇をにじませて囁かれるひそひそ話をできるだけ聞かないように意識をそらしつつ、石畳の上を滑って風とダンスしている紙幣を捕まえようと屈みこむ。投げ捨てられたお金を拾う行為はちょっと屈辱的だけれど、このお金はルダーさんに返さなければいけない。
逃げる紙切れを追いかけてよたよたと地面に手をつきながらも拾い集めていると、最後の一枚が吸い寄せられるように屈んだルダーさんの手の中に収まった。まるで風がそこに運ぶのをわかっていたみたいに、無駄なく。
…やっぱりすごく、スマートで格好いい人だ。
ルダーさんは長い指に挟んだそれをわたしに差し出しつつ、何事もなかったかのようにけろりとした表情で言う。
「とりあえず場所を移そうか」
それは大賛成です。
彼はわたしの背中を車の方へ柔らかく押しやった。とにかく一刻も早くここから離れたくて、わたしはほぼ小走りで歩き出す。横に並ぶ足音が全然急いだように聞こえないのは、やっぱりリーチの差だろうか。
ドアが閉じるばたんという音と一緒に外野と空間が切り離されてほっとした。こちらを注目しながらのささやきはもう聞こえなくなった、けれど。
「どうするんですか、あれ! 明日にはいろんなところで話の種にされてますよ!?」
「うん? のってくるから楽しんでるもんだと思ってたが、付き合ってる相手でもいたか? そりゃ悪かった」
シートベルトを締めつつなんでもないことのように、でも謝罪のときにはちょっと申し訳なさそうにこちらを見つめながら言われて、ぐっと言葉に詰まってしまった。
「───っ、いません、けど…」
そんなの、いるわけがない。
「なら大した問題じゃない。言わせておけばいいさ、そのうち飽きる」
「あ、飽きるって……」
飽きるって。
あんまりな台詞に絶句してしまったけれど、それから感じた『慣れた』雰囲気に、頭に上っていた熱がしおしおとクールダウンしていく。
きっとこの人はそうやってやり過ごしたことが何度もあるんだ。他人が好き勝手に囁く心ない噂を。
噂されること自体が一大事な、地味で目立たないわたしには経験したことがない領域で、なんだか大変そうなのだと想像することしかできない。
やっぱり世界が違う。
滑らかに車を走らせるルダーさんの横顔は映画のワンシーンを切り取ったみたいに格好良くて、それがわたしと地続きの現実のものだとは信じられないくらいだ。
わたしはどうしてこんな人の隣に座っているんだろう。体重を柔らかく分散させて受け止める質の良いシートは馴染みがなくて、逆に落ち着かない。自分がすごく場違いな気がして、足元がざわざわする。
───本当に、ここに居ていいんだろうか?