12 名前を教えて
「それより、あの人の連絡先教えてよ。私がおつり返しに行くから。幹事なんだし」
今日の講義をすべて終えたあと、大学の門を出たところでようやく見つけた彼女の、つやつやとしたグロスが光る唇から発せられた唐突な台詞に、わたしは二の句がつげなかった。
正面に立つ彼女は、肩でくるりと巻かれた栗色の髪を指に絡ませて弄ぶ。
先日の飲み代として差し出した数枚の紙幣が受け取ってもらえずに宙ぶらりんのまま、冬の冷たい風にめくれて乾いた音をたてた。
「あ、の、ひと、いくら置いていったんですか」
まさか、お金まで立て替えてもらってたなんて。
「別にいいじゃないいくらでも。ねえ、じゃあ彼の名前と、あんたの携帯ちょっと貸して。自分で調べる」
あまりにも強引な物言いにぎょっとする。
樹脂製のイミテーションをたっぷりのせて飾り立てられた長い爪が、わたしの携帯が入ったトートバッグに向かってくるのに危機感を覚えて、さっと脇から背中側にまわした。
なまえ───今聞いてくるってことは、スウィフトさんは名乗らなかったんだ。
ふいに思いつく。スウィフトさんがわたしとの関係を誤解させるような発言をした理由。
彼のあの、人を惹きつける容姿は、たくさんの異性から好意をむけられるだろう。ほんの少しでも交流を持てば内面もすごく魅力的な人だってわかるから、なおさら。
目の前にいる彼女や、あの場にいた女の子たちは、すごくかわいくてキレイだけど。でもやっぱり、まだ学生だ。わたしとさほど歳のかわらない、大人になりきっていない子たち。
わたしたちよりずっと大人な彼にとってはたぶん『対象外』で、名前も言わなかったのは、予防線だったんじゃないだろうか。こういうことの。
───だって普通、友達の『彼氏』なのに「連絡先教えろ」なんて、言わないと思うから。
そう考えるとすごくしっくりする気がした。
友達と呼べるような関係じゃなくてただの顔見知りで、ついでに彼女がこんなに我の強い人でなければ、きっと何事もなく、スウィフトさんに直接接触しようとする子なんて現れなかっただろう。
彼が望んでいないことなら、譲るわけにはいかない。これ以上の迷惑はかけられない。
バッグを後ろに隠して拒否する姿勢をみせたわたしに、彼女は不愉快そうに顔を歪めた。
「別にとろうとか思ってないよ?」
……一体何に対してのことだか、あまり勘ぐるのもよくないと思うけれど。とるとらないとかいう言葉がぽんと出る時点で信用ならないと感じるのは、穿ち過ぎだろうか。
でも、お釣りが出たからって、赤の他人の幹事が本来の参加メンバーだった『恋人』を飛び越えてお金を返しにいくというのは、おかしい気がする。
「わたしが、かえします」
「なに、もしかして自信ないんだ? ていうかさー、ホントに彼氏なの? 頼んだとかじゃなくて?」
この「彼氏なのか」という確認より先に、「連絡先を教えろ」と彼女が要求してきていたことに感謝した。
でなければ、うっかり真実のまま違うんだと否定して、面倒なことになってたかもしれない。
緊張しているのがばれてしまわないように、小さく深呼吸する。
うまくやらなきゃ。
「…忙しい人だから、彼のほうから連絡くれるまで電話は繋がらないんです。その時にわたしとあなたの時間が空いてるとは限らないでしょう?」
「べつに、キャンセルするし。あんたが用事あるならいなくてもいーよ、だから代わりに返してあげるっていってんじゃない」
───彼女と、彼女の番号を知らないスウィフトさんとは、わたしを通さずに繋がることはできない。向こうからわたしへの連絡を待つしかない、っていってるのに。
スウィフトさんからわたしへ、わたしから彼女へと伝達しなくちゃいけない。その時に3人とも都合がつくとは限らない。そんな手間をかけるより、わたしがお金を預かって返すほうが、かかる時間の面でも合理的だ。
「わたしが電話を受け取れないことだってあります」
「だからあの人の番号教えろって言ってんだけど。バカなの?」
さらりと当たり前のように言われて、思考が停止してしまった。
ループしてる。
わたし、失敗した? もしかしてなにか間違ってる? 昔から嘘をつくのは下手で、自信がない。なんて言えばいい?
腕が震えだして、冷たくなった指先から感覚が消えていく。凍える冬の空気と緊張のせいで、それはあっという間に全身に広がる勢いだった。
なにか答えなくちゃ───こくりと唾を飲む、そのタイミングに被さるように、わたしのバッグからくぐもった着信音が聞こえてきた。
どうしてこんなタイミングで、とぎくりと固まったわたしの恐れとは裏腹に、目の前の彼女は退屈そうに視線を反らして髪を弄びはじめる。これが彼女達の「出れば?」というサインなのは知っていた。
バッグから取り出した隙に───なんてことまではなさそうだとほっとして、慌てて携帯を掴みとり、ディスプレイを確認した。
…どうしてこんなタイミングで───!!
表示されていたのは、知人の名前ではなくて、数字の羅列。
まだ登録はしていなかった。けれど、表示されるその番号が誰のものなのかは、覚えている。だって、ほんの数日前に縋るような思いでひとつひとつ数字を打ったばかりだ。
どうしよう。
今、ここで受けたら、もっとややこしいことになるんじゃないだろうか。
そう思って躊躇した一瞬に、手の中の小さな機械から流れる音はぷつりと途絶えてしまった。
切れちゃった…!
せっかくかけてきてくれたのに!
途端に後悔が押し寄せる。肝心な時にいつもぐずぐずする優柔不断な自分が恨めしい。
握り締めた携帯に視線を落とし、自己嫌悪に陥りそうになったところで、ディスプレイの光が踊るように瞬いた。表示されたのはさっきと同じ番号。
一拍遅れて再び流れ出したメロディに、今度はすぐさまキーを押して耳にあてる。
「っはい!」
「───ああ、すまない。今時間はあるか?」
予想していたひとの、予測していた低い声。
けれど、その艶やかなバリトンの威力までは想像していなかった。
耳にぴたりとあてた携帯から鼓膜をくすぐる振動が頭蓋の内側に撃ちこまれて、頭の中に反響していく。
「悪いな、ちょっと今しか時間が取れなくて。昨日、俺の所に忘れ物をしていかなかったか───」
酔っ払ってたあの時のわたしはどうしてこれを耐えられたんだろう。うなじのあたりがざわりと粟立った。
こえに、ふるえる。
「───ミハル? 聞こえてるか?」
「っあ、は、はい! ご、ごめんなさい聞こえてます!」
我にかえって、舌をもつれさせるわたしの吃音気味な応えを気にする風も無く、彼は続けた。
「寝室のテーブルの下に見慣れないグリーンのノートがあったんだが、心当たりは?」
あ───!
すぐさまバッグの中を漁って確認した。わたしのノート…、ない!
原因はすぐ思いついた。このトートバッグは口が広くてたくさん物がはいるから長く愛用しているんだけど、留め金のマグネットが弱くなってしまって、ばたんと倒れると中身が雪崩れ出るのだ。つるつるして滑りやすいノートやころころ転がるリップの類はよく飛び出てくれる。
そうして、きっとローテーブルの下に滑りこんだまま気が付かなかったんだろう。今日の講義では使わなかったから、今まで思い出しもしなかった。
「ごめんなさい、それたぶんわたしのです!」
「そうか。確か今日は大学へ行ってるんだったな」
「はい」
昨日の朝、送ってもらう時に、予定は大丈夫なのかと訊かれて、明日の講義まで予定はないと答えていた。彼はそれを覚えていたらしい。
「こっちの都合なんだが、今を逃すとしばらく抜け出す暇がない。とりあえずモノを確認してもらいたいんだ。もうすぐそっちに着くから───」
そ、そっち?! そっちってこっち? まさか大学───?!