深夜ラジオの構成作家である私が選んだ「妻と別れて恋人を選びたい」という相談――差出人は、私の夫でした
妻は、人の言葉にはいくらでも答えを作れるのに、僕の言葉には返事をしてくれません。
深夜ラジオに届いたその一文を書いたのは、私の夫だった。
私の仕事は、他人の気持ちに、その人が使えなかった言葉を貸すことだ。
ラジオの構成作家になって、十年になる。
届く相談メールは、たいてい整理されていない。何に困っているのか、書いた本人にも分かっていないことのほうが多い。それを読んで、順番を並べ替えて、パーソナリティーが声に出しやすい長さに削る。どこで間を取り、どこで問い返すか、進行台本の余白に小さく書き添える。
誰かの代わりに考えるのが、私の職業だった。
他人の気持ちなら、私はいくらでも言葉にできる。
自分の気持ちだけが、できない。
夫と最後にきちんと話したのがいつだったか思い出せなくなった夜も、私は誰にも相談しなかった。相談メールの書き方なら、この国の誰よりも知っているのに。
局では、金曜二十五時の番組と呼ぶ。暦の上では、もう土曜日だ。
午前零時三十分。放送開始まで、あと三十分。
私は局の小会議室で、今夜のメールに目を通していた。
番組の名前は『午前一時の手紙』。全国ネットで、深夜一時から三時までの二時間、リスナーから届いた人生相談を、パーソナリティーの深町塔子さんが読んで、答える。私が担当になって、二か月が経つ。
一週間に届くメールは、多い週で四百通を超える。ADの子が全部に目を通して七十通ほどに絞り、私がそこから四通を選ぶ。基準は、面白いかどうかではない。声に出して読んだときに、書いた本人以外の誰かにも刺さるかどうかだ。
五通目の枠だけは、放送当日に空けてある。放送のある夜に届くメールには、熱があるからだ。眠れない人が書く文章は、水曜日に書かれたものとは違う。
その夜の五通目は、二十三時四十分に届いていた。
私はそれを、三度読んだ。
ラジオネーム、「春を待つ男」。
三十五歳、既婚です。結婚して六年になります。
妻とは、気づいたら会話がなくなっていました。どちらが悪いということもなく、自然に、そうなったのだと思います。
同じ職場に、好きな女性ができました。いつのまにか、彼女と話している時間だけが楽になっていました。半年前から、妻に隠れて二人で会っています。彼女も、私との将来を望んでくれています。
妻を傷つけたくはありません。
それでも、本当の愛を選ぶことは、身勝手なのでしょうか。
三十五歳。結婚六年目。
それだけなら、この国にいくらでもいる。偶然で済む話だ。
私は、続きを読んだ。
妻は、人の言葉にはいくらでも答えを作れるのに、僕の言葉には返事をしてくれません。
一週間前に、夫が私に言った言葉だった。
台所だった。私は翌日の台本の直しを膝に載せていて、夫は私の背中に向かって話していた。何を言われたのかは、覚えている。何と返したのかは、覚えていない。
たぶん、返していない。
結婚記念日に、二人で青いマグカップを買いました。おそろいのつもりでしたが、いつのまにか、僕のぶんだけ棚の奥に入っています。
うちの食器棚には、青いマグカップが二つある。五年前、最初の結婚記念日に、駅ビルの雑貨屋で買った。同じ棚に並んでいたのに持ち手の形が少しずつ違って、私のほうが太い。
偶然ではなかった。
二か月前、この番組の担当が決まった日に、私は夫に話している。
深夜の人生相談番組を持つことになった、しばらく金曜の夜は帰らない、と。
夫はスマートフォンを見たまま、
「ああ、深夜のやつね」
とだけ答えた。番組名は繰り返さなかった。私も、それ以上は言わなかった。
夫は、妻がラジオの構成作家であることは知っている。どの番組を担当しているかは、覚えていない。
深夜にやっている人生相談の番組、という響きだけが耳に残って、その番組を自分の妻が作っていることは忘れたまま、この人はメールを送ってきたのだ。
私は、印刷した紙を裏返した。
外すのは、簡単だった。五通目を差し替えて、別の相談を入れればいい。誰も気づかないし、理由を訊かれることもない。構成作家がメールを一通落とすのは、日常のうちだ。
指は、けれど動かなかった。
夫は、私に話さなかった。
私に話す前に、他人に話した。顔も名前も知らない誰かに、あなたは悪くない、と言ってもらうために。妻に打ち明けるための勇気を、外から調達しようとしている。
時計を見た。零時四十一分。
私は自分に、三つだけ条件を課した。
一つ、夫の個人情報は明かさない。名前も、勤め先も、相手の女性のことも。
二つ、メールに書かれていない事実は足さない。私が知っていることを、使わない。
三つ、夫を罵倒するだけの投稿を、意図的に選ばない。
この三つを守れているあいだは、私は構成作家でいられる。守れなくなったら、そこでやめる。
紙を表に返して、余白にいつもどおりの小さな字で書き込んだ。
――一時三十二分、四通目のあと。
夫が私ではなく、ラジオに答えを求めたのなら。
私は構成作家として、その答えを作ることにした。
◇
午前一時。
ブースの上で、赤い「ON AIR」のランプが点いた。
スタジオはガラス一枚で仕切られている。向こうがブース、こちらが副調整室。ミキサーの内海さんの隣に郡司ディレクターが座り、その後ろが私の席だ。手元には進行台本と、カンペ用の白い紙が十数枚。
ガラスの向こうで、深町塔子さんがヘッドホンの片側を耳から外した。この人の癖だ。両耳を塞ぐと自分の声しか聞こえなくなるから、と以前言っていた。
深町塔子、四十七歳。声を張らない人である。
二十年この時間帯にいて、いまだに一度も相談者を怒鳴ったことがない。そのかわり、逃げ道だけは残さない。
「こんばんは。午前一時の手紙、今夜も始まります」
一通目は、就職して三年目の子の話。二通目は、母親の介護をめぐる姉妹の諍い。三通目は、二十年前に絶交した友人へ連絡するか迷っている人。四通目は、三十年勤めた会社を辞めるか迷っている男性の相談だった。
塔子さんはどれも丁寧に読んで、丁寧に返した。私はカンペを二回出した。どれも、いつもの仕事だった。
一時三十二分。
「今夜、最後の一通です。ラジオネーム、春を待つ男さん」
塔子さんの声で読まれると、その文章は、まるで別のものになった。
三十五歳、既婚。長くすれ違った妻。職場の、好きな女性。半年前から、隠れて会っていること。
妻を傷つけたくはありません、という一文。
声にすると、それは身勝手ではなく、誠実な人の苦悩に聞こえた。深町塔子の声は、そういう声だ。人の言葉から棘を抜いてしまう。
妻は、人の言葉にはいくらでも答えを作れるのに、僕の言葉には返事をしてくれません。
その一行が、電波に乗った。
台所で背中に投げられた言葉が、いま、日本中のどこかで誰かの枕元から流れている。
私は、手元の台本を見ていた。顔を上げなかった。上げれば、ガラスに映った自分と目が合う。
「……なあ、佐伯さん」
郡司さんが、トークバックのスイッチから指を離して言った。
「この相談、腹立たない?」
「立ちますね」
と、私は答えた。声は、思ったより普通に出た。
私は赤ペンで、印刷の余白に書いた。読み返すためではなく、自分の手を動かすためだった。
傷つけたくない、ではない。
悪者になりたくない、だ。
この文章には、書かれていないことが多すぎる。
好きになったのはいつなのか。妻とすれ違ったのが先か、その人を好きになったのが先か。妻と、一度でもきちんと話し合ったのか。
夫の文章には、「自然に」「気づいたら」「いつのまにか」という言葉が四回出てくる。
どれも、主語を消すための言葉だ。
塔子さんが、読み終えた。
「――というお便りです」
一拍、間が空いた。この人が置く間は、いつも少し長い。
「春を待つ男さん。あなたの文章は、とても読みやすいですね。読みやすすぎるくらい」
その言い方だけで、リスナーは何かが始まったことに気づく。
「読みやすい文章というのは、たいてい、書きたくないことが省いてあります。あなたの文章で、いつ、と書いてあるのは、その方と会いはじめた時期だけですね」
「では、奥様とすれ違いはじめたのは、いつでしょう。その方を好きになったのは、いつでしょう。どちらが先だったのかを、あなたは書いていません」
「そのあたりを、リスナーの皆さんはどうお読みになったでしょう。お便りをお待ちしています」
メールが、来た。
番組の受信箱は、読み上げが終わった直後から音を立てはじめた。画面を更新するたびに未読が増える。三分で八十通を超えた。深夜一時台の番組で、この数は異常だ。
私は片端から開いた。
三割は、読み上げられないものだった。
人格を殴るだけの言葉が並んでいる。それを読めば、リスナーは溜飲を下げるだろう。番組も盛り上がるだろう。
私は、その三割を全部落とした。
情けをかけたのではない。
罵倒は、相談者を安心させてしまうからだ。ここまで理不尽に責められるなら自分はそこまで悪くない、と思える逃げ道を、こちらから差し出すことになる。
途中で、私は自分の手が別のことを書きかけているのに気づいた。
――去年の十一月、奥さんが仕事を早く切り上げて帰った日のことを、覚えていますか。
書きかけて、ペンが止まった。
その日のことは、メールに一行も書かれていない。書かれていないということは、この番組の中には存在しないということだ。
私だけが知っている事実を電波に乗せた瞬間、私は構成作家ではなくなる。ただの、夫を殴りたい妻になる。
紙を丸めて、足元の屑籠に落とした。
二つ目の条件だった。まだ守れている、と思うことにした。
私が選んだのは、三通だった。
どれも、夫が書かなかったところだけを、正確に突いていた。
「ラジオネーム、麦茶のポットさん。四十代の方です」
塔子さんが読み上げる。
奥さんへ、寂しいと一度でも伝えましたか。
すれ違ったと書いていますが、あなたはその途中で、何をしましたか。
「続いて、ラジオネーム、深夜のトラックさん」
「好きな女性ができた」のは、奥さんと別れる前ですよね。
順番が逆です。あなたがしているのは選択ではなく、二つ持っている状態です。
内海さんが、笑わずにフェーダーを撫でた。
「三通目です。ラジオネーム、元・春を待っていた女さん」
塔子さんが、そこで少しだけ声を落とした。
あなたが誰を選ぶかという話ばかりですが、奥さんのほうにも、あなたを選ばない権利があるのではないでしょうか。
その権利のことを、あなたはまだ一度も書いていません。
「佐伯さん。このコーナー、もう八分押してる」
郡司さんが、時計から目を離さずに言った。
「延ばしますか」
「延ばしてください」
私が答えると、郡司さんは理由を訊かずに、後ろのコーナーを一本落とした。
読み終えて、塔子さんが顔を上げた。
ガラス越しに、こちらを見る。
この人が放送中に私を見るのは、着地点を訊いているときだけだ。
この相談を、どこへ持っていくのか。慰めて終わるのか。突き放すのか。それとも――と。
私は、白い紙を一枚引き寄せた。
油性ペンのキャップを外した手が、思ったより落ち着いていた。
一行だけ書いて、ガラスに向けて掲げる。
あなたが欲しいのは助言ではなく、許可です。
塔子さんの目が、その一行を撫でた。
それから、ヘッドホンを両耳にかけ直した。この人が両耳を塞ぐのは、自分の声を確かめたいときだ。
「春を待つ男さん」
深町塔子は、私の書いた一行を、そのまま読んだ。
「あなたが欲しいのは、助言ではありません。許可です」
スタジオの空気が、ひとつ下がった気がした。
「三百字あまりの文章のなかで、あなたは一度も、奥様に何を言われたかを書いていません。奥様が何と答えたかも、書いていない。奥様がどんな顔で黙っていたのかも」
「書いてあるのは、あなたが何を思ったかだけです。それは相談ではなく、申請に近い」
塔子さんは、そこで少し間を置いた。
「わたしは、あなたを責めません。人を好きになることを、誰も止められない。だから、はっきり申し上げます」
「あなたには、恋人を選ぶ自由があります」
その先を、この人は一段だけ、声を柔らかくして言った。
「けれど奥様にも、あなたを許さず、あなたのいない人生を選ぶ自由があります」
「どちらの自由も、同じ大きさです。あなたが決められるのは、片方だけです」
私が書いた一行が、深町塔子の声になって、うちの食器棚のあたりまで届いている。
構成作家の仕事は、たいていそこで終わる。書いた言葉がどこへ着地したのかを、私たちはふつう知らない。
今夜だけは、着地点を知っていた。
私は台本を見ていた。
喉の奥が痛かった。泣くつもりはなかったし、実際、泣かなかった。ここは職場で、私は今夜の五通目に責任がある人間だった。
曲に入るまで、あと四分。
次のコーナーの尺を確認しようとして、私は受信箱に戻った。
そこに、それが届いていた。
ラジオネーム、春を待つ男。
同じ人からの、二通目だった。送信元のアドレスも、一通目と同じだった。
厳しいご意見でしたが、おかげで正直に話す勇気が出ました。
深町さんのおっしゃるとおり、僕には彼女を選ぶ自由があるのだと思えました。
明日の朝、妻にすべて打ち明けて、彼女と生きていきます。
背中を押していただき、ありがとうございました。
私は、三度読んだ。
塔子さんは、自由を二つ並べて言った。この人が持って帰ったのは、片方だけだった。
妻に打ち明ける、ではない。
妻に打ち明けてもいいと、他人に言わせたのだ。
時間は、二分もなかった。
私は最後の紙を引き寄せて、ペンを走らせた。字は、いつもより大きくなった。
背中を押すことと、責任を引き受けることは違います。
ガラスに掲げる。
塔子さんが、こちらを見て、一度だけ小さくうなずいた。
「――いま、春を待つ男さんから、二通目が届きました」
塔子さんはそのメールを、書かれたとおりに読み上げた。省略も、皮肉も入れずに。
「ありがとうございます、と書いてくださいました。ですので、最後にひとつだけ」
息を吸う音が、マイクに乗った。
「背中を押すことと、責任を引き受けることは違います」
「わたしは今夜、あなたの背中を押していません。押せる人間は、この世にひとりもいません」
「明日の朝、あなたが何を話すにしても、それはあなたが決めたことです。どうか、それをラジオのせいにしないでください」
塔子さんは、少しだけ間を置いた。
「――曲です」
イントロが立ち上がって、ON AIRのランプが消えた。
私は最後まで、この相談者が自分の夫だとは言わなかった。
言えば、番組は復讐の道具になる。
それでも、この二時間でいちばん長かったのは、あの一行を書いた四秒間だった。
◇
午前三時三分。エンディングのジングルが止み、赤いランプが消えてから三分が経っていた。
深町塔子さんは、ブースから出てくると、まず水を飲む。ペットボトルの半分を一息で空けて、それから蓋を閉める。二十年やっている人の、体に染みついた手順だ。
「お疲れさま」
塔子さんは、私の隣のパイプ椅子に座った。郡司さんと内海さんは、もう次の番組の準備で部屋を出ている。
「佐伯さん」
「はい」
「今夜の言葉ね」
塔子さんは、私が最後に掲げた紙を見ていた。机の上に、裏返しに置いてある。
「いつものあなたより、近かったわ」
私は、意味が分からないふりができなかった。
この人の言うとおりだった。私がふだん書く言葉は、相談者から一歩引いた場所にある。そこに立たないと、全体が見えないからだ。
今夜のあの二行は、相談者のすぐ隣から書かれていた。
「……相談者、私の夫なんです」
言ってしまってから、自分の声が乾いているのに気づいた。
塔子さんは、驚いた顔をした。それは隠さなかった。
けれど、私の手を握ったりはしなかった。ひどい男ね、とも言わなかった。可哀想に、とも言わなかった。
しばらく黙って、それから、水のボトルの蓋をもう一度確かめるようにひねった。
「メールにない事実は、使わなかったのね」
「……はい」
「そう。でも、事実を足さないことと、公平であることは、同じじゃないわ」
私は、何も言えなかった。
塔子さんは立ち上がって、上着を取った。ドアの前で、一度だけ振り返る。
「じゃあ、放送は終わったけれど」
その先を、この人は少し優しく言った。
「あなたの回答は、まだね」
◇
家に着いたのは、四時半過ぎだった。
九月の四時半は、まだ暗い。マンションの外廊下の蛍光灯だけが白くて、その下を歩く自分の影が、ずいぶん濃く見えた。
鍵を回すと、リビングに明かりがついていた。
夫は、ソファに座っていた。
寝ていない顔をしている。足元に、スーツケースが一つ。自分でまとめたことは、詰め方を見ればわかった。角に丸めたネクタイが押し込まれている。この人は、昔からそういう詰め方をする。
明日の朝、妻にすべて打ち明けて、彼女と生きていきます。この人は、そう書いた。
深夜の「明日の朝」は、数時間後のことだ。
その朝が、もう来ていた。
「おかえり」
夫が、立ち上がった。
「真帆。聞いてほしい話がある」
私は、鞄を椅子の背に掛けた。それから、彼のほうを見た。
「聞いたわ」
「え」
「最初から最後まで、聞いた」
夫の口が、半分開いたまま止まった。
「あなたのメールを選んだのも」
私は言った。
「最後の回答を書いたのも、私だから」
部屋が、しんとした。冷蔵庫のモーターの音が、急に大きく聞こえた。
「……あの番組」
「『午前一時の手紙』。二か月前に、話したわ」
「聞いてない」
「聞いてないんじゃなくて、聞いていなかったのよ」
夫の顔から、血の気が引いていくのが分かった。それから、別のものが上ってきた。
「なんで止めなかった」
最初に出てきたのは、それだった。
謝罪ではなく、質問ですらなく、責める言葉だった。
「気づいてたなら、放送前に止められただろう。なんで読ませた」
「……」
「あれ、電波に乗ったんだぞ。全国だぞ。お前、俺を晒したのか」
「名前は出していない」
私は、静かに言った。
「会社も、部署も、相手の方のことも、一言も出していない。年齢と結婚年数だけよ。それはあなたが自分で書いた」
「マグカップの話をしただろう」
「あなたが書いたのよ」
夫が、言葉に詰まった。
足してはいない。
けれど、選んだのは私だ。三通を選び、二行を書いて、深町塔子の声で言わせた。
公平だったとは、もう言えない。
それでも、この人に言うべきことは変わらなかった。
「私が足したものは、一つもないわ。あなたが送ってきた文章に、書かれている範囲でだけ答えた。それは事実よ」
「……」
「もしあなたが晒されたと感じたなら、それは、あなたが書いた文章がそういう文章だったということよ」
夫は、しばらく黙っていた。
それから、思い出したように顔を上げた。
「……彼女のことは」
「え」
「あの子のことは、言ってないんだよな。会社も、名前も」
私は、この人の顔を見た。
六年連れ添った妻に不倫を知られた朝、いちばん先に確かめたのが、それだった。
「言っていないわ」
「そうか」
夫は、息を吐いた。心の底から安心した顔だった。
私がまだ一度も泣いていないことには、気づいていないようだった。
「なら、分かっただろう」
その声は、少し湿っていた。
「俺がどれだけ苦しかったか。この六年、俺がどんな気持ちで――」
「分かるわ」
私が言うと、夫は言葉を止めた。
嘘ではなかった。
私たちの結婚は、確かに冷えていた。私は夫に、寂しいと言わなかった。忙しいふりをした夜が何度もあった。台本の直しを膝に載せて、背中で返事をした夜もあった。人の言葉を整えるのが仕事なのに、自分の不満だけは、どうしても言葉にならなかった。
それは私の落ち度だ。認める。
「私も、あなたに言わなかった。それは本当に、私が悪かったと思ってる」
夫の肩から、ほんの少し力が抜けた。
この人は、ここで話が終わると思ったのだ。
「でもね」
私は、言った。
「分かることと、許すことは違うわ」
夫は、動かなかった。
驚いた顔でもなかった。困った顔だった。
この人は、たぶん、今夜のこの場面を何度も想像してきたのだと思う。妻が泣いて、行かないでと言って、それを振り切って出ていく自分。そういう筋書きの主役として、玄関に立つつもりだったのだ。
スーツケースは、足元にある。
なのに、この人はいつまでも動かなかった。
私は玄関へ行って、扉を開けた。
外の空気が入ってきた。朝の、まだ誰も使っていない空気だった。
「恋人を選ぶんでしょう」
夫が、こちらを見た。
「相談に答えたとおりよ。あなたが誰を選ぶかは、あなたの自由」
私は、扉を押さえたまま言った。
「そして私は、あなたのいない人生を選ぶ」
夫は、何か言おうとした。名前を呼ぼうとしたのかもしれない。
けれど言葉にはせず、一度だけ、部屋の奥を見た。
私は、最後に、この人がいちばん欲しがっていた言葉を返した。
「背中を押してほしかったんでしょう」
六年ぶんの息を、吸った。
「押してあげる。私の人生から出ていく方向へ」
◇
扉が閉まって、鍵をかけて、それから私は床に座り込んで泣いた。
平然とは終われなかった。六年が無価値だったわけではないからだ。
この部屋のカーテンは二人で選んだし、そこの傷は引っ越しのときにソファをぶつけたものだし、雨の日に駅まで迎えに来てもらったことも、確かにあった。無価値だったことにすれば楽になれるけれど、私はそれを、自分の仕事として許せなかった。
なかったことにするのは、言葉を扱う人間が、いちばんしてはいけないことだ。
泣きやんだのは、外がすっかり明るくなってからだった。
私は台所に立って、食器棚を開けた。
青いマグカップを二つ、流しの前に並べる。持ち手の太いほうが、私のだ。
細いほうを、玄関に置いてあった段ボール箱に入れた。新聞紙で包んでから入れた。割れないように包む自分に、少しだけ笑った。
残ったほうに、新しく淹れたコーヒーを注いだ。
それから、テーブルに白い紙を一枚置いた。
番組で使う、カンペ用の紙だった。鞄に何枚か入れっぱなしになっていたものだ。
私は十年間、この紙に、他人の言葉を書いてきた。
ペンを持って、一行だけ書いた。
私は、寂しかった。
誰かのための問いでも、誰かに読ませる答えでもなかった。
それが、私が生まれて初めて書いた、自分への回答だった。
◇
半年が過ぎた。
離婚は成立した。手続きはほとんど弁護士を通したので、あの朝以来、夫とは口をきいていない。
あの人とあの女性がどうなったのかは、知らない。共通の知り合いから聞きかけて、途中で断った。
知りたくないのではなく、もう、私の担当ではないからだ。
春に、私は一枚の企画書を出した。
『言えなかった手紙』。
毎月一度、『午前一時の手紙』終了直後に、公式配信チャンネルで五分間だけ生配信する。
出演するのは、これまで誰かの言葉を運ぶ側にいた人たちだ。自分で書いた短い文章を、自分の声で読む。整えられた言葉は遠くまで届くけれど、整える前の言葉にしか入っていないものがある。
塔子さんは、最後まで読んで、一言だけ訊いた。
「第一回は、誰?」
答えは、決まっていた。
「……私がやります」
「そう」
塔子さんは、それを机に置いた。
「じゃあ、キューはわたしが出すわ」
「深町さん。私、たぶん、うまく読めません」
「知ってる」
塔子さんは、鞄を肩にかけた。
「うまい人なら、いくらでもいるのよ」
初回は、深夜のスタジオから生で配信した。
私は、ブースにいた。
十年間、ガラスのこちら側で人の言葉を書いてきて、向こう側に座るのは初めてだった。ヘッドホンをつけると、自分の呼吸の音が聞こえた。塔子さんが片耳を外す理由が、初めて分かった。
ガラスの向こうで、塔子さんが指を三本立てる。
三。
二。
一。
赤いランプが点いた。
私は、持ってきた原稿を一度だけ見た。
三日かけて書いて、七回書き直した五分ぶんの原稿だった。よくできていた。よくできすぎていた。
人に届く長さも、間の取り方も、十年やっていれば分かる。けれどその原稿のどこにも、あの朝の一行は残っていなかった。書き直すたびに、私はそれを削っていた。癖というのは、そういうものだ。
私は、それを裏返して机に伏せた。
息を吸う。
「こんばんは。今夜は、誰かに答えを求める前に、自分の気持ちを言葉にすることについて話します」
喉が震えた。
これは私の声で、震えているのも、私だった。
赤いランプが点いている。
今度は、私の言葉を話す番だった。




