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彼女はもう、歌わない

掲載日:2026/02/02

その日、私はいつものように朝のゴミ捨てに向かっていた。マンションの共用廊下を抜けると、隣の敷地内で作業している引っ越し業者の姿が目に飛び込んできた。


「あれ……」


 首をひねった。なぜなら、その家にはすでに高齢のご夫婦が暮らしているはずだったからだ。新築とも思えない。何か事情があって家族が増えたのか、あるいは単なる家具の入れ替え作業なのか。

 その答えは、午後の陽射しが西に傾き始めた頃に訪れた。


「あ、こんちは」


 エントランスで出会った彼女は、スーパーの袋を抱えていた。その無造作な口調に、どこか懐かしさを感じた。だが、記憶を辿ろうとするより早く、彼女のほうから問いかけがあった。


「まさか……〇〇くん?」


 名前を呼ばれて、ハッと息を呑んだ。そうだ。この声色は確かに――


「さゆ……?」


 私が搾り出すように応えると、彼女は小さく笑みを浮かべた。それは、かつて私の幼稚園バス亭で毎朝見せる、ほころびるような笑顔そのものだった。

 驚きと共に、奇妙な感慨が胸を満たした。テレビ画面の向こう側に存在していた偶像が、今、眼前でレジ袋の持ち手を握りしめている。ジャージの上に羽織った薄手のパーカーが、肩口から覗く細い鎖骨を際立たせていた。


「久し振り。帰ってきたばかりなの」

「そっか……」


 言葉を選ぶ余裕もなく、曖昧に相槌を打った。すぐに自分の不甲斐なさに気づいて、顔が火照るのが分かった。こんな時、どうすればいいだろう。『大活躍だったね』とか『すごいね』とか――。しかし、彼女の表情に翳りのようなものが走ったので、咄嗟に言葉を変えた。


「なんだか……落ち着いたね」


我ながら陳腐極まりないと心の中で舌打ちした。けれど彼女は、かすかに眉尻を下げただけだった。次の瞬間、意外なほど朗らかな調子で答えてくれた。


「まあね。東京って、本当に忙しい街だったから」


 そう言って、彼女は自嘲気味に笑った。その表情には、以前の面影を残しつつも、確かな成長が刻まれていた。まるで長い旅路を経てきた旅人のような――そんな風格が漂っていた。

 その後、何度か通りで顔を合わせた。時にはコンビニ帰り、時には猫と戯れている最中、また別の時は、近所のお年寄りと一緒に道端の草花を眺めていたり。どの場面でも、彼女は素の自分でいた。派手なメイクも豪奢なファッションもない。それでも、彼女の佇まいには独特の透明感があった。

 ある晴れ渡った休日の昼下がり、公園のベンチで並んで座りながら、ぽつりぽつりと言葉を交わす機会が訪れた。彼女の膝には読みかけの文庫本があり、ページをめくる指先は真珠のように白く艶やかだった。


「歌、まだ好き?」


 唐突に投げられた質問に、内心ドキリとした。幼い頃、我が家に遊びに来た時に彼女が即興で作った歌を、私はよく耳にしていた。明るくて優しくて、それでいてどこか儚い調べ。それを思い出して、私は小さく頷いた。


「うん。やっぱり音楽、好きみたい」

「よかった」


彼女は眼差しを空に移した。木漏れ日が揺れる梢の上で、鳥たちが囁き合っている。


「私ね、ステージの上の世界を全部否定してるわけじゃないんだ」

「……でも、疲れた?」


恐る恐る訊ねると、彼女は一瞬瞼を伏せてから、ゆっくりと首肯した。


「うん。スポットライトの外に広がる世界が、すごく恋しくなっちゃった」


それ以上の説明はなかった。私も敢えて追及しなかった。おそらく彼女の中には、いくつもの物語が凝縮されていたのだろう。成功の喜び、挫折の痛み、孤独の苦味――そしてきっと、再生への小さな希望も。

季節は移ろい、秋風が冷たく頬を撫で始めたある夜、マンションのエレベーターの中で偶然顔を合わせた。彼女は薄手のショールを羽織り、腕いっぱいに古紙回収用の段ボール箱を抱えていた。


「大丈夫? 手伝おうか」


声をかけると、彼女は一瞬逡巡するような素振りを見せたが、すぐににこやかに頷いた。


「ありがと。でも、これくらいなら平気」


エレベーターの扉が閉まる寸前、彼女はふと思い立ったように言った。


「ねぇ、もし良かったら――今度、うちでお茶しない?」


ドアが完全に閉ざされるまで、私はただ茫然としてしまった。あの頃と同じ誘い方だった。幼稚園の制服を着て、ランドセルを背負って、何度もお互いの家を行き来していたあの日々が蘇った。

約束の時間に玄関のチャイムを鳴らすと、彼女は温かな笑顔で迎えてくれた。居間に通されると、古いアルバムや手作りの焼きそばなどがテーブルの上に並んでいた。


「最近は料理ばっかりしてるんだ」


少し照れ臭そうに告げる彼女の瞳に、純粋な喜びが宿っていることに気づいた。私が箸をつけると、彼女は心配そうな、でも期待に満ちた眼差しを注いでいた。


「美味しいよ」


素直に賞賛すると、彼女は胸の前で小さく拍手してみせた。その仕種があまりに無防備で、私は思わず吹き出しそうになった。

時間が経つにつれ、私たちの間に流れる空気はどんどん柔らかくなっていった。学生時代の思い出話、最近読んだ本のこと、次に試したい料理のレシピなど、他愛もない話を重ねるうちに、気づけば窓の外は深い藍色に染まっていた。

別れ際、彼女は玄関先まで見送ってくれた。ドアノブに手をかけたところで、ふと思いついたように言った。


「今日はありがとう。なんか、すごくホッとした」


その声音には、確かな温度があった。きっと彼女にとって、ここは紛れもなく故郷なのだ。どんなに遠くに行っても、どれほど華やかな舞台を歩いていても、最後に戻るべき場所は変わらない――そんな確信が伝わってきた。


「こちらこそ」


短く返事して、階段を降りた。足音が一段一段響くたびに、心臓の鼓動が落ち着いていくのを感じた。明日からもまた、それぞれの日常が続いていく。特別な出来事は起きないかもしれない。それでも、きっと大丈夫だ。私たちは、確かにここに生きて繋がっているのだから。


部屋に戻って窓を開けると、涼やかな夜風が入り込んできた。遠くで犬の吠える声がする。何処かで虫の音が鳴り始めている。平凡だけれど、かけがえのない時間だった。

隣室の窓辺に小さな明かりが灯っているのが見えた。本を読んでいるのか、何か書き物をしているのか。いずれにしても、あの光の中で彼女は今、確かに生きている。

私は思わず口元を緩めた。アイドルのさゆは、もういない。だけど、一人の女性であるさゆは、こんなにも近くにいてくれる。それで十分だと思った。


いつか、また彼女の歌声を聞く機会があるかもしれない。でも、なくても構わない。大切なのは、彼女が今ここで呼吸している事実なのだから。

夜が更けていく。眠りにつく前に、私はペンを取り出した。さっきまで過ごした時間を、丁寧に言葉にしておくために。未来の自分が読み返した時、今夜のこの感覚を、決して忘れないようにするために――。

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