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後編

2021年12月某日

修学旅行当日。

この日、朝霞市立666中学校の二年生は旅行先である京都へ向かうべく、大宮駅のホームいた。滑り込んできた新幹線を前に、生徒たちはそれぞれ決められたグループごとに整列している。新幹線に乗り込むと、由美、亜美、神奈、月の四人は指定されたボックス席を探し、向かい合う形で座席に腰を下ろした。由美と亜美はいつも通り並んで座り、神奈と月はその向かい側。視線を交わすことはあるものの、言葉はなかなか出てこない。

 神奈と月にとって、亜美は「由美といつも一緒にいるクラスメイト」という認識以上のものはなかった。挨拶を交わす程度で、改まって話をした記憶はほとんどない。亜美もまた、二人の様子をちらりと伺いながら、少し背筋を伸ばして座っている。

 やがて新幹線が動き出し、車内アナウンスが流れた。その音に背中を押されるように、神奈が軽く咳払いをする。


「えっと……改めてだけど、同じグループだね。よろしく」


 ぎこちないながらもはっきりした声だった。


「あ、うん。こちらこそ……よろしくお願いします」


最初に応じたのは亜美だった。少し硬い口調だが、きちんと神奈の目を見ている。


「よろしく。なんか……緊張するね」


月も苦笑いを浮かべながら続けると、由美が小さく笑った。


「みんな静かだね。新幹線の中だから、余計そう感じるのかな?」


その一言で、張りつめていた空気がほんの少し緩む。


「亜美さんて新幹線よく乗るの?」


神奈が自然を装って話題を振る。


「ううん。乗ったのは小さい頃に一回だけかな」

「そっか。私は大会でたまに使うから、ちょっと慣れてるかも」


 そう言って神奈が笑うと、亜美は意外そうに目を瞬かせた。


「大会……あ、空手の?」

「そうそう」

「すごいよね。由美から少し聞いたことある」


その後、小一時間ほどで一行は東京駅で東海道・山陽新幹線へと乗り換えた。発車してしばらくすると、車窓の向こうに富士山の姿が現れ、車内のあちこちから思わず声が上がる。歓声が少し大きくなりすぎて、前方の席から先生に軽く注意される一幕もあったが、それさえも旅の高揚感の一部のようだった。

その頃には四人はだいぶ打ち解け、会話のぎこちなさは感じられなくなった。


「亜美さんは、修学旅行で一番楽しみにしてるのは何?」


月が尋ねる。


「え……えっと、自由行動かな。写真もいっぱい撮りたいし」

「わかる。あと、食べ歩きとかね」

「それそれ」


 亜美が頷くと、由美は二人のやりとりにホッとしたように座り直した。


「じゃあ、自由行動の時はいっぱい回ろうね」


今回の修学旅行、一日目は金閣寺や二条城。二日目は清水寺や伏見稲荷などを見学し、三日目が自由行動に充てられている。

最初の二日間は神社仏閣巡りが主なので、月以外のメンバーはこれら定番スポットには興味を示していないようだ。


「私は伏見稲荷の千本鳥居は楽しみなんだよね。見た目にも幻想的だし千本鳥居は異世界に繋がっていて、何人もの人が消えるなんて都市伝説もあるんだよ」

「へぇーっ! なにそれ、面白そうだね」


月の話に亜美は意外にも目を輝かせた。それに気をよくした月は話を続ける。


「それとさ…… これから通過する新浜松駅、そこから発車した普通列車が実在しない『きさらぎ駅』に行ったって言う話もあるから、この修学旅行でちょっとした聖地巡礼もできそうじゃない?」

「『きさらぎ駅』は知ってる。映画にもなってたし、あの話はドキワクだったわ。……っていうか、ルナさんて何でも知っているんだね」

「何でもはいらないよ。知っていることだけ……」


その返しに神奈と由美はクスリとわらった。


「それにしても亜美さんがこういう話好きだなんて意外だね」

「うん。お兄ちゃんが怪談とか都市伝説が好きで、一緒に見ているうちに好きになったんだ」

「へぇ…… お兄さんが……」


感心したように月があいづちを打つと、隣の神奈がニヤニヤした顔を向けてきた。


「聖地巡礼もいいけど、ルナちゃんは恋愛成就のお守り買いたいんじゃないのかな?」

「……」


わざとらしい口調で横槍を入れる神奈を月はジト目で見る。


「えっ、ルナさん…… もう成就しているでしょ?」

「私もルナさんと石山君ってもう付き合っているのかと思った」


対面の二人からそんな視線を受けて、月の顔は熱くなる。その反応に神奈はますます顔を緩める。


「可愛いねぇ…… ルナちゃんは乙女ですにゃあー」

「うっ、うるさい……」


最初は短く、探るような会話だったものが、次第に相槌が増え、このように冗談が飛び交い笑顔が混じってきた。

 このグループで過ごす数日間が楽しいものになる――そんな予感が、静かに共有され始める。


 京都駅――。

 新幹線を降りてホームに立った神奈は、両腕を上げて大きく伸びをした。


「残念。きさらぎ駅には行けなかったね」


 そう呟いて、隣にいる月に小さく微笑みかける。


「神奈、きさらぎ駅に行きたかったのか?」


 月の問いに、神奈は人差し指を口元に添え、少し考えるように空を見上げた。


「うーん、別に行きたいってほどじゃないけど……。みんなでそんな“異世界”を見られたら、それはそれで思い出になるかなって」

「戻ってこられる前提なのがすごいな」


 月は半ば呆れたようにそう返した。

 一行はそのまま駅を出て、待機していた観光バスへと乗り込む。以降は、事前に組まれたタイムスケジュールに従い、名所旧跡を順に巡っていった。


 二条城では、月だけが歩みを緩め、廊下や障壁画に視線を巡らせる。鶯張りの床がかすかに鳴るたびに足を止め、その仕組みや意味を考えるように、当時の情景を思い描いている様子だった。写真を撮るよりも、目に映るものを静かに受け止めようとしている。

 一方、由美と亜美は説明書きを流し読みしながら順路を進み、神奈もまた建物の雰囲気を楽しむ程度で、深く立ち止まることはなかった。


 金閣寺では、池に映る金色の舎利殿を前に月がじっと佇み、光の加減で変わる姿を見つめていた。……が、他の三人は一通り景色を眺めると写真を撮り、次へ進む空気に切り替わる。

 同じ場所にいながら、月だけが歴史の奥へ踏み込み、他の三人は目に映った景色を素通りするような温度差。しかし月はそれを気にすることもなくこの場を堪能していた。


 一日目の日程を終え宿泊する旅館へ向かうバスの中、普段は学校と自宅を往復するだけの生活が多い文化部や帰宅部の生徒たちは、移動の疲れもあってか、バスの座席でうとうとと眠り込む者の姿も目立つようになっていた。隣の座席でも、亜美は由美の肩に頭を預けて寝息を立てている。


「はぁ…… もう初日終了かぁ」


神奈は残念そうに呟いて、窓の外へ目を向けた。その姿を眺める月は、窓ガラスの反射越しに神奈と目が合う。


「まぁ、これから夕飯食べたり、お風呂入ったり、寝るまではまだあるけどね」


月がそういうと神奈はイタズラっぽい目を輝かせた。


「そだね。お風呂……楽しみだよね」


その言葉に月は目を見開いて顔を赤らめる。

女体化から三ヶ月――

女子更衣室や女子トイレ。これまでは禁足地だった場所にも何とか入れるようになってきた月。しかし女子更衣室で目にするのはせいぜいクラスメイトの下着姿。女子トイレとてお手洗いの音を耳にするに過ぎない。だがお風呂というと訳が違う。一糸纏わぬ姿を目の当たりにすることになるのだ。


「つか、何でお前はそんなに余裕あるんだよ。俺に裸見られても何とも思わないのか?」

「まぁ、私にとって月はもう同性の友人だからね。トイレもお風呂も一緒に入れるよ」

「トイレは普通一緒に入らないけどな……」


神奈にそう言われても、月の不安げな顔はそのままだ。それに月が目にするのは神奈の裸体だけではない。

由美の全裸を見て平静でいられるのか?

そんな事が頭をよぎり月の鼓動は次第に早くなっていく。


 旅館に到着すると、各グループはそれぞれの部屋に荷物を置きに入った。夕食までは三十分ほどあり、思った以上に手持ち無沙汰な時間になる。

 部屋に入った四人は何となくテレビをつけた。画面には見慣れた埼玉の放送とは違う番組が流れてきて、遠くまで来た実感が湧いてくる。とはいえ、特別見たいものがあるわけでもない。月たちはチャンネルを一通り確認したあと、すぐに電源を切った。せっかくの修学旅行だ。画面を眺めるより、同じ部屋で過ごす時間を大切にしたかった。

 月は卓上に用意されていた湯呑みに、四人分のお茶を注ぎながら室内を見回す。神奈はお風呂に行く準備を始めており、由美と亜美は旅行カバンを開いて中身を整えていた。


「今日の夕飯、何が出るんだろうね?」


 タオルや着替えをまとめ終えた神奈が、何気なく口にする。


「修学旅行のご飯って、そこまで豪華じゃないんじゃない?」


 月がそう返すと、神奈はお腹に手を当てて小さく息を吐いた。


「お昼早かったから、もうお腹空いちゃってさ。途中で何か買えばよかったかな」

「もうすぐご飯だし、我慢しよ」


 由美がそう言ったちょうどそのとき、廊下の向こうでクラスメイトたちの賑やかな声が通り過ぎていった。


「もうみんな行き始めてるみたいだね。そろそろ私たちも行こうか」


 神奈はそう言って部屋の鍵を手に取り、備え付けのスリッパに履き替えて、残りの三人を待つ。


 夕食会場は大きな宴会場だった。到着すると、ずらりと並んだお膳の間を、中居さんたちが忙しそうに行き来している。用意されていたのは、豚肉の西京焼きに味噌汁、サラダやおひたしの小鉢、そして杏仁豆腐。


(まぁ、修学旅行ならこんなだよな)


 月がお膳の料理を見ながら自分たちの席へ向かって歩いていると、浴衣姿に着替えた石山と、ふと目が合った。石山は「よう!」と声をかけたあと、月の耳元で小声で話しかけた。


「あの二人とはうまくやれてるか?」


石山の心配事はやはりそれだろう。

由美とは僅かながら仲良くなっている神奈と月だったが、殆ど初絡みといっていい亜美と楽しく過ごしているのか?

その二人とのグループを提案した手前、その行末を気にするのは当然なのかもしれない。


「まぁ、結構仲良くできてるよ。特に神奈と亜美さんは相性いいみたいだね」


月がそういうと石山は安堵の表情を浮かべる。


「じゃああとはお前と由美の仲が進展するのを願うだけだな」

「進展って言ってもな。女の身体じゃ友達以上の関係になるのは無理だろ」


月は苦笑いを浮かべ答えた。


「まぁ、進展云々はともかくとして、楽しい思い出ができればいいんじゃねえか。

これから一緒に風呂入って、同じ部屋で一夜を共にする訳だし……」

「なんか、お前がいうといやらしく聞こえるな」


月がそういうと石山は笑みを浮かべながら自分のグループへと戻っていった。


 食事が始まると神奈はものすごい勢いで、お膳の料理を食べすすめていった。その迫力に圧倒されながらその食べっぷりを眺めていた月だったが、おひたしを一切れ口に運んだ後から月の箸は止まっていた。そして神奈にそっと西京焼きの皿を差し出す。


「神奈、よかったらこれ食べてくれない?」


そんな月に神奈は不思議そうな目をむける。


「えっ、食べないの? 美味しいよ、それ……」


その言葉に月は首を横に振る。


「なんかちょっと調子悪くてさ。ずっと乗り物乗ってたらから酔ったのかな?」


そう言って微笑む月の膳は殆ど手が付けられていない。


「そう…… だったら貰うけど、大丈夫?」


神奈は心配そうに月の顔をみる。


「うん。お風呂入ればスッキリするんじゃないかな」


月は他の料理も神奈に食べてもらい何とか全ての器を空にした。


部屋に戻ると神奈は座布団に座ると、お腹をさすりながら大きく息を吐いた。


「ふぅ…… お腹一杯…… もう何も食べられない」

「神奈さん、ご飯お代わりした上に、ルナさんのも食べてたからね」


由美はそう言いながら、風呂の準備を進めている。そして月はそんな二人の会話を黙って聞いている。いつもより言葉数の少ない月に違和感を感じた神奈は、月の方に顔を向けた。


「ルナ…… 大丈夫? なんか顔色悪いけど……」

「ああ……うん」


月はそのまま視線もかえず返事をする。

そして月は深いため息をつくと、神奈に顔を向ける。


「神奈ごめん、私やっぱり調子悪いみたいだから、部屋のシャワーだけにする。

悪いけどお風呂三人で行ってきて……」


月は苦笑いを浮かべ言った。


 一時間後、大浴場から戻った三人が部屋に入ると、月は髪をドライヤーで乾かしながらスマホをいじっていた。表情は、風呂へ行く前よりもいくらか良くなったように見える。


「ルナさん、体調はどう?」


 由美が気遣うように声をかける。


「うん。さっきよりはだいぶ楽かな」


そう答えた月の額に、神奈がそっと手のひらを当てた。


「熱はなさそうね。でも明日も移動が多いし、今日は早めに休んだほうがよさそう」

「そうだね……私もちょっと疲れたし、もう寝たいかも」


 由美は頷き、そして亜美と一緒にテーブルの上の湯呑みを片付け始める。神奈はテーブルを壁際へ寄せ、押し入れから布団を取り出して手際よく敷いていった。

 月は神奈と亜美に挟まれる形で布団に入り、掛け布団を胸元まで引き上げる。


 時刻は二十時半。廊下の向こうからは、まだ賑やかな声が聞こえてくるが、月たちの部屋は早々に明かりを落とし、静かな夜を迎えた。

 床に入って一時間、月の両隣からは規則正しい寝息が聞こえ始める。さっきまでの体調不良が回復してくると、月の耳に届く可愛らしい寝息は月の睡眠を妨げる。だが月が欲しい寝息は神奈のでも亜美のでもない。目を閉じて、亜美の布団越しにあるであろう由美の寝息を探し息を顰め聞き耳を立てる。


(……)


(!!!)


(見つけた!!)


微かに聞こえる遠い音色。月の鼓動は高鳴り息づかいが荒くなる。


(かっ、可愛い……)


自分の息づかいが邪魔。

口元に掛け布団を押し当て微かな音に集中する。……が、それでも荒い息づかいは月の耳へと入ってくる。


(あれ? ……これ、俺のじゃないな)


音の方向を探るべく仰向けのまま聴覚に神経を集中する。


(神奈ではない…… となると……)


月は頭を静かに右に傾けて薄目を開ける。目の前にあったのは激しい息づかいをしながら押し殺すような嗚咽を漏らす亜美。掛け布団は小刻みに動いている。


(あ……)


体調が悪いのかと、月が声を掛けようとしたとき、布団の中で月の服が引っ張られるのを感じた。引っ張ったのは神奈。

寝返りを打つふりをしながら左側に体を向けると、そこには目を閉じた神奈の顔があった。神奈は静かに目を開けると人差し指を口元に当てる。そうしている間も背中越しに亜美の激しい吐息が聞こえる。月はごくりと唾を飲み込み再び右へと向き直った。

 そこにみたのは艶めかしく動く肢体と艶っぽい表情。「これが同級生なのか?」と思うほどの光景に月の身体が熱くなるのを感じる。小さな嗚咽はいつの間にか喘ぎ声に変わり、掛け布団は大きく揺れている。


「お、お兄ちゃん……」


亜美の口からそう溢れると、身体はガクガクと震え、激しかった息づかいが小さくなっていった。

月は目を閉じたまま未だ治らない鼓動を悟られないように、息を整え胸に手を置いた。後ろから聞こえる神奈の乱れた息も次第に落ち着いてきた。そして由美の寝息が再び月の耳に届きはじめる。


(隣であんな声がしてるのに起きないなんて……)


月はこの状況でも眠り続ける由美に感心しながら、今度こそ眠りにつこうと掛け布団に顔を埋めた。……とはいえ、このような出来事で眠気は吹き飛び、眠りに落ちる気配すら感じない。


それから一時間……

時刻は23時を過ぎているであろう。

廊下や隣室からは何の音も聞こえてこない。空調室の音だろうか?「ヴゥーン」という音が、どこからか聞こえる。

ようやく月の意識が落ちかけたとき。


「あっ……んんっ……」


再び亜美の布団がモゾモゾと動きだし、またしても亜美の甘い吐息が聞こえ始めた。


(だ、第二ラウンド!?)


そこから暫く、悶々とした時間を過ごし月が眠りにつけたのは4時を過ぎた頃だった。



 朝6時半――

 枕の下に忍ばせていたスマホが、目覚まし代わりの微かなバイブ音を伝えてきた。月は周囲を気遣い、すぐに画面をタップして振動を止める。すると少し遅れて、背中側から布団がかすかに擦れる音がした。神奈が寝返りを打ったらしく、もぞもぞと身じろぎしているのが伝わってくる。

 数秒後、手元のスマホ画面が淡く光った。LINEの通知だ。修学旅行中はスマホの持ち込みが禁止されているため、月は着信音もバイブもすべてオフにして、通知は画面表示だけに限定していた。

 表示された送信者は神奈。ほんのすぐ背後にいるはずの相手から送られてきたメッセージに、月は振り返りたい衝動を抑えながら、静かに画面を見つめた。


(神奈)月、おはよう


(月)おはよう

   どう? 眠れた?


(神奈)全然……

   昨日、凄かったね


(月)うん。隣であんな声出されたら寝れないよ


(神奈)まぁね。

   でも由美ちゃんはずっとスヤってたみたいだね


月の中身は男。

そして神奈は女の子が好き――

そのような事から女子のアノ声にこの二人が過剰に反応して眠りにつけなかったのかもしれない。

月がそんな事を考えていると、またも神奈からのメッセージが届く。


(神奈)ヤバい…… 私、かなり濡れてる……


月は神奈のメッセージにドキリとする。


(月)おい。そんな事、男の俺に言うか?


(神奈)女の子同士なんだからいいでしょ


(月)同性でもそんな話、恥ずかしいんだけど……


昨日から月の心拍数は乱高下している。

もしかしたらこの修学旅行中にショックで倒れてしまうのでは?

そんな思いが頭を過ぎると、またもLINEの通知が表示される。


(神奈)……というか、月は大丈夫だったの?


そのメッセージを読んだ直後、月は下着の上から触ってみた。


(月)いわれてみれば、股間が湿っぽい……


(神奈)股間いうな!


次のメッセージを打ち込んでいた指先が、ふと止まった。下腹部に走る奇妙な違和感。それは、今まで経験したことのない、どこかひやりとした不快さだった。月は弾かれたように布団を抜け出すと、足早に部屋のトイレへと駆け込んだ。


「……ルナさん、どうしたんだろ?」


眠そうな由美の声。

布団と脇を慌てて通り過ぎる月の気配に、由美は目を覚ましたようだ。


「さあ……」


神奈と由美は上体を起こし、二人は顔を見合わせ不思議そうに小首を傾げる。ふと神奈がトイレの方へ視線を向けると、わずかに開いたドアの隙間から、月が震える手でこちらを招いているのが見えた。

 二人はまだ眠っている亜美を起こさないようそっと布団を抜け出した。月の入ったドアを開けると、そこには涙を溜めて真っ青な顔をした月が、便座に腰掛けたまま二人を見上げていた。


「どうしたの? 体調悪い?」

「あの……パンツの中が、なんだか凄いことになっていて……」


消え入るような月の声に、神奈は不思議そうに眉を寄せる。月は神奈を個室の中へと招き入れると、意を決したように、彼女にだけ見えるよう下着をずらした。

そこには、鮮やかな赤が広がっていた。


「あらら……生理だね」


神奈が事も無げに言うと、月はぱちくりと目を丸くして彼女の顔を凝視した。


「もしかして、初めて?」

「……っ、……」


月は声も出せない様子で、こくり、こくりと何度も頷いた。


「じゃあ、生理用品なんて用意してないわよね?」

「全く、ございません……」

(何故敬語?)


あまりの動揺ぶりに、神奈は思わず苦笑いを浮かべた。


「……と言っても、私もそんなに持ってきてないのよね」


神奈は困ったように、後ろで様子を伺っていた由美を振り返った。


「由美ちゃん、ナプキンってどれくらい持ってる?」

「ええと……三つくらいかな」

「私も予定日までだいぶあったから、二つしかないの」


神奈は小さく息を吐くと、不安そうに自分を見つめる月を安心させるように微笑んだ。


「とりあえず、私のを使って。でも、それだけじゃ足りないから、あとで女性の先生にお願いして買ってきてもらうか――」


神奈が言葉を続けようとしたその時、パタパタと力のない足音が近づいてきた。


「んぅ……みんなして、こんなところで何してるの……?」


目をこすりながら現れたのは、眠りから覚めたばかりの亜美だった。その姿を見た瞬間、月と神奈の脳裏に、昨夜耳にした彼女の甘い吐息や、火照った艶やかな表情が鮮明に蘇る。二人は気まずさに、思わず同時に視線を泳がせてしまった。


「あ、ああ、亜美。実はね……ルナさん、生理が来ちゃったみたいなの。それで、ナプキンの予備を持っていないかと思って」


由美が少し上ずった声で尋ねると、亜美はまだ寝ぼけた様子で、とろんとした目を向けた。


「うーん……ナプキンはないけれど、タンポンならあるわよ……」


その答えに、神奈は困ったような、それでいておかしそうな苦笑いを浮かべた。


「そ、それはちょっと難しいんじゃないかなぁ」


 その後、神奈は戸惑う月に優しくナプキンの使いかたを教え、なんとか装着を終えさせた。初めて触れるゴワゴワとした異物感に、月は落ち着かない様子で、どこかぎこちない足取りで部屋へと戻ってきた。

 月は、おずおずと自分の布団の上へ腰を下ろす。股の間に挟まった不慣れな感触がどうしても気になり、ぎこちない動作になってしまう。


「ルナ、どう?」

「うーん、お腹痛いのとちょっと股間が気持ち悪い。あとは胸が張ってる感じするかな」


そう言って布団にへたれこむ。


「こんな時に始まらなくても……」


力なく月は呟いた。


「でもまぁ、旅館にいる時でよかったわよ。出先だったら大変だったわ」


神奈は月に優しく微笑んだ。

そうしていると廊下の方から大勢の話し声が通り過ぎていくのが聞こえる。神奈は布団に置いていたスマホを拾い上げると、時間は8時になろうとしていた。


「ヤバい! 朝食の時間だよ。早く行かないと……」


四人は急いで布団を畳んで、着替えを済ませると、昨日夕食をとった宴会場へと向かって行った。


「ルナ、おはよう」


石山の能天気な声が、まだ重い体を引きずっている月の鼓膜を叩く。


「……お、おう……」


月は生返事で応えた。いつものキレがない。石山は不思議そうに眉を寄せ、月の顔を覗き込んできた。


「なんだよ、どうした? 体調悪いのか?」

「……いや、まぁ……」


気心の知れた石山とはいえ、自分の身に起こった女性特有の生理現象を語れるはずもない。月は曖昧に言葉を濁すと、逃げるように神奈たちの待つ席へと向かった。

朝食を終えると一行は、一旦各自の部屋に戻って準備をして旅館前に待機していたバスへと乗り込んだ。


 修学旅行二日目――

 京都の街は、容赦ない徒歩移動の連続だった。

 清水寺の「清水の舞台」から絶景を眺めても、心にあるのは「漏れていないか」という一点のみ。音羽の滝で水を飲む列に並んでいる間も、腰に纏わりつくような鈍痛がじわじわと体力を削っていく。

 続いて訪れた伏見稲荷大社では、どこまでも続く千本鳥居の朱色に、今朝の鮮血を思い出して少しだけ遠い目になった。石山が「お、映えスポットじゃん!」とはしゃいで階段を駆け上がる背中を見ながら、月はひたすら心の中で唱える。


(今日を……今日さえ乗り切れば、明日は自由行動……)


この自由にトイレも行けないコースとスケジュールに不安を抱える月は、気力を振り絞り、なんとか行程を完遂した。

 旅館に戻り夕食を終え、ようやく部屋に戻ると、月は糸が切れた人形のように布団へと身体を投げ出した。


もう一歩も動きたくない。


そんな月の無防備な様子に、由美がハッとした声を上げた。


「ルナさん、ちょっと待って。

血が漏れたら大変。お尻のところにバスタオルを敷いた方がいいわ」


その言葉に、月の身体がピクリと跳ねた。

――忘れていた。今朝の、あの惨憺たるパンツの光景。もしこの白いシーツを、あの鮮やかな赤で染め上げてしまったら――。

想像しただけで、顔面が蒼白になる。


「う、うん……分かった……ありがとう」


月は重い腰を上げ、最悪の事態を回避すべく、旅館備え付けのバスタオルに自宅から持って来たバスタオルを重ねる。神奈が他のグループの友達からもらって来てくれた大きい夜用のナプキンもある。

あとはお風呂に入って寝るだけ……

 月はこの日も大浴場には行かず部屋備え付けのシャワーに入った。全身に熱めシャワーを浴びながら、ボディーソープをつけたタオルで身体を洗っていく。そのタオルが胸に触れると硬く張り詰めた胸が痛んだ。そして下腹部のズンとした痛み、床に滴り落ちる鮮血。排水溝へと流れ込む赤く染まった水を目にして、大粒の涙がボロボロとおちる。

 昨日の朝、みんなとの楽しい時間、由美との楽しい思い出作りを期待していた月。それがこんな形で一日が過ぎていくなんて…… 言いようのない気持ちが溢れてきた。

 シャワーを終えた月は、四人分の布団を整え終えると、壁際に寄せたテーブルの前に腰を下ろし、湯のみのお湯を少しずつ口に運びながらスマホを眺めていた。ほどなくして、浴場から戻ってきた三人が部屋に入ってくる。


「おかえり」


 できるだけ普段通りの笑顔を向けると、由美がすぐに気づいたように近づいてくる。


「お腹、大丈夫?」

「うん……ごめんね。いろいろ心配かけて」


 気丈に振る舞う月を見て、神奈が「ポン!」と軽く手を打った。


「よし! じゃあ今日は寝る場所、変えよっか」

「え? どうして?」


 月が首を傾げると、神奈は悪戯っぽく笑う。


「その方が楽しそうでしょ。くじ引きとか面倒だし、とりあえず今日はルナと亜美ちゃんの入れ替えでいいんじゃない?」


 そう言われ、月と亜美は一瞬顔を見合わせた。月は自分の敷き布団の中央にバスタオルを敷き直しながら、神奈が月と由美を隣り合わせにしてくれた優しさに笑みを浮かべた。


(神奈、ありがとう)


月は小さくそう呟くと、さっきまで憂鬱に支配されていた心が少し軽くなった気がした。月は髪をとかしている由美に視線を向ける。


「そういえば、由美ちゃんと亜美さんって、いつからの友達なの?」


 由美は手を止め、亜美と顔を見合わせてから答えた。


「幼稚園に入る前かな。お母さん同士が仲良しで、気づいた時にはもう一緒にいた感じ」

「そうそう。だから今でもよくお互いの家に泊まりに行くんだよ」

「へぇ……なんかいいね。同性の幼馴染って」


 そう相槌を打ちながら、月の脳裏には昨夜の亜美の様子がよぎる。あんな声を立てていても、由美が平然と隣で眠っていられたのは、”それ”が“いつものこと”として受け止められているからなのかもしれない。

――そんな考えが浮かんだ。


「それならさ」


 今度は由美が問いかける。


「長月さんとルナさんも仲いいじゃない。転校初日から一緒だったけど、二人はいつから友達なの?」

(来たか……)


 月は神奈に視線を送り、わざとらしく目を見開いてみせた。


「うーん……昔から顔は合わせてたかな。夏休みとか冬休みに実家に泊まりに来てたし。小学校に入ってから、神奈ん家の東京支部で空手始めて、そこから大会とかでよく一緒にいるようになった感じ?」


 それらしく語りながら神奈を見ると、神奈は音を立てないように小さく拍手していた。


「そっか。ユエ君も空手やってたんだよね」

「うち父さんが早くに亡くなっているからさ。子どもには強くなってほしかったんだと思う。妹も空手習ってるしね」

「へぇ、妹さんいるんだ」


 由美は少し羨ましそうに目を細める。


「暦ちゃんていうんだけど、超可愛い上に空手も強いんだよ」


神奈はすかさずそう言った。


「はは……あいつ、昔から神奈に憧れてたからな。空手始めたのもその影響だと思う」


その話を聞いて、由美は柔らかく微笑んだ。


「なんだかいいね。そういう関係」


そして少し照れたように続ける。


「私、一人っ子だから。亜美みたいな優しいお兄さんとか、気のおけない妹や弟ってちょっと憧れるんだよね」


そんな話をしていると、急に廊下が慌ただしくなった。神奈がスマホで時間を確認すると21時を示していた。


「あっ、もう消灯の時間みたいだね。

 明日も早いしもう寝よっか……」


それぞれの布団にそれぞれ潜り込むのを見ると、神奈は部屋の照明を消しに立ち上がり電気を消した。その後神奈が自分の布団に潜り込む。


「おやすみぃ~  いい夢見てね!」


神奈は弾んだ声でそう言う。


(これから寝ようという時に、どうしてそんなに楽しそうなんだ?)


月がそんな事を考えていると、枕元に置いたスマホの画面が一瞬明るくなる。月が画面を覗き込むと、それは神奈からのメッセージだった。


「good luck」


の文字。


(何が?)


月はそんな疑問を持ちながら静かに目を閉じる。寝返りを打てないというのは、これまで経験した事のない縛り。月は暫くじっと仰向けのまま眠落ちるのを待っていたが、それよりも早く右隣からは由美の寝息が聞こえてきた。昨日よりも近くから聞こえる由美の寝息で、月の心に何ともいえない幸せな気分が満ちてくる。

そんな音を子守唄のように聞いていると、左隣からはまたしても亜美の吐息が聞こえ出した。昨晩同様、吐息が嗚咽に変わり、やがて喘ぎ声になる。

コレはコレで身体の不調を忘れさせてくれそうではあるが、由美の可愛らしい寝息で静かな眠りにつきたかった月は掛け布団の中で小さく息を吐くと、由美の方に顔を傾けた。激しい息づかいの中から由美の寝息を探しているうちに、月の意識は次第に深いところに落ちていった。


どれくらい眠っていたのだろう?

ふと目が覚めた月は右腕にあたる柔らかな感触に気付いた。その感触の方に視線を向けると、そこには由美の寝顔があり先ほど近くに聞こえていたあの寝息が、更に近い耳元にあった。由美は月の身体にしがみつくように眠っている。由美の寝息が、匂いが、感触が、体温が月の身体に伝わってくる。


「good luck」


さっきの神奈のメッセージを思い出す。

神奈はこうなる事を予想していたのか?

月は昨晩からの出来事を帳消しにするほどの幸福感を感じていた。


(神奈、ありがとう……)


心の中で呟く。……と、その時左隣からまたしても亜美の甘い声が聞こえてきた。


(今日も第二ラウンド?)


いくら思春期真っ只中とはいえ、こんなにもお盛んなものなのか? 月は由美の安らかな寝顔に見蕩れる後ろからは、亜美の激しい息づかいが聞こえ続ける。そして今夜はそれに重ねるように神奈の甘い吐息も混じっている。


(……って神奈、お前もかよ!)


このカオスな状況にありながらも、由美に包まれこれ以上ない一夜を過ごしたのだった。


七時間後。

カーテンの隙間から差し込む朝の光が、重いまぶたを叩いた。ふと横を見れば昨夜からずっと由美が月の腕にぴったりしがみついたまま眠っている。そのあまりにも愛らしい寝顔に、月はたまらなくなり、彼女の柔らかな髪にそっと頬を寄せた。


「……ん」


由美が静かに目を開ける。

至近距離にある月の顔と、自分の状況を理解した瞬間、彼女の顔は一気に林檎のように赤くなった。


「ご、ごめんなさい……っ」


小さな声で謝りながら、慌てて離れていく由美を、月は名残惜しそうに見送る。


「ううん。あったかくて、すごく気持ちよかったよ」


その言葉に、由美の顔はさらに真っ赤に染まる。愛しい由美と体温を分け合い、睡眠もたっぷり七時間は取った。

本来なら、これ以上ないほど爽快な朝を迎えていたはず……はず?

そう、現実は全身を襲う鉛のような倦怠感。胸は触れずともわかるほど痛いくらいに張り、何より下腹部を雑巾絞りにされているような鈍痛がえげつない。さらに、下着の中は確認せずともわかるほど、不快な湿り気に支配されていた。

月は重い身体をどうにか持ち上げると、恐る恐るお尻の下のバスタオルを確認した。


「……よかった」


そこには、一滴の染みもない。

一晩中由美にしがみつかれ、寝返り一つ打てなかったことが功を奏した形だ。しかし、安堵したのも束の間。立ち上がった途端、重力に従ってドッと何かが流れ出る感覚に襲われた。月は腰を引くような不自然な歩き方で、そろりとトイレに駆け込んだ。なりふり構っていられない。月はドアも閉めずにパンツを下ろすと、便座に崩れ落ちた。

昨夜あんなに白かった夜用ナプキンは、もはや元の色を留めないほど真っ赤に染まりきっている。さらに、便器の中へポタポタと、どす黒い鮮血が落ちていく。

普通の男性なら、一生かけても一度に見ることのないような大量の血液。それが今、自分の体内から絶え間なく失われている。その視覚的なショックと、急激な貧血が月を襲った。


「……っ!」


視界がぐらりと歪む。意識が遠のきそうになるのを必死に堪え、月は壁に手を突いた。


ガタンッ――


激しい音が静かな朝の部屋に響く。その異変に気づいた由美が、心配そうにトイレを覗き込んだ。


「ルナさん!? 大丈夫!?」


震える手で壁を支え、蒼白な顔で座り込む月の姿は、誰が見ても「大丈夫」の範疇を遥かに超えていた。

 由美の呼びかけに月は応えることができない。冷たい壁に額を押し当て、荒い息を繰り返すのが精一杯だった。


「長月さん、ルナさんが……!」


由美の悲鳴に近い声に、神奈と亜美が飛び起きた。三人がかりでトイレから運び出し月が寝ていた布団へと横たえた。

敷布団の上に横たわった月の顔は、まるで紙のように白く、唇の色も失われていた。


「これはひどいわね。私、先生呼んでくる」


神奈はそう言って部屋を飛び出した。


「ごめん、なさい。……せっかくの、自由行動、なのに……」


月は途切れ途切れに声を絞り出した。

今日は待ちに待った自由行動の日だ。自分がこんなでは、みんなの予定を台無しにしてしまう。その申し訳なさが、腹痛よりも鋭く胸を刺した。


「そんなの気にしなくていいよ。私たち今日ここにいるから……」


由美の言葉に、月は力なく首を振った。


「それはだめ……。みんなは、行って……。私、ここで寝てるから……」

「そんなわけにいかないでしょ。一人きりになんてさせられない……」


由美が月の手をぎゅっと握りしめる。その温もりに、月の目にじわりと涙が浮かんだ。神奈が呼びにいった女性教諭は月の容態を見るなり手際よく処置をほどこし、常備していた生理痛の薬を飲ませた。


「ルナさん、辛かったわね。今日は先生と一緒に旅館で休みましょう」


彼女は二年一組の担任であり、理科と情報の教科担当をしている女性教諭 イリアだ。彼女の両親のどちらかが北欧の生まれで、日本人離れした透明感のある綺麗な顔立ちをしていて、男女どちらの生徒からも人気があり慕われている。イリアは月の頭を撫でながらそういうと、月の脇に座る神奈達に目を向けた。


「……あなた達は、せっかくの修学旅行なんだから、予定通り行ってきなさい。

ルナさんのことは先生に任せて」


「でも……」と渋る三人に、月は布団の中から精一杯の力で微笑んでみせた。


「お願い、みんな……。私のせいで、修学旅行が嫌な思い出になるのは嫌なの。

……お土産話、楽しみにしてるから」


三人は顔を見合わせ、最後には月の言葉に押されるように頷いた。


「……わかったわ。絶対に無理しちゃだめよ。これ、お腹温めるやつ、置いておくから」


神奈は月の枕元にカイロを置いた。

三人は後ろ髪を引かれる思いで部屋を出ていった後、月は静まり返った部屋で天井を見つめた。下腹部の痛みは相変わらずだが、神奈たちが残していった優しさの余韻が、冷え切った身体をじわじわと温めていく。

月はさっき飲んだ薬が効いてくるのを目を閉じて待つ。そして深い眠りの淵へと、再びゆっくり沈んでいった。


数時間後――。

カーテン越しに差し込む柔らかな光に誘われるように、月はゆっくりと瞼を持ち上げた。枕元のスマートフォンに目をやると、時刻は十一時半をしめしている。


(四時間も眠っていたのか……)


昨夜あんなに寝たはずなのに、まだこれほど眠れる自分に驚きながら、月は重い溜息をひとつ吐き出した。


「女の子って大変なんだな……」


ぽつりと漏らした独り言に、窓際から穏やかな声が重なった。


「そうよ。生理なんて苦痛で不快で、ただうっとうしいだけ。……でも、自分だけの甘い秘密を抱えているような、そんな誇らしい気持ちにもなるものなのよ」


声の主を探して顔を向けると、そこには文庫本を手にしたイリアが座っていた。彼女はしおりを丁寧に挟み、ゆっくりと本を閉じる。


「アンネ・フランクの、『アンネの日記』……ですか?」


イリアはにっこりと、慈しむような微笑みを浮かべた。


「よく知っているわね」

「イリア先生……ずっと、付き添っていてくれたんですか?」

「ええ。ルナさん、体調はどうかしら?」

「まだ、あまり動けそうにないです。

……でも先生、私につきっきりで大丈夫なんですか?」


月の問いに、イリアは優しく目を細めた。


「先生はたくさん来ているから大丈夫よ。 ……それにしても――」


イリアは立ち上がると、布団のそばまで歩み寄り、月の頬にそっと指先を滑らせた。


「ユエくん。あなた、本当に女の子になったのね」


その言葉が鼓膜に触れた瞬間、月の心臓が大きく跳ねた。弾かれたように目を見開き、先生の顔を覗き込む。動揺を隠せない月の反応を見て、イリアはそっと頬から手を離した。


「そんなに警戒しなくて大丈夫よ。このことは、睦月先生と私しか知らないから」


そう告げられても、心のざわつきは一向に収まらない。


「……というか、ルナさんの書類上の手続きをしたのは私なの。睦月先生に頼まれてね」

「い、イリア先生が……?」


月は怪訝そうな表情を浮かべ、先生を見上げた。


「正確に言えば、学校内部のデータだけを改ざんしたのだけれど。これまでの『ユエくん』の成績や健康診断の結果、すべてのデータを『ルナさん』のものとして矛盾がないように書き換えたわ」


月は絶句した。

あの日、睦月と勢いで決めた偽りの名前や経歴。それを「正当な記録」として塗り替えるなど、いくら情報の教員とはいえ、そんな容易にできることなのだろうか。


「どうして……そんなことを……」


月の額に、じんわりと汗がにじむ。


「だって、成績表がないと内申書も書けないし、高校受験のときに困るでしょう?」


確かにその通りだが、それだけの理由で教師がこれほどのリスクを冒すとは到底思えない。それに、先ほどイリアが口にした「学校内部データだけ」という言い回しが、棘のように月の中に引っかかっていた。


「先生……さっき、学校の内部『だけ』って言いましたよね。他には何があったんですか?」


イリアは意味深な笑みを深めた。


「学校のデータだけを書き換えたところで、どこにも繋がりのない孤立したデータができるだけでしょ?」

「まあ……そうですね」

「他のデータベースも同じように書き換えないと、住所と名前が同じなのに性別が違うという齟齬が出てしまう。だから、住基ネットや医療保険のデータベースも書き換える必要があったの」

「イリア先生は、そこまで改ざんしたってことですか?」


月が詰め寄るように問うと、イリアは静かに首を横に振った。


「さっきも言った通り、私が手を加えたのは学校のシステムだけ。私が他の外部データベースに潜り込んで書き換えようとしたときにはね、もうすでに『ルナさん』のデータに塗り替わっていたのよ」


一体、誰がそんな芸当を?


だが月の脳裏に、ある一人の女性の顔が鮮明に浮かび上がる。

水無弥生――。

月の母親である。

じっと考え込む月の横顔を、イリアは見透かすような瞳で見つめていた。


「……誰がやったか、心当たりがあるような顔ね」

「まぁ、そうですね。……というか、どうしてイリア先生がこんな事しているんですか?」

「さっき言わなかったかしら? 睦月先生に頼まれたからよ」


月は大きく息を吐く。自分の聞きたい事が伝わらないことに軽いもどかしさを感じる。


「そういうことじゃなくて――」

「彼ができなくて、私がができるからよ」


そしてイリアは優しい目を神奈に向けた。


「彼は……睦月先生は、普段あんな感じだけど、本当に頭が良くて、いつも生徒の事を考えているのよ」

「ああ……確かに俺が女になった時は凄く面白がっていましたね」


月はそんな冗談を言って苦笑いを浮かべる。


「でもルナさん。あなたが女の子になっても、普通に学校生活も送れているし、病院にだってかかれてるでしょ。この日本に水無ルナという女性はすでに存在しているの」


イリアは真剣な眼差しを月に向ける。


「勿論、人の記憶までは改ざんできないわ。水無ユエという男の子がいた事実は、みんなの心の中に残ったまま。でも、それまで消えてしまうのは寂しいことでしょう? これまで水無ユエという人間は確かにこの世界に生きていたんだから……」


その言葉は、アイデンティティの境界線で揺れ動く月の心に、静かに、けれど深く染み渡った。過去を否定するのではなく、ただ新しい「月」としての居場所を作る。そのために、多くの人が影で動いてくれていたのだ。


「……ありがとうございます、先生」


月は吸い込まれるような眠気の中で、小さく感謝を口にした。



数時間後、部屋の扉が勢いよく開く音で月は目を覚ました。


「ルナちゃん! 生きてるー!?」


神奈の元気すぎる声が響き、続いて由美の「長月さん、静かにしてあげて」と嗜める声が聞こえる。自由行動から帰ってきた三人は、少し歩き疲れた顔をしながらも、充実感に満ちた表情をしていた。


「あ……みんな、おかえりなさい……」

「顔色、ずいぶん良くなったじゃない!

ほら、これ、伏見稲荷で買ってきたお守り。ルナの分だよ」


神奈が手渡してくれたのは、鮮やかな朱色のお守りだった。


「伏見稲荷? もう一回行ったの?」


月は不思議そうに尋ねた。


「うん。昨日は自由に見て回れなかったし、ルナの欲しかったお守りも買えなかったでしょ」

「それに……異世界にも行けなかったしね」


神奈に続き、亜美が言葉を被せてきた。

昨日よりも神奈と亜美の距離感が近くなったような感覚を覚える。


(もしかして…… 昨日の ”アレ” で二人のシンクロ率が上がったのかな?)


月は一人で苦笑いを浮かべていると、由美は月に優しく微笑んだ。そして保冷バッグから冷えた葛餅を取り出す。


「これみんなで食べましょ」


一緒に行けなかった自由行動。

しかし行った以上の充実感を月は噛み締めていた。


「……みんな、ありがとう」


月は、差し出された温かなお土産と、友人たちの優しさを胸に抱いた。

お腹の痛みはまだ続いている。けれど、イリアが言った「甘い秘密」の意味が、少しだけわかったような気がした。この痛みも、不快感も、自分を支えてくれる人たちが繋いでくれた「水無ルナ」という新しい人生の、確かな鼓動なのだ。

月はみんなが語る京都の街のお土産話に耳を傾けながら、明日は絶対に自分の足で歩こうと、心の中で静かに誓った。


翌日――

東京へと向かう新幹線の中。

月と由美は隣り合うシートで頭を寄せ合って寝息を立てている。


たった三日間の修学旅行。

自分がたくさんの人に支えられて生きている事を実感した。そして由美とのかけがえのない思い出を胸に埼玉の地に帰っていくのだった。



2022年1月12日 水曜日

 その日は、特別な出来事が起こるはずのない、ごくありふれた平日の午後だった。

 昼休みが終わり、次の授業へ向かう生徒たちで校舎の階段は混み合っていた。月もその流れの中で、教科書を胸に抱えながら三階へと向かっていた。


――そのとき


 誰かの肩が、わずかにぶつかった。


「あ――」


 足を踏み外した感覚。

 次の瞬間、視界が大きく揺れ、重力に引きずられるように身体が後ろと投げ出される。


 ――ガンッ。


 鈍い音と共に、意識が白く弾けた。


 次に目を開いたとき、目の前には白い天井があった。鼻を突く消毒液の匂い。カーテン越しに差し込む柔らかな光。


「……ここは……」


 掠れた声で呟くと、身体の感覚がゆっくりと戻ってくる。頭がずきりと痛み、全身が妙に重たい。


「気がついた?」


 視線を向けると、白衣を着た養護教諭が覗き込んでいた。


「あなた階段から落ちたのよ。気を失っていたから睦月先生に保健室に運んでもらったの」


 そう説明され、月はぼんやりと頷いた。


 ――階段から落ちたんだ。


意識ははっきりしている。

でも胸の奥が、妙にざわついている違和感。感情が、柔らかく、脆くなったような――言葉にしがたい感覚。


(……何かがおかしい?)


 考えようとしたところで、保健室のドアが静かに開いた。


「失礼しまーす」


 顔を覗かせたのは神奈だった。その後ろに石山が心配そうな表情を浮べ立っている。


「ルナ、大丈夫?」


 ベッド脇に駆け寄る神奈の声は、いつもより少しだけ低い。


「ああ……うん、頭がズキズキするけど」


返事をした瞬間、月は自分の声がやけに弱々しいことに気づいた。


「ほんとに? 顔色よくないよ」

「頭打ったんだろ? ……大丈夫なのか?」


石山の口からいつもは発しないであろう、月を気遣うそんな言葉が出てきた。


「うん、ホント……」


力なくそう言う月に石山は「ならいいけど……」と言いながら、手にしていたノートを差し出す。


「これ今日の授業のノート。あと、数学、小テストあるからテスト範囲書いといたよ」

「……ありがとう。石山君――」

「くん?」


その言葉に違和感を感じる石山をよそに、微笑みながらノートを受け取る月。その指先が、わずかに石山の手に触れると身体がピクリと跳ねた。視線を上げると、目を丸くしている石山と目が合った。少し困ったような驚いたような表情を浮かべている。


その顔を見ていると顔が熱くなる。

心臓が、早鐘を打つ。

理由もなく、胸が熱くなり、視線を逸らしてしまう。


(なに……これ……)


月は戸惑っていた。

神奈や石山も月のこの様子に違和感を感じるも、「階段から落ちたショック」で気が動転しているものだと受け取り、それ以上深くは踏み込まなかった。


「まぁ、無理すんなよ。今日は親、迎えに来るんだろ?」

「……うん」

「じゃあルナ、お大事に……」


 短い会話のあと、二人は保健室を後にした。残された月は、天井を見つめたまま、胸に残るざわめきを持て余していた。

 その後、迎えに来た母と共に帰宅した月は、部屋に入るなりベッドに倒れ込んだ。


(……何か変)


身体ではない。

心が――どこか違う。

涙腺が緩くなったような、感情が直接胸に触れるような感覚。

気持ちが落ち着かない……

そして、石山の顔が、何度も脳裏をよぎる。


「……どうして石山君が?」


そう呟いた声は、ひどくか細い。そのことが頭を離れず眠れない時間が過ぎていった。


 翌朝。

 月は重たいまぶたを擦りながら家を出た。前夜はほとんど眠れず、頭の奥に薄い靄がかかったような感覚が残っている。


(……眠い)


それ以上に、胸の内が落ち着かない。

登校して校門をくぐり、廊下で石山と顔を合わせたときも、その違和感は消えなかった。

挨拶はした。返事もした。だが、それだけだった。

自然に目を合わせることができず、会話も必要最低限。いつもなら冗談の一つや二つ交わすところなのに、言葉が続かない。自分でも理由がわからないまま、距離を取るようにしてしまう。

 授業中も、休み時間も、石山の姿が視界に入るたびに胸がざわついた。意識しないようにすればするほど、かえって気になってしまう。


 そして放課後。

 帰り支度をしていた月の背後から、少し遠慮がちな声がかかった。


「……なぁ、ルナ」


 振り向くと、石山が立っていた。

その表情は、どこか気遣うようで、少しだけ戸惑っているようにも見える。


「ちょっと、話せるか?」


月は一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく頷いた。


「今からゲーセン行かね?」

「……ゲーセン?」

「ちょっと気分転換にさ」


迷いはあったが、月は小さく頷いた。

二人で行ったゲームセンターは、騒がしく、色と音に満ちていた。

最初はぎこちなかった二人も、リズムゲームやクレーンゲームを並んで遊んでいるうちに、少しずつ表情が緩む。


「それ、タイミング早すぎだよ」

「う、うるさい……」


石山の笑顔を見るたび、胸がきゅっとなるのは変わらない。身体が触れるたびに鼓動も早くなる。


「あ、悪い。ちょっとトイレ……」


石山がトイレへ向かった直後、月は小さくため息をついた。


「ねぇ、君。俺たちと遊ばない?」


背後から低い声がかかる。

振り向くと、見知らぬ男たちが立っていた。


「い、いえ、私友達ときているので……」


そう言う月を無視して男の一人が月の手首を掴んだ。


「いいから、ちょっとおいでよ」

「嫌! や、離して……」


 恐怖に声が震え、力が入らない。

腕を掴まれ、周りを数人で取り囲むように外へと連れ出される。その様子を、トイレから出た石山が目撃して慌てて後を追った。


「――ルナ!」


 叫びながら追いかける。

そして路地裏で、不良たちに囲まれた月の前に石山が踏み込んだ。


「お前ら、そいつを離せよ!」


そう言う石山に不良達は同時に顔を向ける。


「ああぁ!? 何だお前? 殺すぞ……」


威嚇するような低い声で言いながら詰め寄る。


(五人…… ギリやれるか?)


石山は小さく構えると、途端に正面から三人が殴りかかってきた。石山は先頭の男の顎に右のフックを入れると、ぐらつく男に間髪を入れず鼻目掛けて左ストレートを叩き込む。一人が崩れ堕ちても、二人の男は構わず向かって何発もの蹴りとパンチを浴びせてくる。殴られながらも必死に相手の体力を削ぎ落とし、二人を地面に這いつくばらせた。そして目の前の男に掴み掛かろうとした時、視界の端で角材を振りかぶる男を捕らえた。


(ヤバっ、間に合わない……)


その瞬間、側から月がその男に体当たりをする。一瞬男の動きは止まり「どけっ!」と言いながら月を払いのけ、次のスタンスに移ろうとした時、石山は相手の懐に入り、強烈なボディブローをめり込ませた。うめき声をあげ苦しみ下を向く顔にアッパー、左右のフックを連続で浴びせる……

倒れ込んだ男は地面で暫く痙攣したあとピタリとうごかなくなった。

一人だけとなった男は怯えた表情を浮かべてこの場から走り去る。


「――っ!」


危機を脱した瞬間、石山は何発も殴られたダメージから片膝をつく。そこに月は涙が溢れる顔で石山にしがみついた。


「ははっ…… 長月だったらもっとスマートにやれたんだろうけどな……」


石山は恥ずかしそうに苦笑いを浮かべ、月の顔を見下ろした。月は思い切り首を振る。


「石山君、石山君っ……!」


 泣きじゃくる声は、完全に“女の子”のものだった。その後二人は石山の家へと立ち寄り、月の傷の手当をした。


(……ルナ、震えてる)


ちょっと前の完全な男だった月の姿は微塵も感じられない。


「……怖かった……」


月の口から素直に漏れた言葉。

そんな月に石山は温かいココアを出して、月が落ち着いたところで家まで送り届けた。別れ際、家の前で月が石山の手を両手でぎゅっと握りしめる。


「今日はありがとう……ほんとうに……」


 石山の胸が、強く高鳴った。


(……か、可愛い)


そんな気持ちが石山の心に芽生えのを感じていた。


 翌日――

 月は前日の出来事を引きずりながら重い足取りで学校に向かっていた。

いつもの通学路。その先―― 登校途中の人気の少ない路地。そこには昨日逃走した男が待ち構えていた。

『昨日の報復』……が、しかし到底石山には敵わないと思った男は月をターゲットにすると言う下衆でショボイ結論に至り目の前を通過する生徒の中から月を探していた。

そして月が男の前を通り過ぎたとき、出会い頭に月の顔を殴りつけて手首を掴み誰もいない路地へと引き摺り込んだ。


(ドクン!)


その瞬間――胸の奥から熱いものが込み上げてくる。


「……ってぇな……」


月は横目に男を睨む。

その目には怒りが宿り拳に力が籠っていた。月は即座に相手の手首を返し、関節を決めると、男の上体は前屈みとなった。顔面への膝蹴り、頭が上がったところに肘を振り下ろすと男は地面へと叩きつけられた。

神奈に習いはじめた護身術と、これまでの空手・剣道の経験を女体化した月が遺憾無く発揮した瞬間だった。

そんなトラブルを経て学校にたどり着く。


「石山、おはよう!」


校門前で石山と顔を合わせた月はいつもの笑顔だった。その様子に石山は一瞬、寂しそうな顔をしたが、すぐに笑った。


「おはよう、ルナ」

「おう」


 月に駆け寄る石山の胸には、確かな想いが芽生えていた。



2022年2月17日 木曜日

 あわただしくも、どこか密やかだったあの修学旅行から、早いもので二か月が過ぎようとしていた。

 『あの出来事』をきっかけに、月と神奈、そして由美と亜美の四人の間には、それまでとは違う、柔らかく温かな空気が流れるようになっていた。互いの肌の温もりを知り、痛みや戸惑いを分かち合ったあの日々は、彼女たちの絆を魔法のように深いものへと変えていた。


 放課後の教室に差し込む夕日は、オレンジ色に透き通り、月、由美、亜美の三人の笑い声を優しく包み込んでいる。


「そういえば、ルナさん。最近、体の調子はどうなの?」


ふとした合間に、由美が気遣うような優しい声を向けてきた。


「うん。あの後、二回生理が来たけれど、最初よりはずいぶんマシになったかな。修学旅行の時は、由美ちゃんと亜美さんにも、たくさん助けてもらったよね」


月はあの夜の出来事を思い返し、胸の奥から自然とこぼれ落ちるような感謝の言葉を口にした。


「あの時のルナさん、本当にしんどそうだったもの。思い出しただけでも、私までお腹が痛くなってきちゃいそう」


亜美は自分の下腹部にそっと手を当て、当時の痛みを分かち合うように眉をひそめて見せた。


「ふふっ……。確かに、あの時は本当に辛かったわ」


たった二か月前のこと。

けれど、あんなに苦しくて心細かった初めての経験を、こうして穏やかに笑い合える思い出に変えられる。それが、今の月にはたまらなく嬉しかった。

この二か月の間に、四人の心の距離はぐっと近くなった。こうして放課後遅くまで、他愛もないお喋りに花を咲かせながら一緒に過ごす時間が、今では何よりも心地よい日常の一部になっていた。


「私、修学旅行から帰ってからね、お母さんと一緒に、お母さんの友達がやってる婦人科のお医者さんに診てもらいに行ったんだ」

「まぁ、毎月あんなだったら学校どころじゃないもんね」


由美は苦笑いを浮かべそう言った。


「うん。でね、先生からミレーナっいう、子宮に入れてホルモンバランスを整える器具を入れてもらったの」


その言葉に由美と亜美は目を丸めた。


「えっ? 子宮に? 中学生がそんなの入れて大丈夫なの?」

「痛くないの?」


二人は同時に質問を投げてくる。


「確かに挿れる時はちょっと痛かったけど…… それより……あの診察台に乗るのすっごい恥ずかしかった……」


月は苦笑いを浮かべ顔を赤らめながら視線を逸らす。


「最初はさ、低容量ピル……っていうんだっけ? ホルモンのバランスを整える薬…… 先生からはそれを勧められたんだけど、お母さんが薬を飲み続けるの大変だからってこのミレーナっていうのを提案したのよ」


月は自分の下腹部手を添えてそう話すと、二人は月のお腹に視線を落とした。


「まぁ、これ入れたからって全然生理の痛みが無いわけじゃないけど、学校来れないほどじゃなくなったからね。

それに実は今も生理中なんだ……」


そう言って月は少し恥ずかしそうに微笑んだ。目の前の二人は月の修学旅行での様子を思い出してその違いに驚きの表情を浮かべる。


「でもこうして学校来れるくらいまで軽くなったならよかったね」


由美がそういうと、三人は顔を合わせて微笑む。


「そういえばさ…… 今日、神奈はどうしたの?」


思い出したのように亜美は月に尋ねた。


「ああ、なんか先生と面談とか言ってたよ」


由美は心配そうに廊下の方に目を向けた。


「長月さん、どうかしたのかな?」

「神奈は成績、ちょっとアレだし…… もしかして先生に怒られているのかな?」


月がそういうと、亜美はギクリと背中を伸ばした。神奈の成績は中の下。そして亜美もまた神奈はと似たような成績だ。

一方、由美は中の上といったところなので、幾分の余裕があり亜美の反応に苦笑いを浮かべている。

そんな時、遠くからゆっくりと歩く足音が聞こえてくるのが三人の耳に届いた。


「長月さん…… かな?」

「……」


月はこのゆっくりとした足音に少し不安を抱きながらその足音に耳を傾ける。しばらくして教室の後ろのドアから、神奈がひょっこり顔を覗かせた。


「あっ、いたいた!」


神奈の顔パァーッと明るくなり、いつもの調子で三人に駆け寄った。神奈は三人が囲んでいた机にパンと両手をついて三人の顔をみまわす。


「ねぇ! 春休み、この四人で女子会しよ!」


この突然の提案に三人は顔を見合わせた。


「女子会?」

「随分と突然だね」


由美と亜美がそういうと、月もそれに続く。


「私はいいけど、何処でするの? カラオケとか神奈んち?」


三人は神奈の口元に注目する。


「軽井沢!」

「「「ふぇ?」」」


その想像もしていなかった答えに三人は変な声を漏らし目がテンになる。


「軽井沢って、長野だっけ? 私、そんな旅行に行ける程お金持ってないよ」


亜美がそういうと、隣では由美も頷いている。


「そっちの方は心配しないで。そこの旅館、うちの道場で契約しているところでさ、格安で泊まれるんだって。私の誕生日プレゼンでお父さんから四人分の宿泊券と新幹線の往復チケット貰ったから……」


神奈はそう言って満面の笑みを三人に向けた。


「それに修学旅行では、結局四人でお風呂入れなかったでしょ…… ここは部屋に大きな露天風呂ついてるしきっと楽しいと思うんだぁ」


その言葉を聞いても三人は不安気な表情は消えない。


「そんな所なら、格安って言っても凄く高いんじゃない? そんな簡単に招待してもらっていいのかな?」


由美はそう言って神奈はの顔を見上げ、続くように月と亜美も見上げた。


「ホント、それは気にしないでいいよ。

お父さんも楽しい思い出作ってきなさい……って喜んでいたから。

それより今回は温泉旅行だからね――」


そう言って神奈はスマホを取り出し、三月のカレンダーを出して机の上に置いた。

三人はその画面に注目する。


「この辺りの日程で考えているんだけどさ、他の予定や生理に当たったりしてないか確認してはしいんだ」


神奈がそういうと、由美と亜美はそれぞれ手帖を取り出しペラペラとめくり始め、月は自分のスマホのスケジュールアプリを開いた。


「私は大丈夫かな」


月は真っ先にそう答える。


「私も大丈夫だよ」


由美もそう答えた。


「私は終わりかけにかすっているけど、そんなに重くないから大丈夫だよ」


そういうと神奈はにっこり微笑んだ。


「じゃあ決まりだね。あとで旅館に連絡しておくよ」


それから、瞬く間に一ヶ月が過ぎていった。春休みの軽井沢旅行を目指して、四人の毎日は目が回るほど忙しく、そして驚くほど充実していた。

 まずは、二年生を締めくくる最後の期末テスト。放課後の図書室や神奈の家で、四人は何度も勉強会を開いた。月と由美が教え役となり、暗記科目に苦戦する神奈と亜美をサポートする。


「この時代の年号、どうしてもこんがらがっちゃう……」

「神奈。この出来事とセットに覚えると、すんなり入ってくるよ」


月の柔らかく丁寧な教え方と、由美の的確なフォローが功を奏したのか、返ってきた答案用紙を見て四人は歓喜した。なんと神奈と亜美の二人は、これまでの自分たちを塗り替えるような、過去最高の成績を収めることができたのだ。


「やった! 頑張った甲斐があったね!」

「私、こんな点数取れたの初めて……。

ルナさん、由美、本当にありがとう」


テストの重圧から解放された四人は、次なる楽しみ、旅行の買い出しへと繰り出した。

春の軽井沢はまだ肌寒いかもしれないと、ショッピングモールのウィンドウを覗き込み、カーディガンやストールを選んで盛り上がる。


「この色、長月さんに似合うわよ。

 清楚な感じで」

「えっ、そう? じゃあ、由美ちゃんはこっちの華やかな色なんてどう?」


そんな風に、お互いに服やアクセサリーを選び合っていると、自分が誰かのために心を通わせている実感が、月の胸を温かく満たした。

「水無ルナ」として過ごす日常。それは、こうした些細なやり取りの一つひとつが、まるでパズルのピースを埋めていくように、新しい自分を形作ってくれる時間でもあった。

夜通しお喋りするためのスナック菓子や、少し奮発したフェイスパックをカゴに詰め込みながら、四人の心は一つに重なっていく。


いよいよ出発を明日に控えた夜。

月は、神奈からもらった新幹線のチケットをそっと指先でなぞった。窓の外から聞こえる春の夜風は、どこか優しく、新しい物語の始まりを告げているようだった。


「楽しみだな……」


独り言のように呟いた言葉は、期待に胸を膨らませる明日へと、静かに溶けていった。



 三月下旬のある朝。

 月たち四人は、大宮駅の新幹線ホームに並んで立っていた。神奈は腕を組み、次の列車を知らせる電光掲示板を見上げている。


「それにしてもさ、修学旅行からこんなにすぐ、また新幹線に乗ることになるなんて思わなかったなぁ」


 亜美は楽しそうに、隣のホームに停車している東京行きの列車へ視線を向けていた。


「ほんとだね。しかも、あの時と同じメンバーで……」


 由美は少し感慨深げに続ける。


「修学旅行の最中は、こんなふうにまた一緒に出かける日が来るなんて、想像もしてなかったかも」

「でも、あれがきっかけで私たち仲良くなれたんだよね」


 神奈はそう言って、どこか照れくさそうに頬に手を当てた。


「特に亜美とは、それまでほとんど話したことなかったし。最初の頃の、あの変な緊張感、今思うとちょっと懐かしいな」


 これから向かうのは、三泊四日の軽井沢への温泉旅行。修学旅行のように分刻みで動く必要はなく、旅館の周辺をのんびり散策したり、ちょっとした遊び場を巡る程度の計画しか立てていない。

目的はただひとつ―― 四人で過ごす時間を、ゆっくり味わうことだった。

 月は三人の楽しそうな横顔を眺めているうちに、列車到着を告げるアナウンスが流れ出し、思わず線路の先へと視線を向けた。やがて到着した北陸新幹線「はくたか」に乗り込み、四人はシートを向かい合わせにして腰を下ろす。由美と亜美が並び、その正面に月と神奈。修学旅行のときと同じ配置だが、私服姿ということもあって、空気はどこか柔らかい。


 列車が静かに走り出すと、四人は一度、小さな窓に顔を寄せて流れていく景色を眺めたが、すぐに背もたれに身を預けた。月はふと、車内を見渡す。


「平日なのに、けっこう人いるね。それに、若い人多くない?」


 そう言われて、三人も周囲に目を向ける。


「この時期だと、高校生とか大学生の卒業旅行じゃない?」


 神奈がそう返し、納得したように頷いた。

 それから四人は、放課後に集まったときと変わらない他愛のない話を続け、気づけば列車は目的地である軽井沢駅へと到着していた。


「わあ……すごく綺麗……!」


 軽井沢駅を出た瞬間、由美が思わず声を上げた。駅前のロータリーを囲むように広がるのは、芽吹き始めたばかりの新緑と、柔らかな春の光を浴びた山々の稜線。澄んだ空気が胸いっぱいに入り込み、都会とはまるで違う時間が流れているように感じられた。


「こうして見ると、やっぱり別荘地って感じするね」


 月は感心した様子で周囲を見渡しながら、はしゃぐ三人にスマホのカメラを向ける。続いて神奈もスマホを取り出し、駅舎を背景に四人で写真を撮った。撮影が終わると、そのまま地図アプリを開き、旅館までの経路を確認する。表示された所要時間は、車でおよそ二十分。決して遠すぎる距離ではないが、徒歩で向かうには少し厳しい。

 神奈はスマホを片手に、もう一方の手を口元に当ててしばらく考え込み――やがて顔を上げた。


「よし……みんな、旅館ここから車で二十分くらいみたいなんだけど、タクシーで行く?」

「うーん……」


 月は少し考えたあと、三人の顔を見回す。


「急ぐ必要もないし、バスとか使って、のんびり行くのもありじゃない?」

「それ、いいね」


 由美もすぐに頷いた。


「せっかく来たんだし、景色とか見ながら移動したいな」


 亜美も賛成するように小さく頷き、駅前を行き交う観光客や看板に視線を向ける。

 結局、四人は路線バスを使うことに決め、発車までの少しの時間、駅前をぶらぶらと歩いた。土産物屋のウィンドウを覗いたり、見慣れないご当地スイーツの看板に足を止めたりと、何気ないやりとりさえも新鮮に感じられる。

 バスに揺られながら車窓を流れる緑の景色を眺め、時折歓声を上げたり、写真を撮ったりしながら過ごすうち、あっという間に最寄りの停留所へと到着した。

 そこからは、旅館へと続く静かな道を四人並んで歩く。小さな川のせせらぎや、木々の葉擦れの音が耳に心地よく、これから始まる滞在への期待が自然と高まっていく。

 こうして四人は、旅の始まりを胸に刻みながら、目的の旅館の前へと辿り着いた。


「まっ、マジか…… まどか」


 月はそう言葉を漏らす。

 黒塗りの門は静かに構え、その奥には手入れの行き届いた庭園が広がっている。石畳は一つひとつが均整よく並べられ、苔むした飛び石の間を、澄んだ水が細く流れていた。周囲を包むのは、街中では決して味わえない静寂と、どこか張り詰めた空気。


「……うそ。ほんとに、ここ?」


 由美が思わず漏らした声は、いつもよりもずっと小さい。亜美も旅館の外観を見上げたまま言葉を失っていた。


「ちょ、ちょっと……立派すぎない?」

「中学生だけで泊まる場所じゃない気がするんだけど……」


 亜美は落ち着かない様子で視線をあちこちに泳がせる。三人とも、無意識のうちに背筋が伸び、足音を立てないように歩いていた。


「……たしかに、思ってた以上に格式はあるけど」


 神奈だけは苦笑いを浮かべ、三人を安心させるように言った。


「せっかく父さんが手配してくれたんだし、変に気負わず楽しもうよ」


 そう言って門をくぐると、すぐに和服姿の仲居が静かに頭を下げた。柔らかな物腰と丁寧な所作に、月たちは思わず息を呑む。


「お越しいただき、ありがとうございます」


 低く澄んだ声に迎えられ、靴を脱いで上がると、磨き上げられた廊下が奥へと続いていた。床板は艶やかに光り、障子越しに差し込む柔らかな光が、館内を落ち着いた雰囲気で満たしている。

 案内されるままに廊下を進む間も、三人は口数が少ない。襖一枚隔てた向こうに広がる静けさに、場違いな存在になってしまったような気がして、自然と歩幅も小さくなっていた。

 やがて仲居が一室の前で立ち止まり、丁寧に襖を開ける。


「こちらがお部屋でございます」


 畳敷きの広々とした和室に、床の間と大きな窓。窓の向こうには手入れされた庭が見え、室内には仄かに香の匂いが漂っていた。

 三人は一瞬、その場に立ち尽くす。


「……すご……」


 誰ともなく、そんな声が零れた。

 足を踏み入れることすらためらわれるほど整えられた空間に、月たちは張り詰めた表情のまま、そっと部屋の中へと進んだ。

 案内を終えた中居は、簡潔ながらも丁寧な説明を終えると、深く一礼して静かに襖を閉める。

 その瞬間、室内に張りつめていた空気がふっと緩んだ。


「あぁ……緊張した……」


 由美が力の抜けた声を漏らすと、亜美も同じように息を吐き出す。


「私、たぶん一生こんな旅館に泊まることない気がする……」


 二人の言葉は誰に向けるでもなく、自然とこぼれ落ちたものだった。


「……確かに、すごいところだね」


 月はそう言いながら窓際へ歩み寄る。

 視界の先には広々とした中庭があり、その一角に設えられた露天風呂から、白い湯気がゆるやかに立ち上っていた。さらにその向こうには、淡く緑を帯びた山々が連なっている。


 これほど開放的な造りでありながら、周囲に高い建物は見当たらない。視線を遮るものがないよう計算され尽くしていることが一目でわかる。余計な心配をすることなく過ごせる――そんな配慮が、旅館全体に行き届いているのが感じられた。

 ここまで細やかに整えられた宿に、不用意な抜けはない。月はそう確信しながら、改めてこの場所の格の違いを実感していた。


「さて、と――」


その言葉に反応するように、三人の視線が月に集まる。夕食まで、まだ四、五時間。時間はたっぷりあるはずなのに、何をしていいのか分からず、誰もが少しずつ落ち着かない様子だった。


「……時間、結構あるね」


 由美が腕時計をみて呟くと、亜美が苦笑する。


「こんなに余裕ある旅行、初めてかも。修学旅行は常に次の予定に追われてたし」

「今回は“何もしなくていい時間”を楽しむ旅だからね」


 神奈はそう言いながら、座卓の上に置かれた案内冊子を手に取った。


「お風呂はいつでも入れるし、庭も自由に散策していいみたい」

「自由って言われると逆に困るな……」


 月の正直な感想に、由美と亜美がくすっと笑う。


「じゃあさ、最初は部屋でのんびりしない? 移動も多かったし」


 由美の提案に、全員が異論なく頷いた。四人はそれぞれ楽な姿勢で座り直し、お茶を注ぎ合う。


「こうやってお茶飲んでるだけなのに、妙に贅沢だね」

「分かる。家で同じことしても、絶対こんな気分にならない」


 亜美は湯呑みを両手で包みながら、しみじみと言った。


 しばらくは他愛のない話が続いた。学校のこと、修学旅行の裏話、行きの新幹線で気になった乗客の話。話題は取り留めもなく移り変わるが、不思議と沈黙が気まずくなることはなかった。


「……ねぇ、せっかくだし、浴衣に着替えない?」


 神奈の一言で、場の空気が一気に旅行色を帯びる。


「え、もう?」

「早くない?」


 戸惑う二人に対し、月は少し考えてから頷いた。


「でも、夕食までに一回着替えておきたい気もするな」


 結局、全員が賛成し、それぞれ浴衣を手に取る。着替え終わった四人が顔を見合わせた瞬間、自然と笑いがこぼれた。


「なんか……一気に“旅館に来た”って感じするね」

「うん。時間もあるし、庭も見に行こうか」


 こうして四人は、ゆっくりと流れる午後の時間を持て余すことなく噛みしめる。


 陽も傾き始め、部屋の隅々にまでオレンジ色の光が染み渡る頃、四人は申し合わせたかのようにふと顔を見合わせた。


「そろそろ、露天風呂に入ってみない?」


神奈の弾んだ声に、三人は静かに微笑んで頷いた。期待に胸を膨らませながら、備え付けのふかふかのタオルを抱えて脱衣所へと向かう。


「そういえば亜美、生理が重なりそうって言ってなかった? 大丈夫なの?」


道中、ふと思い出したように由美が尋ねた。


「うん、タンポンを使っているから全然平気。それに私、もともとそんなに重い方じゃないしね」

「いいなぁ。本当に生理って、個人差が大きいものなのね」


由美、亜美、神奈がそんな「女の子同士」の会話を自然に交わしていると、少し遅れて月が脱衣所へ入ってきた。月はタオルを胸元でぎゅっと抱きしめたまま、浴衣の襟を握りしめ、すでに着替え始めている三人を見つめている。


「ルナ、どうしたの?」


不思議そうに首を傾げる神奈に、月は顔を寄せ、小さな声で耳打ちした。


「なんだか……みんなの前で脱ぐのが、急に恥ずかしくなっちゃって。それに、その……みんなの裸を見るのも、なんだかドキドキするというか……」


床に視線を落としたまま、消え入りそうな声で告白する月。その様子に、神奈は呆れたようなジト目を向けた。


「ルナちゃん。修学旅行のとき、あなたがトイレで倒れちゃったこと、覚えてる?」


月は小さくこくりと頷く。


「あのとき、私たち三人であなたを布団まで運んだのよ。イリア先生が手当てしてくださっている間も、ずっとそばで見ていたんだから。……つまり、みんなあなたの『隅々』まで、もう知っているってこと」

「えっ……隅々って…… ま、まさか……」

「そう、隅々」


月の顔が、夕日よりも赤く染まっていく。


「だから、恥ずかしがるなんて今更よ。

それに、ルナは自分の体見慣れているんだから、私たちの体だって似たようなものでしょ?」


神奈はそう言うと、迷いなく月の浴衣の帯をスッと解いた。さらりと襟をはだけさせると、悪戯っぽい笑みを浮かべて声を上げる。


「由美ちゃーん! ルナのおっぱいこんなに大きいよ」

「ちょっと、神奈……っ!」


月の慌てふためく声をよそに、脱衣所には女の子たちの賑やかで親密な笑い声が響き渡る。

 冷たい外気にさらされた脱衣所から一歩足を踏み入れ、露天風呂の湯船に肩まで浸かる。その瞬間、強張っていた四人の身体がふわりと解けていった。


「ふぅーっ……冷えた身体に染み渡るわねぇ」


神奈が満足そうに声を漏らす。四人はお湯の中央で向かい合うように集まり、重い吐息を一つに重ねた。


「ね、ルナ。別に平気だったでしょ?」


その神奈の言葉に、事情を知らない由美と亜美が不思議そうに首を傾げる。


「いやね、さっき脱衣所でルナが、みんなの前で裸になるのが恥ずかしいなんて言うから」


神奈が茶化すように言うと、二人は納得したように目を丸くした。


「そういえば、修学旅行では一度も一緒に入れなかったものね。でも私たち、あの時イリア先生がルナさんの着替えを手伝うのを横で見ていたのよ。大事なところまでしっかり見ちゃっているから、今さら隠さなくて大丈夫よ?」

「そうよ、それにみんな女の子同士なんだから、気にしなくていいじゃない」


由美の屈託のない言葉に、神奈は思わず苦笑いを浮かべた。


(中身は男子なんだけどね……)


そんな考えが脳裏をよぎり、神奈はいたたまれなくなって、つい視線を夕景へと逸らした。


「それにしても、こんな夕焼けを見ながらのお風呂なんて、すっごくロマンチック……」


亜美が瞳を潤ませながら、隣に座る神奈をじっと見つめた。お湯の熱で上気した亜美の肌は、沈みゆく夕日の光を浴びて、息を呑むほど鮮やかに、美しく輝いている。

神奈は抗えない引力に惹かれるように、そっと亜美の頬に触れた。顔を引き寄せると、何の躊躇いもなく、その柔らかな唇に自分のそれを重ねた。

 目の前で繰り広げられた光景に、月は心臓が口から飛び出しそうなほど跳ね上がり、思考が完全に停止した。数秒後、ようやく意識を立て直し、今のは幻だったのかと確かめるように二人を見やる。すると、そこには先ほどよりもずっと深く、濃厚に睦み合う二人の姿があった。

月はパニックを抑えながら、隣にいた由美の耳元へ這いずるように移動した。


「神奈と、亜美ちゃんって……その……」


言葉を選びかねる月に、由美は平然とした様子で答えた。


「多分、そういうのとは少し違うと思うわよ。亜美って自分に正直だから、愛おしいっていう気持ちを肌で感じていたいの。二人とも、大好きなぬいぐるみにキスをしているような感覚なんじゃないかしら」

「そ、そうなの……?」


言われてみれば、愛おしい対象を抱きしめ、口づけをする。それは相手が人であれペットであれ、純粋な愛着の表現に過ぎないのかもしれない。

美しい、かわいい。

そんな溢れ出す感情を、ただ素直に形にしているだけなのか。月は自分を納得させるように、そう結論づけた。


「それにしても由美ちゃん、二人が目の前でそんなことをしていても平気なのね。

私、もうドキドキして……」

「うん、そうね。二人のキスを見るのは初めてじゃないし、亜美って昔からそういうところ、隠さない子だったから」

「……隠さない?」

「ええ。ほら……お、オナニーとか」


月の思考が、由美の口から放たれた言葉に凍りついた。亜美の行為そのものよりも、あの清楚な由美の口からそんな単語が飛び出したことに、心底動揺したのだ。のぼせかけていた顔が、さらに熱く火照っていく。


「お、お、おな……そんなこと、するの……?」


動揺する月に、由美も少しだけ顔を赤らめた。


「前にね、亜美の家でお泊まり会をしていたとき、突然目の前で始めちゃったの。びっくりして動けずにいたら、終わった後に『ごめんね、急にしたくなっちゃって』って……。最初はそんな何処でもしちゃうのかなって心配したけれど、彼女、心を許していない人の前では絶対にしないみたいだったからさ……

家族や、私の前だけでしか見せない姿だったのね」


月は男子の時、一人でする事はたびたびあったが、それは誰にも見られたくない行為だった。まして家族からは絶対に見られたくない。

月は亜美のそんなシチュエーションを想像しゴクリと唾を飲み込み、もう一度神奈たちに目を向けると、うっとりとした表情を浮かべた二人がちょうど顔を離したところだった。


(神奈があんな顔をするなんて……)


幼馴染の見たこともない表情に、月は居たたまれなくなり、逃げるように立ち上がった。


「わ、私、のぼせちゃったみたい。先に上がるね」


脱衣所に戻り、濡れた体をタオルで拭きながら、月は大きなため息を吐いた。


「マジで……刺激が強すぎるって……」


冷たい空気にさらされ、ようやく顔の火照りが落ち着いてきた頃、ふと一つの疑問が頭をもたげた。


亜美は心を許していない人の前では決してそんな姿を見せない。だとしたら、修学旅行のあの夜、彼女が一人で声を漏らしていたのは……。


(神奈や私が完全に寝ていると思っていたのか……それとも、あの時点で、もう私たちをそれだけ信頼してくれていたのか)


月はもう一度、深く、深くため息をついた。


「わかんないや。でも、あの後、神奈と亜美ちゃんは急激に仲良くなったわけだし……。そういうことなのかな」


答えの出ない問いを頭の隅に追いやり、月は由美にならって、今後目の前で何が起ころうとも深くは立ち入らないことを、心に固く決めた。


月が部屋に戻り、火照った頬を冷ましていると、間もなく由美、そして神奈と亜美が連れ立って戻ってきた。露天風呂であれほど艶やかな情景を見せていた二人だが、部屋に一歩足を踏み入れれば、驚くほど平静なものだった。

何事もなかったかのようにドライヤーで髪を乾かし、これから運ばれてくる夕食の献立について、弾んだ声で話し合っている。

由美はいつも通り、その輪の中で相槌を打ったり話題を振ったりしているが、月はどうしても先ほどの光景が頭をよぎり、なかなか自然に会話に混ざることができずにいた。


「ルナ、さっきからどうしたの? ずっと黙り込んじゃって……」


神奈が心配そうに顔を覗き込んでくる。その無防備な優しさが、かえって月の動揺を誘った。


「あっ、いや、なんでもないよ……」


慌てて首を振ると、テーブルに置かれた湯呑みのお茶を一気に口へ流し込んだ。


「ゆ、夕食、どんなものが出るのか、とっても楽しみだね」


ぎこちなく笑いを作ろうと必死な月の心境を察してか、由美がすかさず柔らかなフォローを入れる。


「ねぇ、夕飯が終わってお腹が落ち着いたら、本館の大浴場にも行ってみない? ジャグジーやサウナもあるってパンフレットに書いてあったわよ」

「それ、いいわね! 私、サウナに入りたかったの」


神奈が食い気味に身を乗り出すと、由美は安堵したように小さく息をついた。大浴場には他のお客さんもいる。そこなら、神奈と亜美の密やかな「熱烈な時間」は流石に起きないだろう――。

動揺する月を思いやった、由美なりの精一杯の気遣いだった。


「サウナ、いいわね。私も行きたい!」


月も神奈の言葉に被せるように同意した。

……けれど、亜美だけは少し困ったような苦笑いを浮かべ、小さく手を挙げた。


「ごめんなさい……。私、他のお客さんにタンポンの紐を見られちゃうのは、どうしても恥ずかしくて……」


月は思わず目を丸くした。

そして、この「亜美」という少女が、何に対して平気で、何に対して羞恥を覚えるのか、その輪郭が少しだけ見えた気がした。

自分が心を許した相手の前では、どんな秘め事さえも無防備にさらけ出すことができる。けれど、そうでない「他者」に対しては、ごく普通の、年頃の女の子らしい羞恥心を持っているのではないか。

由美が黙って彼女の奔放な行動を静観できているのも、きっとその「信頼の線引き」を理解しているからなのだろう。


それから十数分が過ぎた頃。控えめなノックと共に襖が開き、仲居さんの手によって夕食の膳が次々と運び込まれてきた。そこに並べられたのは、まるでドラマの高級官僚の会食シーンから抜け出してきたような、繊細で贅沢な料理の数々だった。

季節の草花が添えられた前菜、透き通るようなお造り、湯気を立てる黒毛和牛の石焼き……。一品ごとに凝らされた趣向と美しさに、三人は圧倒され、しばらく言葉を失って立ち尽くしてしまった。


「……すごい。こんなの、テレビの旅番組でも見たことないわ」


亜美が信じられないといった様子で目を丸くし、吐息のように漏らす。


「これ、本当に私たちが食べていいのかしら……。一体どんな人たちが、普段こういうものを口にしているのかしらね」


続いて由美も、畏れ多そうにポツリと疑問を口にした。月は、もはや芸術品に近い料理を壊してしまうのが惜しいと感じながらも、その姿を忘れないようスマホで数枚写真に収めた。そして、小さく溜息をつく。


「本当に、すごすぎる……。

神奈、ここって道場の契約宿だって言っていたけれど、師範や先生たちはよくこんな豪華な旅館を利用しているの?」


月の問いに、神奈は天井を仰ぎながら「うーん」と記憶を辿った。


「たぶん、現場の先生っていうよりは、本部役員とかの福利厚生用なんじゃないかな。私も詳しいことは知らないんだけど」


その言葉に納得しつつも、月はふと修学旅行のときの食事を思い出し、あまりの格差におかしさが込み上げてきた。あの時の質素な夕食も楽しかったけれど、目の前の光景は、もはや別世界のものだ。


「さあさあ、みんな。見ているだけじゃお腹は膨れないわよ。冷めないうちに食べちゃいましょう!」


料理を前に石像のように固まっていた三人を、神奈が明るい声で「解凍」し、ようやく席につかせることができた。


「「「「いただきます!」」」」


声を揃えて手を合わせると、ふわりと広がる芳醇な香りに包まれて、一日目の夕食が始まった。

一品ずつ丁寧に運ばれてくる、芸術品のような料理たち。それは単なる食事というより、五感すべてを震わせる未知の体験だった。見たこともない彩りを目で愛で、立ち上る湯気を鼻で愉しみ、舌の上でとろける深い味わいに身を委ねる。そんな至福のひとときに酔いしれ、ようやく一息ついた頃、四人の間に穏やかな会話の火が灯った。


「そういえば、私たちももうすぐ三年生なのね。なんだか、自分が受験生になるなんて、ちっとも実感が湧かないけれど……」


亜美が少し憂鬱そうな響きを混ぜて切り出すと、由美もどこか遠くを見るような目で頷いた。


「そうね。私なんて、ついこの前入学したばかりのような気がしているわ」

「本当に……。あと一年もすれば、みんなそれぞれの道へ進んで、バラバラになってしまう。そう思うと、なんだか急に悲しくなってきちゃうな」


月の言葉に、それまで明るく振る舞っていた神奈の表情が一瞬だけ曇った。彼女は何かを飲み込むように、手元のお椀の汁物を黙って啜っている。


「……ねえ、みんなは将来、何になりたいって思っているのかな?」


亜美は沈みかけた空気を払拭しようと、わざと明るいトーンで別の話題を投げかけた。そして、探るような視線を最初に向けたのは、一番身近な親友である由美だった。


「由美はどう? 何かやりたいこと、決まっているの?」

「うーん、そうね……。私は図書館の司書さんになりたいかな。大好きな本に毎日囲まれてお仕事ができたら、とっても素敵だなぁって……」

「ふふっ、なんだか由美らしいね」


由美の控えめで温かな夢に、亜美は納得したように微笑んだ。


「そういう亜美はどうなの?」

「うーん……正直なところ、全然決まっていないの。最近、学校でも将来就きたい職業や志望校を書かされるじゃない? あれいっつも回答に困っちゃうから、みんなの話を参考にしたくて……」


それを聞いて、月はふっと表情を緩めた。


「急に亜美さんらしくないことを聞くんだなぁ……って思っていたけれど、そういうことだったのね」


月は一拍おいて、自分の心にある道を見つめるように言葉を続けた。


「私は、薬剤師を目指しているよ。お母さんが薬剤師で、薬の研究をしているの。

だから私も、いつかそんな仕事ができたらいいなって……」


月がそう告げると、由美はきょとんとした目を向けた。


「あれ? 靖憲くんも薬剤師を目指していたわよね? もしかして、それって……」


ふいな詮索に、理由もなく頬が熱くなるのを感じる。


「い、いや……そういうのじゃなくて……っ」


慌てふためく月の様子を、神奈は小さく微笑みながら見守っていた。


「じ、じゃあ神奈は?

……って、道場を継ぐこと、よね?」


月が動揺を隠すように話を振ると、神奈は小さく息を吐いてから、ゆっくりと顔を上げた。


「うん。小さい頃から親に言われてきたことだけれど、それは私自身の夢でもあるから。早く世界チャンピオンになって、胸を張って道場を引っ張っていけるような、そんな人になりたいと思っているわ」


神奈の真っ直ぐな視線には、揺るぎない決意と信念が宿っていた。


「神奈。私、いつでも、いつまでも応援しているからね」


月の口からは、思わずといった風に励ましの言葉が溢れた。


「ええ、長月さんならきっと大丈夫よ」

「神奈、頑張って!」


三人からの温かな激励に、神奈は我に返ったように顔を赤らめ、照れくさそうに頭を掻いた。

それから四人はしばらく談笑しながらお膳を楽しみ、最後のデザートを食べ終える頃には、お腹の余力はほとんど残っていなかった。


「ふぅ……苦しい……。こんなにたくさん食べたのは初めてだわ」


亜美はお腹をさすりながら、満足げに微笑んだ。


「私も……。最近、減量でカロリーを抑えた食事ばかりだったから、なおさらお腹に堪えるわね……」


神奈も同じようにお腹を抑え、苦笑いを浮かべている。


「でも、本当に美味しかったわね。こんな贅沢な日が、あと二日もあるなんて夢みたい」


由美がそんなふうに幸福感を噛み締めていると、襖を叩く音と共に仲居さんが現れ、手際よくお膳を下げてくれた。


「こういうのって、どうやって私たちが食べ終えたタイミングがわかるのかしらね?」


亜美が誰に言うでもなく呟くと、三人はただ静かに微笑みを交わした。

窓の外はすっかり帳が下り、露天風呂を照らす灯りだけが静かに揺れている。四人が口を閉じれば、耳には一切の音が届かない。


「静か……というより、無音かしら」


それに気づいた由美が、ふと独り言のように口にした。

普段、都会の雑多な騒音の中で生活している彼女たちにとって、この徹底した静寂は心地よさよりも、むしろ不思議な違和感を伴っていた。何か言葉を紡いでいなければ落ち着かない。そんな、贅沢で少しだけ落ち着かない夜の時間が、ゆっくりと更けていく。


暫くして――


「ねぇ、少しお腹も落ち着いたし……これから本館の大浴場に行ってみない?」


静寂を破るように、月がそう提案した。部屋の露天風呂も格別だったが、本館にある広々としたジャグジーやサウナへの興味も捨てがたかったのだ。由美はすぐに同意したが、神奈は少し申し訳なさそうにお腹をさすった。


「ごめん、私はパスかな……。まだお腹がびっくりしてるみたいで、今はここで横になっていたいかも。亜美と一緒に留守番してるね」


結局、部屋に残る二人に見送られ、月と由美はバスタオルを抱えて本館へと続く長い廊下を歩き出した。

大浴場は、期待していた以上に広大だった。高い天井に響く心地よい水音と、立ち込める柔らかな湯気が、二人の身体を優しく包み込む。先客もまばらで、ほとんど貸切のような状態だった。


「ふふ、長月さんたちがいないと、なんだか急に静かになるわね」


洗い場で髪を流しながら、由美が小さく笑った。月は同意の微笑みを返す。

二人は並んで広い湯船に浸かり、ジャグジーの細かな気泡に身を委ねた。月は、揺れる水面を見つめながら、ふと心に浮かんだことを口にした。


「……ねぇ、由美ちゃん。私、薬剤師になりたいって言ったとき、石山君の名前が出てきて驚いちゃった」


由美は悪戯っぽく月を見つめ、お湯をパシャリと跳ねさせた。


「だって、二人の目標が同じなら、これからもずっと一緒にいられるなって思ったのよ」

「もう由美ちゃんてば……」


その反応に由美は小さく笑った。


「でも、もし本当に石山君と同じ道に進めたら、それは心強いかもしれないけれど……。私は自分の力でちゃんと生きていけるようになりたいの」


月が真っ直ぐな瞳でそう言うと、由美は少し真剣な表情になり、月の手に自分の手を重ねた。


「ルナさんなら大丈夫じゃないかな。

私が襲われて動けなくなっていた時も、身を挺して助けてくれた。そんな勇気と行動力があるんだから、ルナさんならどんな事だって叶えられそうな気がする」


その言葉に、月の胸に熱いものが込み上げた。身体だけでなく、心が本当の意味で「水無ルナ」として馴染んでいくのを感じる。湯気に濡れた視界の中で、二人は将来のこと、今の悩み、そして大好きな友人たちのことを、ぽつりぽつりと語り合った。

サウナで一汗流し、冷たい水シャワーで仕上げた後、二人はすっかり清々しい気分で大浴場を後にした。


「さて、神奈達は二人きりで何をしてるのでしょうか?」

「ふふっ…… ルナさん、心の準備しておかなきゃね」


火照った頬に夜の廊下の冷気が心地よく、二人は軽やかな足取りで自分たちの部屋へと戻っていった。


部屋に戻ると、そこには畳に敷かれた布団の上で枕を抱きしめ、楽しげに談笑する二人の姿があった。

月と由美は、てっきり先ほどのような甘い雰囲気になっているのではと身構えていたため、拍子抜けしたような、意外そうな目を向けてしまった。


「どうしたの? 二人とも……」


神奈が不思議そうに問いかける。


「い、いや……てっきり、その……」


月は言葉の先を紡ぐのを躊躇い、曖昧に濁した。そんな月の様子を察してか、由美が自然な動作で神奈の隣に腰を下ろしながら会話を引き継ぐ。


「……それで、そんなに楽しそうに何のお話をしていたの?」

「せっかく時間がたっぷりあるんだから、明日は普段できないような特別なことをしたいねって話していたのよ」


亜美が瞳を輝かせて、嬉しそうに答えた。


「「普段できないこと?」」


月と由美の声が綺麗に重なり、四人の間にどっと笑いが起きた。

月たちは、軽井沢らしいお洒落なカフェ巡りや、静かな森の散策などを想像していた。けれど、ニヤニヤと悪戯っぽく笑う神奈の口から飛び出したのは、想像の斜め上を行く提案だった。


「さっき亜美と相談して出てきた一つ目はね、『王様ゲーム』よ!」

「これまた、ベタな……。大学生の飲み会じゃないんだから」


月は思わず神奈にジト目を向けた。


「でも、実際にやったことはないでしょう?」


すかさず亜美が横から口を挟んでくる。


「やったことはないけれど……」


月が口ごもると、神奈と亜美は顔を見合わせて楽しそうに微笑んだ。


「まあ、これは天気が悪かったときや、夜の楽しみとして取っておくとして……本番はこっち。『シャッフル二人きりデート』なんてどうかしら?」

「「デート……?」」


月と由美は顔を見合わせ、それから目の前の二人を交互に見つめた。


「地元じゃ人の目もあるしなかなかできないでしょ。……と言っても、いつもの組み合わせじゃ変わり映えしないから、午前中はルナ・亜美ペア、私・由美ちゃんペア。午後からはペアを入れ替えて、ルナ・由美ちゃんペアと私・亜美ペアに分かれるの。そのまま街や公園をデートするのはどうかなって」

「た、確かに楽しそうだけれど……具体的にどんなことをするの?」


月は、由美とのデートを想像して不意に高鳴る胸の鼓動を抑えながら、問いかけた。


「これと言ってルールは決めないけれど、歩くときは恋人繋ぎをするとか、カフェでカップル用のメニューを頼んでシェアするとか。そういう『形』から入るデートを楽しんでみたいじゃない?」


神奈がそう言うと、


「あとルールじゃないけど片方が男子役になりきるってのも楽しいかもね」


亜美がそう付け加える。

これまで月は由美とは何度か一緒にお風呂に入り、同じ布団で寝たこともあった。それはそれで特別でかけがえのない時間ではあったが、それは同性とのスキンシップ。このデートも同性とではあるが、長いこと夢見てきた由美とのデートに心臓の高鳴りはおさまらない。


由美との恋人繋ぎ


公園のベンチでの会話


カップルメニューを一緒にたべる


そんな由美との時間を想像しただけで、その顔に幸せが溢れてくる。月は両手を胸を上で重ね、目を閉じて幸せそうな笑顔を浮かべていた。

由美は月の幸せそうな顔をみて優しく微笑む。……と同時に、亜美と神奈に顔を向ける。


「でも、二人とも…… いくら他所の地だからって、人前でチュッチュして、補導されたりしないでね」


由美にそう釘を刺され、亜美と神奈は苦笑いを浮かべ「気をつけます」と返答した。


そんな談笑も一区切り――

神奈が部屋の灯りを落とすと、あたりは一瞬にして深い闇と、窓から差し込むわずかな月光に支配された。神奈は自分の布団の上に立つと、迷いのない手つきで浴衣の帯を解き、肩からスルリと浴衣を床へ滑り落とした。淡い光の中に、鍛え上げられたしなやかな肢体のシルエットが、彫刻のように美しく浮かび上がる。一糸纏わぬ姿となった神奈が亜美の布団に手をかけると、それを待っていたかのように、亜美は静かに布団を広げて彼女を迎え入れた。

 間もなく、重なり合う肌が触れ合う微かな音、互いの唇を貪欲に求め合う音、そして舌が絡み合う艶めかしく湿った音が、隣の布団で身を固くしている月の耳に届き始めた。

 夕方の露天風呂で見せつけられた激しい口づけさえ、もはや予行演習に過ぎなかったのではないかと思わせるほど、濃密で熱い抱擁がすぐ隣で繰り広げられていく。

月や由美が眠りに就くどころか、意識をはっきりと保っている中で、何のためらいもなく始まった二人の睦み合い。それはこうした行為が、彼女たちにとって日常の一部として何度も繰り返されてきたものであることを想像させた。

二人の甘い喘ぎ声と激しい情動の気配は、月が天井を見上げてやり過ごそうとしても、どうしても視界の端に紛れ込んでくる。それはもはや、眠りにつくことなど到底許されないほど、生々しく濃密な熱を帯びていた。

 神奈と亜美は、今この瞬間、二人の世界に深く深く没入している。そこに水を差すような無粋なことは、到底できそうになかった。

 月は寝返りを打つふりをして、たまらず右側へと向き直った。するとそこには、同じようにこちら側を向いて横たわっている由美の姿があった。月明かりの下、目を閉じてわずかに開いた桜色の唇。その無防備で愛らしい横顔に見惚れていると、規則正しい寝息に混じって、小さく、けれど確かな熱を帯びた吐息が月の耳に届いた。ふと見れば、由美の布団は生き物のように小さく、小刻みに揺れている。

 月は見てはいけない秘密に触れてしまったような罪悪感に苛まれ、弾かれたように再び天井を仰いで、きつく目を閉じた。けれど、触れずともわかるほど、自身の身体もまた、抗いようのない熱に侵されていた。

両隣から伝わってくる、情欲を隠そうともせずこの瞬間を謳歌する気配。もはや月の理性では、身体の内側からせり上がってくる熱い衝動を抑え込むことはできなかった。

月は右手の掌を、吸い寄せられるようにそっと太ももの内側へと滑らせた。薄い布越しに、最も柔らかな部分に指が触れる。そこは想像以上に熱く、指先にはぬめりを持った体液がまとわりついた。


(私、こんなに……)


月は左手を浴衣の隙間から滑り込ませ、自身の豊かな膨らみを包み込むように触れた。「女の子」になってから、自ら進んでこんな行為に及んだことは一度もなかった。月はかつての記憶を頼りに、その柔らかな肌を慈しむようになぞってみる。


(……気持ちいい)


けれど、以前の自分とは決定的に違っていた。かつて知っていた、急勾配を駆け上がるような鋭い快感はない。ただ、深く、重く、身体の芯がとろけていくような感覚。

右隣に目を向ければ、高揚した顔で呼吸を乱し、時折喉の奥から切なげな声を漏らす由美の姿が見える。


*** 自主規制 ***

(全年齢対象のためシーンカット)

*******************


四人は共鳴するようにその高みに昇りつめた。

窓の外は、もうすぐ夜明けを迎えようとする、最も深い紺碧の色に染まっていた。


「明日のデート、楽しみだね……」


月の独り言に、三人の眠そうな、けれど幸せそうな返事が重なった。繋いだ手の温もりを感じながら、四人は深い、深い眠りへと落ちていった。


朝、六時――。

窓の外にはまだ夜の気配が色濃く残り、青白い薄闇が満ちる静かな部屋で、月は一人目を覚ました。ふと右隣を見れば、そこには由美の安らかな寝顔。そして左に目を向ければ、昨夜の情熱の名残を留めたまま、全裸で抱き合うようにして眠る神奈と亜美の姿があった。

これまでは自分の中に溜まる「女の子」としての熱を持て余し、戸惑うばかりだった月。けれど昨夜、三人の優しくも濃厚な手ほどきによってその熱を余すことなく溶かしてもらったおかげで、今の心は驚くほど澄み渡っていた。絡み合う二人を見ても、今はただただ「仲がいいな」と、愛らしさ以外の感情は湧いてこない。


(ああ……。人は、どうして争いなんてするのだろう……)


まるで悟りを開いた「賢者」のような穏やかな心地で、月はふと自分の匂いが気になり始めた。布団の中で、そっと胸元や手のひらに鼻を寄せてみる。

昨夜は溢れ出した蜜だけでなく、汗や涙、そして互いの唾液――あらゆる体液が混じり合い、肌に焼き付いていた。どれほど深い仲になったとはいえ、想いを寄せる由美にだけは、そうした「生々しい匂い」を悟られるのは耐えがたかった。

月は皆を起こさないよう細心の注意を払いながら布団を抜け出し、部屋付きの露天風呂へと向かった。

脱衣所に着き、帯を解いて浴衣を脱ぎ、カゴに預ける。浴衣の下は全裸だった。おそらく昨夜のあの喧騒の中で、ブラもショーツも剥ぎ取られ、どこかの布団の隙間にでも紛れ込んでしまったのだろう。

月は、大きなため息をこぼした。


(お風呂から上がったら、由美たちが起きる前に下着を探し出さないと……)


夜明け前の薄明かりの中、露天風呂の上では水銀灯が一つ、静かに湯面を照らしている。

月は洗面器でお湯を数回浴びて身体を清めると、岩造りの湯船へとそっと足を踏み入れた。肩までじっくりとお湯に浸かると、自然と「ふぅ……」という至福の吐息が漏れた。


(こうして一人で静かに入る露天風呂も、格別なものだな……)


月は手のひらでお湯をすくい、自身の肩に優しくかけた。


(それにしても、昨日は本当にすごかった……)


瞼を閉じれば、鮮明に蘇る昨夜の記憶。神奈と亜美の睦み合いには少しずつ耐性がついてきた月だったが、不意に思い出したのは由美のあの時の表情だった。とろんと蕩けた瞳、朱に染まった頬。それを想起しただけで、身体の芯が再び疼き出しそうになる。

今はまだ、爽やかな一日の始まりだ。

ここで再び熱に呑まれてしまえば、今日という特別な一日が、そのことだけに支配されてしまう。

月は雑念を振り払うように深く深呼吸をした。キリリと冷えた軽井沢の朝の空気が肺を満たし、少しずつ心が凪いでいくのを感じながら、月は白みがかった空に目を向けた。


――ポツリ


鼻先に冷たい一雫が落ちてきた。

それを皮切りに雨粒は勢いを増し、十数秒には大粒の雨が露天風呂の湯面を激しく叩き始めた。せっかく温まった肩に冷たい雨が突き刺さり、月は慌てて露天風呂を後にした。脱衣所から外を眺めれば、轟々という雨音と共に、屋根から溢れた雨水がまるで蛇口をひねったかのように流れ落ちている。


(せっかくお風呂で綺麗にしたのに、髪の毛が雨臭くなっちゃう……)


月はタオルで髪を拭きながら部屋に戻った。すると、激しい雨音に目を覚ましたらしい三人が、所在なげに窓の外を眺めていた。


「おはよう、ルナさん。すごい雨だね」


布団の上にちょこんと女の子座りをしていた由美が、月を見上げて声をかけた。


「うん。お風呂に浸かっていたら、突然ザーッと降ってきて驚いちゃった」


月は雨に濡れた髪を指先で弄りながら答える。


「私もお風呂に入りたかったんだけど……」


由美は残念そうに眉を下げ、白く霞む窓の外へ視線を戻した。


「……あぁ、これ、今日はずっと雨みたいだよ」


神奈が手元のスマホを見つめたまま、ウェザーアプリの予報画面を皆に提示した。画面には絶望的なまでに雨雲のマークが並んでいる。


「まじか、まどか……」


月は暗い表情で思わず呟いた。

ふと視線を落とすと、まだ全裸のまま布団に座っている亜美が目に入り、月は小さく「あっ」と声を上げた。


「亜美ちゃん、生理中だったよね? お布団、汚れてない?」


その言葉に、亜美も「あっ!」と声を上げて、自分が座っていた場所を確認するように飛び退いた。幸い、そこには一点の曇りもない白いシーツが広がっているだけだった。亜美はホッと胸を撫で下ろすと、昨日脱ぎ捨てた下着を身に纏い、立ち上がった。それに釣られるように、神奈も旅行カバンから今日着るための服を取り出し始める。


「ねぇ、これからみんなで本館の大浴場に行かない? 神奈と亜美ちゃんはまだ入っていないでしょう?」


亜美は「うーん……」と唸りながら、少しだけ考え込む素振りをみせた。


「今の時間なら他のお客さんもそんなにいないだろうし、大丈夫じゃないかな」


神奈が悩む亜美の横顔を覗き込みながら、優しく背中を押した。

それから四人は揃って大浴場へと向かい、朝の湯浴みを存分に楽しんだ。再び部屋に戻ると、そこにはもう布団の姿はなく、昨日到着した時のような整然とした空間が戻っていた。そして一息ついた頃、静かな足音と共に、湯気を立てる豪華な朝食が運ばれてきた。


「朝から、なんてご馳走なのかしら」


お膳に並んだ料理を前に、亜美は瞳を輝かせながら感嘆の声を漏らした。四人は揃って手を合わせると、静かに箸を進め始めた。


「この雨じゃ、外へ出るのは流石に無理そうね……」


神奈が焼鮭を口に運びながら、残念そうにぽつりと呟いた。


「うん。予報では明日は晴れるみたいだし、今日はこのお部屋でできる遊びを楽しみましょう」


月もまた、外の景色を惜しみながらも、前向きに答える。


「このお部屋でできること、ね……」


由美がそう口にした瞬間、四人の脳裏には、昨夜神奈たちが提案した『王様ゲーム』というワードが鮮明に浮かび上がった。


「ふふっ……。このメンバーでするんだから、あまりに過激な命令は禁止、ということでいいわよね?」


まだ誰も直接その名を口にしていないにもかかわらず、部屋にはすでにその遊びを始める空気が満ちていた。主語を抜いても通じ合ってしまう自分たちの関係に、由美は苦笑いを浮かべながら釘を刺す。


「それから、あんまりエッチなのも無しにしましょうね」


それは、言わずとも神奈と亜美に向けられた牽制だった。月も由美の視線を追うように、二人の顔を伺う。


「べ、別に、そんな破廉恥な命令なんてするつもりはないわよね?」


神奈が隣の亜美に同意を求めると、亜美は少し頬を染めて視線を泳がせた。


「え、ええ……もちろん。でも、ほんの少しエッチいのなら、いいのよね?」


その言葉に、月と由美は顔を見合わせて、もはや隠しきれない苦笑いをこぼした。


食事が終わった四人は、割り箸の袋を再利用して作った即席の「くじ」で、待望の王様ゲームを開始した。

「王様だーれだ!」という神奈の元気な掛け声と共に、ゲームは予想以上の盛り上がりを見せる。

「右から二番目の人が左隣の人に耳打ちで愛の告白をする」「全員で寄り添って記念写真を撮る」といった微笑ましい命令から始まり、亜美が王様になった際には「ルナさんと由美が三十秒間、恋人繋ぎで見つめ合う」という、二人の鼓動が外まで漏れそうなほどドキドキする命令も飛び出した。

昼食を挟んでも笑い声は絶えず、雨音さえも彼女たちの賑やかな宴を彩るBGMへと変わっていった。夕刻、遊び疲れた四人は再び本館の大浴場へと足を運んだ。湯船に並んで浸かりながら、昨夜の熱い時間や、今日一日でさらに深まった絆について、湯気に巻かれながら穏やかに語り合う。

部屋に戻り、豪華な夕食を心ゆくまで堪能した後は、誰からともなく自然と布団を寄せ合った。窓の外を叩く雨はいつしか止み、雲の切れ間から静かな月光が差し込んでいる。


「明日は、きっと晴れるわね」


神奈の穏やかな声を合図に、四人は繋いだ手の温もりを感じながら、昨夜よりもずっと穏やかで、満たされた眠りへと落ちていった。


 翌日――。

スマートフォンのウェザーアプリが予報していた通り、軽井沢の空は雲ひとつない見事な快晴に恵まれた。昨夜は四人とも早めに眠りにつき、一昨日のような激しい体力の消耗もなかったおかげで、心身ともに万全の状態でこの朝を迎えることができた。

そう、軽井沢を存分に満喫できるのは今日が最後。明日はもう、それぞれの日常が待つ家へと帰る日なのだ。

そして何より、今日の午後には由美とのデートが控えている。たとえそれが「お遊び」のカップルデートだとしても、月が密かに想いを寄せる由美との二人きりの時間であることに変わりはない。今日という日に、一片の悔いも残すわけにはいかなかった。


午前中、月は予定通り亜美とペアを組み、爽やかな風が吹き抜ける軽井沢の街へと繰り出した。


「ほら、ルナさん。あそこのお店、可愛い雑貨がたくさんあるわよ!」


亜美は朝から元気いっぱいで、約束通り月の手をしっかりと握り、指を絡ませる「恋人繋ぎ」でエスコートしてくれた。最初は他人の目が気になって仕方がなかった月も、亜美の天真爛漫な笑顔と、同級生でありながら年上の女の子を思わせるリードに導かれ、次第にこの非日常的な時間を楽しめるようになっていた。


二人でテラス席に座り、お洒落なブランチをシェアしながら、将来のことや昨日までの出来事を笑い混じりに語り合う。賑やかな街の喧騒が心地よいBGMとして流れる中、ふとした沈黙が訪れた。


「ルナさんてさ……」


不意に、亜美の瞳から悪戯っぽさが消え、真剣な眼差しが月に向けられた。


「由美のこと……好き、なのよね?」

「えっ?」


あまりに直球な問いに、月は手に持っていたフォークを止め、目を丸くした。


「そりゃあ、もちろん好きだけれど……。大切な友達だし……」


必死に誤魔化そうと言葉を紡ぐ月に対し、亜美は静かに首を横に振った。


「ううん。そうじゃなくて。なんて言うか……そうだけど、そうじゃないというか。ルナさん、由美を見る目が、恋をしている女の子の目に見えてしまうというか……」


月は反論しようと唇を動かしたが、亜美の澄んだ瞳を見つめているうちに、嘘をつくことが無意味に思えてきた。月は観念したように小さく息を吐き、視線をテーブルの上のカップへと落とした。


「……うん。亜美ちゃんの言う通り。私、由美ちゃんのことが好き。友達としてだけじゃなく、その……一人の女の子として」


一度口にしてしまうと、ずっと胸に秘めていた想いが溢れ出した。男だった頃から抱いていた憧れと、女の子になってより鮮明になった恋心。それが混ざり合い、今の自分を形作っている。


「いつから……?」

「わかんない。でも、気づいたら目で追っちゃってて。……変、かな」


自嘲気味に笑う月に、亜美はテーブル越しに身を乗り出し、月が繋いでいた手をぎゅっと握り締めた。


「ううん。全然変じゃないよ。由美はね、とっても純粋で、誰よりも真っ直ぐな人。そんな由美が選ぶ人が、もしルナさんだったら……私、それって最高に幸せなことだと思う」


亜美の言葉は、臆病になっていた月の心に温かな光を灯した。


「私は由美の親友として、全力でルナさんのことを応援するから……


亜美が月の耳元で小さく囁き、そっと背中を押してくれた。その力強いエールに、月は小さく、けれど確かな決意を込めて頷いた。


そして昼過ぎ、一度旅館のロビーで四人は合流した。それぞれの午前中の報告を済ませ、いよいよペアを入れ替える時間がやってくる。

神奈と腕を組んで楽しそうに戻ってきた由美が、少しだけ照れくさそうに、けれど期待に満ちた眼差しで月を見つめていた。


(いよいよだ……)


月は乱れる鼓動を落ち着かせるように、そっと胸に手を当てた。快晴の空の下、想い人である由美と過ごす特別な午後の時間が、今まさに始まろうとしていた。


「由美ちゃん、午後はよろしくね」


月がそう声をかけると、由美はニコリと微笑み返した。


「ええ、こちらこそ。どこへ行きましょうか?」

「その前にね……今日のデート、私が『男の子』っていう設定でエスコートしてみてもいいかな?」

「ああ、亜美ちゃんが言っていたやつね。ふふっ、それも楽しそう」


由美の快い同意を得た月は、ロビー脇の壁に掛けられていた姿見の前に立った。鏡に映る自分を真っ直ぐに見つめ、二、三度大きく深呼吸を繰り返す。そして、月は鏡の中の自分に言い聞かせるように、呪文のごとく呟き始めた。


「私は男、私は男、私は男、私は男、私は男、私は男、私は男、私は男、私は男、私は男、私は男、私は男、私は男、私は男、私は男、私は男、私は男……」


必死な形相で自分に暗示をかけ続ける月の姿を見て、由美は思わず苦笑いを浮かべた。


(月さん、なんだかものすごく必死……)


しばらくして、月は「ふぅ」と長く、重い息を吐き出した。憑き物が落ちたような、けれどどこか凛とした表情で由美に向き直ると、月は大きな手を由美の前へと優しく差し出した。


「由美ちゃん。それじゃあ、行こうか……」

「ええ……」


二人は指を深く絡ませる恋人繋ぎで手を繋ぎ、光の差し込むロビーを後にした。その背中を、神奈と亜美が静かに見守っていた。


「ねぇ……もしかして亜美、ルナと由美ちゃんのこと……」


神奈が真剣な顔で問いかけると、亜美は少しだけ寂しげな、けれどどこか清々しい表情を浮かべて、二人が消えていった玄関をじっと見つめていた。


「この旅行が始まってからルナさんを見ていたらね、なんとなくそんな感じがしたのよ。私はてっきりルナさんは石山くんが好きなんだと思っていたけれど……今考えると、彼に向ける視線は、同性の友達に向けるものと同じだった。それで、さっき月さんに思い切って聞いちゃったんだ」

「……そしたら?」

「うん。『由美のことが好きだ』って。

ルナさん、顔を真っ赤にして話してくれた。女の子同士だからって、随分悩んでたみたいだったけど……。でも、あんなに一生懸命に誰かを想えるなんて、素敵じゃない? だから、せめて今日くらいは、ルナさんが理想とする『王子様』でいさせてあげたかった」


亜美の言葉に、神奈は小さく感嘆の息を漏らした後、そっと隣に立つ亜美の手を包み込むように取った。


「そう。亜美は優しいね。この恋…… 実ると良いんだけど……」

「ええ、本当に……」



ロビーを出てから数分、軽井沢の柔らかな陽光が二人の肩に降り注いでいた。繋いだ手からは、互いの体温がじわりと伝わってくる。月は「自分は男だ」という暗示を胸に抱き、少し大股に、それでいて由美の歩幅を気遣いながら歩を進めた。


「ルナさん、今日は晴れてよかったね」

「うん…… ホント。俺、由美ちゃんと一緒に行きたかった場所があるんだ」


さっきの暗示のおかげか、月は男だった頃の一人称がスルリと出てくる。由美はそんなルナの「男の子」らしい振る舞いを可笑しく、そして愛らしく思いながら、その腕にそっと身を寄せた。

二人が辿り着いたのは、深い緑に囲まれた静かな公園だった。池のほとりにあるベンチに腰を下ろすと、月は鞄から水を買おうと立ち上がる。


「待ってて。……飲み物、買ってくるから」

「ありがとう、ルナさん」


自販機の前で小銭を落としそうになりながらも、月は必死にスマートなエスコートを心がけた。戻ってくると、冷たいペットボトルを由美の頬にいたずらっぽく当てる。


「はい。これ、由美ちゃんの分」

「ありがとう。なんだか、本当にデートみたいね」


由美のその一言に、月の心臓が跳ねた。「本当のデート」という言葉の響きが、遊びの設定を超えて、月の心を激しく揺さぶる。

その後、二人は旧軽井沢の路地裏にある、蔦の絡まる小さなカフェに立ち寄った。店内はアンティークな家具に囲まれ、落ち着いた時間が流れている。月は由美を奥の席へと促し、自分は入り口側に座った。


「す、すみません、注文いいですか?」


店員を呼ぶ声が少し裏返ってしまい、月は羞恥心で顔を伏せた。一方の由美も、いつもとは違う月の強気な、けれど精一杯の背伸びに、どう反応していいか分からず、手元のメニューをじっと見つめている。

運ばれてきたシフォンケーキを前に、二人はフォークを動かしながらも、会話はどこかぎこちない。


「あの……ルナさん。さっきの『男の子』っていう設定、どうしてやりたいって思ったの?」


由美が何気なく発した問いだった。

しかし、月は由美の顔をじっと見つめると、二年生になって由美と隣同士になってからの思い出があまりに鮮明に頭に流れ込み、言葉にできないほどの感情が溢れ出した。

不意に、月の頬を一筋の涙が伝った。


「ルナさん……?」


由美はその様子に驚き、目を見開く。月は溢れる涙を止められず、ただ視線を落として震える声で呟いた。


「ごめんなさい……。……ううん、違うの。ただ、由美ちゃんの隣にこうしていられるのが、自分でも信じられないくらい……嬉しくて」


由美は驚きながらも、そっと自身のハンカチを差し出した。月はそれを借りて目元を拭うと、まだ赤らんだ顔で小さく微笑んだ。二人の間には、先ほどまでの「遊びのぎこちなさ」とは違う、魂の奥に触れるような静かな熱が漂い始めた。


「最後に行きたい場所があるんだ」


月は由美の手を取り、街外れにある見晴らしの良い高台へと向かった。眼下には軽井沢の街並みが広がり、沈みゆく太陽が山際を燃えるような朱色に染め上げている。黄金色の光が二人のシルエットを美しく描き出していた。

風が吹き抜け、月の長い髪を揺らす。

月は由美に向き直った。もう、呪文も設定も必要なかった。


「由美ちゃん。私は……私は、由美ちゃんのことが好き。

由美ちゃんの笑顔も、優しい声も……

友達としてじゃなく、世界で一番大切な人として、ずっと君の隣にいたい」


静寂が二人を包み込んだ。

すると、由美の大きな瞳からも、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。


「ありがとう……。あの時、私が襲われた時も、ルナさんは自分の身を顧みずに必死で私を守ってくれた。それでルナさんの方がずっと酷くて辛い目に遭ったはずなのに……ルナさんは、いつだって自分のことより私の心配ばかりしてくれた」


由美は震える声で、月への積み重なる想いを吐露するように続けた。


「でもね、私……そんな風に笑ってくれるルナさんが、時どき見せる寂しそうな目が、ずっと気になっていたの。何かに怯えているような、何かを諦めているような、そんな瞳。私に何かできることはないのかって、ずっと……」


由美は溢れる涙を指先で拭うと、曇りのない、満面の笑みを月に向けた。


「ねぇ、ルナさん……こっちを見て?」


由美は月の首筋に細い腕を回した。

夕日に照らされた由美の顔が、ゆっくりと近づいてくる。月の唇に、柔らかく、温かな感触が触れた。

それは、羽毛が触れるような淡いキス。

軽井沢の涼やかな風の中に、二人の甘い溜息が溶けていく。


琥珀色の世界の中で、二人はどちらからともなく再び手を繋いだ。


夕闇が軽井沢の街を包み込む頃、月と由美はゆっくりと旅館のロビーへと足を踏み入れた。繋いでいた手は、入り口の暖簾をくぐる直前に、名残惜しさを隠すようにして解かれた。けれど、二人の間に漂う空気は、昼間とは決定的に違っていた。


「あ、帰ってきた! おかえりー!」


ロビーのソファでくつろいでいた神奈が、ぶんぶんと手を振って駆け寄ってくる。その後ろから、亜美も楽しげな微笑みを浮かべて続いた。


「どうだった? 二人きりのデートは。

ルナさん、ちゃんと王子様できた?」

「……まあ、精一杯は頑張ったよ」


月が照れ隠しに頬を掻くと、神奈と亜美は目配せをして、今度は由美の顔を覗き込んだ。由美は心なしか上気した顔で、けれどどこか潤んだ瞳で微笑んでいる。


「由美ちゃん、なんだか顔が赤いよ」


由美は亜美の言葉に笑顔をむける。

やがて夜が更け、四人は最後のお風呂を大浴場で済ませると、寝支度の整った部屋へと戻った。

一昨日は、あんなに騒がしく睦み合っていた部屋には、今は落ち着いた静寂が流れている。修学旅行の終わりのような、少しの寂しさと、深い充足感。四枚並んだ布団に潜り込むと、神奈が小さな間接照明だけを残して明かりを消した。


「私、この四人でここに来られて、本当に良かった」


暗闇の中で、亜美の穏やかな声が響いた。


「私も…… この三日間の事は一生忘れない。」


月は二人の会話を聞きながら右隣を向いた。そこには、月明かりを浴びた由美の寝顔があった。

高台で交わしたあの柔らかなキスの感触が、まだ唇に残っているような気がした。

由美からははっきりとした「答え」はもらえていない。けれど、由美は拒絶しなかった。

ふと、布団の中で由美の手が、月の手を探すように動いた。月は迷わず、その指先をそっと握りしめた。由美は眠りに落ちる寸前のような、か細く、けれど確かな力でその手を握り返してきた。


かつて男だった頃に抱いていた絶望的なまでの距離は、今、この温かな指先の重なりによって埋め尽くされている。

窓の外でかすかに揺れる樹々の音を聞きながら、月は明日からの新しい自分たちの関係に思いを馳せ、深い、安らかな眠りへと誘われていった。



2023年3月31日

あの眩いほどに楽しかった軽井沢の旅行から、数日が過ぎ去った。

カレンダーの上では、明日には最高学年である三年生としての生活が始まろうとしている。だが、月は未だに夢心地のような旅行の余韻から抜け出せずにいた。由美と過ごした琥珀色の夕暮れ、唇に残る柔らかな感触……。その記憶を慈しむように、日が高くなったこの時間になっても、月は枕に顔を埋めてまどろんでいた。


旅行以来、神奈や亜美、そして由美とも顔を合わせてはいない。けれど、あの日確かに縮まった由美との距離が、月の心を春の陽だまりのような温かさで満たしていた。これからの新学期、彼女とどんな時間を紡いでいけるのか。そんな期待に胸を膨らませ、穏やかな停滞を楽しんでいた、その時だった。


――ドタドタドタッ!


静まり返った家の中に、静寂を切り裂くような激しい足音が響き渡った。階段を一段飛ばしで駆け上がる、尋常ではないその気配に、月の身体が反射的に強張る。

数回、叩きつけるような荒いノックが鳴ったかと思うと、返事も待たずに勢いよく部屋のドアが開けられた。


「お兄ちゃん……っ!」


飛び込んできたのは、妹の暦だった。

そのあまりの剣幕と、今にも泣き出しそうな異様な表情に、月は弾かれたように枕から顔を上げた。


「……暦? どうしたの、そんな顔して」


月の問いかけに、暦の唇は小刻みに震えている。

先ほどまでの穏やかな空気は一瞬で霧散し、部屋の温度が急激に下がったかのような、刺すような緊張感が月を包み込んだ。


「神奈姉が……」


そう言うと暦の目からは大粒の涙が溢れだした。


十数分後、月は着替える間も惜しみ、寝巻きのまま外へと飛び出していた。

向かう先は神奈の自宅。サンダルがアスファルトを叩く乾いた音だけが、静まり返った住宅街に響く。全力で走り続け、何度か足をもつれさせて転びそうになりながらも、月はどうにか神奈の家の前に辿り着いた。

焼けるような肺の痛みに耐えながら、震える指で玄関のチャイムを押し込む。数秒の後、インターホンから神奈の声が聞こえてきた。


「……はい」

「俺、ユエだけど……っ!」


必死に声を絞り出すと、受話器の向こうで僅かな沈黙が流れた。


「……今、開けるね」


聞こえてきたのは、いつもの快活さを失った、ひどく静かな神奈の声だった。やがて、ガチャリと重い音を立ててドアが開けられた。


「神奈――」


息を切らし、乱れた髪のまま立ち尽くす月を見て、神奈は困ったように、けれどどこか悲しげな微笑を浮かべた。


「上がって……」


案内された神奈の部屋は、数日前までの生活感が嘘のように消えていた。机の上は整理され、部屋の隅には大きなスーツケースが二つ、出発の時を待つように鎮座している。その光景が、暦から聞いた知らせが現実であることを残酷に突きつけていた。


「……カナダに、行くって本当なのか?」


月が問い詰めると、神奈はベッドの端に腰を下ろし、静かに頷いた。


「うん。明日、発つよ。急な話でごめん。本当は昨日の夜にでも電話しようと思ったんだけど……なかなか言い出せなくてさ」


神奈は視線を落とし、自身の拳をじっと見つめた。


「女子空手の現世界チャンピオンに、トレーニングパートナーとして指名されたんだ。世界最高峰の環境で、自分の空手を磨くにはうってつけだと思わない?」

「神奈……」


その夢は、月も以前に聞いたことがあった。彼女の瞳には、一切の迷いがない。


「それで、いつ帰ってくるんだ?」

「四年後……かな。向こうの学校に編入して、高校もあっちで卒業することになってる」

「四年…… なんで、今なんだよ」


月の漏らした声に、神奈は顔を上げ、かつてないほど真剣な瞳で月を見据えた。


「チャンスは今しかないの。こんなチャンス、そうそうあることじゃない。トレーニングパートナーとしての指名だけれど、私は自分が世界一になるために行くの」


神奈の言葉には、退路を断った者の静かな熱が宿っていた。

月は何も言えなくなった。神奈にとって、空手はただの習い事ではない。それは彼女の生き方そのものなのだ。


「……亜美ちゃんたちには、言ったのか?」

「さっき、電話で話したよ。明日、由美ちゃんと一緒に空港まで見送りに来てくれるって……」


神奈はふっと笑ったが、その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。その瞬間、月の感情は決壊した。月は神奈を強く抱き寄せ、子供のように声を上げて泣いた。


初めて出会った日のこと。

身体が変わり、嵐のような混乱の中にいた自分を支えてくれたこと。

襲われた時に助けてくれた、あの頼もしい背中。

四人で笑い転げた軽井沢の、あの眩い夏の日々。


いくつもの思い出が、奔流となって頭を駆け巡る。神奈は月の頭を優しく撫でながら、耳元で静かに囁いた。


「ユエ、たったの四年だよ。その間、一度も戻らないわけじゃないし、スマホでいつでも話せるんだから」


その言葉に、月は言葉にならないまま無言で頷いた。


「それにさ、今度会った時、月の隣にいるのは由美ちゃんか、それとも石山くんか……楽しみにしてるよ」


月は神奈の肩から顔を離し、赤くなった目で彼女を見つめた。


「なんで、ここであいつの名前が出るんだよ」

「ええっ? だって、石山くんが月を見る目は、完全に恋する男の子の目だもん」


神奈が悪戯っぽく笑うので、月は露骨に嫌な顔をして見せた。神奈はふふっと微笑むと、コツリと月におでこをぶつけた。


「四年間……確かに長いけど、元気でね。帰ってきたら、私、世界一になってるから」

「ああ。神奈も元気で。……俺も、由美とちゃんと向き合って、神奈が帰ってきた時に胸を張れる自分になっておくよ」

「うん!」


神奈は月の手をとり、力強く握りしめた。その掌の硬い豆の感触が、彼女の覚悟を伝えていた。



翌日、成田空港の出発ロビー。

そこには、神奈を見送るために集まった月、由美、亜美の姿があった。

神奈はいつもの明るい笑みを浮かべ、大きなスーツケースを手に翻った。


「じゃあ、みんな元気でね! 帰ったらまた、みんなで旅行に行こう!」


精一杯の笑顔を見せる神奈に、由美と亜美が涙を堪えて手を振る。月はゲートへ向かう彼女の背中に向かって、力の限り叫んだ。


「神奈! 世界一、獲るんだぞ――!」


神奈は一度だけ振り返り、力強く右手を突き上げて応えた。その背中がゲートの向こうへ消えていく。

空へ飛び立つ銀翼をいつまでも見上げながら、月は隣に立つ由美の手を、静かに、けれど固く握りしめた。

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