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前編

2021年9月1日 水曜日

 埼玉県朝霞市。

朝の陽射しはすでに真夏の強さを取り戻し、住宅街に並ぶ家々の壁を白く照らしていた。アスファルトは早くも熱を帯び、むわりと立ちのぼる陽炎が遠くの景色を揺らしている。ビルのガラスが反射する光は鋭く、歩くだけで体力を奪われるようだ。それでも、どこからともなく響く蝉の声だけは衰えない。途切れることなく耳へと押し寄せ、蒸し暑さに拍車をかけるように水無月みずなしゆえの鼓膜を震わせ、不快感をじわりと増していく。


朝霞市立第666中学・二年生の彼は、長い夏休みを終えたこの日、重い足取りで学校へ向かっていた。

二年の二学期といえば、部活では三年生の引退を受けて後を継ぎ、学校生活では生徒会や委員会の中心として動くことが求められる。さらに一年後の受験の影もちらつき、何かと落ち着かない、まさに“中学生活で最も忙しい時期”。

水無月も例外ではない。剣道部では部長を任され、後輩を含む十三名の部員をまとめていく立場となったばかりだった。これから始まる慌ただしい日々を思えば、彼の歩みが自然と重くなるのも無理はなかった。


始業5分前、月が校門へ差しかかろうとしたとき、背後から地面を蹴る鋭い音が連続して近づいてくる。思わず振り返ると、ロングヘアを風に乱し、アスリート走りをしながら全力疾走で近づいてくる女子――。


「はぁっ……! ちょ、ユエ……待てって……!」


息も絶え絶えに叫びながら、彼女は月の肩に掴まり、その場でゼェゼェと呼吸を整える。月はそんな彼女を、うっすらジト目で見下ろした。

その少女の名前は長月ながつき 神奈かんな。月のクラスメイト。

和風で気品の漂う名前。実家は世界中に支部を置く空手道場の長女。本人も幼い頃から鍛え上げられ、全国大会では“無敗”という輝かしい実績を持ち、『光速の神奈』という異名までもつ正真正銘の実力者だ。


――が、しかし。


学業は中の下。部屋は片付けたことがあるのか疑うレベルで散らかり放題。そして学校生活においても、今日のように“ほぼ遅刻”が標準仕様となっている。

もし彼女が名探偵コナンの蘭姉ちゃんみたいな完璧女子だったら、名前のイメージそのままだったのに……と、月は思わず心の中でため息をつく。

とはいえ、月と神奈の仲は浅くない。

月は小学校の六年間、神奈の父が開く空手道場に通っており、二人は幼馴染のような関係だ。だからこそ、今日のように振り回されることが日常となってしまっている。


神奈は顔を真っ赤にし、大粒の汗をポタポタ落としながら、慌ててハンカチで額を拭っていた。


「お前なぁ……もっと余裕持って家出てこいよ」


月が呆れた声で言うと、神奈はしれっと月の横に並び、校門へと足を踏み入れた。


「だって―― メイが早く起こしてくれないから……」


むすっと口を尖らせて文句を言うその姿に、月は盛大なため息をつく。


「朝起きれないのを小学生の妹のせいにすんなっての。メイちゃん、もうすぐ受験なんだろ? 姉のお前が迷惑かけてどうすんだよ」


その“正論パンチ”を食らって、神奈はぷっつりと頬をふくらませた。


神奈の妹、長月メイ(ながつき めい)。

神奈とは対象的に、運動は苦手だが、学力は“超”が五つ並ぶレベルで優秀。生活態度も完璧そのもの。両親が道場経営で海外を飛び回っていることから、家事全般は小学生の彼女が引き受けているという。しかも、将来は医師を目指しており、来年二月の名門・桜蔭中学の受験に向けて毎日勉強漬けの日々を送っている。


――そんな妹に起こしてもらえず遅刻しかける姉。その対比があまりに鮮やかすぎて、月は再び小さくため息をこぼした。


「ねぇ、今日は始業式だけで終わり?」


まだ校舎にも入っていないのに、もう帰ることを考えている。そんな彼女に呆れ顔を向ける。


「いや、その後ホームルームで夏休みの宿題を集めるはずだ。ちゃんと忘れずに持ってきたよな?」


そういうと笑顔でスクバを「パンパン」と叩いた。


「パンパンじゃねぇーよ!」


その宿題は、三日前に神奈が半泣きで「たすけてぇぇ!」とすがりついてきた結果、月が手伝って仕上げた代物だった。

そのくせ彼女は今、まるで自力で完璧に仕上げましたと言わんばかりにドヤ顔で胸を張っている。

――ほんと、相変わらずだよな。

そんなおかしさに、月は思わず苦笑いを浮かべた。


「そういえばさ、夏休み明けに席替えするって、先生言ってたよね」


神奈の何気ない一言に、月の胸にずしんと重いものが戻ってくる。さっき消えかけていた夏休み明けブルーが一気に逆流し、月の表情は一気に曇った。その様子に、神奈が首をかしげる。


「え、なに? そんな暗い顔して?」


言いかけた神奈は、ふと目を見開き、ぱんっと手を叩いた。


「あっ、そういうことか!

いま由美ちゃんの隣の席だもんねぇ」


意地悪くニヤニヤしてから、神奈はケラケラ笑い出す。

佐藤由美―― 彼女は二年生になってからのクラスメイト。

神奈が積極的で明るくクラスではムードメーカー的な存在なのに対し、由美は物静かで殆ど特定の友達としか話しているのを見たことがない。率直に言ってしまえば影の薄い少女だ。しかし月は常にそばいいる神奈とのギャップに惹かれたのか、一目見た時から彼女が気になりだし、いつの間にかその存在が月の心の中で大きなものになっていたのだった。神奈はその月の心に気づかない訳はない。月を陰ながら応援しつつも、たまにこの様に弄っている。

神奈の無邪気すぎる笑いに、月は悔しさを隠せないまま、じとーっとした視線を神奈へ向けるしかなかった。


「でもまぁ、私がこんな事いうのもアレだけど、由美ちゃんのこと好きなら言葉に出さないと気付いてもらえないよ。

あと一年で私たち卒業なんだし、違う高校にいったら伝えるのますます難しくなるんじゃない?」


普段何を考えているのかわからない神奈だが、その言葉がずしりと胸に響いた。


「まぁ、それはわかってはいるんだけどさ……

その一歩が踏み出せないというか……」


神奈の言葉に、月は一瞬、うっかり余計なことまで言いそうになり、慌てて口をつぐんだ。


「つーかさ、お前はどうなんだよ。好きなやつとかいないのか?」


話題を変えるように問い返すと、神奈はぴたりと足を止めた。


「えっ、私? うーん…… まぁ、気になる子はいるんだけど」


そうつぶやき、人差し指を口元に当てて宙を見上げる。普段の騒がしい神奈とは違う、どこか繊細な横顔だった。


「でもさ。私の場合色々むずいんだよね」


頬をぽりぽりと掻きながら、苦笑いを浮かべる神奈。その仕草を見て、月はふとクラスで囁かれている噂を思い出した。


――神奈は、女の子が好き。


「そっか……」


月は特に意識したつもりはなかったが、返事はどこか素っ気ないものになっていた。

神奈とは、同じ部屋で二人きりになっても、肌が触れあうほどの距離にいても、月を特別意識している様子はまるでない。


――もともと神奈は、男女の区別なく友達が多い。それはもしかすると、男を恋愛対象として見ていないからなのかもしれない。


今の性的な多様性を尊重しようという考え方は、少しずつ世の中に広まりつつある。けれど、それがどこでも当たり前に受け入れられているわけではない。

とりわけ、中学校という場所は特別だ。

多感で、不安定で、好奇心と残酷さが同居する年齢の子どもたちが集まる、ひとつの小さな世界。

その閉ざされた空間の中で、「普通」と違う何かを公にすることが、どれほど大きなリスクを伴うか――想像するのは難しくなかった。

理解よりも先に噂が走り、好奇心が好意に変わるとは限らない。無邪気な言葉が、知らず知らずのうちに刃になることもある。

だからこそ、その話題は簡単に口に出せるものではない。守るための沈黙もまた、選択のひとつなのだ。

しかしそれがどれほど息苦しいか。

月は、ほんの少しだけ想像できた。


神奈は可愛い。

それは客観的に見てもそうだし、月自身の目から見ても疑いようがない。


けれど――

神奈の指向のこと。

そして、幼い頃から一緒に過ごしてきた時間。いわゆる「近すぎるがゆえに異性として見られなくなる」というウェスターマーク効果――

そんな要素が重なって、二人がお互いを恋愛対象として意識することはなかった。

気づけば距離が近くなっている。

気を張らなくても、一緒にいられる。

まるで―― 同性の親友のように。


そんな関係が、いつの間にか当たり前になっていたのだ。


(神奈って……ちょっと、不憫だよな)


そう思ってしまった自分に気づき、月はこの話題を無理に締めた。


二人は校舎へ入ってからも、長い廊下を並んで歩く。教室のドアも窓も開け放たれていて、蝉の声がそのまま校内へ流れ込んでくる。廊下の奥からはクラスメイトの大声が響き、普段よりずっと騒がしい。


「なんか、今日めっちゃうるさくね?」

「夏休み明けだし。久しぶりに会った友達と話したいんだよ、きっと」


神奈は淡々と答え、二人は二年三組の教室へと足を進めた。


「おはよー!」


元気よく声を上げ、それぞれ自分の席へ向かう。その途中、月はちらりと由美を探した。

夏休み前と変わらず、由美は野々村亜美の机を挟んで楽しそうに話している。その光景を見た瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。


(なんでホッとしてんだよ……)


自分でもよくわからない感情を抱えつつ、月は机にカバンを置き、男友達の輪へと加わった。


「よっ、ユエ!」


声をかけてきたのは工藤だった。

輪の中でひときわ目立つ、真っ黒に焼けた顔を見て、月は思わず目をぱちくりさせる。


「おう。久しぶり……って、お前その肌どした? ハワイ行ってきたのか?」

「ちげーよ。部活だ、部活」


あっさり返されて、月はようやく工藤が水泳部だったことを思い出した。


「つーかさ、お前。プール開放んとき一回も来なかったよな? 休み前、三回は必ず来いって言われてただろ」

「いや、俺も部活あったし……。部活ない日は塾あるしな」


月は肩をすくめてダルそうに答える。

すると工藤は、少し遠くで友達と喋っている神奈の方を顎でしゃくった。


「でもよ、お前のツレ―― あいつは殆ど毎回来てたぜ?」

「だろうな。あいつ部活入ってないし。

……ってか、あいつがプール行くのは単に欲求満たすためだろ」

「欲求? 長月が? 男目当てでプール行くタイプには見えねーけど」

「……いや、まぁ――」

(お目当ては女子だからな……)


月は心の中で呟き小さくため息をついた。


(……ってか、あいつは隠す気ゼロだな……)


「でもさ」と工藤の隣にいた石山が、にやついた顔で月に身を寄せてくる。


「お前は由美の水着姿、見たかったんじゃねぇの?」

「はぁ!?」


唐突すぎる一言に、月の鼓動が跳ね上がる。石山はさらに声を潜め、月の耳元で囁いた。


「俺、何回か見たぜ。由美がプールに行くとこ。うち、あいつの家の近くだしさ。窓から見えるんだよ。水泳バック肩にかけて出てくとこ」


ニヤリ、と石山は悪戯っぽく笑う。

そう。石山の家は佐藤由美の近所であり二人は幼馴染でもある。男子と殆ど話をしない由美だが、ごくたまにこの石山と会話しているのを目にすることがあった。

石山のからかうように覗き込むその顔に、月は思わず視線をそらした。


心臓がうるさい。

顔が熱い。


動揺を見せる月。


(……マジで、めんどくさい絡み方しやがって)


そんな言葉が喉の奥でこぼれそうになったとき、教室のスピーカーから始業式開始の校内放送が流れた。騒がしかった教室の空気は一瞬だけ静まり、すぐまたワイワイと生徒たちは廊下へと流れ出す。月も工藤、石山の後をついて体育館へ向かった。

体育館では、毎度のことながら校長の長すぎる話が延々と続き、そのあとインターミドルの報告会へすすんだ。壇上には空手の全日本で優勝した神奈の姿もあり、普段の破天荒さが嘘みたいに控えめなコメントを述べて、体育館全体からほぉっと感心の息が漏れていた。


そして始業式が終わり、ホームルームを挟んだ後、月と神奈は並んで帰り道を歩いていた。だが、神奈の隣の月は、朝以上に足取りが重い。神奈は苦笑しつつ、横目で彼を気遣う。


「くじ引きなんて狙っちゃダメなんだよ。

だいたいクラスは同じなんだしさ、元気出しなって」


その慰めも虚しく、月は地面を見つめたまま沈黙していた。

小学生でもここまで落ち込まないだろ……と、神奈は呆れたように口元を緩める。

そしてあまりに反応がないので、神奈は大きなため息をついてから月の前に回り込んだ。両手で月の頬をむにっと挟み、強制的に顔を上げさせる。


「ユエ、しっかりしなよ」


真剣な目で神奈は言い切った。


「二学期って文化祭も修学旅行もあるんだよ。仲良くなるチャンスなんていくらでもあるでしょ!

 あんまりうじうじしてると……他の男子に取られちゃうんだからね!」


最後の一言だけ、ほんの少し声が尖っていた。そして神奈は軽くほほえむ。「フッ」と微妙に得意げな微笑みだった。

月はその表情に苦笑を返す。


「わかったよ。慰めてくれてありがとな」


そう言うと、神奈は急に照れくさそうに視線をそらした。


「べ、別に……。ユエがずっとその調子だと、こっちまで気が滅入るから言っただけだし」


ぶっきらぼうな言い方なのに、耳までほんのり赤い。その様子に、月は思わず口元を緩めた。


二人は再び歩き出し、横並びに戻る。

しばらくして神奈が突然「あっ」と声を上げた。


「そういえばさ。ここだけの話なんだけど……」


声を落として、やたらと意味深な間を置く。


「一組の菊地くんと蒼乃さん。夏休みの間に付き合い始めたらしいよ」


月は「ここだけの話をそんな気軽に言うなよ…」と呆れた目を向けた。だが同じ学年で実際に恋が実った二人がいると知り、胸の奥がじわりと熱くなる。


自然と――ため息がこぼれた。


(……みんな、ちゃんと前に進んでるんだな)


その後、二人は神奈の自宅へ向かう三叉路て別れると、十分ほどして月の自宅へと帰ってきた。カバンから家のドア鍵を取り出し鍵穴に差し込んでドアを開ける。


「ただいまぁ」


月がそういうと、奥の部屋から、先に帰宅していた妹 暦の「おかえり」という声が聞こえた。月は声のしたリビングへ向かいドアを開けると、朝母親が準備した昼食を食べ終え、のんびりスマホを見ている暦がいた。その姿を前にもう一度「ただいま」というと、画面から顔をあげて見上げる。


「お兄ちゃん、おかえり。」


そう言い終わっても、暦の視線は月に向いたままだった。


「お兄ちゃん、何かあった?」


月はギクリとしながらも平静を装う。


「な、なんで?」

「いや、何となく……」


暦は目を離さない。

じーっと見つめるその視線に耐えられなくなった月は、「別に、何もないよ」といいながら視線を逸らしてしまう。


「そう。まぁ、いいけど……」


暦は含みのある語尾を残して、スマホに目を戻す。追求される事を危惧していた月は、ホッと胸を撫で下ろし自室に戻ろうとした時、


「あとで神奈姉にLINEして聞いてみよ……」


そんな呟きを耳にして、身体がピクリと跳ね上がった。暦も小学校に上がった頃から神奈の親が開く道場に通っている。そして神奈を実の姉の様に慕っているのだ。

そんな彼女に小学六年生でありながら女子特有の感の鋭さを感じた月は、後ろ髪引かれながらもも自室へと帰ってきた。


たった半日――


それどころか、たった三、四時間――

今日という一日が始まってからまだそれだけしか経っていないのに、月の体はもう限界みたいにヘトヘトだった。

食欲なんて、とてもじゃないが湧いてこない。

制服をハンガーにかけ、部屋着に着替えた月はそのままベッドの縁に腰を落ち着けた。

そしてベッド横に置いてあった飲みかけのはちみつレモンに手を伸ばし、何も考えず一気に喉へと流し込む。

空き缶をサイドテーブルへ置いた瞬間――

口の中に、妙なざらつく違和感が残った。

「げほっ!ゲホッ!」と咳き込みながら手にした缶に目を向ける。


(……あれ? これって、いつ開けたやつだっけ?)


嫌な予感がした次の瞬間、胃の奥から込み上げるような吐き気が一気に襲ってきた。月は口を押さえ、階段を駆け下りてトイレに飛び込む。


便器に顔を突っ込み、吐こうとする。

……だが、何も出てこない。


「お兄ちゃん!?」


騒ぎに気づいた妹の暦が慌てて背中をさすった。それでも胃はきゅうっと縮んだまま、まるで何かがせり上がってきそうなのに出てこない。

十分ほど経ってようやく顔を上げたが、月は青ざめたまま天井を見つめて呻いた。


「気持ちわりぃ……」

「何食べたの?」


暦が心配そうに覗き込む。


「はちみつレモン…… いつ開けたか覚えてないやつ」

「ゲッ……マジ?」


暦は眉をひそめ、信じられないものを見るような顔になった。


「お医者さん行く?」

「いや、いい……」


暦は少し考える。


「お母さん今日、残業で遅くなるから、スーパーでお弁当買っといてって。あとで私が行くけど、お兄ちゃん何か食べられそう?」


月はすぐに首を振った。


「いい……。食欲ないし。吐き気まだするから……寝る」


そう言い残し、冷蔵庫からドクターペッパーを一本取り出して部屋へ戻った。

月たち兄妹は母親と三人暮らし。父親は月が幼稚園の頃、仕事中の事故で亡くなった。その後は保険金や会社からの慰謝料、そして母の収入もあって、生活は一般家庭よりかなり良い方だ。

母は薬剤師の資格を持ち、大手製薬会社で研究員として働いている。そんな母親を誇りに思い月自身も、母の背中を追うように「薬学部に進む」と心に決めている――そんな未来がぼんやりと見えていた。


部屋へ戻ると、月はキンキンに冷えたドクターペッパーのプルタブを開けて、一気に喉へ流し込む。さっきの不快感を上書きするように、炭酸が喉を焼く。


(……喉と口の中の気持ち悪さ、だいぶマシになったかも)


そう思ったところで、ようやく大きく息がつけベッドの上で横になる。身体の不調が午前中の精神的ダメージを倍増させ、月は枕に顔を埋めてショックを噛み締めていたが、その意識はすぐに深いところに落ちて行った。



2021年9月2日 木曜日

朝の六時三十分。

薄いカーテン越しに差し込む柔らかな光が、月のまぶたをじんわりと照らした。

昨日の昼過ぎからずっと眠り続け、気づけば十八時間も経っていた。窓を開けたまま掛け布団もかけずに寝落ちしたのに、今はタオルケットが肩までかけられ、窓もカーテンもきちんと閉じられている。月は胸の上のタオルケットを握りしめ、安心するように身体を小さく丸める。


コンコン――。


ドアを叩く小さな音が静かな朝に響いた。その音を聞いた瞬間、月の瞼がピクリと反応する。


「ユエ、大丈夫か? 身体の具合はどうだ?」


ぶっきらぼうだけど、隠しきれない心配がにじむ声。ドア越しに聞こえてきたのは、月と暦の母――水無弥生みずなし やよいだった。

研究者らしい合理的な物言いと、感情をあまり表に出さない淡々とした性格。弥生は窓のカーテンをシャッと開けて朝の光を部屋に入れると、ベッドの上で半分起き上がった月に視線を向けた。

月はまだ頭がぼんやりしたまま、小さく返事をする。


「うん、大丈夫――」


その声に弥生の眉がピクリと跳ねた。


「……誰だ君は?」

「は?」


月はめんどくさそうに前髪をかき上げ、呆れたように母に言い返す。


「母さん、何言ってんの?

あんたの息子以外、何に見えるんだよ」


――そのとき、自分の声がひどく高いことに気づいた。それと同時に、手に絡みつく長い髪の感触。ゾクリ、と背筋に冷たいものが走り、月の顔から一気に血の気が引いた。


「な、な、な……何じゃこりゃあぁ?!」


月は慌てて自分の喉、髪、頬、全部を触って確かめ始める。不規則に動かすその手を弥生がすっと取り、掌で撫でるように触れた。


「ほほう……きめ細かい肌質」


そして、まじまじと月の顔を覗き込む。


「顔立ちは確かにユエの面影があるが……これは……」


弥生は人差し指を唇に当て、研究対象を見るような目になった。


「ユエ、バンザイ!!」


反射的に両手を上げた瞬間、Tシャツがめくられ――月は半裸になった。


「ちょ、ちょっと何すんだよ!!」


怒鳴った次の瞬間、胸元に――今まで存在しなかった“重量物”の感覚がのしかかる。恐る恐る両手を胸に触れると『むにゅ』という柔らかい弾力が手のひらに伝わる。


「ひぃいいっ!」


その感触に鳥肌が立ち、恐る恐る視線を下げた月の瞳が、盛大に見開かれた。


パイ・オツ


「わっ!わっ!わっ! ……何だよコレ……?」

「ほう、見事な発育だな。私と同じくらいあるんじゃないか?」


淡々と観察する弥生の声。

月は震える手を胸の前で広げ、自分の胸を凝視すると全身をガクガクと震わせた。


「ど、ど、どうなってんだよ、これ!?」


そんな目の前の現実を認められない月をよそに、弥生は「うーん」と唸りドアから廊下に向かって隣の部屋の暦を呼んだ。そして何秒かのち苛立ちの含んだ足音をたてながら月の部屋へとやってきた。


「うるさいなぁ…… 朝から何騒いでんの?!」


そう言いながら飛び込んできた暦は、月の姿を見て一瞬で石像と化す。


「……誰?」


短く問いかける暦。


「どうやらユエのようだな」


弥生が淡々と科学者みたいな口調で言うと、暦はゆっくり月を指さし、その指のまま弥生の顔を見上げる。


「お兄ちゃんって、もしかしてお姉ちゃんだったの?」

「暦、何言ってんだ?」


と月は否定するが、声が完全に“女子中学生の声帯”なので全く説得力がない。

暦はまじまじと胸を見入る。


「……いやこれ、どう見ても言い逃れできないよ」


そんな暦を、弥生は「ほいほい」と指で招くと、なぜか月の背後に座らせた。

二人とも頭の上に「?」が浮いている。


その瞬間――


「暦! 羽交い締め!!」


弥生の号令が飛び、月は「ひぃっ!?」と跳ね、暦は反射的に月の脇へ腕を差し込んでガッチリ拘束した。


「ちょっ、何すんだよ! 離せって!」


月は大暴れするが、幼少期から空手を叩き込まれた暦の拘束を破れるわけもなく、足だけピョコピョコ暴れる羽虫状態。


「はいはい、すぐ済むから」


弥生は月の足元に膝をつき、次の瞬間――

月の短パン、そしてパンツが“職人の早業”でスパッと剥ぎ取った。羽交い締めをしながら、それを見た暦は感嘆の声をあげる。


「お母さん、凄い!!」


弥生は「ちょっと失礼」と言いながら月の足を開かせ、顔をぐぐっと股間へ近づけて観察し始める。いくらこんな状態の身体とはいえ、この体勢には羞恥心を感じずにはいられない。

月は赤面しながら弥生の頭越しに自分の下半身を見下ろす。同じ様に暦も乗り出して月の下半身に注目した。

そこには――

あるはずの“アレ凸”が、ない。

完全に、ない。

そしてあるのは……


弥生は目の前の突起物をちょこんと触った。


「ひゃうぅ……」


月は思わずそんな声を上げてしまう。


「お兄ちゃん、可愛い……」


月の反応に、暦はついそんな呟きをこぼした。


「ふぅ……」


弥生が深~い溜息をつき、暦へ「よし、もう離していい」と指示する。暦が拘束を解いた瞬間、弥生は静かに宣言した。


「これで確定だな」


月は喉をゴクリと鳴らし、弥生を見る。

弥生はベッドの上に全裸で女の子座りする月を指差し堂々と言い放った。


「ユエ。お前の身体は完全に“女”だ!」

「お、俺が……女……?」


月は震えながらつぶやき――

そして月は弥生を見上げた。


「母さん……なんでそんなに落ち着いていられんの?」

「いや、めちゃくちゃ焦ってるよ」


弥生はなぜか平然と、コーヒーでも飲んでそうなテンションで即答した。


「おかしいだろこの状況!!」

「おかしいな。ものすごく……」


その言い方が淡々としすぎて、驚いてることが1ミリも伝わらない。月は唇を噛みしめながら、半ば涙目で弥生を睨む。

弥生はそんな月を見ながら肩をすくめて言った。


「まぁ、なってしまったものは仕方がないだろ?

それにお前が男だろうが女だろうが私の子どもには変わりない」

「いや、そういうことじゃなくて……」


月はそういうと、言葉を遮る様に弥生は話を続ける。


「まぁ待て。私は“男だからこうしろ”、“女だからこうだろ”なんていうつもりは全くない。だからお前が男だどうが、女だろうがどっちでも構わない。それにな……

――暦。ユエが女になって、何か問題あるか?」


突然パスを渡された暦は、一瞬だけ天井を見上げ考える仕草をし、すぐに正面を向いた。


「別に――

……っていうかさ。今のお兄ちゃん……いや“お姉ちゃん” かわいいし、凄くモテると思うよ。コッチの方がメリット多いんじゃない?」

「いや、言い直さなくていいから! それに俺、男にモテたかねぇよ……」


月が頭を抱えて大きくため息をついたところで、弥生が「よしよし」と手をパンパン叩いた。


「はい結論。特に問題なし! 目の前の現実、サクッと受け入れていこう。学校の制服と体操服はあとで注文に行くとして、それ以外はとりあえず私や暦の服でなんとかなるな」

「いやいやいや……適応早すぎんだろ……」


月は弥生の超高速・現実受け入れ能力に戦慄し頭を抱える。


「日常で困ったことは暦や神奈ちゃんにでも聞けばいいさ。じゃ、私は朝ごはん作ってくる!」


弥生はひらひらと手を振りながら、まるで何事もなかったように部屋を出ていった。

残された二人は顔を見合わせ、同時に大きくため息をつく。


「……すごいね、お母さん」

「ああ――」


母さんだからああなのか、研究者ってそうもんなのか? もし後者なら……俺、あんなふうになれる気しない。


――その後、下階から弥生の呼ぶ声があり、家族揃って朝食を食べた。その時、月は昨日風呂に入っていないことを指摘され、シャワーを浴びに浴室に向かった。慣れない身体を確かめるように洗った後、弥生が用意した下着を身につけて、昨日と同じ男子用の制服を身に付ける。身体が一回り小さくなったためワイシャツもズボンもブカブカだ。おまけに明らかに女子の顔立ち、胸の膨らみ、ワイシャツの背中にはブラジャーのラインが透けている。その姿で男子中学生を名のるのはどう見ても無理がある。


「なぁ、マジでこの格好で学校いくのか?」


鏡の前で月はワナワナと肩を震わせた。


「制服来るまで休むわけにもいかんだろ。公立高校受けるんなら、欠席は内申に響くからな」


確かにそうではあるが、この格好には違和感しかない――

そんな格好で外に出なければならないと思うと、憂鬱な気持ちはどんどん大きくなった。

羞恥心に押しつぶされそうになりながら月は玄関をあとにする。昨日とはまた別ベクトルの憂鬱を引きずりながら通学路を歩いていると、三叉路の脇から神奈がひょいっと現れた。


「あ、神奈。おはよう」


反射的に声をかける月。


「……お、おはよう……ございます」


その反応に「しまった」と思うよりはやく、神奈は完全に“警戒モード”に入り、頭のてっぺんからつま先までをじっくり観察された。神奈は完全に不審者を見るような目をしている。


「失礼ですが……どちら様でしょうか?

どこかでお会いした記憶は……」

「え、えーっと……」


言葉に詰まっていると、周囲を歩く同じ中学の生徒たちからも「何あれ?」みたいな視線を刺してくる。

月は意を決して神奈の手を掴み、彼女が出てきた脇道へと引きずり込んだ。


「ちょ、ちょっと!?」


これはまるで拉致である。


「俺だよ、俺……!」

「オレオレ詐欺ですか?」


面と向かったオレオレ詐欺は新しい。


「違う! 神奈のクラスメイトのユエ!!」

「ユエは男の子ですけど?」


ジトッ、とした目。

明らかに“通報ライン”に片足突っ込んだ感じだ。


(これ以上引き延ばしたら、神奈は何をするかわかんねぇな)


月は覚悟を決め、月しか知らない神奈の秘密を耳元で囁いた。


「――――」(ごにょごにょごにょ)

「なっ!? ちょ、ちょっと!!」


神奈は顔を真っ赤にして両手で月の口を塞ぐ。


「わ、わかった! わかったから!!」


そうしてようやく、“目の前の少女=ユエ”という超常現象を理解してもらえた。


「ふぅ……」


人生最大級の関門を一つ突破し、月は深く息を吐いた。


「それにしても……たった一日でユエが女の子になるとか、どうなってるの?」

「日数の問題じゃないだろ?」


そんなことは神奈も百も承知だが、目の前の現実が脳に追いついていない。神奈は月の服装に目をやった。


「それにしてもそのブカブカの制服…… それで一日過ごすつもり?」

「しょうがないだろ。いきなりだったんだから―― 今日帰ったら母さんと注文しに行くんだよ」

「注文してもすぐには届かないわよ」


そう言って、神奈は足を停める。

そして月の真正面に立った。

近い。近すぎる。

胸と顔がぶつかりそうな距離に、心臓の音が月の耳に轟く。


「身長は私よりちょっと低いね…… 体格は、だいたい同じ……」

「???」


月が首を傾げた次の瞬間、手首をガシッと掴まれた。


「じゃあ、うち来て」

「ちょ、ちょっと!?」


さっきとは逆の立場になり引きずられる月。有無を言わせぬスピードで、神奈は自宅方面へ歩き出す。


「私、制服もう一着あるから。それに着替えよ」


数分後、到着したのは長月家。

二人はドタバタと玄関を通り神奈の部屋へと入っていく。そしてそこにはデジャヴと思わせる光景があった。


「うわっ……」


思わず声を上げる月。

数日前、二人で必死に掃除したはずの部屋は、見事にリバウンドしていた。


「元に戻ってる……」

「そんなこと、今どうでもいいから」


何か言いたげな月を静止し、神奈はクローゼットを開け服を物色する。高そうな服がズラリ。さすがワールドワイドな道場の娘。神奈は制服をみつけるとハンガーをドア枠に掛けた。


「何してるの? もうすぐ始業だよ。早く脱いで」


急かされ、月は戸惑いながらワイシャツとズボンを脱ぐ。中の下着が露わになった瞬間、神奈は目を丸くして指をさした。


「……それ、どうしたの?」

「暦と母さんの…… 嫌だって言ったんだけど、付けないと胸が痛いって……」


恥ずかしそうに答える月に、神奈はうんうんと頷く。


「正論だと思うよ、おばさま」


着替え終えた月の周りを、神奈は値踏みするように一周。月は恥ずかしそうに俯いている。


「うん、予想以上に可愛い。

それにこの表情、見てるだけでグッとくる。中身がユエとか信じられないわ」

「……おっさんかよ」


時計を見ると、8時5分。


「神奈、時間!!」


二人は家を飛び出し、全力疾走。門が閉まる直前に滑り込み、膝に手をついて息を整える。


「まさか……二日連続で全力疾走とは……」

「ごめんな……」


月は乾いた笑いで謝罪し、二人は急いで二年三組へ。そして教室のドアに手をかけた瞬間、月が固まった。


「どうしたの?」

「……俺、入って何て言えばいい?」

「今それ考えるの?」


神奈は呆れ顔でため息をつく。


「考えてから来たのかと思った」

「母さんに“学校行け”って言われて、そのまま出て来たから……」


神奈は一拍置いて、月の肩をポンと叩いた。


「じゃあ簡単。“転校生です”って顔して入ればいいじゃない」

「それ無理があるだろ!!」


その時、背後から聞き慣れた声がした。


「そこの二人、もうすぐホームルームが始まるぞ」


振り返ると、担任の睦月が立っていた。


「長月、今日も遅刻ギリギリか?」


そう言った瞬間、睦月の目は神奈の隣に立つ少女に目が止まる。


「おや? 君は?」


月と神奈は同時に固まる。

神奈は覚悟を決め、にっこり笑って言った。


「先生、こちら―― 水無ユエさんです」

「よろしくお願いします!」


月は反射で深々と頭を下げた。

先生は数秒沈黙し、メガネを押し上げて言った。


「……ほう。朝から、情報量が多いな」


――こうして、月の“新しい学校生活”は、想像以上にハードモードで幕を開けた。



十分後――

月は睦月の後ろを半歩下がって歩き、教室前方のドアから入ってきた。その瞬間――


ざわっ。


いや、ざわざわざわっ!!

一瞬でクラスの空気が沸騰する。


「はいはい、静かにー」


睦月は慣れた様子で手を叩き、黒板に向き直る。


「今日はまず転校生を紹介する」


そう言って、チョークで大きく書かれた文字。


『水無月』


その一文字一文字が視界に入った瞬間、ざわめきはどよめきへと進化した。


「……え?」

「水無月?」

「え、あの水無月?」


睦月は振り返り、あっさりと告げる。


「彼女の名前は――

水無月みずなし・るなさんだ」


ユエ――いや、ルナは深々とお辞儀をする。


「水無ルナといいます。東京の港区立十番中学校から転校してきました。よろしくお願いします」


教室のあちこちから、遠慮のない小声が飛ぶ。


「同姓同名……?」

「いや、ユエじゃね?」

「でもどう見ても女子よね?」


(耐えろ……ここで崩れたら終わりだ……)


月が必死に平常心を保っていると、一人の生徒がスッと手を挙げた。


「先生。

水無ユエとルナさんは、親戚とかですか? それと今日ユエは?」


そう言ったのは石山だった。


(親戚……か、なるほど……)


月は石山が発した言葉に一つの案を見出した。黒板の名前を見た瞬間から、ずっと腑に落ちていない顔をしている石山に睦月は真顔で答える。


「ああ、ユエか」


睦月は軽く頷くと、窓の側へと歩いていき、遠い目を外に向けた。


「ユエはな、このルナさんの代わりに十番中学校へ行ってもらった」

(……って、おい!!)


月は顔を引きつらせ、それでも作り笑いを貼り付けて意を決して口を開く。きっと睦月のあの後ろ姿の向こうではうすら笑いを浮かべているのだろう……


「ユエは……私の双子の兄です。

 “双子は不吉”という謎の思想があって、うちのしきたりで生まれてからは別々に暮らしていました。でも――」


月は視線を落とし静かに口を開くと、その緊張感から教室のざわめきがピタリと静まる。


「ユエはいま、脱肛と脱腸と腸捻転を同時に発症して…… 大学病院が近い、私が通っていた学校に交代で転校することになりました」


一拍。


「当分の間は面会謝絶らしいので、そっとしておいてあげてください」


――場が沈黙する。


そして次の瞬間。

何人もの生徒が落ち着きをなくして、キョロキョロしながら不思議そうな表情を浮かべていた。


(……何だそりゃ!?)

(交代で転校ってどゆこと?)

(脱肛と脱腸と腸捻転って同時にくるもんなのか……?)


クラスの誰もが家庭ごとのセンシティブな問題と認識して触れてはいけない話題として、完璧にユエの存在を脳内封印した。


睦月は咳払いを一つ。


「……よし、じゃあ水無さんの席だが」


こうして月――

もとい、水無ルナの教室デビューは、誰も追及できない爆弾設定と共に無事達成したのだった。



そして七時間後――

二人は並んで教室を出た。

外に出た瞬間、空は「今から荒れます」と言わんばかりの暗雲。神奈は空を見上げ、手のひらを差し出す。


「……これ、雨来るね」

「来るな……」


月はうなだれ気味に相槌を打つ。

朝からずっと“女子力全振りモード”。

微笑み、相槌、愛想、微笑み、また微笑み。

放課後になる頃には、HPはほぼゼロだった。


「もうさ、普通にしてればいいじゃない」


神奈が呆れた顔を向ける。


「最初が肝心なんだよ。 ……にしても睦月のヤロー、なんだよあの設定」


「はは…… 先生、絶対楽しんでたよね」


神奈は苦笑いを浮かべる。



――今から七時間前。

教室前の廊下で担任・睦月と向き合った二人は、洗いざらい事情を説明した。最初は「何を言っているんだ君たちは」という顔だった睦月も、一学期間の出来事を話し、そして睦月が絶対に知られたくない趣味を口にした瞬間秒速で納得した。


「ユエがあんなこと言ったから、先生の腹いせじゃないの?」


神奈は今朝月に言われたことを思い出し、呆れた様に言うと月は力なく振り返る。


「仕方ないだろ…… 信じさせるには一番手っ取り早かったんだ。それより、降る前に帰ろうぜ」


昇降口を出て、二人は早足で歩き出す。

だが校門を抜けた瞬間――


ポツ。


月の鼻先に落ちた一滴を合図に、雨が本気を出し始めた。


「やばっ!走るぞ!」


二人は駆け出す。

雨足はどんどん強くなり、もはや“濡れる”どころではない。


「無理! これ無理!」


慣れない体で足を縺れさせ、転ばないようにと必死に走る月。


「ユエ、うち寄ろ!」


そうして二人は神奈の家へ避難した。

玄関に入ると、二人はハンカチで制服の雨を拭いながら、神奈が階段に向かい声をかける。


「メイー、ただいまー!」


二階からパタパタと足音がして、妹のメイが降りてくる。


「おかえりなさ――」


そこまで言って、メイの動きが停止。


「……?」


見知らぬ女の子が立っている。


「よっ、メイちゃん」


そんな彼女に名前を呼ばれ、メイは怪訝そうに目を細める。


「……お客さん?」


その一言で、月は我に返る。


「うん、ごめんメイ。タオル、二枚お願い」


神奈に言われ、メイは首を傾げながら浴室へ向かう。その背中を見送りつつ、月が小声で言った。


「……メイちゃんには、話してた方がいいよな?」


メイは暦のクラスメイトで、友達。

ここで食い違いが出ると、後が面倒だ。


「うーん…… そだね」


月は小さくため息をついた。


やがてメイが戻ってきてタオルを渡す。

二人は濡れた髪や制服を拭き始める。

その間、メイはずっと月をガン見していた。


「ありがとう、メイちゃん」


月がタオルを返し、神奈も続く。


「メイ、この人――水無ルナさん」


「……水無?」


その紹介に、月は苦笑い。


(こいつ、ここでも自己紹介させる気だな……)


メイはじっと月の顔を覗き込み、数秒考え――


「……ユエさん?」

「ふぇっ!?」


思わず素っ頓狂な声が出る。


「な、なんでわかったの……?」


するとメイは、くすっと小さく笑った。


顔立ち、体格、声。

どこからどう見ても完全に“女子仕様”。

家族ですら第一声が「……どちら様?」だったほど、元の姿とは別人レベルに変わっているというのに、メイは「水無」という苗字ひとつで、即座に月と結びつけた。


「わかるよ。だって――おんなじだもん」


さらっと言われ、神奈は思わず月の顔をじーっと覗き込む。


「……そう?」


神奈は首を傾げる。そして月は朝からのドタバタをざっくり説明すると、メイは目を輝かせて聞き入っていた。


「えー……なにそれ。マンガみたい」

「当事者は全然笑えないんだけどね……」


するとメイが、ふと思いついたように口をひらく。


「それで…… もう男の子には戻れないの?」

「「あっ!」」


その一言に、月と神奈は顔を見合わせた。


――言われてみれば。


今朝からここまで、戻れるかどうかなんて、考える余裕が無かった。そして沈黙のあと、月がぽつりと言う。


「……でも多分、もう戻れない気がする」

「え?」

「今朝、母さんに身包み全部剥がされて隅々まで調べられてさ。“構造的にも機能的にも完全に女性”だって断言された」


そこまでいうと月は一呼吸おいてメイに顔を向ける。


「そんなことになってるのに、母さんも暦も殆ど気にしていない様子で、普通に朝ごはん食べて学校来たってわけ」


神奈が引きつった笑顔を浮かべる。

メイは二人の顔を交互に見て、しばらく考え込み――


「でもさ」


にこっと笑う。


「ユエさんはユエさんでしょ?」


その言葉に、月は一瞬きょとんとし、次の瞬間、肩の力が抜けた。


「……まあな」


神奈も小さく笑う。


「そうだね。見た目は変わっても、中身は相変わらずだし」

「失礼だな!」


三人の間に、少しだけ空気が和らぐ。


外では、相変わらず雨が強く降り続いていたが、玄関先だけは、妙に落ち着いた時間が流れていた。


その後、二人は神奈の部屋へ移動した。

朝と寸分違わぬ相変わらずの散らかり具合。

神奈はそれを一切気にする様子もなく、制服の上着をさっさと脱いでハンガーに掛け始めた。


「ちょ、ちょっと待て! 俺がいるのに、なんだその無防備さは!」


月は慌てて顔を背ける。


「女同士なんだから別にいいでしょ」


神奈はケロッとした顔で続けた。


「それに、服濡れたままだと風邪ひくよ。

ユエも早く着替えなよ」

「い、いや…… でも……」


月は耳まで赤くしながら、壁の一点を凝視する。


「もう……仕方ないわね」


神奈はめんどくさそうに月の後ろの床にTシャツと短パンを置いた


「じゃあ、これ使って。私、飲み物持ってくるから、その間に着替えててね。コーヒーと紅茶どっちがいい?」


神奈はドアノブに手をかけながら聴いて来た。


「うーん…… じゃあ、紅茶お願い」

「あ、ごめん。コーヒーしかないの」

(じゃあ、聴くなよ!)


そう言いたげな月の顔みて微笑みながら部屋の外に消えていく。


「はあぁ……」


神奈が部屋を出ていくと、月は一人になった。

開けられた窓の外では雨が屋根を叩き、遠くには雷光がみえる。遠くで光ってから数秒―― 大きな雷鳴が轟いた。

濡れた制服をハンガーに掛け、用意してもらった服に着替える。


次に目に入ったのは――

床やテーブルに無秩序に散らばった服や雑誌の山。


「……相変わらずだな」


小さく呟きながら、それらを部屋の隅へまとめて積み上げる。最低限、テーブルの上だけは片付け、コーヒーが置けるスペースを確保した。


一息。


月はそのテーブルに額を預け、壁に掛かった制服をぼんやりと見上げる。


(――十四年間)


これまで一度も疑うことなく、“男”として積み重ねてきた時間。それが、たった一晩で根こそぎ裏返されてしまった。


(朝起きたら、女の身体になってるなんて……

 そんな現実、どう受け止めろって言うんだ)


これからの学校生活。

クラスメイトとの距離感。

そして、来年に控えた受験。


考えれば考えるほど、現実は重く、逃げ場がなくなっていく。


月は静かに目を閉じた。

今までのドタバタの陰に隠れていた不安が、「待ってました」と言わんばかりに押し寄せてくる。


――ぽたり。


テーブルに、小さな雫が落ちた。

それを拭う気力もなく、月はしばらくそのまま動けずにいた。窓の外では、雨音だけが静かに続いている。


どれくらい時間が経ったのか分からない。

ふいに、頬に柔らかな感触があった。

月がゆっくり目を開くと、目の前――ほんの十五センチほどの距離に、神奈の顔があった。身体には薄いタオルケットが掛けられている。


「あっ……ごめん。起こしちゃった?」

「ん……いや、大丈夫。俺、寝てた?」


月は目を擦りながら身体を起こす。


「うん。ちょっとだけ」


神奈はベッドの端に腰掛け、月の様子を窺うように見ていた。


「……泣いてた?」


その一言に、月は一瞬だけ言葉に詰まる。


「……多分」


否定はしなかった。

神奈はそれ以上踏み込まず、少し間を置いてから、静かに口を開く。


「ね。さっきからずっと考えてたんだけど……

ユエは、何が一番不安?」


月は天井を見上げ、しばらく黙っていたが、やがて観念したように息を吐いた。


「……将来」

「将来?」

「学校もそうだし、受験もそうだし…… 俺、この身体で、今までと同じように生きられるのかなって」


神奈は小さく頷く。


「それにさ」


月は言葉を選びながら、続けた。


「……由美」

「……ああ」


神奈の返事は、少しだけ慎重だった。


「前はさ、由美のこと異性として“好き”だった」


月は自嘲気味に笑う。


「でも今はさ…… 俺、女で。でも由美への気持ちはおんなじで…… この気持ちをどうすればいいのかなって……」

「……」


言い終えると、胸の奥がじんわり痛み、涙が頬をつたう。神奈はしばらく黙り込み、やがて、月の方を見て言った。


「気持ちは、消えないよ」

「え?」

「形が変わっても、立場が変わっても……

ユエが誰かを大事に思ったって事実は、なくならない」


神奈は少し照れたように微笑んだ。


「ユエ、昨日……聞いたよね? 私に好きな人、いないのかって」

「……ああ」


神奈は一度息を整え、月とまっすぐ視線を合わせる。


「私が好きなのは…… うちのクラスの、小笠原美佳さん」


月は何も言わず、静かに頷いた。


「あれ? 驚かないんだ……

そっか。ユエの耳にも入ってるんだよね……噂」


神奈は困ったように笑い、頬を少し赤らめてから、照れ隠しのように続けた。


「最初はさ、ただ話しやすい人だなって思ってただけだった。でも……気づいたら、目で追ってて」

「……」

「変だよね。 自分でも、ちゃんと“好き”って認めるまで、時間かかった」


神奈は肩をすくめる。


「誰かを好きになったら、一緒にいたいし、触れたいし、キスしたいって思うでしょ。女の子同士だと、一緒にいることも、触れ合うことも、異性より自然にできちゃう。でも……恋人になるっていうと、話は全然違う」


言い終えてから、神奈は首を横に振った。


「“難易度”とか言うと、ゲームみたいだけど、そうじゃなくて……」

「うん。言いたいこと、なんとなくわかるよ」


月は、神奈が言い切る前に静かに答えた。


「私ね、前に調べたことあるの。同性を好きになる人って、全体の8~13%くらいなんだって」


神奈は少し間を置き、続ける。


「そこからさらに、“受け入れてもらえる確率”を考えたら…… 普通の告白より、ずっと低い」

「……」

「だからって、その気持ちをなかったことにはできない。好きになっちゃった以上、逃げることも、忘れることもできないんだよ」


神奈は月を見て、少しだけ表情を和らげた。


「だからね……ユエが不安になるのも、迷うのも、当たり前だと思う。将来のことも、気持ちのことも、全部一気に答えなんて出せないよ」


一呼吸置いて、優しく言う。


「それに…… 急いで答えを出さなくていいと思う」

「……そう……かな?」

「うん。今日は今日でいい。明日のことは、明日考えよ」


神奈はそう言って、月の額を軽く指で弾いた。


「一人で抱えすぎ。幼馴染な上に親友なんだからさ。もっと頼ってよ」


月は一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。


「……ありがとう、神奈」


外の雨は少しだけ弱まっていた。

月は神奈と一時間ほど他愛もない話をして、雨が弱まったタイミングを見計らって家へ戻った。


「ただいま――」


リビングに入ると、ソファには弥生と暦が並んで座っていた。


「あ、おかえり。お兄ちゃん」

「ユエ、遅かったな」


二人はそう言いながら、自然と月の服装に視線を向けた。


「ん? それ、どうしたんだ?」


「ああ。帰りに雨に降られてさ。神奈に借りたんだ。制服も、予備があるからって貸してくれて……」

「なるほど。それは助かったな」


弥生はそうこたえる。


「神奈ちゃんには、あとで私からもお礼を言っておこう」


そう言いながら、ソファに置いてあったバッグを肩に掛ける。それに合わせて、暦もぴょこんと立ち上がった。


「よし、それじゃあ出かけるぞ」

「え?」


月は思わず首を傾げる。


「……みんなで?」

「そうだな。制服の注文だけじゃなくて、月の普段着とか日用品も必要だし。ついでに夕飯も外で済ませようと思ってな」


その言葉を聞いた瞬間、暦の表情がパッと明るくなる。


「お兄ちゃん……あ、違った!」


一拍置いて、にやっと笑う。


「お姉ちゃん! 今日、お寿司屋さん連れて行ってくれるんだって!」

「だから、わざわざ言い直さなくていいから……」


月は半目になって暦を睨んだ。


(この家、切り替え早すぎだろ……)


そんな月の内心などお構いなしに、弥生は玄関へ向かいながら軽く振り返る。


「ほら、ぼさっとしてると置いていくぞ」


こうして月は、制服と日用品、そして寿司という“現実逃避付き買い出し”へと向かうこととなった。

三人は車に乗り込んだ。月は助手席、暦は後部座席へと収まり、シートベルトを締める。

エンジンがかかり、車は静かに走り出した。

弥生はしばらく流れていたカーステレオの音量を下げる。すると車内は一気に静まり返り、タイヤがアスファルトを削る低い音だけが耳に届いた。


「それで、ユエ」


ハンドルを握ったまま、弥生が前を向いて問いかける。


「学校はどうだった?」


その瞬間、後部座席からも視線を感じる。

暦がシートの隙間から身を乗り出し、興味津々といった様子で聞き耳を立てていた。


「どうもこうも……って感じだよ」


月は窓の外に流れる景色を眺めながら、ぽつりと答える。


「一応、睦月先生には事情を全部話したけどさ。

クラスには“同姓同名の転校生”ってことにされて、挙げ句の果てに――」


そこで一度、ため息。


「ユエは双子の兄、って設定をする羽目になった」


その言葉を聞いた瞬間、弥生が小さく噴き出した。


「ふふっ……」

「……母さん、笑い事じゃないよ」


月がむっとすると、後部座席の暦は苦笑いとも引き攣った笑みとも取れる表情を浮かべている。


「でも、それって……」


弥生は笑いを噛み殺しながら続けた。


「全く別の名前を用意されるよりは、まだマシじゃないか? クラスに馴染みやすいように、先生なりに考えた結果なんだろう」

「……だとしても」


月は頬を少し膨らませる。


「絶対、面白がってるって。あの人、目が楽しそうだったもん」

「それは否定できないね……」


暦が小さく呟いた。

月はサイドウィンドウから忙しく行き交う街の風景を見ている。車は信号で減速し、ゆっくりと停止する。弥生はふと、サイドミラー越しに月の表情を確認した。


「でも」


赤信号の間に、柔らかい声で言う。


「朝に比べると、ずいぶんスッキリした顔になったな」


その言葉に、月は少し考えるように視線を落とした。


「……覚悟ができた、って言うほどじゃないけどさ」


ゆっくりと言葉を選ぶ。


「結局はこれも俺の身体なんだって思える様になったからかな。それにこんな状況、誰にでも起こるわけじゃないし」


月は小さく肩をすくめた。


「だったら、いっそ楽しんでみようかなって。

どうせ逃げられないならさ」


弥生は何も言わず、ただ一度だけ小さく頷いた。


「……そうだな」


信号が青に変わり、車は再び走り出す。

その後、三人は店を回り、必要なものを揃え、最後は寿司屋でお腹いっぱいになるまで食べた。

大きな事件もなく、派手な会話もない。

けれどその時間は、不思議と穏やかで――

月にとっては、長い一日の締めくくりとして悪くないものだった。



2021年9月3日 金曜日

水無宅、月の自室。

窓は閉め切られ、遮光カーテンのわずかな隙間から差し込む朝日が、ベッドの上で静かに寝息を立てる月の頬を照らしていた。その眩しさに耐えきれず、月はもぞりと寝返りを打ち、枕元の目覚まし時計へと視線を向ける。


(……もう朝か)


そう思った瞬間、半分寝ぼけた頭で口が勝手に動いた。


「ここは……朝霞……」


自分で言っておいて、そのくだらなさに思わず口元が緩む。月は目をこすりながら、ゆっくりと上半身を起こした。


「……あっつ」


寝る前にかけていたエアコンは、すでにその役目を終えているらしい。まだ朝だというのに部屋には熱気がこもり、月の額には大粒の汗が滲んでいた。

ベッドを抜け出し、月は勢いよくカーテンと窓を開け放つ。外から流れ込んできた空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。おそらく外気もすでに二十五度は超えているだろう。それでも、こもった室内の空気に比べれば、ずっと心地よく感じられた。


月は昨夜買ってもらった女性物の下着を手に取り、鼻歌まじりで部屋をでて浴室へ向かう。廊下を抜け、キッチンの前を通りかかると、そこには朝食の準備をしながらコーヒーを口にする弥生の姿があった。


「母さん、おはよう」


月が声をかけると、弥生は手を止めて顔を上げる。


「おはよう」


短くそう返しながら、月の様子を一瞥する。


「……なんだ。ずいぶん機嫌がいいな」


弥生のその一言に、月は――自分でも気づかないうちに、口元がわずかに緩んでいたことを自覚した。


「……そうか?」


一応、考える。

天井よりちょっと下あたりの中空を見上げて、原因を探してみる。……が、特に思い当たる節はない。


ただ――

気分がいい。理由はわからないけど、それだけは確かだった。月はもう一度弥生の方を向き、ふっと微笑むと、少し弾むような足取りで浴室へ向かっていった。


(ユエ……、仕草まで女の子っぽくなってきてないか?)


そんなことを考えながら、弥生は小さく微笑んだ。


――そして。

月が浴室のドアを開けると、そこには“先客”がいた。洗面台の前で鏡に向かい、真剣な顔で髪を整えている暦である。


「あっ、おねにいちゃん。おはよう」

「……なんだ、その呼び方?」


即座にツッコむ月。暦は悪びれる様子もなく、いたずらっぽく口角を上げた。


「だってさ、お兄ちゃんでもあって、お姉ちゃんでもあるでしょ? “おねにいちゃん”って、すごく合理的じゃない?」

「どこがだよ」


さっきまでの妙にご機嫌な気分が、この一言でじわっと削られていくのを月は感じた。


「……ていうか、某アニメですでに“おねにい様”って呼び方あったぞ」


その指摘に、暦はむっと頬を膨らませる。


「……先越された」

「そこ悔しがるとこか?」


その様子がおかしくて、月は思わずクスリと笑ってしまった。


「それよりさ」


と、月が話題を切り替える。


「暦、お前も学校だろ?」

「うん」


返事をしながら、暦はブラシを手に、丁寧に髪をとかしている。その姿を何とはなしに眺めていると、暦が鏡越しに視線を投げてきた。


「……で、おねにいちゃん」

「その呼び方やめろ」

「洗面台、使うの?」

「あー……」


月は一瞬言葉に詰まる。


「汗かいたから、シャワー浴びようかと思って……」

「ふぅーん……」


暦は意味ありげな声を出しながら、鏡越しに月をじっと観察する。月も負けじと動かず、じっと暦を見返した。


数秒の沈黙。


「……なに?」


耐えきれなくなった暦が聞く。


「いや……お前がいると、脱ぎにくいんだけど……」


その答えに、暦は大きく、わざとらしいため息をついた。


「別にいいじゃん。女の子同士なんだから」

 

さらに追撃。


「そもそも兄妹なんだし、気にする意味なくない?」

「……」


月は少し顔を赤らめ、視線を逸らす。


「いや、男の身体だったら別に平気なんだけどさ……」


言いにくそうに続ける。


「この姿だと、その……恥ずかしいっていうか……」


月の言葉に、暦は一瞬きょとんとしたあと―― にやりと笑った。


(あ、なんか企んでるな……)


そう予感した月の背中に、冷たい汗が一筋流れた。


「じゃあ、お兄ちゃん…… これから一緒にお風呂入る?」

「ばっ、ばか! なんでそうなるんだよ!」


月が即座に反応すると、暦は肩をすくめてニヤニヤする。


「えー、冗談だって。久しぶりに“兄妹っぽいこと言ってみた”だけ」

「やめろ、そのノリ……心臓に悪い」


月が頬を引きつらせていると、キッチンの方から弥生の声が飛んできた。


「暦ー! 朝ごはん食べる時間なくなるぞー!」

「あ、やば」


暦は一瞬でスイッチを切り替えると、月にウィンクをひとつ投げて浴室を出ていった。


「じゃ、続きはまた今度ね~」

「続きなんてねぇよ」


一人取り残された月は、大きく息を吐いた。


(朝から全力で振り回されてるんだけど……)


だが、暦の登校時間が迫っているということは、月にとっても同じだ。月は気持ちを切り替え、手早くシャワーを浴びると着替えを済ませ、キッチンへ向かった。そこでは暦がトーストを頬張りながら、牛乳を一気に流し込んでいる。


「ユエも早くしないと遅れるぞ」


弥生にそう言われ、月は席につくと、まずコーヒーを一口含み、続いてトーストを手に取った。もぐもぐと食べる月の様子を、弥生はじっと観察している。


「……どうだ、ユエ。ブラ、きつくないか?」

「うん。ちょうどいいよ」


あまりにも自然に返された答えに、弥生は一瞬目を瞬かせた。


(もう“慣れた返事”だな……)


その視線に気づいた月が、パンをかじりながら首を傾げる。


「母さん、どうしたの?」

「あ、いや……」


弥生は我に返ったように苦笑する。


「なんていうか…… 女の子としての振る舞いが、もう板についてきたなって思ってな」


月のトーストを食べ進める手が一瞬止まった。


「……自分でもそう思う」


月は小さく笑い、トーストを見つめた。


「昨日までだったら、こんな会話してるだけで頭パンクしてたと思うけど…… 今は、不思議と“これが普通”みたいな感じがしてさ」

「お兄ちゃんも適応力すごいじゃん」


暦が口をもぐもぐさせながら突っ込む。

朝の食卓に、軽い笑いが広がる。


(不安が消えたわけじゃない。

でも……少なくとも、独りじゃない)


カップの底に残ったコーヒーを飲み干すと月は立ち上がる。そしてカバンを肩に掛けて玄関を出た。ドアを閉め、ふと空を見上げる。

雲ひとつない、抜けるような青空。


「……今日は暑くなりそうだな」


目を細めてそう呟き、月は学校へ向かって歩き出した。朝の空気はすでに生温かく、日差しも強い。

いつもの通学路、見慣れた三叉路が視界に入ったとき―― そこに、カバンを手に俯いたまま立っている女子生徒の姿があった。


(……あれは)


月は自然と足を速め、小走りで近づく。


「おはよう、神奈。今日は早いな」


声をかけると、神奈は顔を上げ、


「おはよう」


と一言返したあと、なぜか真剣な表情で月の顔をじっと覗き込んできた。


「……ふぇ? ど、どうした?」


思わずたじろぎながらそう言うと、神奈は小さく微笑んだ。


「うん……なんか、大丈夫そうだね」


そう言って、ふっと表情を緩める。

月は頭の上に疑問符を浮かべ、首を傾げた。


「昨日、うちに来たときさ…… すごく落ち込んでたでしょ」


神奈はそう続ける。


「一人になって、また色々考え込んでるんじゃないかなって…… ちょっと心配してたの」

「そっか……」


月は小さく息を吐き、


「ごめんな。それと……心配してくれて、ありがとう」


そう言って微笑んだ。

すると神奈は、ぱちっと目を丸くする。


「……え?」

「ど、どした?」

「いや、その……」


神奈は少し言いよどんでから、


「今の言い方、なんか……女の子っぽかったなって」

「ははは……」


月は苦笑する。


「さっき母さんにも同じこと言われたよ」


そう言いながら、無意識に指で自分の頬を撫でる。その仕草を見て、神奈がふいっと距離を詰めてきた。


「……?」

「それと……」


くんくん。


「ちょ、なにしてんだよ」

「お風呂入ってきたでしょ」

「ああ。起きたら結構汗かいててさ」


神奈は小さく息を吐いた。


「前のユエなら、朝シャワーなんて浴びなかったかなって」

「……まぁ、そうかもしれないけど」


月は少し照れたように視線を逸らす。


「これから女子の中にいることも増えるだろうしさ。変な匂いしたら、嫌だなって思って……」


その言葉に、神奈は微笑んだ。


「そっか」


それ以上は何も言わず、二人は自然と並んで歩き出す。そして神奈は思い出したかの様に口を開いた。


「そういえばさ」


神奈がふと思い出したように口を開く。


「これから部活、どうするつもり?

さすがに、このまま男子剣道部ってわけにはいかないでしょ」

「まぁな……」


月は苦笑しながら肩をすくめる。


「そもそも、この身体で男子と試合なんて無理だろ。昨日だってさ、妹に羽交い締めされて全然抜け出せなかったし……体力、明らかに落ちてる」


そこで一拍置き、言いにくそうに続けた。


「……でも、だからって女子剣道部に入るのも、なんか罪悪感あるんだよな」


月は空を見上げ、独り言のように呟いた。

それを聞いた神奈は、少し考えるようにしてから、穏やかな笑みを浮かべた。


「男子って、良くも悪くも体力頼りなところあるでしょ。その体力が一気に削られたら、思ったように動けなくなるのは当然だと思うよ」


そう前置きしてから、続ける。


「でもね、暦ちゃんを見てれば分かると思うけど、体力が全てじゃない。サブミッションとか、合気とか、ウェイブとか、身体の使い方で十分カバーできる」


神奈はちらりと月を見る。


「ユエは“女の子になったから暦ちゃんの拘束を外せなかった”って思ってるみたいだけど…… 正直、男のままだったとしても、暦ちゃんの羽交い締めは外せなかったと思うよ」


その言葉に、月は黙り込む。

神奈の横顔を眺めながら、月の脳裏に少し前の記憶がよみがえった。



――小学校の六年間。

神奈の両親が開いている空手道場に通っていた日々。

大会ではそこそこの成績を残せた。

けれど、稽古では同い年の神奈に一度も勝てなかった。それどころか、体力で劣るはずの二つ下の妹に負けることさえあった。


(……向いてないんだ)


そんな思いから、小学校卒業と同時に空手を辞め、剣道部へ進んだ。そのときの、胸の奥に残った小さな敗北感が、今になってじわりと蘇る。


「だからね」


神奈の声が、月を現実に引き戻す。


「ユエが女子剣道部に入ったからって、必ず勝てるとは限らないと思うの。

空手もそうだけど、男子と戦うときは他流試合と同じ。極端な事を言えばボクシングと相撲の試合みたいなものかもしれない」

「……うーん」


月は唇を噛みしめ、低く唸った。

神奈は肩をすくめる。


「とはいっても剣道は剣道だから。

部活もあと一年ないし、今から全然違う部活に入るのも正直きついよね」

「……だよな」


少し考えたあと、月はぽつりと呟いた。


「じゃあ……やっぱり、女子剣道部か……?」


月の声には、まだはっきりとした迷いが残っていた。その声色や、わずかに曇った表情からそれを感じ取ったのだろう。神奈は少しだけ考えるように視線を落とし、やがて口を開いた。


「……じゃあさ」


一拍置いてから、慎重に続ける。


「また空手、始めてみない?」

「空手……?」


思わず聞き返す月に、神奈は頷いた。

今では、多くの学校で学外の体育・文化活動も“部活動”として認められている。それは野球やバスケ、サッカーといったクラブチームを思い浮かべる人が多いが、武道や吹奏楽、果ては落語まで、形はさまざまだ。


「それにさ」


神奈は言葉を重ねる。


「ユエ、今は女の子でしょ。

これから先、想定してなかったような場面に出くわすこともあるかもしれない。護身の意味でも、身につけておいて損はないと思うんだ」

「……たしかに」


月は小さく頷いた。


「それにユエがまたうちの道場に来てくれるなら凄く嬉しい!」


そう言って、神奈は軽く笑う。

そんな話をしているうちに、二人は校門へと辿り着いていた。周囲には同じ制服姿の生徒たちが何人もいて、流れに沿うように昇降口へ吸い込まれていく。


その人波の中で――

月の目にとあるクラスメイトの姿が入る。


「石山ぁ! おはよう!」


月が、反射的に声をかけた。

その瞬間、神奈がぎょっとした表情で月を見る。それに気づいた月は、


(……しまった)


とばかりに、慌てて手を口元に当てた。


「……おはよう、石山くん」


柔らかく言い直したものの、目の前の石山は目を見開いたまま固まっている。


「え……水無……さん? なんで、俺の名前を……?」


困惑した石山の声が、朝の校門前に小さく響いた。

そういえば昨日――

ホームルームの時間に「水無ルナ」として自己紹介はしたものの、その後に名前を教えてもらったクラスメイトは、数人の女子だけだったはずだ。


(……やばい)


月の脳内で、警報が鳴り響く。


「か、か、か、神奈に……」


月は一瞬息を吸い、


「ユエの友達の石山くんだって、教えてもらったんだよ」


と、早口で言い切った。

その様子はどう見ても自然とは言い難く、いわゆる“コナン君的言い訳”そのものだった。隣で聞いていた神奈は、口元をひくひくさせながら、引きつった笑みを浮かべている。


(それ、無理ある……)


だが、そんな二人の内心など知らず、石山は月の顔をじっと覗き込み、


「……ああ、そうなんだ」


と、あっさり納得したように微笑んだ。


「ユエの家族なら、まあ、そういうこともあるかもな」


その一言に、月は内心で大きく息をつく。


三人はそのまま並んで昇降口へ入り、人の流れに紛れながら教室を目指した。朝の校舎に響く足音の中、月だけが、ひそかに胸をなで下ろしていた。


「ルナさんてユエと兄妹なんだよね。ユエの容態はどうなの?」


月は昨日の自己紹介で話した事を思い出す。


「入院してからは会ってないんだけど、母の話だともう少しICUに入っていなくちゃいけないみたいですわ」


(初対面の人だ。丁寧に返答しなくては……)


そんな思いから、漫画にでも出てきそうな不自然なお嬢様言葉で返してしまう。それを気にする様子もなく石山は、


「いやさ、昨日帰るとき由美と一緒になって話してたら、ユエの事心配してるみたいだったから……」


石山がそう切り出した、その直後だった。


「まぢ?!」


思わず身を乗り出してしまった月に、神奈が「おいおい……」と言いたげな視線を向け、慌てて月の制服の裾を引っ張る。その様子を見て、石山は思わず小さく笑った。


「ああ。折角ならさ、妹の君から由美に伝えてあげた方が、あいつも安心するんじゃないかなって思って」


月は由美とほとんど話したことがない。

授業以外で会話を交わした記憶など皆無だ。思いがけず巡ってきたその機会に、月の鼓動は自然と早まる。頬を赤らめ、嬉しさを隠しきれない様子の月を、神奈は半ば呆れたように見つめ、掴んでいた裾からそっと手を離した。


「……なあ、ユエ」

「うん?」


次の瞬間、神奈は二人の手首を掴んだ。


「石山君、ルナ。ちょっと来て」


有無を言わせぬ勢いで引っ張られ、二人は教室から離れた音楽室へと連れ込まれる。扉を閉め、ひと息ついた神奈は、月を見下ろした。


「ルナ、あんたね……」


きょとんとした表情で見返す月だったが、神奈の焦りに気づき、恐る恐る石山の方へ視線を向ける。


「あの……石山……くん?」


もう遅かった。


「ユエ……なんだよな?」


月はゴクリと唾を飲み込む。神奈も隣に並び、「やれやれ」と言いたげに肩をすくめる。


「“恋は盲目”って言うけど、ここまで分かりやすいとはね……」


呆れたような神奈の言葉に、月は苦笑いを浮かべる。


「まあ、ユエは最初隠す気なかったみたいだし……相手が石山君で、ある意味良かったのかもしれないけど」


だが、当の石山は状況を飲み込めず、ただ立ち尽くしていた。月はもう一度小さく息を吐き、覚悟を決めたように口を開く。


「――昨日からのこと、全部話すよ」


静かな声で、月は自分の身に起きた出来事を語った。


「……最初は黙ってるつもりもなかった。でも、少し事情が変わってさ。このことは、他の人には言わないでほしい」

「言いふらす気は全然ないけど……事情、って?」


月は視線を落とし、ポケットからスマホを取り出す。


「突然性別が変わるなんてことがあるのか、ずっと調べてる。でも、そんな症例は一つも見つからない」

「まあ……聞いたことないな」

「もし世間に知られたら、検査だ何だって、知らない人に身体弄り回されることにもなりかねない。普通の生活なんか送れなくなるかもしれないそんなのはまっぴらごめんだ」


そう言って、月は石山を見上げた。


「この学校で知ってるのは、私たちと睦月先生だけ。書類上は、ユエの妹で転校生ってことになってるわ」


神奈は今の状況を付け加える。


「……あの先生が、そこまでやるとはな」


石山は苦笑しつつも、感心したように呟いた。少し間を置いてから、石山は遠慮がちに問いかける。


「でもさ……念のため聞くけど。お前、本当に……女になったんだよな? やけに上手い女装とかじゃなくて……」


月はしばらく黙り込み、やがて静かに目を開いた。


「……手、出して」

「え?」

「いいから」


恐る恐る差し出された手を、月はそっと取り、自分の胸元へと導いた。顔を赤らめながらも、真剣な眼差しで見上げる。


「どうだ? 作り物じゃないだろ」


すぐに手を離すと、石山は真っ赤な顔で固まったまま、自分の掌を見つめている。


「いいなぁ……」


そんな神奈の呟きに石山は我に返る。


「……分かった。十分、分かった」


小さく呟いた石山に、月はうなずいた。


「皆を騙してるみたいで心苦しいけど……

卒業まで―― いやこの身体でいるうちは女子として生きるつもりだ」


そのとき、天井に埋め込まれたスピーカーから「ジジジ……」という短いノイズが走り、間を置かず始業の予鈴が校舎に響き渡った。張り詰めていた空気が、現実に引き戻されるように緩む。

月と神奈は顔を見合わせ、小さくうなずき合うと並んで音楽室の出口へ向かった。


「……まあ、そういう事情だからさ。さっきの件、頼むよ」


月がそう言ってドアノブに手を掛けた、そのときだった。


「ユエ……」


呼び止められ、月は一瞬だけ動きを止める。振り返ると、石山が少し言いづらそうな表情で立っていた。


「さっきは……探るようなこと言って、悪かった」


月は何も言わず、ただ静かに微笑んだ。


「それと……さっき話した由美のこと。

お前のこと、心配してたって話……あれは本当だ」


その言葉に、月は思わず目を見開く。

少し驚いたように瞬きをし、やがて柔らかく笑った。


「……そっか。ありがとう」


短い言葉だったが、そこには確かな感情がこもっていた。二人はそのまま音楽室を後にし、廊下の喧騒へと溶け込んでいく。

一人残された石山は、しばらくその場に立ち尽くしていた。やがて、先ほど月に触れた自分の手を見つめ、胸元へと引き寄せる。


(何ドキドキしてんだよ、俺……)


胸の鼓動が、妙にうるさい。


(あいつは男友達のユエだろ。 ……なのに)


脳裏に浮かぶのは、照れた表情、上目遣い、柔らかな感触。


(……可愛かったな)


思わずそう思ってしまった自分に、慌てて首を振る。


(いや、違う。違うだろ……)


しかし一度芽生えた違和感は、簡単には消えてくれない。石山は教室へ向かいながら、胸の内に渦巻く感情を持て余していた。



2021年9月4日 土曜日

夏休みが明けて、最初の土曜日を迎えた。

振り返れば、たった三日間とは思えないほど、これまでの人生では考えられない出来事が立て続けに押し寄せてきた。

中でも最大の変化は――一夜にして訪れた女体化だった。

十四年ものあいだ当たり前のように「男」として過ごしてきた日々は、何の前触れもなく、あっさりと覆されたのだ。


朝霞市立第666中学校二年の女子生徒・水無ルナ。

来週に控えた夏休み明けの課題テストに向け、彼女は今、自室で机に向かっている。机の上には塾で配布されたテキストが広げられ、一学期分の範囲には色とりどりの付箋が何枚も貼られていた。

問題を解き進めながら、間違えた箇所には赤ペンで自分なりの補足や解説を書き足していく。その筆致は迷いがなく、集中力の高さを物語っている。

一学期の期末テストでは、二学年365人中十三位という成績を収めた。だが、県内トップクラスの県立高校を目指す月にとって、それは満足する結果とはいえない。さらに上を見据え、朝食を終えてからすでに四時間近く、こうして机に向かい続けていた。ふと顔を上げると、壁掛け時計の針は十一時半を指している。

「ふぅ」と大きく息を吐くと、机の端に置かれたアイスコーヒーを一口含んだ。「夏の暑さもお盆まで」とは言うが、九月に入ったと言うのにこの暑さは和らぐ気配を見せない。置いたばかりのグラスに、もう一度手を伸ばす。溶けた氷で薄まり、すっかり麦茶のような色になったアイスコーヒーの残りを、そのまま喉へと流し込んだ。


「……そろそろ昼か」


ぽつりと呟いた瞬間、弥生が今日は休日出勤で家にいないことを思い出す。


(そこまで腹は減ってないけど……暦にはちゃんと昼、食べさせないとな)


そんなことを考えながら立ち上がろうとした、そのときだった。机の上に置いていたスマホが、ぶるりと震える。画面に表示された名前は――神奈。月は軽く息を吐いてから、通話ボタンをタップした。


「やっほー、ルナちゃん!」


スピーカー越しに、相変わらず元気な声が響く。


「ルナちゃんじゃねーって……」


即座に突っ込むが、神奈は気にした様子もなく続ける。


「ねぇ、これからユエの家、行ってもいい?」


完全にスルーされたことに小さくため息をつきつつ、月は問い返した。


「なんか分かんないとこでもあったのか?」


神奈も課題テストに向けて勉強しているはずだと思い、そう聞いてみる。


「うーん……そういうわけでもないんだけどね」


歯切れの悪い返事に、月は一瞬考えてから肩をすくめた。


「まぁ、別にいいけど……神奈、もう昼は食べたのか?」

「まだー」


即答だった。


「じゃあ、うちで一緒に食べるか?」


そう提案すると、電話の向こうで嬉しそうな声が聞こえた。


それから十分ほどして、キッチンに立つ月が冷やし中華の下ごしらえを進めていると、玄関のチャイムが鳴り響いた。リビングでスマホを弄っていた暦に声をかけ、出迎えを頼む。

ほどなくして、楽しげな声が二つ重なりながらリビングへと戻ってきた。リビングと一続きになったキッチンに立つ月を見つけると、神奈が首を傾げて尋ねる。


「あれ? おばさまは?」

「お母さん、今日は仕事だって」


暦がそう答えると、神奈は「そっか」と納得したように頷き、手にしていた大きな紙袋を床に置いた。


「ユエ、何か手伝おうか?」


気軽にそう声をかけられたが、月は鍋を火にかけながら首を振る。


「もうあとは麺を茹でるだけだから。座ってていいよ」


暦はその間に麦茶をグラスに注ぎ、三人分をテーブルに並べた。やがて、月お手製の冷やし中華が食卓に並ぶ。具材はきゅうり、ハム、卵焼きといった定番に、彩りとしてトマトが添えられている。それを見た神奈は、ぱっと表情を明るくした。


「わぁ……冷やし中華だ!」

「好きなのか?」

「大好き!」


目を輝かせる神奈を微笑ましく眺めながら、月も席につく。三人は揃って手を合わせた。


「「いただきます」」


一口食べるなり、神奈は満足そうに頷く。


「やっぱり夏は冷やし中華だよね。きゅうりのシャキシャキ感とハムの旨みが、タレの酸っぱさとちょうど合ってて……いくらでも食べられそう」


その熱のこもった感想に、月と暦は思わず笑い声を上げた。


「神奈って、食レポ上手いよな」

「うん。神奈お姉ちゃん、そのままテレビ出られるよ」


二人にそう言われ、神奈は少し照れたように笑う。


「だって、本当に美味しいんだもん。それに……ユエの料理、ちゃんと食べるの初めてかも」

「え? そうだっけ?」


月は記憶を辿るように天井を見上げる。

そんな会話をしながら食べ進めていた暦は、ふと視線を神奈が持ってきた大きな紙袋へと向け、麦茶を一口飲んでから尋ねた。


「ねぇ、神奈お姉ちゃん。その袋、何入ってるの?」


その言葉に、月も紙袋へと目を向ける。


「ああ、これ? さっき部屋を片付けてたら、着れなくなった服とか、あんまり着てないのが出てきてさ。ユエにあげようと思ってもってきたの」

「え……?」

「ユエ、女の子の服、まだあんまり持ってないでしょ? 暦ちゃんも、気に入ったのがあったらどうぞ」


その一言に、暦はぱっと表情を輝かせる。


「ほんと!? やった!」

「確かに、この前母さんが買ってくれたのが数着あるくらいだけどさ…… でも来週テストなのに、なんで今そんな大掃除してんだよ」


月が半ば呆れたように言うと、神奈は頬を膨らませ、小さく「だって……」と呟いた。聞けば、今朝神奈は課題テストの勉強をしようと机に向かったが、部屋の散らかり具合が気になって片付けているうちにクローゼットの中まで整理することになったとの事だった。

月は苦笑いを浮かべながら麺をすする。


「まぁ、わからなくはないけど……

普段から部屋を片付けていれば、気が散ることもないだろ?」


神奈はますます頬を膨らませ口をとげていたが、暦の「まぁ、まぁ……」の一言でその場の空気は元にもどった。

機嫌を取り戻し麺を啜り始める神奈。

口の中のものをゴクリと飲み込むと……


「ねぇ、これ食べたら三人でファッションショーしましょ」


月は露骨に嫌な顔をした。

一方暦は嬉しそうな満面の笑みを浮かべた。月はそんな暦の様子に苦笑いを浮かべ大きなため息をつく。


(まぁ、暦も楽しそうにしているし……)


三人は冷やし中華を食べ終えると、場所を移して月の部屋へとやってきた。


 きちんと整えられた室内。机の上には、さっきまで使っていた参考書が開いたまま置かれている。そんな様子を一瞥しただけで、神奈は特に気にする様子もなく、床に置いた紙袋をガサゴソと開いた。


「ジャーン!」


 自前の効果音付きで、最初に取り出されたのは青色のワンピースだった。


(あ……これ、神奈が去年よく着てたやつだ)


 神奈が「ファッションショー」とか言い出した時点で、もっと突飛なものが出てくるのではと身構えていた月は、思いのほか普通な服に胸を撫で下ろす。


「じゃあ、これ暦ちゃん着てみる?」


 そう言われるや否や、暦は目を輝かせてワンピースを受け取ると、自分の部屋へと駆けていった。


「……で、次に取り出したるは……」


 そう言って取り出したのは、ブレザーとチェックのスカート。


「ブレザー?……っていうか、それ、どっかの制服っぽくない?」

「うん、阿知賀女子学院の制服」

「……」


 思わず頭を抱える月。


「他のはないのか?」


 そう言うと、神奈は不満そうに唇を尖らせ、再び紙袋の中を漁り始めた。

 そのタイミングで、ドアが開く。


「じゃーん!」


 ワンピース姿の暦が、くるりと回って見せた。明らかにまだ少し大きいが、それが逆に初々しい。


「うん、ちょっと丈は長いけど、かわいいかわいい!」


 神奈は満足そうに頷くと、今度はスカートやパーカーをいくつか手渡す。


「じゃあ、次はこれも試してみて」


 暦は嬉しそうにそれらを抱え、再び自室へと引っ込んでいった。


「……で、ユエには――これ!」


 満面の笑みで神奈が差し出したのは、鮮やかな青のチャイナドレス。


「……神奈。これ、本当に着たことあるのか?」


 月は肩を小刻みに震わせながら問いかける。


「もちろん! 春麗に憧れてた時期があってね。道場のパーティで一回着たよ。ほら、ちゃんと手首の飾りも付いてるし……」

「“付いてるし”じゃねぇよ…… どう見てもコスプレだろ」

「あの時の私はちょっと胸が寂しかったけど、ユエならきっと似合うと思うよ」


 月のツッコミにも構わず、神奈はチャイナドレスを推してくる。


「これは暦ちゃん用だから!」


 そう言いながら、さらに紙袋の中身を分別していく。月の前に残っていたのは、巫女服、メイド服、そしてスク水など――

 月は無言で天井を仰いだ。


(……この紙袋、絶対開けちゃダメなやつだった)


 月が苦笑いを浮かべていると、神奈はそれを面白がるように「ふふふっ」と声を漏らした。何がそんなに可笑しいのか分からず、月の頭には疑問符が浮かぶ。


「……と、ここまでは冗談ね。本当は一回くらい着せてみたかったけど……」

「なーんだ……って、やっぱり着せるつもりだったのかよ」


 そう言いながらも、月が紙袋の中を覗くと、神奈は一番下から丁寧に包まれた小さな箱を取り出した。きちんとリボンまで掛けられている。


「本当のプレゼントはこっち。幼馴染で、親友のユエが女の子になったお祝い」


 月は思わず言葉を失う。


「正直さ、ユエにとっては素直に喜べる状況じゃないって分かってる。でもね……同性の友達として、これからも一緒にいられるんだって思ったら、ちょっと嬉しくもあってさ」

「神奈……」

「だから“お祝い”っていうより、節目の記念、みたいな感じ? そんな気持ちで受け取ってくれたら嬉しいな」


 月はうまく言葉にできないまま、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。神奈が冗談半分でも、ちゃんと自分のことを考えてくれているのが伝わってくる。


「……もちろん、ここにある衣装たちも全部受け取ってね!」

「それは持って帰れ」


 反射的に突っ込む月に、神奈は楽しそうに笑う。


「……でも、ありがとう」


 そう小さく告げたそのタイミングで、暦が戻ってきて、神奈の隣にちょこんと腰を下ろした。


「正直、まだ身体のことも環境のことも全然慣れてないけどさ…… 今までほとんど話したことなかったクラスの子と仲良くなれたりして、これはこれで悪くないなって思えてきた」


月はそう言って、少し照れたように笑う。


「女の子のこと、分からないことだらけだし…… これからも色々相談に乗ってもらえたら助かる」


その言葉に、暦が突然パチパチと拍手を始めた。釣られるように、神奈も手を叩く。


「……暦、何の拍手?」

「さぁ? でも、なんか今、そういう雰囲気だったから」


 その後、神奈が持ってきた服を暦が次々と試し、神奈がスマホで写真を撮るという、賑やかで少し騒がしい時間が続いた。

気がつけば、あっという間に二時間が過ぎていた。


 その夜。

机の上に置かれた神奈からのプレゼントに、月はふと視線を向ける。昼間に見た神奈の笑顔が、自然と脳裏に浮かんだ。


(あいつ、何考えてるか分からないところ多いけど…… ちゃんと俺のこと、考えてくれてるんだな)


 月は包みを手に取り、丁寧にテープを剥がして中を開ける。そこにあったのはピンクのショーツとブラ、更にはスケスケのベビードールが入っていた。


「……」


月は言葉失った。

時同じくして、隣の部屋の暦に神奈からのLINEがはいった。


「暦ちゃんへ

 ユエがベビードール着てたら写真送ってね!」


 暦は画面を見て、にやりと不敵な笑みを浮かべた。



2021年10月15日 金曜日

昼休み――

土日の休みを前に、残り2時限を残すのみとなったこの時間は、半分休日にでもなったような錯覚を感じさせる。


 月たちが通う朝霞市立第666中学は、基本的に給食ではあるが二週に一度だけ家庭弁当の日というものが存在する。「二週に一度くらいは手作り弁当を」という迷惑なコンセプトで、何年も前から行われているらしい。

家庭事情は様々―― 家庭によってはそれが困難な人だっているのに、そんな事を一切考えないノンデリな行事は、SNSに書き込めば多くの人に叩かれるだろう。

……で、この日水無家では母の弥生は出張。そんな事から今日は月お手製の弁当を持ってきている。机をくっつけてテーブルのようにして昼食をたべるスタイルは実に学生らしい。

 月はいつものように神奈と、女体化してからの友達 香澄と結衣で弁当を囲んでいる。香澄は月の弁当を見て感嘆の声を上げる。


「ルナちゃんのお弁当、凄く綺麗。お母さんお料理上手なんだね」


月の弁当に入っているのは、鶏ささみの照り焼き、白身魚の西京焼き、ブロッコリー、ミニトマト、ご飯はゆかりご飯というメニューだ。


「ううん。今日はお母さん出張でいなかったから私が作ってきたの。最近少しお肉ついてきちゃったからヘルシーなのにしようと思って……」


月はそう言ってご飯を口に運んだ。それを聞いて結衣も言葉を続ける。


「自分でお弁当作ってくるなんてすごいね。私お料理得意じゃないから尊敬するよ」

「いや、そんな大層な事じゃないよ…… うち結構、お母さんが夜勤や出張多いからよく料理してるし……」

「でもそれだったら神奈の家もよくご両親いないんじゃない? そんな時ご飯どうしているの?」


そんな香澄の言葉に三人の視線が神奈に向く。突然の振りに神奈は驚いた表情をして固まった。そして恥ずかしそうに目線を逸らす。


「お母さんいない時は、妹が……」


そういうと、香澄と結衣は神奈の弁当に視線を落とす。そこにも色鮮やかな料理が詰められていた。


「もしかして、今日のお弁当も?」


結衣の問いに小さく「うん」とだけ答える。神奈の妹 メイは運動以外は殆どオールマイティと言っていいほど完璧だ。

……が、しかし……


「メイちゃん、二月に受験なんだから…… あんまり負担かけないようにしなよ」

「わかっているけどさ」


月の言葉に神奈は口をとがらせた。

そんな会話で場の空気が曇り出したのを察した香澄は、慌てたように話題を変える。


「そういえば、最近この辺に痴漢出てるって話聞いた?」

「痴漢?」


月はコレまで無関係と思っていたそのワードに、疑問符がついて問い返した。


「うん。バレー部の一年生が追いかけられて身体触られたって」

「ああ、となりのクラスの晴美もらしいよ」


香澄と結衣がそういうと、神奈は小笠原の方に目を向ける。


「晴美もバレーボール部だもんね。バレー部は終わるの遅いから気をつけないとだね」


神奈が好きな小笠原美佳もまたバレーボール部なだけに、神奈のその心配は小笠原に向けられている。そして神奈はチラリと月の方を向く。


「あと、うちのクラスでバレーボール部といえば由美ちゃんか……」


その言葉に月はご飯を詰まらせそうになり、目を白黒させながら由美のほうへと顔を向けた。


「でも、その点神奈は安心よね」

「そうそう。神奈だったらどんな男でも一撃でやっつけられるでしょ」


香澄や結衣の言葉に神奈は苦笑いを浮かべた。


「今日私、女子としてディスられ続けてない?」


その後昼休みを終えるチャイムがなり、今週残り二つの授業を受けた。

5時限目は国語……

昼食後のこの科目は非常に怠く、目を閉じてしまわないように気力を振り絞る、いわば気力が勝負の時間。ふと神奈の方を見ればすでに頭を上下に揺らしている。後ろからでもどんな顔が教壇に向けているのか、先生はその顔をどんな気持ちで見ているのかを想像すると、一瞬だけ眠気を打ち払うことができた。

更に次は社会。自分とは無関係の何百年も前の出来事を唱えられ、ラリホーでもかかったかのような眠気に襲われる。神奈は既に頭を机に落としていた。

そんな戦いを何とか制した月は机の中の教科書をカバンにしまった。ショートホームルームを終えると、月の元に神奈が駆け寄ってくる。


「ルナ、帰ろう」


今週の授業を終えた休み前ということで、神奈の顔は開放感に溢れたスッキリした顔をしている。もしくはさっきの昼寝のおかげなのか……

しかし月は小さくため息をつく。


「いや、これから委員会あってまだ帰れないんだ」

「あちゃー、そりゃお疲れさんだね」


神奈は残念そうに苦笑いを浮かべた。


「まぁ、土日は何も無いしどっか遊びに行こうか?」

「そだね。それじゃあとで電話するよ」


そう言って神奈は月に手を振りながら教室を出て行った。


この日の委員会は後期の三役を決める会議。いつもなら何人かは立候補する人がいて一時間程度で決まるのだが、今回は誰もやりたがる人がいないため会議は長引いている。

誰かが「誰もやりたくないならくじ引きで」と提案するも、担当の先生から「大事な役割をくじ引きとは何事だ」と怒られ、説教の時間まで加わり更には長引くこととなった。

「塾があるから」と時間を気にしていた水谷が渋々委員長に立候補をして、月も早く帰りたい一心から副委員長に立候補して19時頃何とかこの会議から解放された。

校門を出ると外は既に暗くなっていた。

そんな中、部活帰りと思われる生徒の影がちらほらと見える。

そんな時、体育館の方からジャージ姿の佐藤由美が歩いてくるのが見える。


(バレー部は相変わらず遅いんだな)


月は由美の姿を目で追いながらそんな事を考えていると、ふと昼間の話が頭をよぎった。


(由美、一人で大丈夫かな?)


由美の家は学校からは結構距離がある。前に由美の家の近所にある、石山の家に遊びに行ったことがあったが、男の身体であってもかなり疲れた記憶がある。


(石山が一緒だったら安心なんだけど、あいつはとっくに帰っているよなぁ)


石山も神奈は同様、学校の部活には入っておらず、外部でボクシングジムに通っている。そして今日は練習日と言っていたので十中八九この学校にはいないだろう。

……かと言って、月の家とは逆方向。送り届けるのは大変だし、そもそもが彼女にそれを提案するほど二人は親しくない。

由美の姿を目で追いながら、そんな葛藤をしていると、その姿は校門の外へと消えて行った。


(まぁ、コレまでも大丈夫だったんだし)


そう思うことにして、自宅方向に足を踏み出そうとするが、その一歩がなかなか動かない。


(もう二人も被害に遭っているんだよな)


空を見上げると、校門近くに立っている水銀燈の灯が静かに灯り始める。


(何かあったら…… 後悔してもしきれない)


月はいつの間にか由美の後を追ってかけていた。三十メートル先に由美の姿を捉えると、その足は回転を緩め一定の距離を保って歩き出す。


(……にしても、なんて声を掛けよう。

大して親しくもない人から「心配だからうちまでついて行く」なんて言われたらキモいよな……)


そんなことを考えると、自然とため息が溢れる。


(これってやってる事、ストーカーと変わりなくない?)


月は苦笑いをして頬を指でかいてみた。

そしてこの由美の後ろをひたすら追いかけるという行為に耐えられなくなった月は再び駆け出し由美の元へ駆け寄った。


「佐藤さーん」


突然背後から名前を呼ばれ振り返る由美。そして突然現れた月に不思議そうな顔を向ける。


「水無……さん?」

「ごめん呼び止めちゃって」

「ううん。それより水無さんのうちってこっちの方だっけ?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど……」


月の返答はどこか歯切れが悪い。由美はその様子を見て、最近よく目にする光景を思い出していた。放課後、石山と並んで歩く姿。教室で顔を寄せて話している場面。


「もしかして靖憲君の家にいくの?」

「え? 石山……くん?」

「なんか最近靖憲君と水無さんのよく一緒にいるのを見かけるし、仲良いのかなぁ……って思っていたの」


 月は一瞬考え込んだあと、小さく頷いた。


「あ、そ、そう。石山君に借りた本を返そうと思ってて……返し忘れてたから、今日こそ返そうかなって」

「そうなんだ。でも、結構距離あるよね。私が代わりに返しておこうか?」

「あっ、いやぁ…… ちょっと自分で返したいかな…… どうせ明日は休みだし」


視線を逸らしながらそう言う月の様子を見て、由美はそれ以上踏み込むのをやめた。

そして二人は並んで歩き始める。


「佐藤さんてさ、石山君と幼馴染なんだよね?」

「うん。家も近所だし、小さい頃は一番一緒に遊んでたと思う」


 由美はそう答え、少しだけ視線を上に向けた。


「でも最近は、たまに顔を合わせて話すくらいかな。……靖憲君、ああ見えて自分のペースがあるから」

「ボクシングやってるんだっけ…… 頭も良いし、優しいし、それで強いなんてかっこいいよね」


 月の言葉に、由美は少し驚いたように月を見る。


「水無さん、転校してきたばかりなのに、靖憲君のことたくさん知ってるんだね」

「あ、いや……たまたま、聞いた話とか……」


 慌てて否定する月の様子に、由美は小さく微笑んだ。


「靖憲君に、水無さんみたいな人が一緒にいてくれたら……私は嬉しいな」


 その言葉は穏やかだったが、由美の表情にはわずかな陰りがあった。祝福の気持ちは本物だった。幼い頃から知っている相手が、誰かに大切にされていると感じられることは、決して悪いことではない。

 それでも、長い時間を共有してきた距離が変わっていくことを意識してしまうのも事実だった。


「靖憲君、女の子とあんなに楽しそうにお話ししているの初めて見た。私と一緒にいるとき、あんな顔見た事ないから。だから……ああ、良かったなって思ったの。」


 月はその言葉を受け止めながら、何も言えずにいた。由美の視線はまっすぐ前を向いており、感情を押し付ける様子はない。


「もし、本当に付き合ってるなら」


 由美は淡く微笑む。


「靖憲君のこと、よろしくね」


 その言葉は静かで、余計な感情を含まないものだった。月は胸の内に複雑な思いを抱えながらも、ただ小さく頷くことしかできなかった。


(あれ? 何か話がおかしくなってない?)


石山は月にとって大事な親友だ。石山はルナがユエと知った事で今までのように友人関係を保っている。決して二人が恋愛感情の下一緒にいるわけではない。

月はそう思いながらも、由美の石山に向ける気持ちを聞いた後に、この誤解を解くのは非常に気まずいと感じていた。


(さてどう話を持っていくか……)


そんな時差し掛かった公園脇の進路に、『痴漢注意』の看板を見かけ、当初の目的を思い出す。


「そういえば最近痴漢が出ているらしいね」

「うん。バレー部でも何人か被害にあったみたいで、先生今日も注意してたよ」

「そこにも看板あるけど、この辺にと出たのかな――」


月が看板を指差した時、看板の後ろから黒い影が姿を現した。突然現れた得体の知れない生き物に、目を見開いたまま固まり動けないでいると、その影は正面から突進し、月を突き飛ばした。

そして男は由美を公園へと引きずりこんだ。由美の腕を拘束しながら胸を弄っていたが、次第に男の手は服の中へと侵入する。由美は涙を浮かべながら声にならない嗚咽を漏らす。


「や、やめて……」


弱々しい声が倒れた月の耳に届く。

気づけば由美は公園の草むらで男に押し倒され、胸が露わになり、男の右手はジャージのズボンにかかっていた。


「やめろっ!」


月は男の顔に全力の回し蹴りとかけ蹴りを炸裂する。男は一瞬グラリと傾いたが、地面に手をついて月の顔を見上げニヤリだ顔を緩ませた。男が由美の身体から離れると同時に由美は気を失った。

男は立ち上がり、月の方へと体を向けた。


(俺の渾身の蹴りがまるで効かない?)


月は腕をあげ中段構えをとると、顔面を目掛けて直突き、太ももへのローキック、前蹴り……どれもクリーンヒット。

しかし全くダメージを受けた様子はない。

そしてすぐにその理由がわかった。

男の時とは体重も筋力もまるで違う事に。男は力任せに月を平手うちをして、またも地面に叩きつける。地面に転がる月を数回爪先で蹴り上げると、倒れた月に馬乗りになり制服をむしり取った。


「くっそ!」


月は目の前の男の顔面、眼球を目掛けて抜き手を放つが頭を下げ額で受け止められる。月の右手の中指はくの字に折れ曲がり、続いて放った喉への抜き手も払いのけられて手首が動かなくなる。月は足をばたつかせるも、男は気にする様子もなく月を殴りつけながら服を剥ぎ取っていく。

月の意識が途切れよとした……その時――

「バキッ」という音とともに、男の頭は背後にのけぞった。そして耳に届く何発もの打撃音。

薄れいくなかで月は音の方に目を向ける。

ぼやけた視界に映ったのは小柄で細身の身体……


(女……?)


月の意識が途切れる瞬間、男の断末魔のような叫びが聞こえた。月は小さく笑みを浮かべガクリと地面に頭を落とした。


月が再び目を開けた時、辺りを赤い回転灯が照らしていた。二台のパトカーと救急車。月はタンカに乗せられ、露出した身体には毛布がかけられていた。側には心配そうに見下ろす神奈と由美の姿があった。


「さ・・とう・さん……ご……めん……な・さい 」


口内が切れてうまく喋れない。

月の目から大粒の涙が、次々に溢れ、その後救急車へと乗せられ公園をあとにした。



 それから三日――

 病院の一室は、消毒薬の匂いに満ち、室内は室外での話し声や通路を歩く足音だけが聞こえてくる。

 先日の出来事で重傷を負い、救急搬送された月は、そのまま入院することになった。そして今日、容体が安定したからと母 弥生から連絡を受けた神奈は、授業が終わるとすぐに病院へとやってきた。


「失礼しまーす」


 神奈は小声でそう言って病室に入ると、月はベッドの上で上半身を起こしていた。ピンクのパジャマ姿、顔の絆創膏と青あざ、包帯とギプスに固定された両腕が痛々しい。神奈はベッド脇で月と向き合った。


「ユエ、具合はどう?」

「うーん……口の中の傷はだいぶ良くなってきて、なんとか喋れるようにはなったけど……」


 そう言いながら、月は両手を少し持ち上げてみせる。


「手はこの通りだし、肋骨も二本折れてるって言われてさ。寝返り打つだけでも痛いし、ちょっと笑っただけで響くんだよ」


 軽く冗談めかした口調ではあったが、無理をしているのは明らかだった。月は一瞬表情を曇らせる。


「……でもあの時、神奈が通りかかってくれなかったらって考えると、本当にゾッとする」


 月は神奈の方を見て、はっきりと言った。


「神奈、本当にありがとう……」


 その言葉に、神奈は肩の力を抜くように微笑んだ。


「ちゃんとユエの仇は取っておいたから安心していいよ」


 そう言って、何でもないことのように続ける。


「あの人、もう二度と同じことできないように、しっかりお仕置きしておいたから」


 神奈は冗談めかして、顔の横で両手でOKサインを作ってみせた。それを見た月は、神奈が何を言っているのかを悟り、呆れと感心が入り混じったような息を吐く。


「……ほんと神奈様、マジパねぇっス」


 病室には一瞬だけ静けさが戻り、二人の間には、言葉にしなくても伝わる安堵の空気が流れていた。

 

「……でもさ。神奈はなんであんな場所にいたんだ?」


 公園から搬送される途中から、ずっと引っかかっていた疑問を月は口にした。


「うん。私、来月に空手のアジア大会があるのね。だからスタミナ強化はかるためのロードワークしていたの」

「なるほどな……」


 月は天井を見上げる。


「じゃあ、その大会のおかげで助かったとも言えるわけだな。まぁ、大会……神奈なら何の心配もしてないけどさ。頑張れよ」


 そう言うと、神奈は一瞬きょとんとしたあと、満面の笑みを浮かべて力強く頷いた。それから少し間を置いて、神奈は今度は月の方を見つめる。


「それにしても……ユエこそ、なんであんなところにいたのよ? もしかして、由美ちゃんに告白でもしてた?」

「はは……女の姿でか?」


月は乾いた笑いを漏らす。


「昼にさ、最近痴漢が出るって話してただろ? 委員会で遅くなって帰ろうとしたら、ちょうど由美も部活終わりで……」

「……それで、心配になって一緒に帰ろうとしたんだ」


神奈は言葉を引き取り、表情を曇らせた。


「由美ちゃんのことを心配して行動したのはユエらしいし、進歩だと思うよ」


一度言葉を切り、神奈は小さく息を吐いた。


「でもね……今のユエは、女の子なんだよ。空手や剣道をやってきたからって、男の時と同じように戦えるわけじゃない」


 その声は、いつになく真剣だった。


「ほんの少し私が遅れてたら……取り返しのつかないことになってたかもしれない」


神奈の目には、薄く涙が滲んでいた。


「……ごめん」


月はそれ以上、何も言えなかった。


「もうこんな無茶しないで……」


神奈はそう言って、手の甲でそっと目元を拭う。


「うん……」


そうこたえた月は思い出したように口を開いた。


「でもさ……バレー部の二人も被害に遭ってたって話、あっただろ? もし同じ奴だったら、相当ひどいことになってたんじゃないか? あれ、痴漢っていうより……完全に強姦って感じだったし」


神奈は少し考えるように視線を落とし、ゆっくり答える。


「うーん……バレー部の子たちは、後ろから抱きつかれて胸やお尻を触られた程度って話だったから…… たぶん、別の犯人だと思う」

「……ってことは、少なくとも別の犯人がいるってことか」


月は重く息を吐いた。


「でも、今回のことがあって学校側も完全下校時間の徹底だったり、警察の見回りも強化するようなこと言ってたから少しは良くなるんじゃないかな」


神奈はそう伝えたが、月の表情は未だ曇ったままだった。


「今からますます日が短くなるんだから、石山が由美と一緒に帰ってくれると安心なんだけどなぁ……」

「それは難しいんじゃない。由美ちゃんはバレー部で、石山君は外部でしょ――」

「まぁな……」


二人の間に短い沈黙ができる。

そんな時。


コンコン――


病室のドアをノックする音が聞こえた。

月は「どうぞ」と答えると静かにドアが開かれた。


「ゆ……、さ、佐藤さん!?」


そこにいたのは由美。その後ろには石山の姿もある。由美は申し訳なさそうに唇を噛み締めてドアの外に立っている。


「佐藤さん? どうぞ……入ってよ」


月は微笑みながら病室へと招いた。

由美は月のベッドのそばまできて、月の傷とアザだらけの顔を目の前にすると目を大きく見開いて大粒の涙を流し始めた。


「水無さん……

ごめんなさい…… ごめんなさい……」


由美は嗚咽をもらしながら、両手を顔に当ててしゃがみ込んだ。

目の前で女の子が声をあげて泣いている――そんな場面に遭遇した経験のない月は、どう対応すべきか分からず、ただ戸惑うばかりだった。神奈は由美のそばに寄り、落ち着かせるように静かに寄り添う。


 しばらくして嗚咽が収まり、由美はゆっくりと立ち上がった。涙で赤くなった目を月へ向ける。その視線を受け、月は胸をなで下ろし、安堵したように微笑んだ。


「今回のことは、私が勝手に動いた結果だから……気にしないで。それに、佐藤さんが無事だったんだから、これくらいは名誉の負傷みたいなものだよ」


 どんな言葉をかけるべきなのか。月は必死に考えを巡らせるが、由美を前にして緊張のあまり、結局そんな無骨な言葉しか口にできなかった。


「……まあ、ルナもこう言ってるし」


神奈は月を補うようにそう言い、由美の肩にそっと手を置いた。


「でも、両手を怪我して……これじゃ……」


由美の言葉に、月は少しでも安心させようと続ける。


「確かに、食事とかトイレは不便だけどさ。母さんや妹が手伝ってくれるし……それに手の骨は綺麗に折れてるみたいで、ちゃんと治るってお医者さんも言ってた」


言葉を選びながら、月は由美の表情をうかがう。


「それに……」


そこで神奈が、由美の耳元に悪戯っぽく囁いた。


「ルナ、由美ちゃんと仲良くなりたいって思ってたみたいだから。案外、不幸中の幸いって思ってるかもよ?」

「神奈……聞こえてるよ」


月は小声でそう返す。


「でも……佐藤さんと友達になりたいって思ってるのは本当だよ。これから仲良くしてもらえたら嬉しい」


月の言葉に、由美は小さくうなずいた。


「友達になるなら、お互い苗字呼びは少し堅いよね。由美ちゃんはルナのことを“ルナ”、ルナは由美ちゃんのことを“由美ちゃん”って呼ぶのはどう?」


そう提案した神奈に、月はじっとりとした視線を向ける。


「……なんで神奈が決めてるの」

「だって、その方が距離縮まるでしょ?」


二人のやりとりを見ていた由美は、思わず吹き出した。


「ユエ君と長月さんが幼馴染って話は聞いてたけど、ルナさんと長月さんもすごく仲がいいんだね」


 由美のその一言に、月と神奈は顔を見合わせ、どちらからともなく小さく笑みを浮かべた。



 コンコン――。

 突然病室のドアをノックする音が響き、月の返事を待つことなく扉が開いた。


「水無さん、お食事の時間ですよ」


 その言葉のあと荷台を押す看護師が病室へと入ってきた。そしてベッドのテーブルに食事ののったトレーが置かれる。トレーにのっているのは、白粥とバナナ入りのヨーグルト、そしてオレンジジュースだけ。三人は揃ってその簡素な内容に目を向ける。


「夕飯って……これだけ?」


 神奈が思わず声を上げる。


「うん。まだ口の中の傷が治ってなくてさ。しょっぱいものは沁みるし、今の状態だと箸も使えないんだ。スプーンも、正直持ちにくくて……」


 そう言って、月は包帯とギプスに覆われた両手を軽く持ち上げた。


「じゃあ、今までどうやって食べてたの?」


由美が心配そうに尋ねる。


「昨日は母さんと妹に手伝ってもらって、今日は一時間くらいかけて、なんとか……って感じ」


月は苦笑いを浮かべた。その様子を見た由美は、一瞬だけ石山の方へ視線を送る。


「じゃあ、る、ルナさん……みんなに見られてると食べにくいよね。私たち、ちょっと休憩所に行こうよ」

「ああ……そうだな」


 それまで会話に加わっていなかった石山が、短く答えた。


「ううん。靖憲くんは、ルナさんのご飯を手伝ってあげて」

「「……え?」」


石山と神奈は同時に目を丸くした。

状況が飲み込めない様子の神奈は、由美に促されるまま病室を後にする。扉が閉まり、室内には月と石山だけが残された。

短い沈黙のあと、月は気まずそうに笑った。


「由美、どうしたんだ?」


石山は事情が分からず、首をかしげて問いかける。


「ああ……この前、ちょっとした誤解があってさ……」


歯切れの悪い返答に、石山はますます不思議そうな表情を浮かべる。


「由美、俺とお前が付き合ってるって思ってるみたいでさ…… 多分気を使ってくれたんじゃないかな?」

「なっ……」


 月が照れたようにそう言うと、石山は一瞬固まり、すぐに顔を赤らめた。


「俺とお前が付き合っていると思われてるとかキモいだけだろ?」


上目で使いで微笑む月にそう言われると、石山は顔を逸らせる。


「いや……まぁ、そうだな」


石山は一呼吸おき天井を見上げる。


「まぁ、由美は昔から早とちりなとこあるから……」


そう言って、頭をかいた。この話題に居心地の悪さを感じていた石山は、話題を変えようと月の顔をみると、目に映った傷だらけの月の顔に眉を顰める。


「……にしても、随分と派手にやられたな。お前がたった一人相手にここまでやられるなんて想像できねぇよ」


苦笑交じりに続ける。


「……かといって、この姿で相手を返り討ちにするのも……想像つかないけど」

「ああ、神奈にも言われたけど、女になってからの手足の短さとか、体重の軽さ、筋力の弱さってのを全然認識していなかったからな。普通の男相手でこんなに差があるとは思ってもいなかったよ」


悔しさを滲ませる月に、石山は穏やかな視線を向ける。


「……にしてもあのヤロー、女の顔を容赦なく殴りやがって…… 顔だけじゃなくて体もアザだらけなんだぜ」


そう言って月はパジャマの襟元を広げ、石山の目の前で前屈みになって見せた。石山の目にパジャマの中の露わな部分が映り込む。


「ちょっと、おま…… 見えちまうだろ!」


焦りながらも目を逸せずにいると


「別に男同士なんだから、お前に見られたところでなんとも思わねえよ」

「ばっ、バカ。お前女だろ!」


石山は顔を真っ赤にしながら力説するが、月はまるで気にするそぶりはない。


「なぁ、それよりさ…… 早くメシすましちまおうぜ。あんまり遅くなると神奈や由美にも悪いし……」


石山は「コホン」と咳払いをすると、自分の動揺を誤魔化すように「ああ、そうだな」とだけ答えた。石山は食事の乗ったプレートからスプーンを手に取ると、お粥をひと救いする。


「ほら、ユエ……」


そう言われて月は石山に顔を近づけながら口を開けた。その姿に石山は顔を赤らめ目を丸くしたまま手を止めてしまう。

口を開いたまま待ち続ける月。


「い、石山、早くくれよ……」


その言葉と表情に石山の鼓動は早くなる。


「わ、悪い……」


石山は震える手でスプーンを口へと運びいれる。すると月は思わず顔をしかめた。


「ちょっ、コレ多すぎ……」


月の口からお粥がはみ出る。そしてそれは開いた襟元から、服の中へと落ちていった。


「おい、服の中に入っちゃったじゃねぇか……」

「わ、悪い……」


石山は顔を赤らめ焦りながらタオルで月の口元を拭った。


「あぁっ、なんかベトベトする…… ちょっと服の中のお粥取ってくれ」

「ばっ、バカ…… そんなことできっかよ」

「だから―― 俺は気にしないって言ってるだろ。気持ち悪いから早くしてくれよ」


そう言って月は両手を横に広げて、パジャマのボタンをはずしてもらおうと待っている。石山は震える手でパジャマのボタンを外すと、露わになった大きな胸が目の前に現れた。そして石山は恐る恐るタオルを胸にあてがいうと「ひゃうっ」という声が月の口から漏れた。

石山は無言で月の顔を覗き込む。


「あ、ごめん。ちょっと変な声出ちゃった」


石山は短く「うん」と応えると溢れたお粥を拭き始める。


――と、その時。


 ドアをノックする音の直後、ほとんど間を置かずに取っ手が回り、扉が開いた。


「あっ……」


 思わず声を上げた神奈と、病室の中にいた二人の視線が正面で交わる。その背後では、由美が目を見開き、反射的に口元へ手を当てていた。

 神奈は一瞬状況を確認すると、小さく微笑みを返し、そのまま静かにドアを閉めた。


 数秒の沈黙のあと――。


 コンコン、と改めてノックの音が響く。


「……どうぞ」


 月は開いていたパジャマの前を押さえながら返事をすると、ゆっくりとドアが開いた。そこには、どこか気まずそうに苦笑いを浮かべた神奈と、顔を赤くしたまま視線を落としている由美の姿があった。


「神奈、どうして一回ドア閉めたの?」


月が問いかける。


「いや……今のは、ちょっと間が悪かったかなって思って」


神奈は軽く肩をすくめて答えた。


「でも、すぐ入り直したら同じでしょ?」


 月の淡々とした指摘に、神奈は特に反論せず曖昧に笑った。

 一方で、由美と石山は未だに顔を伏せたまま、視線を合わせようとしない。二人の様子を横目に、神奈はベッド脇のトレーへと目を向けた。


「あれ、まだ食事終わってなかったの?」

「ああ、うん……ちょっとお粥をこぼしちゃってさ。それで、石山君に拭いてもらってたから」


 月の説明に、神奈は小さく頷いた。


「じゃあ、私が食べさせてあげるからさっさと食べちゃって……」

「えっ? それはちょっと恥ずかしいというか……」


月は肩をすくめながら苦笑いを浮かべる。


「石山君におっぱい拭かせるのは恥ずかしくないのに、私に「あーん」してもらうのは恥ずかしいの?」


 その言葉を受け、石山と由美はさらに顔を赤らめ、視線を落とした。月は二人の様子を気にしつつも観念し、神奈に手伝ってもらいながら食事を進め、十分ほどで夕食を終えた。

最初は石山と由美との会話にギクシャク感があったが、しばらく四人で他愛のない会話を交わしてすっかり打ち解けた感じになっていた。

窓の外がすっかり暗くなっていることに由美が気づくと、ベッド脇の時計に目を向けて時刻を確認する。


「もう、こんな時間…… 靖憲君、そろそろおいとましましょう」

「そうだな。じゃあ、ルナ…… こんどは学校でな」


 そう言われ、月は二人に向けて穏やかに笑った。


「うん。今日は来てくれてありがとう。木曜日には退院できそうだから、来週からは学校に行けると思う。石山君、授業ノートよろしくね」

「おう」


 石山は短く返事をし、由美と並んで病室を後にした。二人の背中を見送ったあと、神奈は小さく息を吐く。


「由美ちゃん、ルナと石山君が付き合ってるって思ってるみたいだったね」

「ああ……だから俺と石山を二人きりにしようとしたんだろうけどさ。石山のやつ、やけに気を使ってくるから……ちょっと申し訳ない気もしてさ」


 神奈は苦笑いを浮かべた。


「まあ、男友達が急にこういう姿になったら、どう接していいか迷うのも無理ないんじゃない」

「俺は石山より、由美に見られる方が正直落ち着かないんだけどな……」

「そのあたりの感覚の違いが、ややこしいところだよね」


 そう言いながら、神奈はポケットからスマートフォンを取り出して画面を確認した。


「じゃあ、私もそろそろ帰るね」

「ああ。今日はありがとう」


 月の言葉に、神奈は一瞬立ち止まり、思い出したように振り返る。


「そういえば、この前部活の話したときに “もう一度空手やってみない?”って言ったの、覚えてる?」

「もちろん」


 神奈は微笑みを浮かべたまま続ける。


「退院して、怪我が治ったら……

 “うちの”道場で、少し稽古してみない?」

「“うちの”って……神奈の家の道場?」


 長月家には、本部や支部とは別に自宅に併設された道場があり、主に身内や個別指導に使われている場所がある。


「そう。私が教えられるのは、せいぜい護身術程度だけど…… 今のユエには、役に立つんじゃないかなって思って」


 数秒の沈黙が流れ、月は天井を見上げながら考え込む。


「……ぜひお願いしたいけど。神奈、来月アジア大会があるって言ってたよな?」

「大丈夫。稽古は普段からしてるし、週に数時間教えるくらいで鈍るような身体じゃないよ」


 月は安堵したように息をつき、改めて指導をお願いした。神奈は「じゃあ、楽しみにしてるね」と言い残し、軽やかな足取りで病室を後にした。



2021年10月23日 土曜日

 月は、まだギプスが取れていない手首を気にしながら、石山の家へ向かっていた。たった一週間とはいえ、入院中に抜けた授業の量は想像以上。登校までにコレまでの遅れを取り戻そうと石山にノートを借りに行こうとしていた。

 不自由な入院生活を経て外を自由に歩ける開放感に月は大きく深呼吸した。そして石山の家を目前にしたところで、見覚えのある姿が視界に入る。


「「あ……」」


 向こうも同時に気づいたらしく、由美が一瞬目を丸くする。


「ルナさん」


 声をかけられ、月は足を止めた。


「由美ちゃん…… この前はわざわざお見舞いに来てくれてありがとう」

「ううん。ルナさん、退院したんだね」

「まぁ、まだ完治ってわけじゃないけど」


そう言って月はギプスで固められた両手を上げて見せる。


「まだ当分不便さはあるけど、やっぱりシャバはいいね」

「何か不良漫画みたいな言い方だね」


由美との他愛ない会話……

そんな事ができるようになったのは、神奈が言うようにあんな出来事の副産物と言えるのかもしれない。そんな事が頭をよぎりながらも目の前で由美が笑っている現実を喜んでいた。


 由美の視線が月の進行方向にちらりと向けられると、ほんの少し意味ありげに目が細められる。


「もしかしてこれから靖憲君の家に行くの?」


その言葉に石山と月が付き合っていると誤解されたままだった事を思い出した。


「あ、うん……授業ノート、借りに行くだけなんだけど……」


変に言い訳じみた返答に由美はふっと笑った。


「じゃあ、お部屋デート?」

「ち、ちがっ……!」


思わず声が裏返る。

由美はくすくすと楽しそうに笑い、首を横に振った。


「冗談だよ。でも最近、二人ほんとによく一緒にいるし、お似合いだからさ――」

「そ、それは……色々あって……」


月は言葉に詰まる。説明しようにも、どこからどう話せばいいのかわからない。


「いいのいいの」


由美は穏やかに微笑んだ。


「靖憲君、ルナさんのことすごく気にしてたから。元気そうで安心した」

「……ありがとう」

「じゃあ、邪魔しちゃ悪いし、私はこの辺で」

「いや、邪魔とかじゃ……」


 月の言葉を待たず、由美は軽く手を振って家の中へと入っていった。その背中を見送りながら、先日の病室での出来事がフラッシュバックし、月は深く息を吐いた。


(まぁ、恋人でもない男に自分の胸さらけ出す女子いないよな……)


 月はそのまま少し早足で石山の家へ向かい、インターホンを押した。


 ――ピンポーン。


「はーい」


聞き慣れた声。

ドアが開き、石山が顔を出す。


「お、ユエ。もう大丈夫なのか?」

「ああ。休日に悪いけどノート貸してくれるか?」

「おう。とりあえず上がれよ」


 靴を脱ぎ、石山の部屋へ通される。

月は石山の部屋の窓から外に目を向け、由美の家を眺めた。


「まぁ、座れよ」


月がベッドの端に腰を下ろすと、石山は机から数冊のノートを引っ張り出した。


「この辺が今週のとこな。あと、来週小テストあるらしいから、範囲のところには付箋つけといた」

「助かる……」


ノートを受け取りながら、月はノートをペラペラめくり確認した。


「そういえば、そこで由美と会ったんだけどな……」

「由美に?」

「うん。それでさ……」


月は一瞬視線を逸らし、意を決して続ける。


「『お部屋デート?』って言われちゃったんだけどよ」


その瞬間、石山は吹き出す。

石山は耳まで真っ赤にしながら、慌てて椅子に座り直す。


「なんでそうなるんだよ……」

「俺に言われても…… でもそれより由美の家と目と鼻の先で、お前とあんな事やこんな事していると思われているかと思うと恥ずくてさ。ラブホの前で知り合いと会った時ってこんな感じなのかなって……」

「ははっ…… 」


石山は視線を泳がせ、頭をかいた。


「でもまぁ、客観的に見て転校して間もない俺と石山…… 男女二人が……妙に親しくしてたらそう思われるのも無理ないのかなって……」

「まぁ、そうかもしれないけど……」

「それに、病室で俺の胸をお前に見せてるところ、由美にも見られているからな。そんな誤解するのは当然なのかもってな」


月はそう言った後ため息をつく。


「俺も、見舞いの帰りに由美から、いくら付き合っていても病室であんなことしちゃダメだと思うって言われて、スゲー恥ずかった……」


石山は目線を逸らして苦笑いを浮かべた。


「アレから少し考えてみたけど、俺がユエだって事を伏せたままで、今の状況を理解してもらうのは無理なんじゃないかな」


石山は腕を組んで唸っている。


「それに由美がそう思うってことは、他の人だって俺たちをそう見ている可能性が高い」

「……それは確かに……そうかもな」


石山は仰向けに天井を見つめたまま、ぽつりと口を開いた。


「……だからさ。お前が嫌じゃなければ、しばらく俺たち、恋人ってことにしておくのもアリなんじゃないかって思ってさ」


月が言い終えると、石山は一度小さく頷いたものの、すぐに大きなため息をついた。


「……どうした? 俺の案、何か問題でもあるか?」


そう尋ねると、石山は視線を床に落とし、控えめに手を挙げる。


「いや……その……俺の精神が耐えられるかどうかっていう問題が……」

「精神?」


 月はギプスで固定された右手を口元に添え、首を傾げた。


「お前、自覚ないかもしれないけどさ…… 今、男子の間じゃルナ、かなり注目されてるんだぞ」

「えっ? 本気で?」

「マジだって。学校で二人でいるだけで、視線が突き刺さるんだよ……」


月は実感が湧かない様子で、曖昧な笑みを浮かべた。


「さすがに大げさじゃね?」

「少し前までは長月・ユエのペアが話題だったけど、今はそれ以上だな」


神奈も男子の間で人気はあるが、本人が男子を気にも留めていないため、どこか遠い存在のように扱われていた。

 それに比べると、ルナは気軽に男子と接し、距離が近く無防備な感じが小動物チックで可愛い女子として人気を集めているのだろう。


「……男でも女でも注目されるなんて、ユエはそういう運命なんじゃないか?」

「まさか……」


 月が考え込むように黙り込むと、石山は横目でその様子を見て、ふっと小さく笑った。


(……それ以上に、お前との距離が近すぎて毎回ドキドキしてるって話は、さすがに言えないな)


石山が思案に沈んでいると、向かいの月は真剣な表情で視線を落としていた。


「それで……」


月はゆっくりと顔を上げ、石山を見据える。


「由美、その後は変わりなかったか? 俺ほどじゃないにしても、あいつも被害に遭った一人だ」


その問いかけに、石山は一瞬言葉を詰まらせ、喉を鳴らした。


「……正直、話すか迷ったんだけどさ。この前、お前の見舞いに行った帰り、自販機の陰に人影があって……それを見た瞬間、由美が急に震え出して、動けなくなったんだ」

「……そうか」


月は息を吐くように、深くため息をついた。


「俺も、物陰に人がいると、一瞬身構えることがある。だから……もしかしたらって思ってな」

「由美はさ、もともと繊細なところあるからな。お前以上に、恐怖が残ってるのかもしれない」


石山は窓の外に視線を移し、由美の家を静かに見つめた。


「それ以来、できるだけ一緒に帰るようにはしてるんだけど…… どうにか、あいつのトラウマを少しでも和らげられないかなって」


 その言葉に、月の表情がわずかに緩む。


「……ありがとう。しばらくの間、由美のこと、見守ってやってくれないか。お前が無理な時は、俺が一緒に帰るからさ」


石山は視線を落とし、包帯に覆われた月の手を見た。


「その怪我で、何かあったら何もできないだろ」

「それでも、助けを呼ぶことくらいはできる」


 二人の間に、短い沈黙が落ちた。だがその沈黙は、互いの覚悟を確かめ合うには十分な時間だった。



2021年11月某日

 月の怪我が完治したのは、医師から「もう日常生活に支障はない」と告げられた日の翌週だった。ギプスも外れ、動かすたびに感じていた違和感も、ようやく記憶の奥へと押し戻されつつある。

 その日の放課後、月は神奈に言われた通り、長月家の自宅道場を訪れていた。門をくぐった先にある母屋の横――見慣れたはずの建物だが、改めて正面から見ると、やはり威圧感がある。木造の引き戸、その奥に広がる板張りの空間。空手の本部道場とは違い、私的な稽古場ではあるものの、張り詰めた空気は変わらない。

 月は一度深呼吸をしてから、引き戸に手をかけた。


「押忍、失礼しま――」


 そう声をかけながら中へ足を踏み入れた瞬間、視界に入った光景に思わず言葉を失った。道場の中央、道着姿の神奈が軽く汗を拭いながら立っている。その向かい側には――


「……石山?」


 思わず名前が口をついた。

黒いジャージに身を包んだ石山は、視線が合うと、「よう」と短く手を上げる。


「なんで、お前がここに……?」


 月が戸惑いを隠せずに尋ねると、神奈は事もなげに振り返り、にこりと笑った。


「言ってなかったっけ?」


そう前置きしてから、悪びれもせずに続ける。


「今日の練習相手として石山君にも来てもらったの」

「……そういう事か…… そういう事ならよろしく頼むよ」


てっきり神奈からの個別指導と思っていた月だったが、実践なさがらの男相手。ましてボクシングで慣らした石山とは…… 意外な誤算に表情が引き締まる。


「いや……長月に『ちょうどいいから来て』って言われてさ」


石山はそう言って苦笑いを浮かべる。


「ちょうどいいって……」


 月が失笑していると、神奈は腕を組み、少し真面目な表情になる。


「ユエ、実戦に近い形で練習した方がいいでしょ。男の体格、動き、力―― 女子のユエが対峙した時の差を知っておくのは大事だと思う」

「確かにそうかもな」


 そのやりとりを聞きながら、石山は14オンスのグローブを装着していた。


「相手がユエとはいえ、女子相手にスパーなんて……って思ってたけど、ユエが今後無事に過ごせる事を願って、気合い入れて行かせてもらうよ」

「殴り合いで祈願かよ」


月が即座に突っ込むと、神奈はくすっと笑った。


「まぁ、今日は基礎だけだから…… 無茶はさせないよ」


そう言いながら、神奈は月に道着とチェストガードを差し出す。


「ほら、着替えて。久しぶりの稽古なんだから」


 月は道場の外で神奈に受け取ったものを着用する。男の時は裸の上に道着を羽織るが、女子はシャツを着てその上にチェストガードという胸を守るプロテクターをつけ、その上に道着を着用する。


(まさか俺がチェストガードを付けることになるとは……)


慣れない装着を時間をかけながら終えると、道場に戻り石山と向かい合った。


「よし!」


気合いを入れる月の背後から神奈はヘッドガードをの頭に被せた。


「ん? 何コレ?」

「稽古とはいえ、女の子の顔に傷つける訳にもいかないでしょ」


月は勢いを削がれ、面倒がりながらもベッドガードのバンドを締め付ける。


「それじゃまずは、二人とも7割くらいの力でスパーしてみて」


神奈がそう告げると、月は大きく息を吐いた。


「ライトスパーとはいえ、お前と戦うのは初めてだよな」

「ああ、まさか女のユエとスパーするなんて夢にも思わなかったぜ」


そして神奈の「始め」の掛け声がかかると、二人は同時に構えをとる。


(石山はボクシングだ。蹴りは無い…… それなら……)


月は左右のローキックを放つ。

石山はバックステップで逃れると、外した蹴りを上段の掛け蹴りに変化させる。石山はそれをスウェイでかわし、一歩踏み込んで右のジャブを連打。分厚いグローブをつけた拳は、拳筋は読みやすいものの捌くのも避けるのも動作が大きくなり、次のスタンスに移るのが遅くなる。……かといってガードをすれば、受けた腕から大きな衝撃が身体の芯にまで伝わっていく。

月は右の直突きは石山の間合いに入った途端に払われ、ジャブや回し蹴りをしても多くは間合いから外れてしまう。月は石山との距離を取るために前蹴りを放つ。石山は一歩踏み込み正面から腹で受けると、月は後ろに吹き飛ばされた。


「ヤメ!」


号令がかかる。

開始からほんの数十秒……

月は床に転がったまま息を乱している。一方、石山にはわずかな疲れもダメージも見えていない。


「もう少し続けてもらうつもりだったけど、もう十分でしょう。ユエ、男と女の身体能力の違いを身をもってわかったんじゃない?」


月は息を整えながら状態を起こす。


「ああ、本当に手も足も出ない…… こんなにも力に差があるなんて――」

「力の差…… は確かにあるけど、それが今回の結果の全てではないよ」


神奈はそう言って石山の前に立つ。


「石山君、ユエにしたみたいに攻撃してみて」


神奈がそう言うと、さっきと同じようにジャブを打った。その瞬間石山の頭はのけ反り、神奈の前蹴りが石山の股間寸前で止まった。


「い、今、何を……?」


そう言葉をこぼす月同様、石山もこの状況を理解できていない。


「石山君がジャブをうって、拳を引いたのに合わせてグローブにパンチを打ち込んだだけだよ。自分のグローブで顔面を打って、視線が外れれは私はどんな攻撃だってできる」


神奈はサラリと説明する。


「随分簡単に言ってるけど、それってかなりの高等技術じゃね? そもそも俺のパンチも、蹴りも間合いから外れちゃうんだけど……」

「それはユエが、その身体の手足の短さに慣れてないだけよ。何度もスパーして慣れるしか無いわ。それとユエは男の時と同じ闘いかただから、体重や筋力が無いと成立しなくなったんだと思う」


月の表情が曇る。


「まぁ、それをなんとかする為の稽古会だからね。」


 三人で行った稽古は、気がつけば三時間近くに及んでいた。床の上にはいくつもの汗が残り、空気には汗と息遣いが混じっている。月と石山は道場の中央に腰を落とし、大粒の汗を浮かべながら肩で呼吸をしていた。


「今日は初日だし、このくらいで十分かな」


そう言って神奈は軽く手を叩く。


「二人とも、道場の脇にシャワー室あるから。先に汗流してきなよ」


 月と石山は顔を見合わせ、小さく頷くと、そのまま言われるがままシャワー室へ向かった。中は仕切り板で区切られた簡素な造りで、それぞれ個室になっている。蛇口をひねると勢いよく湯が落ち、張り詰めていた身体が少しずつ緩んでいった。


「それにしても……長月、マジで化け物だな」


湯音に紛れるように、石山が感嘆混じりに呟く。


「俺、あそこまで何もできずに転がされるとは思ってなかった」

「ああ……」


 月も同意するように短く応えた。


「男の時も全然歯が立たなかったけど、この体になってからだと余計に実感するよ。あいつの動きも重さも、全部別次元だってな」


 湯を浴びながら、月は続ける。


「今度アジア大会に出るって言ってたけど。神奈の本気……正直、どれほどの強さなのか想像もできないよ」

「アジア大会か……すげぇな」


 石山はそう答えながら、無意識に仕切り越しの影へと視線を向けていた。磨りガラスに映る月の輪郭は、以前のがっしりしたものとは違い、細く、柔らかい線を描いている。


「……長月ってさ」


石山は視線を誤魔化すように話題を戻す。


「あんな細い体で、どこにあれだけのパンチ打つパワー隠してんだろうな」


 そう言いながら、神奈の姿と、目の前にある月の華奢な体つきを、頭の中で重ねてしまい、石山は小さく息を吐いた。


 シャワーを終えて外に出ると、縁側には神奈が用意した冷たい飲み物と菓子が並べられていた。三人は並んで腰を下ろし、それぞれグラスを手に取る。


「はぁ……稽古の後の一杯は最高だね」


神奈はそう言って、ジュースを一気に喉へ流し込んだ。


「酒みたいにいうなよ」


月が呆れたように突っ込むが、神奈は満足そうに息を吐くだけで、特に気にした様子はなかった。


「そういえばさ、長月。今度アジア大会に出るんだって?」


 縁側で足を伸ばしたまま、石山が何気なく切り出した。


「ああ、うん……ユエから聞いたの?」


 神奈はそう答えると、もう一度グラスを傾け、冷えたジュースを口に運ぶ。


「で、場所はどこなんだ?」

「韓国。ソウルだね」


 神奈は視線を石山に向けてさらりと言った。


「すげぇな……外国の選手と試合するなんて、正直想像もしたことなかったよ」

「うん。私も海外での大会は初めてだから、さすがに気合いは入るかな。お土産も買ってくるから、期待してて」


 その言い方があまりにも軽やかで、月は思わず小さく笑ってしまう。


「なんかさ、試合っていうより観光に行くみたいな余裕を感じるんだけど」

「うーん、余裕っていうほどじゃないけど……単純に、海外の強い選手と本気で戦えるのが楽しみなだけよ」


 その言葉に、月と石山は顔を見合わせ、揃って目を丸くした。


「俺なんか試合前は緊張しすぎて、飯も喉を通らないけどな……」

「まぁ、結果、楽しみに待ってるよ」


 二人にそう言われ、神奈は満面の笑みを浮かべた。


「……そういえばさ」


 少し間をおいて、石山が思い出したように言う。


「俺たちも、もうすぐ修学旅行だよな」

「言われてみれば、そうだな」


 月が頷く。


「確か、四人グループで行動するんだよね」


 神奈はそう言いながら、ちらりと月を見る。


「俺、できれば石山と同じグループがいいんだけど……」


 月が言い終わる前に、


「無理に決まってるだろ」


 石山が即座に被せた。


「グループごとに部屋で寝泊まりするんだぞ。お前は女子グループに決まってるだろ」


 その一言に、月は大きくため息をつく。


「女子の部屋とか……ドキドキして、たぶん寝られない気がする」

「アホか。お前が男グループに入ったら、そっちのメンバーが寝られなくなるわ」


 石山の冷静な指摘に、神奈はくすりと笑った。


「じゃあさ、私と同じグループにする?」

「まぁ、それなら……他の女子よりは意識しなくて済みそうだけど……問題は残り二人だな……」


 月は両手を後ろにつき、縁側の天井を見上げて考え込む。


「だったら、由美と亜美でいいんじゃないか?」


 何気なく放たれた石山の一言に、月の心臓は大きく高鳴った。


「あいつらも、他のメンバー探すの苦労しそうだし。最近、ユエも由美とは少し話すようになっただろ?」


 佐藤由美と野々村亜美は、学校ではいつも二人で行動している。だが他の女子と輪になっている姿はあまり見かけず、人数指定のグループ作りでは確かに難航しそうだった。神奈や月と一緒なら、由美も余計な気疲れをせずに済む――石山はそんな計算も含めて口にしたのだろう。


「ゆ、ゆ……由美と同じグループ……?」


月は完全に思考が停止したまま呟く。


「ああ。一緒に飯食って、一緒に風呂入って、同じ部屋で寝るんだぞ。これ以上ない組み合わせだろ」


 石山の追い打ちに、呆然と前を見つめていた月の鼻先から、ぽたりと赤い雫が落ちた。


「あっ! 鼻から熱意が!!」


 神奈は慌ててポケットからティッシュを取り出し、月の鼻に押し当てる。


「エッチな想像して鼻血とか…… なんかユエって可愛いね」


 呆れ半分、面白がり半分で神奈が言うと、石山は肩をすくめた。


「由美には、俺からそれとなく話しておいてやるよ」


 三泊四日の修学旅行――


 月の胸に芽生えた期待は、果たして現実のものになるのか?そんな予感だけが、縁側の夕暮れに静かに残っていた。

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