第八話:暖炉の前の新しい誓い
第八話:暖炉の前の新しい誓い
聖域の静寂を後に、私達は帰路についた。
アレクシス様は、地に置いた月鋼の剣を、まるで初めて触れるかのように慎重に拾い上げる。その横顔を盗み見て、私は息を呑んだ。先ほどまでとは、彼の纏う空気がまるで違っていたからだ。以前の彼にとって剣が、呪われた運命と世界と己を隔てる冷たい壁であり、傷ついた自尊心を守る唯一の矜持だったのなら、今の彼にとってそれは、守るべきもののために振るうべき、信頼の置ける相棒のように見えた。その指が柄を握る様に、以前の拒絶はなく、静かな決意と、そしてどこか温かみさえ感じられた。
(ああ、彼はもう、一人ではないのだ…)
私の手の中では、銀の枝がまるで闇を照らす月光そのもののように、清浄な光を放ち続けている。ただ明るいだけではない。心の芯まで染み渡るような、穏やかで優しい光。その光に導かれるように、私達は森を戻っていった。先ほどまで威圧的でさえあった幻想的な深部の森の植物たちは、私達が通り過ぎる際、敬意を払うようにわずかに枝葉を揺らす。彼らもまた、森の心臓たる銀の樹の意思を、その清浄な光を通して感じ取っているのかもしれない。生命の囁きが、風と共に私達の頬を撫でていく。
「リゼット、気を抜くな」
嘆きの沼を慎重に迂回し、再びあの淀んだ瘴気の漂う領域へと足を踏み入れた途端、アレクシス様の声が鋭さを取り戻した。空気が一変し、肌を刺すような冷たさと、腐臭が鼻をつく。聖なる枝の光は、理を解する存在には敬われるが、瘴気に狂い、飢えに支配された魔獣にとっては、むしろ格好の獲物がいることを示す標でしかなかった。光は彼らの憎悪と食欲を、より一層掻き立てるのだろう。
その言葉を証明するように、不気味に静まり返った茂みの中から、複数の赤い光がぬらりと覗いた。それは、地獄の灯火のように執念深く、私達を捉えていた。
――グルルルル…!
低い唸り声が、腹の底に響く。昨日私を囲んだ狼型よりも一回り大きい、瘴気で体の一部がどろどろに溶けた、見るからに凶暴な個体が三匹。その涎を垂らした顎は、明らかに私の手の中にある銀の枝へと向けられていた。神聖なものへの冒涜を、本能が命じているかのように。
「俺の後ろへ!」
アレクシス様が、瞬時に私を庇うように立ち、月鋼の剣を構える。その背中は、どんな城壁よりも頼もしい。けれど、昨日の私とは違う。ただ守られるだけの存在では、彼の隣には立てない。
(怖い…。足がすくむ。でも…!)
私は恐怖に震える自分を叱咤し、植物学者としての観察眼を極限まで鋭くする。敵の動き、体表の異常、瘴気の流れ。その全てを捉えようと、瞳を見開いた。
「アレクシス様! あの個体、左前脚の付け根の体毛が薄い! そこが恐らく、瘴気の侵食の起点です! 身体の他の部位より、脆いはず!」
私の声は、自分でも驚くほどはっきりと響いた。それはもう、怯えた少女の声ではなかった。
「…なるほどな!」
アレクシス様の口角が、獰猛に、それでいて楽しげに吊り上がった。それは、戦いへの渇望ではなく、信頼できる戦術眼を得た将の笑みだった。彼は大地を蹴り、閃光のように一体目へと躍りかかる。私が指摘した弱点へ、月鋼の刃が寸分違わず突き刺さった。甲高い悲鳴を上げ、魔獣が黒い血を撒き散らしながら地に伏す。
残りの二体が、左右から同時に私達に襲いかかった。獣の臭いと殺意が、一気に密度を増す。一体はアレクシス様が、流れるような剣閃で斬り伏せる。だが、もう一体の爪が、死角から私のすぐ側まで迫っていた。
「!」
(間に合わない!)
アレクシス様の剣が戻るよりも、魔獣の爪が私を裂く方が早い。死を覚悟したその瞬間、私の手は無意識に腰の採集袋を探っていた。
(これしかない!)
咄嗟に、私は道中で採取しておいた『閃光茸』の胞子嚢を、魔獣の顔めがけて投げつけた。パーン!と乾いた音を立てて袋が破裂し、目も眩むほどの白い光が炸裂する。
「ギャウンッ!」
不意の光に視界を焼かれた魔獣の動きが一瞬、完全に止まる。その好機を、アレクシス様が見逃すはずもなかった。翻った彼の剣が、月光の軌跡を描き、魔獣の首を正確に両断していた。
血の匂いと瘴気の残滓が立ち込める中で、私達は息を整える。心臓が激しく鼓動し、吸い込む空気が喉に痛い。
「……見事な連携だったな」
ぜえぜえと肩で息をしながらも、アレクシス様はどこか誇らしげに言った。その黄金の瞳が、驚きと賞賛の色を浮かべて私を見ている。
私も、息を切らしながら頷き返した。
(すごい…これが、二人で戦うということ…)
恐怖はあった。けれど、それを凌駕するほどの確かな手応えと、彼と背中を合わせられる喜びが、胸を満たしていた。私はもう、無力な荷物ではない。彼の隣に立つ、彼の力になれる存在なのだ。その事実が、何よりも私を強くしてくれた。
◇
古城にたどり着いた頃には、私達は疲労困憊だった。
だが、埃っぽく、物悲しいはずの城が、今は心から安らげる、温かい我が家のように感じられた。二人で死線を乗り越えて帰るべき場所。その認識が、冷たい石の壁に温もりを与えていた。
大広間の巨大な暖炉に火を熾し、私達は言葉もなくその前に座り込んだ。パチパチと薪がはぜる音が、静寂の中に優しく響く。揺らめく炎が、冷え切った体を芯から温めてくれる。アレクシス様は、先ほどの戦闘で腕にかすり傷を負っていた。浅い傷だが、魔獣の爪によるものだ。放置はできない。
「アレクシス様、腕を。手当てします」
私が言うと、彼は一瞬ためらった。その瞳に、他者に身を委ねることへの慣れない戸惑いが浮かぶ。だが、彼はやがて、諦めたように素直に腕を差し出した。私は用意していた薬草の軟膏を、彼の傷に優しく塗り込む。思ったよりもずっと近くにある彼の顔に、心臓が大きく音を立てた。整った顔立ちに刻まれた疲労の色、燃えるような黄金の瞳に宿る静かな光。その全てが、私の心を乱す。
(こんなに近くで…。彼の肌は温かい。生きている…)
この人が傷つくのは、もう見たくない。心の底からそう思った。
「……すまない」
彼の低い声が、私の思考を破った。
「いいえ…。私こそ、ありがとうございます。何度も、何度も、守っていただいて」
沈黙が、暖炉の火の粉がはぜる音に混じって、部屋に満ちる。だが、それは気まずいものではなく、共有した戦いと生還の安堵が溶け合った、穏やかで心地よい沈黙だった。
「……リゼット」
不意に、アレクシス様が私の名を呼んだ。
「あの時、守り手の前で、お前が前に出てくれなければ、俺は間違いを犯していた。…感謝する」
それは、彼の無骨な性格からすれば、最大限の感謝の言葉だった。彼のプライドが、それを口にすることをどれほど躊躇させたか、私には痛いほど分かった。
「私こそ、あなたが信じてくださらなければ、何も始まりませんでした」私は微笑んで答える。「それにしても、『折られた誓いの真実』、『血の宿命』…。守り手の言葉が気になりますね。まるで、古い叙事詩の一節のよう…」
「……『罪人』と『聖女』、か」
アレクシス様が、忌々しげに呟く。その言葉には、長年彼を苛んできた呪いへの憎しみが滲んでいた。
ハッとして、私達は顔を見合わせた。暖炉の炎が、互いの驚愕に染まった顔を照らし出す。
罪人。聖女。
それは、今の私達の状況そのものではないか。
国を追われ、罪人の汚名を着せられた私と、国中の崇敬を集める聖女、セレスティア。
「まさか…あなたの呪いと、私の追放が…偶然ではなく、もっと深いところで繋がっていると…?」
声が震える。ただの不運ではなかったとしたら? 私の人生を狂わせたあの出来事が、この国の根幹に関わる、もっと大きな物語の一部だとしたら?
「…分からん。だが、偶然にしては出来すぎている」
彼の黄金の瞳が、暗い炎を宿して揺れる。ただの呪いではない。その裏には、王家や国を揺るがすほどの、巨大な陰謀が隠されているのかもしれない。私達は、その巨大な渦の中心にいるのかもしれない。
「…リゼット」
アレクシス様は、何かを決意したように、私の名をもう一度呼んだ。その声は、先ほどよりもずっと真剣な響きを帯びている。
「俺達が最初に交わした契約は…もはや、意味をなさないな」
(え…?)
心臓が、どきりと冷たい音を立てて跳ねた。契約の終わり。それは、私がここを出ていくということ…? 彼の呪いを解くという目的が果たされるまで、という約束だったはず。まだ何も解決していないのに。不安に揺れる私の瞳を、彼は射抜くように見つめた。その真摯な眼差しに、私は言葉を失う。
「お前は、ただの薬師ではない。俺の呪いを解く鍵を握るだけではなく、俺の背中を預けられる、唯一の相棒だ。そして俺は…もう、お前の身の安全を保証するだけの、ただの番人ではいられない」
彼は静かに立ち上がると、私の前に片膝をついた。そして、暖炉の光に照らされた月鋼の剣を、鞘ごと床に置いた。それは、騎士が主君に忠誠を誓う、最上級の礼。私の心臓が、今度は破れそうなほど激しく鳴り響く。
「リゼット・フォン・ヴェルナー」
彼が、私の名を、まるで聖なる祈りのように紡ぐ。追放され、誰もが口にするのを憚った、私の本当の名を。
「俺は、俺の魂に誓う。お前のその濡れ衣を晴らし、お前の名誉と誇りを、必ず取り戻してみせる。それは、呪いを解くための取引ではない。俺自身の、偽りのない願いだ」
(あ……)
視界が、熱いもので滲んでいくのが分かった。
家を、名を、全てを奪われ、誰にも信じてもらえなかった。孤独の闇の中で、もう二度と誰かに心を許すことはないとさえ思っていた私に、彼は、彼だけは、無条件の信頼と、未来への誓いを捧げてくれている。
「だから…」彼は少し照れたように、だが真っ直ぐに私の瞳を見つめて続けた。「だから、お前も俺のそばにいてくれ。俺が、お前を必要としている」
ぽろぽろと、大粒の涙が頬を伝って落ちた。でも、それは悲しみの涙ではない。生まれて初めて知る、温かくて、どうしようもなく嬉しい、魂が震えるような涙だった。
「…はい」
私は、涙声で、それでもはっきりと答えた。しゃくりあげそうになるのを必死でこらえ、彼に想いを伝える。
「はい、アレクシス様。私も、誓います。あなたのその呪いを、私が必ず解いてみせます。それは、ここに居させてもらうための対価ではありません。あなたのいない未来など、もう、考えられないから。あなたの苦しむ姿を見るのは、もう、耐えられないから。…それが、私の心からの願いです」
私達の間に、新しい誓いが生まれた。それは、どちらか一方が利を得るための打算的な「契約」ではない。互いが互いを想い、支え合い、同じ未来を歩むための、魂の「約束」。
彼は、そっと私の涙を親指で拭うと、その大きな手で、私の手を優しく握りしめた。傷だらけで硬い、けれどこの上なく心強い、騎士の手。私達は、言葉もなく見つめ合った。
暖炉の炎が、私達二人を、そして暖炉の前に置かれた銀の枝を、温かく照らし出している。
絶望の森で始まった私達の物語は、今、確かな希望の光を灯し、新たな章へと歩みを進めようとしていた。
第九話へ続く