第七話:銀の樹と守り手の試練
伝説は、現実のものとして私達の眼前にそびえ立っていた。
『銀の樹』。
その存在を前にして、呼吸の仕方さえ忘れてしまう。嘆きの沼で凍えた魂が、この場所に満ちる神聖な気に触れて、解かされていくのが分かった。樹皮は、悠久の時をかけて磨き上げられた純銀そのもの。天から降り注ぐ光の粒子が、その幹を絶え間なく清めるように撫でていく。一枚一枚の葉は淡い光を宿し、風に揺れるたびに、銀の鈴が囁き合うような、この世のものとは思えぬ清らかな音を立てていた。
(すごい……。これが、森の心臓……)
植物学者としての知的好奇心と、生命そのものへの畏敬の念が、私の中で渦を巻く。ここは、ただの森の奥深くではない。世界の始まりから、時が止まったままの聖域。生命の理が、凝縮された場所。
「……行くぞ」
隣で、アレクシス様が低く呟いた。その声には、百年の宿願を前にした、祈りにも似た固い決意が滲んでいる。私達は、まだ繋いだままだった手に、どちらからともなく力を込めた。先ほどの沼で幻影に苛まれた心の傷が、互いの体温でじんわりと癒えていく。彼の大きな手は、もう私を現実に繋ぎ止めるためのものだけではない。同じ未来を目指す、確かな道標だった。
私達は、ゆっくりと、祈るように銀の樹へと歩みを進める。
一歩、また一歩と近づくにつれて、空気が密度を増していくのが肌で感じられた。ただ清浄なだけではない。膨大で、純粋な生命力の圧。それは慈愛に満ちて優しくもあり、同時に、土足で踏み入る者の覚悟を鋭く問うような、峻厳さも秘めていた。
(まるで、巨大な生き物の呼吸に包まれているみたい……)
ふと隣を見ると、アレクシス様が月鋼の剣の柄に手をかけていた。彼の横顔は、彫像のように硬質で、その黄金の瞳は森の美しさではなく、その先に潜むかもしれない脅威だけを捉えている。
(……この人は、こうしてずっと、たった一人で戦ってきたんだ)
百年という、想像もつかない孤独な時間。彼の心は、安らぎ方さえ忘れてしまったのかもしれない。その痛みが、私の胸にちくりと刺さった。
そして、私達が樹の根元まであと数歩という距離に達した、その時だった。
銀の樹の根本から、無数の光の粒子が、蛍の群れのように一斉に舞い上がった。それは渦を巻き、さざめき、互いに寄り添いながら形を成していく。やがて私達の前に、一体の「存在」が、音もなく立ち塞がった。
それは、獣でも、人でもなかった。
鹿のようにしなやかな四肢と、威厳を湛えた大樹の枝のような角。体は、光を編み込んだ銀色の蔓と、星屑の苔で出来ており、透き通るその内部を、樹液のような黄金の光が脈打っているのが見えた。そして、その瞳。森の奥深くにある泉をそのまま映したかのように、静かで、底知れない翠色をしていた。
森の意思そのものが、形を成したかのような、気高くも悲しげな守り手だった。
『何故、ここへ来た。人の子らよ』
声ではない。思考に直接、厳かに響き渡る問いかけ。それは、地殻の変動のように重く、古の風のように物悲しい響きを持っていた。
「我らは、呪いを解くために来た。その樹の枝が、必要だ」
アレクシス様が、守り手を睨み据え、私を庇うように一歩前に出る。彼の全身から放たれる闘気は、この静謐な聖域においてあまりにも鋭く、異質に響いた。まるで、美しい玻璃の器に投げ込まれた、一振りの剣のように。
守り手の翠の瞳が、静かにアレクシス様を捉える。その瞳には、何の感情も浮かんでいないように見えて、その奥には数世紀分の諦観が沈んでいた。
『呪い…ああ、その身に纏う不和の気配か。それは人の血が招いた理の綻び。裏切られた契約。森の嘆きそのもの。それを、更なる簒奪によって癒すと申すか。人の子は、いつの世も変わらぬ。愚かな』
その言葉は、刃となってアレクシス様の希望を切り裂いた。明確な拒絶。守り手の周囲の空間が、ピシリと凍てつくような緊張に満ちる。
「ならば、力ずくででも…!」
(だめだ、アレクシス様…! この方は、力でどうにかなる相手じゃない!)
彼の絶望が、怒りへと変わる。月鋼の剣が鞘から抜き放たれようとした、その瞬間。
「お待ちください、アレクシス様!」
私は彼の腕を両手で掴み、制した。驚いてこちらを見る黄金の瞳に、私は必死に首を横に振る。そして、彼の前に躍り出て、守り手と真っ直ぐに向き合った。心臓が早鐘を打つ。足がすくむほどの恐怖。だが、それ以上に、私の魂に流れ込んだ森の記憶が、この存在の悲しみを、痛いほどに訴えかけていた。
(この方は、怒っているんじゃない。悲しんでいるんだ。ずっと、ずっと長い間…)
「偉大なる森の守り手よ。私達は、奪いに来たのではありません。乞いに来たのです」
私は深く、深く頭を下げた。
「彼の呪いは、確かに人の血が招いたものなのでしょう。あなたのおっしゃる通り、私達人間は、愚かな過ちを繰り返してきました。あなたの怒りも、悲しみも、もっともなことです」
一度言葉を切り、守り手の反応を窺う。その翠の瞳が、拒絶の色をわずかに緩めた気がした。
「ですが、この歪んでしまった理は、彼を蝕むと同時に、この森をも苦しめているはずです。瘴気は、森が生み出す悲しみの涙。違いますか?」
私の言葉に、守り手の翠の瞳が、初めてはっきりと揺らめいた。
『……お前には、聞こえるのか。森の、嘆きが』
「完全ではありません。ですが、私は知りたいのです。どうすれば、この深い悲しみを癒せるのか。彼の呪いを解くことは、きっと、森の魂を癒すための、最初の一歩になると信じています。私達は調和を望みます。過去の過ちを正し、新たな理を紡ぐための鍵として、どうか、あなたの、そしてこの偉大な樹の力を、お貸しいただけないでしょうか」
私は顔を上げ、嘘偽りのない心で、守り手を見つめた。私の背後で、アレクシス様が息を呑む気配がする。彼は、私がただ薬を作るための知識を持つだけの女ではないことに、今、改めて気づいているのだろう。
長い、風の音だけが支配する沈黙が落ちた。
やがて、守り手は私からアレクシス様へと視線を移した。その瞳は、今や彼の魂の奥底まで見透かそうとしているかのようだった。
『騎士よ。お前は、お前の血に刻まれた傲慢を捨てる覚悟があるか。その剣を、その怒りを、お前が信じると決めたただ一人の女の言葉に預け、地に置く覚悟があるか』
試すような言葉。それは、彼の存在意義そのものを問うていた。
アレクシス様は、一瞬、激しい葛藤に眉を寄せた。彼の百年は、力で己を守り、力で全てを捻じ伏せようとしてきた歴史だ。その剣は、呪われた彼に残された最後の矜持そのもの。それを手放すことは、無防備な己を晒すことと同義だった。
(アレクシス様……)
祈るような気持ちで彼を見つめる。すると、彼は私の瞳をじっと見つめ返した。その黄金の瞳に、嘆きの沼で私を現実へと引き戻してくれた、あの強い光が宿る。彼は、私の横顔を一瞥すると、ふ、と諦めたように、それでいてどこか晴れやかな息を吐き、静かに月鋼の剣を地面に置いた。
カラン、という澄んだ金属音が、聖域に響く。
それは、彼が剣を捨てた音ではなかった。
百年抱え続けた孤独と不信を捨て、初めて、己の全てを誰かに委ねた音だった。
その行為を見届けた守り手の全身から、ふわりと柔らかな光が溢れ出す。張り詰めていた空気が、春の陽光のように和らいでいく。
『…よかろう』
その声は、先ほどよりもずっと穏やかで、慈しみに満ちていた。
『人の子が、森の声を聞き、騎士が、信じるもののために剣を置いた。それは、幾百年の時を経て初めて見る、調和の兆し』
すると、私達の頭上で、銀の樹が応えるようにざわめいた。全ての葉が一斉に輝きを増し、聖なる歌を歌い始める。
一本の枝が、まるで意思を持つかのように自ら幹を離れ、柔らかな光を放ちながら、ゆっくりと、ゆっくりと、私の目の前へと舞い降りてきた。
私は、震える両手で、その奇跡の枝を恭しく受け取った。
それはひんやりと冷たいのに、まるで生きているかのように、温かい生命力がトクン、トクンと掌に脈打っていた。
「……ありがとう、ございます」
涙で潤んだ声で絞り出した感謝の言葉に、守り手は静かに頷いた。
『それは鍵。だが、錠は血と記憶に固く閉ざされている。折られた誓いの真実を知り、血の宿命を超えぬ限り、本当の調和は訪れまい。心せよ、人の子ら』
守り手はそれだけを告げると、その体は再び光の粒子へと還り、銀の樹の根元へと吸い込まれるように、穏やかに消えていった。
後に残されたのは、私と、地面に置かれた剣の傍らに立つアレクシス様、そして、手の中にある銀の枝だけだった。
私達は、言葉もなく顔を見合わせる。彼の黄金の瞳には、安堵と、そして今まで見たこともないような、深く、優しい信頼の色が浮かんでいた。
百年越しの宿願への、確かな一歩。
だが同時に、私達は知ったのだ。これから私達が解き明かさねばならないのは、単なる呪いではない。王家と森を巡る、遥か古の、悲しい契約の物語なのだということを。
手にした銀の枝が放つ、希望の光に照らされながら、私達の本当の旅が、今、静かに始まった。
第八話へ続く