第六話:深き森の理と嘆きの沼
明けの誓いを交わしてから、数日が過ぎた。古城の中は、かつてないほどの静かな活気に満ちていた。私は、書庫から持ち帰ることを許された数冊の基礎文献と、自身の新たな感覚を頼りに、解呪薬の調合理論を練り上げていた。同時に、旅に備え、強力な治癒薬や瘴気を一時的に退ける軟膏など、考えうる限りの準備を整えた。
一方のアレクシスは、城の武具庫の奥深くから、黒光りする一振りの長剣を手に戻ってきた。それは、ただの鉄ではない。月の光を吸って鍛えられたという『月鋼』の刃だ。彼は黙々とその刃を研ぎ、手入れをしていた。その姿は、百年の眠りから覚め、再び戦場へと赴く覚悟を決めた、真の騎士そのものだった。
そして、旅立ちの朝が来た。
「これより先は、俺が知る森とも理が異なる。生命の在り方そのものが、我々の常識とはかけ離れている。何が起きても、決して俺から離れるな」
古城の門の前で、アレクシスは厳粛に告げた。その先には、まるで世界の境界線のように、瘴気の濃度が明らかに違う空間が広がっている。
私が固唾を飲んで頷くのを見ると、彼は一歩、その未知なる領域へと足を踏み入れた。私も、覚悟を決めて後に続く。
その瞬間、世界が一変した。
空気が、甘い蜜のような香りを帯び、温度が数度上がったように感じる。先ほどまでの陰鬱な森ではない。そこは、神々の庭と見紛うほど、幻想的な生命に満ち溢れていた。
木の幹は磨き上げられた黒曜石のように滑らかで、その表面には、星屑を散りばめたかのような燐光を放つ苔『星屑の苔』がびっしりと生えている。それらが放つ青白い光が、私たちの進むべき道をぼんやりと照らし出していた。
頭上を見上げれば、巨大な植物の葉が天蓋を作り、葉脈そのものが黄金色に発光している。そこからこぼれ落ちる光は、まるでステンドグラスを透かしたかのように、地面に複雑で美しい模様を描き出していた。
「すごい…」
思わず感嘆の声が漏れる。私の植物学者としての魂が、この未知なる生態系に歓喜の悲鳴をあげていた。
「気を抜くな。美しいものほど、牙を隠し持っている」
アレクシスの警告と同時に、道端に咲いていた巨大な花『月光花』が、ふわりと開いた。その花弁から、真珠色の催眠性の胞子が、きらきらと輝きながら舞い上がる。私は咄嗟に、アレクシスからもらった布で口と鼻を覆った。
だが、私にはもう一つ、新たな感覚が備わっていた。
(こっちじゃない…あちらの方から、もっと清浄で、力強い生命の流れを感じる…)
奔流のような記憶が遺した、森の魂を感じ取る力。それは、まるでコンパスのように、私の進むべき方向を示していた。
「アレクシス様、こちらへ。この先に、澄んだ気配の道があります」
私が、獣道すらない方向を指さすと、彼は驚いたように私を見たが、何も言わずに頷き、巨大な剣で茨を切り拓いて道を作ってくれた。彼はこの森の危険を知り、私はこの森の生命を知る。私たちは、互いの足りない部分を補い合う、唯一無二の二人組だった。
どれほど進んだだろうか。
やがて私たちは、広大な沼地の前にたどり着いた。
その沼は、不気味なほど静まり返っていた。水は底が見えるほど透明なのに、深淵のように黒く、水面からは、人の嘆きのような冷たい霧が立ち上っている。周囲の幻想的な植物たちも、この沼だけは避けるように、距離を置いていた。
「『嘆きの沼』だ…」アレクシスが、忌々しげに呟いた。「森の悲しみが凝り固まってできた場所。この水に触れた者は、己が過去に犯した最大の過ちと後悔の幻影を見せられ、魂を水底に引きずり込まれる」
進むには、この沼を渡るしかない。
「私が先に行く。幻影が見えたら、すぐに俺の名を呼べ」
彼はそう言うと、覚悟を決めて水に足を踏み入れた。私も、彼のすぐ後について、冷たい水の中に足を入れる。
その瞬間、世界が歪んだ。
私の目の前には、王都の玉座の間が広がっていた。私を蔑み、嘲笑う貴族たち。冷酷な瞳のクラウス王子。そして、天使のような顔で偽りの涙を流す、妹のセレスティア。
『お姉様は、昔からそうでしたわ。魔力もない出来損ないのくせに、いつもわたくしのものを欲しがる…』
『フォン・ヴェルナー家の恥晒しめ!』
『お前など、生まれてこなければよかったのだ!』
父の声までが、脳裏に響く。そうだ、私はいつだって出来損ないだった。前世でも、今世でも、結局は誰の役にも立てない。足が、泥に絡め取られたように重くなる。もう、どうでもいい…。
その時だった。私の目の前を歩いていたアレクシスの足が、ぴたりと止まった。彼の屈強な背中が、苦痛に震えている。その瞳には、かつて見た、あの絶望の色が再び浮かんでいた。
(ダメ…! アレクシス様が、呑まれる…!)
私は、自分を苛む幻影を、意志の力で振り払った。違う! 私はもう、一人じゃない!
「アレクシス様!」
私は彼の腕を掴んだ。その瞬間、彼の見ていた幻影が、私の脳裏にも流れ込んでくる。
――燃え盛る城。降り注ぐ矢。そして、彼の腕の中で、血を流しながら微笑む、美しい女性。
『貴方のせいでは、ありません…。どうか、ご自分を…責めないで…』
その女性は、あの呪いをかけたという、高貴な女性の顔と瓜二つだった。
「これは幻です! 森の悲しみが、あなたの後悔を餌にしているだけ! あなたは、何も悪くない!」
私の叫びに、アレクシスはハッと我に返った。彼は、苦しげに私を、そして自分の腕を掴む私の手を見つめる。
「リゼット…お前こそ…」
「私は大丈夫です! 私にはもう、守りたいものがありますから!」
私は彼の手を強く引き、前へと進んだ。幻影はまだ囁きかけてくる。だが、互いの温もりだけが、唯一の現実だった。彼が私を、私が彼を。互いを現実に繋ぎ止めながら、私たちは一歩、また一歩と、沼の中心を突き進んでいく。
長い、永遠とも思える時間を経て、私たちはようやく対岸の地にたどり着き、同時に崩れ落ちた。
「はぁ…はぁ…」
息も絶え絶えになりながら、それでも、互いに握りしめた手は、離さなかった。
「…すまない、俺が、呑まれるところだった…」
「いいえ…。私も、あなたがいなければ、きっと…」
言葉は、いらなかった。共有した痛みと、それを共に乗り越えたという事実が、私たちの魂を、以前よりも遥かに固く結びつけていた。
顔を上げると、空気が変わっていることに気づいた。嘆きの沼を越えた先は、瘴気の気配が嘘のように薄れ、清浄な気に満ちていた。
そして、遥か前方。霧の切れ間の向こうに、それが見えた。
天を突くほどの巨体。樹皮は磨き上げられた純銀のように輝き、その枝葉の一枚一枚が、柔らかな光の粒子を放っている。それは、ただの樹ではない。圧倒的な生命力と、神聖な気配を纏った、森の心臓そのもの。
この世のものとは思えぬほど、悲しくも美しいその姿。
「……見えます…」
私の掠れた声に、アレクシスも顔を上げる。
その瞳が、希望と、畏怖と、そして百年越しの宿願を前にした決意に、強く輝いた。
伝説の『銀の樹』は、実在した。
私たちの旅は、今、ようやく本当の始まりを告げたのだ。
第七話へ続く