第五話:魂の奔流と夜明けの誓い
意識が途切れる寸前、私の目に焼き付いたのは、憤怒に燃える黄金の双眸だった。
『よくも…! 俺の女に…っ!』
アレクシスの咆哮は、ただの怒りではなかった。それは、己の存在理由そのものを揺るがされた、魂からの絶叫。彼から迸った黒い瘴気の嵐が、私を庇うように優しく包み込んだのを最後に、私の意識は完全に闇へと沈んだ。
次に感じたのは、激しい揺れと、私を抱きかかえる力強い腕の感触だった。
(アレクシス様…?)
呼びかけようとしても、唇は鉛のように重く、声にならない。彼の腕の中は、不思議と安らげる場所だった。だが、彼の心臓が、まるで警鐘のように激しく脈打っているのが伝わってくる。その鼓動は、恐怖と、後悔と、そして今まで感じたことのないほどの激しい庇護欲を物語っていた。
背後で、書庫の巨大な扉が地響きを立てて閉まる音がした。まるで、獲物を奪われた捕食者が、悔しげに顎を鳴らすかのように。
◇
どれほどの時が経ったのか。
私の意識は、混沌の海を漂っていた。夢と現実の境界は溶け、膨大な記憶の奔流が、私の魂を容赦なく洗い流していく。
――見える。大地の裂け目から、嘆きのように瘴気が噴き出す光景。
――聞こえる。森の木々が、精霊たちが、血の涙を流して歌う鎮魂歌。
――感じる。何者かが、王家の血と古の森との間に結んだ、神聖にして不可侵の契約。その契約が、裏切りによって引き裂かれた瞬間の、絶望的な衝撃。
――そして、垣間見る。月夜の下、悲しみに満ちた美しい顔で、震える手で呪いの言葉を紡ぐ、一人の高貴な女性の姿。その瞳の色は、忘れようもない、潤んだ青色。聖女セレスティアと、同じ色…。
「…違う…契約が…」「銀の…樹が、泣いている…」「毒じゃ、ない…寄生…」
うわ言のように、私の唇から意味不明の言葉がこぼれ落ちる。それは私の言葉ではなく、私の魂に流れ込んだ、森羅万象の記憶の断片だった。
そのたびに、固く絞られた布が私の額に触れ、熱を吸い取っていくのを感じた。そして、私を見守る、苦しげな気配。
(ああ…、また心配を、かけてしまっている…)
意識を取り戻したいのに、記憶の奔流がそれを許さない。必死にもがく私の手を、不意に、大きくて少し不器用な手が、そっと握りしめた。その手は、ひどく冷たいのに、なぜか心の芯まで温めてくれるような、不思議な温もりを持っていた。
◇
(俺のせいだ)
アレクシスの心は、百年ぶりに感じた安らぎとは真逆の、激しい後悔の嵐に苛まれていた。
ベッドで苦しげに呻くリゼットの姿を見るたびに、己の愚かさが心臓を抉る。あの書庫の危険性を、誰よりも知っていたはずなのに。彼女の持つ知的好奇心と、呪いを解こうとするひたむきな瞳に、絆されてしまった。彼女が見せる微かな希望の光に、百年凍てついていた己の心が、愚かにも浮かれたのだ。
彼女が眠りながらこぼす断片的な言葉は、アレクシスの知識の範疇を遥かに超えていた。『銀の樹』『古の契約』。それは、呪われた王家の人間でさえ、おとぎ話としてしか知らない、禁忌の領域。あの書物は、彼女に知識を与えたのではない。彼女の魂を器として、奔流を注ぎ込んだのだ。
「…くそっ…!」
彼は、祈るように彼女の手を握りしめることしかできない。魔獣を屠るこの腕も、国を滅ぼせるほどのこの呪いの力も、今、目の前で苦しむ一人の女性を前にしては、あまりにも無力だった。
彼女と出会ってから、わずか数日。
だが、彼女のいないこの城の静寂は、もはやただの孤独ではない。心にぽっかりと穴が空いたような、耐え難い喪失感を伴うものになっていた。
彼女を失うこと。それは、再び終わりのない絶望の闇に突き落とされることと同義だった。
いや、それ以上だ。一度光を知ってしまった後の闇は、以前よりもずっと深く、冷たい。
(死なせるものか。たとえ、この身がどうなろうとも)
書庫で、激情のままに叫んだ言葉が脳裏をよぎる。『俺の女』。
あの言葉は、どこから来たのだろう。取引相手? 保護対象? …違う。もっと、魂の根幹から湧き出た、抗いがたい独占欲。彼の凍てついた心に、リゼットという名の花が、知らぬ間に根を張っていたのだ。
◇
ふと、意識が浮上する。
最初に感じたのは、痛みではなく、誰かに手を握られているという、確かな温もりだった。
ゆっくりと瞼を開くと、薄暗い部屋の中、ベッドの傍らにある椅子で、一人の男が眠っていた。
アレクシス様だ。
彼は椅子に座ったまま、私の手を握りしめ、身を屈めるようにして眠りに落ちている。月明かりが、彼の疲労しきった顔を照らし出していた。いつも厳しく結ばれている唇はわずかに開き、その顔には、呪われた孤高の王ではなく、ただ大切な人の無事を祈り続けた、一人の青年の苦悩が刻まれていた。
その痛々しい姿に、胸の奥が締め付けられる。
私が身じろぎした気配に、彼は弾かれたように顔を上げた。そして、私の目が開いていることに気づくと、その黄金の瞳が驚きに見開かれる。
「リゼット…!気がついたのか…!」
「…アレクシス、さま…」
かすれた声で彼の名を呼ぶと、彼は安堵の息を深く、深く吐き出した。
「すまない…。俺が、お前を…」
「いいえ」私はかぶりを振った。「私がいけないのです。あなたの警告を、軽んじてしまったから…」
互いに罪を認め、見つめ合う。その視線の交錯の中に、もはや取引相手としての遠慮も、探り合いもない。ただ、互いを深く気遣う、切実な想いだけがあった。
私はゆっくりと体を起こした。まだ少し眩暈がするが、頭の中は嵐が過ぎ去った後のように、静かで、そして驚くほど澄み渡っていた。
あの奔流は、私から多くのものを奪い、そして、一つの確信を遺していった。
「アレクシス様。あなたの呪いの正体が、少しだけ、わかりました」
私の言葉に、彼が息をのむ。
「あの書物が…教えてくれたのです。あなたの呪いは、単独の魔術ではありません。この森そのものと、そして、あなたの王家の血と、固く結びついた『共生型の呪詛』です。瘴気は、呪いから生まれた毒ではない。古の契約が破られたことによって、嘆き、傷ついた森の生命力が、歪んで顕現したものです」
「……なんだと…?」
「だから、浄化するだけでは駄目だったのです。それは、森の嘆きを力でねじ伏せるだけ。一時的な痛みを和らげても、根本的な解決にはならない。必要なのは、浄化ではなく、『調和』です」
私は、握られたままの彼の手を、今度は自分から強く握り返した。
「あなたの魂と、森の魂を、再び繋ぎ合わせるための触媒が必要です。記憶の中にありました。この森の奥深く、瘴気の源の中心に、一本の『銀の樹』が眠っていると。その樹の枝があれば、私は、本当の解呪薬を作れるかもしれません」
『銀の樹』。その名を聞いたアレクシスの瞳に、絶望的な光がよぎった。
「…馬鹿を言え。それは、ただの伝説だ。仮に実在したとして、森の中心は、俺ですら踏み込めぬ魔の領域だぞ。生きては戻れん」
「一人では、そうかもしれません。ですが」
私は、彼の黄金の瞳をまっすぐに見つめ、はっきりと告げた。
「二人なら、どうです?」
絶望的な挑戦。だが、私の瞳には、狂気も、無謀な夢もない。ただ、確かな知識に裏打ちされた、静かな覚悟だけがあった。
アレクシスは、私の手を握る己の手に視線を落とし、そして、もう一度私の顔を見た。
彼の瞳に宿っていた長年の諦観の氷が、ピシリ、と音を立てて砕けていく。
その代わりに灯ったのは、絶望の果てにようやく見つけた、一条の、しかし力強い希望の光だった。
「……ああ。行こう」
それは、追放された令嬢と、呪われた騎士が、初めて同じ未来を見据え、運命を共にする覚悟を決めた、夜明けの誓いだった。
第六話へ続く