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第四話:囁きの書庫と最初の代償

夜が明け、古城の石窓から差し込む朝の光は、昨日よりもどこか柔らかく感じられた。天蓋付きのベッドから身を起こした私は、全身を包む疲労感とは裏腹に、頭が冴え渡っていることに気づく。昨夜、腕の中で感じた彼の体温と、穏やかな寝息が、まだ耳の奥に残っていた。

部屋を出て大広間へ向かうと、アレクシスはそこにいた。巨大な窓枠に腰かけ、腕を組み、外の森を眺めている。その横顔は、初めて会った時のように絶望に塗りつ潰されてはいない。長い夜の安息が、彼の纏う刺々しい空気をわずかに和らげていた。

「おはようございます、アレクシス様。お加減は…」

「……ああ」

私の声に、彼はゆっくりとこちらを向いた。その黄金の瞳が、真正面から私を捉える。

「昨夜は、ここ百年で最も深く眠れた。…感謝する、リゼット」

初めて呼ばれた名と、不器用ながらも率直な感謝の言葉。私の心臓が、トクンと小さく跳ねた。彼の口から紡がれる自分の名前が、これほどまでに特別な響きを持つとは。

「お役に立てて、光栄ですわ。ですが…」私は続けた。「銀霧草は効果が強い分、体への負担も大きいようです。倦怠感という副作用は、いざという時にあなたの動きを鈍らせてしまうかもしれません。もっとあなたに合った、最適な調合を見つけ出す必要があります」

(そのためには、情報が足りなすぎる。この世界の植物、瘴気、そして呪い…。私の知識だけでは限界がある)

私の視線が、無意識に西の棟へと向かっていることに、アレクシスは気づいたようだった。彼の表情が、再び硬質なものに戻る。

「あの書庫のことは、考えるなと言ったはずだ」

「ですが、必要です」私は一歩も引かなかった。「勘と経験だけで薬を作るのは危険です。薬草同士の相性、瘴気への作用、そして呪いそのものへの理解。それらを理論的に裏付ける知識があれば、副作用を抑え、より根本的な治療に近づけるはずです。私は、あなたの体を実験台にしたいわけではありません」

私の言葉に、アレクシスは押し黙る。彼の瞳が、私という存在を改めて測るように、じっと見つめていた。

「それに、記録も必要です。どの薬草を、どれだけの量で、どう調合したか。効果と副作用を正確に書き留めておかなければ、安定した薬は作れません。そのための紙と、インクも…」

「……」

「お願いです、アレクシス様。私をあの書庫へ連れて行ってください。あなたの監視のもとでなら、決して無茶はいたしません。あなたの呪いを解くために、あなたの力を貸してください」

懇願する私の瞳を、彼は射抜くように見つめ、長い沈黙が流れた。風が、割れた窓の隙間から吹き込み、彼の漆黒の髪を揺らす。やがて、彼は重い溜息と共にかすれた声で言った。

「……分かった。だが、条件がある」

「はい」

「俺の許可なく、いかなる書物にも触れるな。声に出して読むことも禁ずる。そして、俺が『出ろ』と言ったら、理由を問わず即座に従え。…約束できるか?」

それは、私の身を案じるが故の、厳しくも切実な響きを持っていた。

「はい。必ず、お約束します」

私たちが西の棟へと向かうと、明らかに空気が変わった。東の棟よりも冷たく、重い。光さえも澱んでいるようで、壁に刻まれた装飾の影が、何か別の生き物のように蠢いて見えた。

やがて辿り着いた書庫の扉は、他のどの扉とも異なっていた。黒檀のような木材で作られ、表面には銀色の金属で複雑なルーン文字が描かれている。それは封印だ。ただの鍵ではなく、魔術的な力で固く閉ざされている。

アレクシスは無言で己の指先を小さく傷つけ、血の雫を一滴、扉の中心にあるルーンに垂らした。すると、銀色の文字が淡い光を放ち、カチリ、と内側から錠の外れる音がした。

「入るぞ。俺から離れるな」

重い扉を開くと、息が詰まった。

黴と古い紙の匂いに混じって、脳を直接刺激するような、濃密な知識の匂いがした。そこは、円形の巨大な吹き抜け構造になっており、壁一面が、天井まで届く本棚で埋め尽くされている。鎖で棚に繋がれた分厚い革張りの本、巻物、石板。中央には巨大な天球儀が置かれ、微かな光を放っていた。

そして、聞こえるのだ。

囁き声が。無数の声が、私の思考に直接流れ込んでくる。歓喜、絶望、狂気、探求。この書庫に知識を求め、そして呑まれていった者たちの、残留思念。

「っ…!」

「気をしっかり持て。意識を声に引きずられるな」

隣のアレクシスが、低い声で警告する。彼の存在だけが、この狂気の渦の中での唯一の錨だった。

私は彼の指示に従い、薬草学や錬金術に関わる基礎的な文献が収められた一角へと向かった。それでも、横目で見る禍々しい装丁の本のタイトルが、私の心を強く引いた。『魂魄と瘴気の共生論』『魔獣転化の秘術』『王家の血に宿る古の契約』…。

(だめ、今は集中しないと…)

私は必死に意識を逸らし、植物図鑑のようなものを探した。だが、どの本も強力な魔力を放ち、迂闊に触れることができない。

その時、ふと一冊の本が目に留まった。

他の本のように禍々しいオーラを放つでもなく、ただ静かに、本棚の隅に収まっている。装丁も質素だ。だが、なぜか、その本だけが私を強く惹きつけた。

タイトルは、古代語でこう記されていた。『森羅の魂、その囁き』。

(これなら…大丈夫かもしれない)

「アレクシス様、あの本を…」

私が指さした瞬間、アレクシスの顔色が変わった。

「やめろ、リゼット! それに触るな!」

彼の絶叫が響く。だが、私の指先は、吸い寄せられるように、その本の背表紙に触れてしまっていた。

その瞬間――。

世界が、砕け散った。

膨大な情報が、津波となって私の脳に叩きつけられる。森の誕生。精霊の歌。大地の嘆き。何百年、何千年という植物の記憶。そして、名も知らぬ誰かの絶望と苦痛。

『――助けて』『なぜ』『許さない』

悲鳴と呪詛が、私の意識を飲み込もうとする。

「きゃあああああっ!」

頭蓋が割れるような激痛に、私はその場に崩れ落ちた。

意識が遠のく中、最後に見たのは、凄まじい怒りと絶望に燃える黄金の瞳だった。

「よくも…! 俺の女に…っ!」

アレクシスの体から、制御しきれないほどの黒い瘴気が嵐のように吹き荒れる。それは私を守るように包み込み、同時に、書庫全体を震わせるほどの強大な力だった。

彼の咆哮が、古城に響き渡る。それは、孤高の王が、己の至宝を傷つけられた時の、魂からの叫びだった。


第五話へ続く



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