第三話:古城の主と禁断の書庫
アレクシスの、傷つきながらも気高い背中を追う。
森の闇は、先ほどまでとは比較にならないほど深く、濃密な瘴気が肌にまとわりつくようだった。だというのに、彼の周囲だけはまるで聖域のように空気が澄んでいる。魔獣の気配どころか、虫の羽音一つ聞こえない静寂。森そのものが、この孤高の主に畏怖を抱き、道を拓いているかのようだ。
(この人は、ただ呪われているだけじゃない。この森の理、そのものに深く関わっているんだ…)
前世の知識が、目の前の現象を分析しようと試みるが、科学では到底説明のつかない神秘が、私の理解を拒絶していた。
やがて、ねじくれた木々の隙間から、月光を浴びて黒々とそびえ立つ古城のシルエットが全貌を現した。それは、ただ荒れ果てているという言葉では表現しきれない、荘厳さと退廃的な美しさが同居した建造物だった。天を突く尖塔は一部が崩れ落ち、壁には蔦が蛇のように絡みついている。かつては美しい彫刻が施されていたであろう石壁は、長い風雪と瘴気に侵され、まるで泣いているかのように黒い筋を浮かび上がらせていた。それはまるで、忘れ去られた巨人の骸だ。
「……着いた」
アレクシスは無言で、城の正面にある巨大な鉄の両開き扉に手をかけた。人の手で開閉されたのはいつ以来だろうか。地の底から響くような、重く軋む音を立てて扉が開かれる。中から吹き出したのは、埃と黴、そして湿った石の匂いが混じり合った、時間の澱のような冷気だった。
(すごい……。まるで、時が止まったまま腐敗していく、巨大な生き物の体内にいるみたい)
広大なエントランスホールは、がらんどうとしていた。天井からは、主を失った巨大なシャンデリアが、蜘蛛の巣をまとって寂しげにぶら下がっている。床に散らばる瓦礫を踏みしめる音が、やけに大きく反響した。窓から差し込む月光が、空気中を舞う無数の埃を銀色に照らし出し、幻想的ですらある。だが、ここは死の匂いに満ちた場所だ。人の営みが消え失せて久しい、深い寂寥感が城全体を支配していた。
「こっちだ」
アレクシスは私を促し、大広間を抜けて回廊を進む。彼の足音だけが、この死んだ城に響く唯一の生命の音だった。
やがて彼が足を止めたのは、比較的傷みの少ない一室の前だった。扉を開けると、そこは貴婦人が使っていたであろう寝室だった。古びてはいるが、彫刻の見事な天蓋付きのベッド、埃を被った豪奢な化粧台、そして煤けた大理石の暖炉。
「今夜はここで休め。……騎士団の詰所に比べれば、いくらかマシだろう」
ポツリと付け加えられた言葉に、私はわずかに驚いた。彼が、私を気遣うような言葉を発するなんて。
「……ありがとうございます。十分すぎますわ」
私がそう答えると、彼は居心地悪そうに視線を逸らし、踵を返した。
「待って、アレクシス様」
呼び止めると、彼の肩がぴくりと揺れる。
「その呪いのこと…、差し支えなければ、もう少しだけ教えていただけませんか? どのような痛みで、体のどこが、どう苦しいのか。薬師として、いえ、私の知識で何か役に立てるかもしれない。あなたのことを、もっと知りたいのです」
「知る必要はない」
拒絶の言葉は刃のように鋭かった。
「お前は取引に応じて薬を作る。俺はお前の安全を保証する。それだけだ。それ以上、俺の内側に踏み込むな。同情も、好奇心も、俺を苛立たせるだけだ」
振り返った彼の黄金の瞳は、激しい苦痛と、それを悟られまいとする頑ななプライドで揺らめいていた。
(違う、同情なんかじゃない。あなたの瞳の奥にある、あの深い孤独に、私は自分の姿を重ねてしまったから…)
だが、その言葉は喉の奥で溶けて消えた。これ以上は、彼の心を土足で踏み荒らすことになる。
「……失礼いたしました。出過ぎたことを申しました」
私が静かに頭を下げると、彼はフンと鼻を鳴らし、部屋を出て行った。「食料を調達してくる。城から出るな。特に、西の棟には近づくな」という言葉を残して。
一人残された部屋で、私はベッドに腰を下ろした。ギシリ、と悲鳴のような音を立てる。
(西の棟…? なぜだろう)
彼の警告が、かえって私の好奇心を刺激する。だが、今は彼の信頼を得ることが先決だ。
私は立ち上がり、窓の外に広がる荒れた中庭に目を向けた。そこは、私の専門分野だ。
「…大丈夫。私には、私の武器がある」
自分に言い聞かせ、私は中庭へと続く小さな扉を開けた。
◇
中庭は荒れ放題だったが、生命力に満ち溢れていた。瘴気が濃いせいか、王都では見られない奇妙な進化を遂げた植物たちが、月光を浴びて妖しい光を放っている。
(これは…! 葉脈が燐光を放っている。瘴気に適応するために、自ら光合成以外のエネルギー源を生み出したのか? なんてこと…この森は、巨大な実験場だ)
植物学者としての魂が歓喜に打ち震える。恐怖を忘れ、夢中で植物を観察し、採取していく。毒草、薬草、そして食用になりそうなもの。それらを見分ける知識が、今、私の唯一の生命線だった。
岩陰に、ひときわ強い清浄な気配を放つ薬草を見つけた。月影草よりも力強い、銀色の葉を持つそれ。私は慎重にそれを摘み取った。
(これなら、彼の苦しみを、もっと和らげられるかもしれない)
部屋に戻ると、暖炉に火が熾されていた。パチパチと燃える炎が、冷え切った部屋に温もりを与えている。アレクシスはまだ戻っていなかったが、彼の無言の配慮に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
しばらくして、血の匂いとともにアレクシスが戻ってきた。その肩には、私が森で遭遇した狼型の魔獣よりもさらに巨大な、猪のような魔獣が担がれている。
「……火、おこしてくださったのですね。ありがとうございます」
「……お前が凍え死ぬと、寝覚めが悪いからな」
ぶっきらぼうにそう言うと、彼は魔獣を手際よく解体し始めた。その姿は、呪われた騎士というより、手練れの狩人そのものだった。
その間に、私は先ほど採取した銀色の薬草を、持っていた携帯用の乳鉢ですり潰し、暖炉の火で煎じた。部屋に、森の夜気のような、澄み切った清々しい香りが立ち込める。
「アレクシス様。これを」
出来上がった薬湯を差し出すと、彼は訝しげに眉をひそめた。
「今度は何だ」
「『銀霧草』と名付けました。強い浄化作用があります。あなたの体の瘴気を、より深く洗い流せるはずです」
彼は、湯気の立つカップと私の顔を、何かを値踏みするように見比べた。その瞳の奥で、期待と、裏切られることへの恐怖が激しくせめぎ合っているのが見て取れた。
「……もし、これが毒だったら?」
試すような問いに、私は静かに彼の目を見つめ返した。
「その時は、あなたの呪いが解けるより先に、私があなたの牙にかかって死ぬだけですわ。試す価値はあるでしょう?」
私の言葉に、彼は一瞬、虚を突かれたように目を見開き、そして諦めたように深く息を吐いた。
「……お前は、本当に変わった女だな」
そう呟くと、彼はカップを受け取り、一思いにそれを呷った。
息をのんで見守る。数分後、彼の体からふっと力が抜けるのがわかった。強張っていた肩が下がり、苦痛に歪んでいた眉間のしわが和らいでいく。青白い肌に、わずかに血の気が戻り、首筋に浮かんでいた呪いの痣が、明らかに薄らいでいた。
「……体が…軽い。泥の中に沈んでいた意識が、引き上げられるようだ…。だが、同時に…ひどく、眠い…」
その体はぐらりと傾き、私は慌ててその屈強な体を支えた。思った以上の重みに、よろめく。
「大丈夫ですか!?」
「……ああ。問題ない。ただ、力が抜けるだけだ…」
腕の中のアレクシスは、ひどく消耗しているようだったが、その表情はここ百年で最も穏やかなものに見えた。初めて触れた彼の体温は、思ったよりもずっと温かかった。
その夜、私たちは暖炉の前で、黙って焼いた肉を分け合った。ぎこちない沈黙だったが、それはもはや拒絶の色を帯びてはいない。同じ秘密と、ささやかな希望を共有した者同士の、静かな時間だった。
「……西の棟にあるのは、書庫だ」
食事が終わった後、アレクシスがぽつりと切り出した。
「俺の先祖が遺した、禁断の知識が集められている。瘴気や呪い、古代魔法に関する、人の領域を外れた書物ばかりだ。俺も一度、この呪いを解くために足を踏み入れたが……正気を失いかけた」
彼の黄金の瞳が、暗い炎を宿して揺れる。
「だから、行くな。お前ほどの知識があれば、興味を惹かれるだろう。だが、あの書物は、知識を与えると同時に、代償を求める。お前を失うのは、取引の上で…都合が悪い」
取引の上で。その言葉が、私の胸にちくりと刺さった。だが、彼の不器用な言葉の裏にある、私を案じる気持ちが透けて見えて、自然と口元が綻んだ。
「承知いたしました。あなたの許可なく、足を踏み入れることはありません」
その夜、天蓋付きのベッドに横になりながら、私は眠りにつけずにいた。隣の部屋から聞こえる、アレクシスの穏やかな寝息。百年の孤独な夜の中で、彼は初めて、安らかな眠りを得ているのかもしれない。
そして、私の心は、彼が口にした「禁断の書庫」に強く惹きつけられていた。
(彼の呪いを解く手がかりが、そこにあるかもしれない。危険だとしても…)
全てを失い、死ぬためだけに追放されたはずの私に、新しい目的が芽生えようとしていた。
それは、呪われた騎士を救うという、あまりにも無謀で、けれど抗いがたいほど魅力的な挑戦だった。
第四話へ続く