第二十話:嵐の後の静寂と新たな予兆
薄暗い洞窟を抜け、「月の涙」が煌々と輝く満月が夜空を支配する場所へと飛び出した私たち。背後で、宰相が作り出した悍ましい異形が土塊となって崩れ去る音が遠のく。ドッカンバッカンと鳴り響いた崩落の轟音も、今はもう遠い残響に変わっていた。しかし、心臓の鼓動だけが、未だ激しいリズムを刻み、この悪夢が確かに現実だったことを告げていた。
「はぁ、はぁ……」
全身から力が抜けるような疲労感。けれど、アレクシス様の手はまだ、私の手を固く握りしめたままだった。骨ばった指の感触と、じんわりと伝わる温かさ。それが、この悪夢のような現実の中で、私を唯一、現実につなぎとめてくれるものだった。まるで、月の光が降り注ぐ中、二つの魂が確かに結びついたような感覚に、心が震える。
「リゼット、大丈夫か?」
彼の声は掠れているけれど、優しさに満ちていた。砂埃と煤で汚れた端正な顔立ち、乱れた前髪。普段の隙のない王子様オーラはどこへやらだけど、私を案じるその眼差しは、どんな時も変わらないくらい澄んでいた。
(あぁ、もう……こんな状況なのに、不謹慎だなって分かってるのに、胸の奥がきゅんとなる。「月の涙」の守護者である王子様がこんな風に心配してくれるなんて、なんだか夢みたいだ)
私はなんとか息を整え、精一杯の笑顔を作った。「はい、アレクシス様こそ……お怪我は?」
アレクシス様はフッと力なく笑った。「この程度、どうということはない。それより、君こそ、あの術を使ったんだ。体に無理は……」彼の視線が、私が掌に握っていた黒曜石の祭壇の破片を一瞬捉える。青白い光と黒い靄が混じり合っていた祭壇の力を、私が一瞬だけ「無」に転じさせた、あの奇跡の痕跡だ。
「大丈夫です!少し、力が抜ける感じはしますけど、大きな怪我はないです!」私は胸を張って答えた。確かに疲労はひどいけど、あの**「無の錬金術」**を使った後の、ひどい脱力感は、もう何度か経験してるから、これくらいなら大丈夫だ。いや、慣れるもんじゃないんだけど、と心の中で付け加える。
「それにしても……」私は、宰相と共に消え去った異形がいた場所を振り返った。「本当に、終わったんですよね?あの、宰相も、**「大いなる厄災様」**も……」
アレクシス様は、私の手をぎゅっと握りしめ直し、力強く頷いた。「ああ。完全に消滅した。二度と、この国に害をなすことはない」彼の言葉には、揺るぎない決意が込められていた。
しかし、彼の言葉は、なぜか私の心に完全に安堵をもたらすことはなかった。宰相のあの狂気に満ちた目、そして、まるで地獄の底から響くような呪詛の言葉が、脳裏に焼き付いている。宰相は言った。「この身は既に、大いなる厄災様と一体となった!」と。この世界の根源たる「月の涙」の力が歪んだ存在、本当に、たった一度の「無」の錬金術で、あの強大な存在が完全に消滅したのだろうか。私の錬金術は、たった一度きりの奇跡だったのではないだろうか。不安が、心の奥底でチクチクと疼く。
「……早く、城に戻ろう」アレクシス様が、私の不安を見透かしたかのように言った。
私たちは、再び歩き始めた。満月の光が、私たちの行く先を柔らかな銀色に染め上げる。山の木々のざわめきと、虫の音が、どこまでも静かに響いていた。疲労困憊の体を引きずりながら、私たちは森の中を進んでいく。時折、風に乗って、遠くから獣の甲高い鳴き声が聞こえる。あれは、宰相が呼び出した、自我を失った魔物たちの残党だろうか。この森の生命力も、あの瘴気の影響で、どこか弱々しく感じられた。
アレクシス様は、抜き身の月鋼の剣を構え、その瞳には鋭い警戒の色を宿していた。王家のみが受け継ぐと言われる、精霊の力を宿した月光色の剣は、闇夜に青白い光を放ち、私たちを守る結界のようだった。私も錬金術のポーチをぎゅっと握りしめる。もはや、このポーチは私にとって、ただの道具入れではなく、自分を守るための、そしてアレクシス様を守るための、大切な「武器」になっていた。中には、**緊急時に使える簡易的な回復薬(試作品)**とか、魔物対策に効くかもしれない爆音玉とか、あとは錬金術の授業で使う試験管とか、色々入ってる。錬金術師としての矜持が、私を支えていた。
幸い、大きな魔物との遭遇はなく、私たちは夜明け前に城の敷地へとたどり着いた。早朝の薄明かりの中、城門の衛兵たちが私たちを見て、驚きと安堵の声を上げた。彼らの顔は、この数日間の不安と疲労でやつれている。城壁には、宰相の企みを知って警戒を強めていた騎士たちの姿も見える。
「アレクシス様!リゼット殿!」
門が開き、中から駆け寄ってきたのは、騎士団長だった。その顔には、安堵の表情が浮かんでいる。「ご無事で!宰相殿は……」
アレクシス様は、静かに首を横に振った。疲労で掠れた声で、それでもはっきりと告げた。「宰相は……もはやいない。そして、大いなる厄災も、私が討ち果たした」
騎士団長は、信じられないものを見るかのようにアレクシス様を見つめた後、深く頭を下げた。「……よくぞご無事で。そして、この国をお救いいただき、心より感謝申し上げます」彼の声には、国王への忠誠と、アレクシス様への尊敬が滲み出ていた。
城の中では、国王陛下が待ち構えていらっしゃった。憔悴した顔つきだが、その瞳には強い光が宿っている。
「アレクシス!リゼット!よくぞ戻った!」
国王陛下は、私たち二人を深く抱きしめてくださった。その腕は震えていた。私たちが地下祭壇へと向かうのを許し、この全てを託してくれた国王陛下の重圧を思うと、胸が締め付けられるようだった。この国の王として、民の命を預かる重責を、改めて感じた。
私たちは、城の一室で、国王陛下に、今回の事件の全てを報告した。宰相が**「月の涙」の力を利用して「大いなる厄災様」**を召喚しようとしていたこと。古の予言書に記された厄災の封印を解き放とうとした彼の狂気。そして、黒曜石の祭壇が暴走し、私の錬金術がそれを食い止めた経緯。アレクシス様が、危険を顧みず時間稼ぎをしてくれたからこそ、私が「月の涙」の力を利用できたのだということも、丁寧に説明してくれた。
国王陛下は、静かに私たちの話を聞き終えると、深く息を吐かれた。「……そうか。まさか、あの宰相が、そのような恐ろしい企みを抱いていたとは。長年、彼を重用してきた私の不覚だ……。しかし、アレクシス、そなたは王太子として、見事な采配であった。そして、リゼット殿。そなたの錬金術が、この国を救ったのだ。まさか、祭壇の暴走まで抑え込むとは……そなたの才能は、私が考えていた以上だ」
国王陛下の言葉に、私の頬が熱くなる。錬金術が、こんなにも大きな事態を解決するとは、夢にも思わなかった。普段は、学園の研究室で小さなフラスコを覗き込んで、新しい触媒の配合を考えたり、時々失敗して実験室を爆発させそうになったり……そんな地味な毎日を送っていたのに。錬金術がただの学術的な探求だけでなく、世界の均衡を左右する力であることを、身をもって知った瞬間だった。
しかし、その安堵も束の間だった。
「ただ……」国王陛下の声が、急に重くなった。「祭壇の崩壊の影響か、国内の各地で、魔力の乱れが報告されている。特に、祭壇があった地下施設と繋がっているとされる、古の遺跡群がある地域の森で、不可解な現象が多発しているという報告が上がっているのだ。木々が突然枯れ果てたり、奇妙な病が蔓延したり……まるで、世界の理が歪んでいくような現象だという」
私の心に、漠然とした不安がよぎる。宰相の目的は、本当にただ厄災を召喚することだけだったのだろうか。あの「大いなる厄災様」は、本当に完全に消滅したのだろうか。私の「無」の錬金術は、一時的な封印に過ぎなかったのではないか。背中にゾクリと冷たいものが走る。宰相の**歪んだ「悲願」**が、まだこの国に暗い影を落としている。
アレクシス様も、真剣な表情で国王陛下の言葉を聞いている。「……つまり、まだ完全に終わりではない、と?」彼の表情にも、新たな決意が宿り始めていた。
国王陛下は重々しく頷いた。「うむ。宰相が残した手がかりを徹底的に調査し、その影響を完全に断ち切らねばなるまい。リゼット殿、そなたには、その錬金術の知識と力で、この事態の解明に協力してほしい。この国には、そなたの力が必要なのだ」
私の胸に、新たな使命感が芽生えた。確かに、宰相を倒すことはできた。しかし、彼の遺した負の遺産は、まだこの国に影を落としている。そして、もしかしたら、あの厄災は、まだ完全に消え去ってはいないのかもしれない。「月の涙」が司る世界の均衡が、今、まさに試されている。
私とアレクシス様は、顔を見合わせた。互いの瞳に映るのは、疲労と、そして、未来への覚悟だった。私たちの戦いは、まだ終わっていなかった。この古き王国の命運は、今、私たちの肩にかかっている。
嵐の後の静寂は、新たな予兆を孕んでいた。
(第二十一話へ続く)




