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第二話:呪われし騎士と最初の契約

「…………あなた、は…?」

私の問いかけは、血の匂いが満ちた森の空気に吸い込まれて消えた。巨大な黒豹は答えない。ただ、その黄金の瞳がじっと私を見つめ返す。圧倒的な力を持つ捕食者の瞳。だというのに、その奥に揺らめくのは、深い孤独と、まるで終わらない責め苦に耐え続けているかのような悲痛な色だった。その瞳は、誰からも理解されず、たった一人で世界から切り離された者の色をしていた。――それは、ほんの少し前までの、私自身の心の内とよく似ていた。

親近感にも似た感情が芽生えた、その時だった。黒豹の喉から、押さえつけたような呻きが漏れる。

突如として、そのしなやかな巨体が、まるで内側から破壊されるかのように激しく痙攣し始めた。闇よりも深い漆黒の毛並みの下で、骨がきしみ、筋肉が悲鳴をあげて脈打つのが、恐ろしいほど生々しく伝わってくる。

「っ…ぐ、ぅぅ…あああっ!」

それはもはや獣の咆哮ではない。魂を引き裂かれるような、紛れもない人間の苦悶の声だった。

次の瞬間、黒豹の体から淡い燐光が激しく放たれる。周囲の瘴気が揺らめき、木々の葉擦れの音さえ止んだ。まるで森全体が、この神聖で冒涜的な儀式に息をのんでいるかのようだ。痛々しい光の中で、彼のシルエットがぐにゃりと歪み、縮み、再構築されていく。あまりの光景に、私は恐怖よりも先に、彼の苦痛に対する強い共感が胸を締め付けた。

やがて嵐のような光が収まった時、そこに黒豹の姿はなかった。

代わりに、湿った腐葉土の上に、一人の青年がぜえぜえと肩で息をしながら倒れていた。

夜の闇をそのまま梳ったような漆黒の髪。月明かりに照らされた肌は、貴族の令嬢たちもかくやというほど白いが、それは健康的な白さではなく、血の気の失せた陶器のような冷たさを感じさせた。古びてはいるが、上質な刺繍の残る黒衣からは、彼がただの森の住人ではないことが窺える。

そして、苦痛に伏せられた睫毛がゆっくりと持ち上がり、現れた瞳は――あの黒豹と同じ、射抜くような黄金色をしていた。

神が精魂込めて作り上げたかのような、人間離れした美貌。だが、その顔色は青白く、額には脂汗が浮かび、呪いの刻印のように青黒い痣が首筋から胸元にかけて薄っすらと浮かび上がっている。彼はひどく衰弱し、そして絶望していた。

「……また、面倒なものが迷い込んだか」ようやく絞り出された声は、ひどくかすれ、長年人を相手にすることのなかった者のように硬い。「……貴様、なぜこの森にいる」

その声には、警戒と共に、うんざりとした疲弊の色が濃く滲んでいた。

「私はリゼット、と申します。王都を追放され、この森に…棄てられました」

「追放、だと? 人間のやることは、いつの世も変わらんな。くだらん内輪揉めか。知ったことではない」

忌々しげに吐き捨てられる言葉は、氷のようだ。けれど、私は不思議と傷つかなかった。彼の瞳は、私個人を蔑んでいるわけではなかったからだ。彼が憎んでいるのは、もっと大きく、根深い何かだった。

私は、感情を押し殺し、努めて冷静に事実だけを話した。聖女暗殺未遂という濡れ衣。魔力がない「出来損ない」という烙印。話しながら、きつく握りしめた拳の中で、爪が食い込むのを感じる。

私の話を聞き終えても、彼の表情は石のように硬いままだった。だが、その黄金の瞳が、ほんの一瞬だけ揺らぎ、私に同情にも似た視線を向けた。…そしてすぐに、それを打ち消すかのように、再び冷たい光を宿す。

「……出来損ない、か。……俺と同じ、だな」

自嘲を込めた呟きに、私は胸の奥を突かれる。彼が自分をそう卑下する理由が、この呪いにあることは明らかだった。

「あなたは…」

「俺はアレクシス。この森に巣食う、呪われた亡霊だ。お前が信じる神にも見放された存在だよ」

アレクシスと名乗った彼は、ゆっくりと体を起こした。その仕草一つにも、消耗の色が濃くにじんでいる。

私は、目の前の現象を理解しようと必死だった。前世の知識が、恐怖よりも先に分析を始める。彼の体から立ち上る瘴気の気配。それは魔法的な現象でありながら、一種の「毒素」として彼の生命力を蝕んでいる。植物が土壌の毒に蝕まれるように、彼もまた、この呪いという毒に侵されているのだ。

「見ての通り、夜になると俺はあの獣の姿になる。理性も記憶も徐々に削り取られ、いずれは感情すらない完全な獣に成り果てるだろう。それが俺にかけられた呪いだ」

彼はこともなげに、しかしその声の底には諦観という名の分厚い氷が張っていた。「そして、この森からは一歩も出られん。貴様も、まだ人の営みに戻りたいという甘い夢を見ているなら、さっさと立ち去れ。俺に関わるな。優しさも同情も、ここでは何の役にも立たん」

立ち去れ、と彼は言う。それは私を拒絶する言葉。王都で、家族に、婚約者に突き放された記憶が、冷たい霧のように胸に蘇る。――また、拒絶されるのか。

だが、彼の瞳は、私を陥れた者たちとは違っていた。彼の拒絶は、私を傷つけるためではなく、彼自身と、そして私を守るためのものだと直感した。

「お断りします」

私のきっぱりとした返答に、アレクシスは心底驚いたように目を見開いた。

「この魔獣が跋扈する森で、夜明けまで一人で過ごせと? 私をここに残すのは、あなたにとっても寝覚めが悪いのではありませんか? 獣に喰われた私の亡霊が、あなたの枕元に立って、毎晩ハーブティーを淹れて差し上げますよ」

少し茶化すように言うと、私はすぐに行動に移した。触れると肌がただれる『夜光苔』や、甘い香りで虫を誘う食肉植物を避けながら、地面を注意深く観察する。あった。瘴気が溜まる岩陰に、月光を弾いて青白く光る葉。

私は躊躇なくそれを数枚摘み取ると、彼のもとへ戻った。

「何を…する気だ」彼の声に、警戒が戻る。

「『月影草げつえいそう』です。強い鎮静作用と、瘴気の毒を中和する力があります。あなたの呪いそのものを解くことはできないでしょう。ですが、今のあなたの苦痛を和らげることはできるはずです」

私は摘んだ薬草を、彼に差し出した。

アレクシスは、私の手のひらにあるそれと、私の顔を、何かを値踏みするように何度も見比べる。彼の瞳には、「また裏切られるのではないか」という人間への深い不信と、「しかし、この女の瞳には嘘の色がない」という微かな希望との間で、激しく揺れ動く様が見て取れた。

「なぜ、お前を信じられる。これが毒ではないと、どうして言える」

「信じなくとも結構です。ですが、試さなければ何も始まりません。私は、私の知識を信じています」

私の瞳を、彼がまっすぐに見つめる。嘘も、偽りも、憐れみもない。ただ、薬師令嬢としての、植物学者としての、私の全てがそこにあった。玉座の間で踏みにじられた私の知識と誇りを、今こそ、目の前の誰かを救うために使いたい。

長い、心臓の音がうるさいほどの沈黙の後、アレクシスは諦めたように深く息を吐き、私の手から震える指で薬草を受け取った。そして、まるで毒を呷るかのように、一思いにそれを口に含む。

すぐに効果が現れるはずもない。だが、数分後、彼の荒かった呼吸が、明らかに深さを取り戻した。額の汗が引き、首筋に浮かんでいた呪いの痣の色が、ほんのわずかに薄らいだように見えた。

「……呼吸が、楽だ……。体が、少しだけ、軽い…」

不本意そうに、だが彼は確かにそう言った。それは、何百年という孤独な時の中で、初めて感じた変化だったのかもしれない。

そして、彼は初めて私を「厄介な闖入者」としてではなく、一人の対等な人間として正対して見た。

「お前のその知識は……本当に、俺のこの呪いを、どうにかできる可能性があるのか…?」

それは、長年の絶望の果てに、ようやく見つけた蜘蛛の糸を手繰り寄せようとするかのような、かすかな希望を帯びた問いだった。希望を抱くこと自体を、彼は恐れているようにも見えた。

「わかりません。ですが、諦めてただ苦しみに身を委ねるよりは、ずっとましだとは思いませんか?」

私は静かに、しかし力強く答えた。

アレクシスはしばし黙り込んだ後、何かを振り払うように立ち上がった。その足取りは、まだおぼつかない。

「……取引だ」

「取引、ですか?」

「そうだ。お前は俺のために、その知識を使って呪いを和らげる薬を作る。それが条件だ。その代わり、俺はお前の安全と…寝食を保証する。この森で、俺の側にいる限り、どんな魔獣もお前を襲わん」

それは、呪われた騎士と、追放された令嬢の、あまりにも奇妙な出会いから生まれた、最初の「契約」だった。彼なりの不器用な優しさと、私を傍に置きたいという無意識の独占欲が、「取引」という体裁の良い言葉に隠されていることに、私はまだ気づかなかった。

私が静かに頷くのを見ると、アレクシスは「ついてこい」と短く告げて、森の奥へと歩き出す。

彼の、傷つきながらも気高い背中を追いながら、私は思う。瘴気が濃くなる森の奥深く、しかし不思議と彼の周りだけは魔獣の気配が消える。

やがて木々の切れ間から、月光を浴びて物悲しくそびえ立つ、古城のシルエットが見えてきた。

全てを失ったはずのこの場所で、私の新しい人生が、そして運命が、今、静かに動き始めている。それは、絶望の終わりであり、同時に、今まで知らなかった温かい何かを見つける、長い長い物語の始まりだった。


第三話へ続く


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