第十九話:満月の夜の最終決戦
薄暗い洞窟を抜け、星が瞬く夜空の下へ飛び出した私たち。冷たい夜風が火照った頬を撫で、満月が煌々と輝いていた。山の木々のざわめきと虫の音が、生きている世界の音だと実感させてくれる。
「よし、このまま城に戻るぞ、リゼット」
アレクシス様は私の顔を見て微笑んだ。その笑顔は、さっきまでの緊張感とは打って変わって、いつもの爽やかイケメン王子様に戻っている。汗で額に張り付いた髪を指で払う仕草まで、絵になる。
だが、安心したのも束の間だった。
私たちの目の前に、突如として漆黒の影が舞い降りてきた。教会の壁画に描かれた悪魔にも似た、巨大な翼を持つ異形の存在。その翼からは、瘴気にも似た黒い霧が立ち上り、周囲の木々を枯らしていく。宰相が祭壇で召喚しようとしていた「大いなる厄災様」とやらに、不気味なほどそっくりな姿だった。
「ひぃっ!?」
思わずアレクシス様の背中に隠れる。体から力が抜けそうになるのを、必死でこらえた。
そして、その異形の背中から、ゆっくりと降りてきたのは……ボロボロの黒いローブをまとい、顔は煤で汚れてはいるものの、間違いなくあの宰相だった。彼のローブの下から見える素肌は、魔力の影響か、不気味な黒い紋様が浮かび上がっている。
「……よくも、よくも私の長きにわたる計画を!この国の千年にも及ぶ停滞を打ち破り、新たなる秩序を築くための、私の悲願を!許さんぞ、リゼット!そして、アレクシス!お前たちだけは、絶対に生きてここから帰さん!」
宰相の目は、狂気に満ちた赤黒い光を放っていた。その言葉は、まるで地獄の底から響く呪詛のようだ。そして、その手に握られているのは……あの冒涜的な黒い日誌!それが、宰相の血と狂気を吸い上げて、不気味に脈動しているように見える。
まさか……宰相が、あの厄災様をここまで召喚してしまったというのか!?いや、もしかしたら……宰相自身が、厄災様に取り憑かれてしまっている……?
「……っ、宰相、貴様……まだ生きていたのか!」
アレクシス様が剣を構え、私を庇うように一歩前に出る。彼の背中が、どんな時でも私を守ろうとしてくれているのがわかる。
絶体絶命のピンチ。夜風が頬を打ち、恐怖で全身が震える。でも、私はもう、逃げ出したりしない。
「まさか、あの祭壇の崩壊から生き延びるとは……!しつこいにも程があるぞ、宰相!」アレクシス様が月鋼の剣を構えながら宰相に問いかける。刃が満月の光を反射し、青白い光を放っていた。
宰相は、不気味な笑みを浮かべる。その顔はもはや人間のものとは思えないほど歪み、血管が浮き上がっていた。「ふははは……!この程度の試練、この私を止められるものか!この身は既に、大いなる厄災様と一体となった!お前たちごときが、この私に敵うとでも思うか!」
宰相の言葉に呼応するように、背後の巨大な異形がさらにその翼を広げる。黒い霧が濃くなり、あたり一帯を覆い尽くさんばかりに広がっていく。木々はみるみるうちに枯れ、地面は腐食していく。まるで、時間が早送りされているかのように、生命の輝きが失われていく光景に、私は思わず息を呑んだ。
「リゼット、油断するな!あれは、魔力の根源そのものに働きかけている!触れるな!」アレクシス様の声が、緊迫した状況を物語る。
しかし、宰相は容赦なく私たちに襲いかかってきた。黒い日誌を掲げた宰相の手から、漆黒の魔力の奔流が放たれる。それは、夜空を切り裂くかのように一直線に私たちに向かってきた。
「危ない!」アレクシス様が私を突き飛ばし、自らは剣を盾にして魔力を受け止める。しかし、その威力は想像以上だった。アレクシス様は大きく吹き飛ばされ、近くの木の幹に叩きつけられる。
「アレクシス様!」私は駆け寄ろうとしたが、宰相の背後の異形が巨大な爪を振りかざし、その行く手を阻む。ゾッとするほどの冷たい魔力を感じ、身動きが取れなくなる。
「小娘めが、大人しくしていろ!お前だけは、この厄災の贄として生きたまま差し出してやる!」宰相の目が、私を憎悪に満ちた目で捉える。その視線に、全身の毛が逆立つ。
私は震える手で、錬金術のポーチを握りしめた。簡易的な煙玉、催涙ガス(試作品)……こんなもので、どうにかなる相手ではない。でも、諦めるわけにはいかない。
その時、アレクシス様が立ち上がった。かすり傷を負ってはいるものの、その瞳には強い光が宿っている。「リゼット、逃げろ!奴は、俺が食い止める!」
「ダメです!アレクシス様一人で、あんなものに……!」
「……心配するな。私は、この国の未来を背負う者だ。そして、君を守ると誓った!ここで倒れるわけにはいかない!」アレクシス様の言葉は、私の心を強く打った。そうだ、私たちはもう、ただの王子と研究者じゃない。お互いを信じ、支え合ってきた仲間だ。
私はポーチの中を必死に探った。何か、何かできることはないか……。その時、指先に触れたのは、先ほど地下祭壇で暴走した黒曜石の祭壇の破片だった。ひび割れた中央から噴き出していた青白い光と黒い靄が混じり合う、あの光景が脳裏をよぎる。
これだ!
私は、先ほどまで宰相が儀式をしていた祭壇の部屋を思い出した。**黒曜石の祭壇は、まるで巨人の心臓が破裂したかのように、中央から大きくひび割れ、そこから青白い光と黒い靄が混じり合って噴き出していた。**あの光は、おそらくこの世界の根源たる「月の涙」の魔力だ。そして、黒い靄は、宰相が呼び寄せようとしていた負の魔力。それが混じり合ったことで、祭壇は暴走したのだ。
つまり、この破片には、その両方の力が微量ながら残っているはず。
私は、以前錬金術の研究で偶然発見した、ある現象を思い出した。異なる性質の魔力が極限まで混じり合った時、一瞬だけ、そのどちらの性質も持たない「無」の状態が生まれることがある。その「無」の瞬間を捉えられれば、もしかしたら……!
私は、アレクシス様に向かって叫んだ。「アレクシス様!時間稼ぎをお願いします!私に少しだけ時間をください!」
アレクシス様は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに私の意図を察したのか、力強く頷いた。「分かった!だが、無茶はするなよ、リゼット!」
アレクシス様は再び宰相と異形に向かって斬りかかっていった。月鋼の剣が黒い魔力とぶつかり合い、光と闇が激しく衝突する。宰相が放つ魔力の奔流を巧みにかわし、異形の爪を剣で受け流すアレクシス様の姿は、まるで夜空を舞う一筋の光のようだった。
私はその隙に、祭壇の破片を手に取り、集中した。錬金術の基本原理を頭の中で反芻する。物質の組成、魔力の流れ、そして、それらを制御する術。震える指で、私は破片に微量の魔力を流し込む。青白い光と黒い靄が、破片の中で不安定に混じり合う。
いける……!
私は、かつてないほどの集中力で、その「無」の瞬間を狙った。宰相の背後の異形が、再び巨大な爪を振りかざし、アレクシス様に向かっていく。
「今だっ!」
私は、破片から溢れ出る魔力を、異形と宰相に向かって放った。それは、光でも闇でもない、ただの透明な波紋のように見えた。しかし、その波紋が異形の体に触れた瞬間、異形は一瞬にして動きを止めた。黒い霧が晴れ、その巨大な体から力が抜けたかのようにぐらつく。
「な、なんだと!?」宰相が驚愕の声を上げる。
その隙を見逃さなかったのは、アレクシス様だった。彼は素早く異形の懐に潜り込み、渾身の力で月鋼の剣を振り上げた。
「これが、貴様の最後だ、宰相!」
剣が、異形の、そして宰相の体に深々と突き刺さる。異形は断末魔のような叫び声を上げ、宰相の体から禍々しい黒い光が噴き出した。その光は、満月の光に照らされ、まるで溶けるかのように夜空に消えていった。宰相は、その場に崩れ落ち、二度と動かなくなった。異形もまた、土塊のように崩れ去り、黒い霧も消え失せていく。
あたりには、再び静寂が訪れた。夜風が、私たちの頬を優しく撫でる。満月が、全てを見守るかのように煌々と輝いていた。
「……終わったのか?」
私は呆然と呟いた。アレクシス様は、荒い息を整えながら、私の方へ振り返った。その顔には、安堵と疲労が入り混じっていた。
「ああ、終わった……。リゼット、よくやった。君の錬金術が、我々を救ってくれた」
アレクシス様が私に歩み寄り、優しく頭を撫でてくれた。その手の温かさに、私は全身の力が抜けて、その場にへたり込んだ。
「はぁ……はぁ……怖かったぁ……!」
涙が、止まらなかった。今まで張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れ、込み上げてくる感情に身を任せた。アレクシス様は何も言わず、ただ優しく私の頭を撫で続けてくれた。
満月の光が、私たち二人を包み込む。この命がけの夜を乗り越え、私たちは確かに、また一つ強くなった。そして、私たち二人の秘密は、また一つ増えたのだった。
宰相の野望は潰え、大いなる厄災は退けられた。しかし、地下祭壇の崩壊、そして宰相が召喚しようとしていた厄災の影響は、この国に何をもたらすのだろうか。そして、私たち二人の運命は、これからどうなっていくのだろうか。
新たな夜明けが、静かに訪れようとしていた。
(第十九話へ続く)