第十七話 蛇の巣の対峙
祭壇の陰に身を潜めた瞬間、世界から一切の音が消え去ったかのように感じた。背中に触れる黒曜石の祭壇は、まるで氷のように冷たく、私の体温を無慈悲に奪っていく。舞い上がった埃が喉を刺激し、必死に咳を堪える。己の心臓が耳元で打ち鳴らす警鐘と、隣で獣のように怒りを殺して荒くなるアレクシス様の息遣いだけが、この世の全ての音だった。彼の筋肉が硬直し、その腕から伝わる熱は、今にも爆発しそうな激情そのものだった。
松明の光に照らし出されたのは、数人のフードの男たち、そしてその先頭を歩く、壮年の男。ここ数日、重い病に伏せていると誰もが信じていた、この国の宰相、その人だった。彼の顔には、王の前で見せる穏やかな知性の仮面は一片もなく、代わりに、日誌に記された狂気と冷酷な野望を体現したかのような、歪んだ愉悦の笑みが深く刻まれていた。
「…ふむ。祭壇の魔力は安定しているな。嘆きの森から吸い上げた瘴気も、順調にこの地に集積している。星々の配置も申し分ない」
宰相は、満足げに祭壇を見回し、その滑らかな声で言った。その声は、かつてアレクシス様が父王の隣で幾度となく聞いたであろう、忠臣としての穏やかな声色そのものだったが、今はその一音一音が、私達の神経を逆撫でする毒のように、この地下空間に反響した。
「宰相様、例の王子の様子は?」
フードの男の一人が、感情の抑揚がない声で尋ねる。
「ああ、案ずるな」宰相は楽しげに喉を鳴らした。「我が“目”からの報告では、呪いは順調に彼の魂を蝕んでいるとのことだ。己の無力さに苛まれ、城の中で悶え苦しんでいることだろう。もうすぐ、星見の塔で『月の涙』の儀式とやらを試すらしい。結構なことだ。星々の力が最も高まるその時に、彼の心が完全に折れる。その絶望こそが、大いなる厄災様を現世に呼び覚ますための、最高の贄となるのだ」
(…“目”だと?城の中に、まだ仲間がいるというのか…!俺の行動は、全て筒抜けだったというのか…!)
アレクシス様の肩が、怒りで微かに震えた。長年、父王と共に国政を担い、自分もまた師のように仰いできた男が、その実、己の破滅を企む元凶だった。
(あの時、父上の隣で、俺の剣の稽古を見て微笑んでいたあの顔が、これだったというのか…!この手で…!この手で、八つ裂きにしてくれる…!)
殺意が理性を焼き尽くそうとするのを、彼は奥歯を強く噛み締めて耐えていた。今にも飛び出しかねない彼の腕を、私は必死で抑える。まだだ、まだ動く時ではない。
宰相たちは、私達の存在には全く気づかず、祭壇の前で何かの儀式の準備を始めた。フードの男たちが、おぞましい紋様の描かれた革袋から、変異した動物の骸や、黒く変色した植物を取り出し、祭壇に捧げていく。それらが祭壇に触れた瞬間、ジュウ、と音を立てて黒い煙が上がり、空間の淀みがさらに増した。
宰相が、あの黒い日誌に記されていたものと同じ、冒涜的な詠唱を始めると、床の呪術円が血のような赤い光を放ち始め、地下空間の魔力がさらに歪んでいくのが肌で感じられた。空気が重く、粘性を持ち、呼吸をするだけで肺が穢されていくようだ。
(このままでは、儀式が進むにつれて魔力が高まり、私達の存在が感知されてしまう…!)
絶望的な状況下で、私は必死に活路を探していた。錬金術師の性として、この祭壇の構造そのものに、何か弱点はないかと目を凝らす。そして、儀式の赤い光に照らされた祭壇の表面を観察するうちに、ある重大な事実に気づいた。
祭壇の黒曜石に、無数の紋様が刻まれている。その基本構造は、星見の塔で私達が見た、星の魔力を制御するための錬金術の紋様に酷似していた。だが、決定的に違う。紋様の流れが、ことごとく逆なのだ。エネルギーを集め、精製し、安定させるための星見の塔の祭器とは真逆に、この祭壇は、星や大地から吸い上げた清浄な魔力を捻じ曲げ、増幅させ、負のエネルギーへと強制的に変換するための、冒涜的な「逆転炉」だったのだ。
(星見の塔は天に向かって力を集める『レンズ』…ここは、大地に向かって呪いを吐き出す『傷口』…!なんと壮大で、邪悪な計画…!しかし、逆ならば…!逆の構造を持つならば、正の力をぶつければ、その理は必ず崩壊する!)
私は、一縷の光を見出した。それは、地下空間そのものを崩壊させかねない、あまりにも危険な賭けだった。だが、このままじっとしていても、待っているのは破滅だけだ。
私は、アレクシス様の耳元に唇を寄せ、考えうる限り最も小さな声で囁いた。
「…アレクシス様…祭壇を、暴走させます」
「…なに?」
「あの祭壇は、星の力を逆転させる装置です。ここに『月の涙』を使えば、エネルギーが衝突し、大混乱を引き起こせます。それが、私達が逃げる唯一の隙です」
彼の瞳が、危険すぎると告げていた。
「…君まで巻き込むわけにはいかない」
「このままでは、二人ともここで終わります」私は彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。「私には、あなたの剣が必要です。私が『月の涙』を使うための、ほんの数秒の時間を稼いでください。私を、信じて」
私の瞳に映る覚悟を読み取ったアレクシス様は、一瞬の葛藤の後、静かに、しかし力強く頷いた。
(リゼットを危険に晒す?いや、違う。彼女は俺を信じて、この地獄に活路を見出した。俺が彼女の覚悟に応えずして、何が王か!)
次の瞬間、アレクシス様は祭壇の陰から躍り出ていた。世界が、一瞬スローモーションになる。舞い上がる黒衣、彼の黄金の瞳に宿る怒りの炎、そして宰相の驚愕に歪む顔。
「宰相!貴様の長きにわたる茶番は、ここで終わりだ!」
その声は、地下空間の隅々にまで響き渡り、儀式を行っていた者達の動きを凍りつかせた。
驚愕は、やがて宰相の顔の上で、歪んだ歓喜の笑みへと変わった。
「これは…これは驚いた。自ら贄が、この聖なる祭壇へやってくるとはな!天も我らに味方したか!好都合だ、捕らえよ!王子の絶望を生で啜り、厄災様復活の儀を始めようではないか!」
宰相の狂的な号令一下、フードの男たちが一斉にアレクシス様へと襲いかかった。アレクシス様は月鋼の剣を抜き放ち、その切っ先を敵に向ける。フードの男たちの連携は巧みで、呪術で強化されたその動きは騎士に匹敵したが、アレクシス様は華麗な剣捌きでその猛攻を受け流し、決して深追いはせず、私のための空間と時間を死守していた。
(今しかない!)
私は祭壇へと駆け寄り、首から下げた革のポーチを強く引きちぎった。中から現れたガラスの小瓶が、祭壇の赤い光を受けて、まるで涙のように煌めく。蓋を開け、震える指で小瓶を傾ける。銀色に輝く奇跡の一滴が、スローモーションで祭壇の黒曜石に刻まれた「逆の紋様」の中心へと、吸い込まれていった。
衝突の瞬間、音はなかった。
ただ、世界が白く染まった。
完全な静寂の後、全てを破壊する轟音が訪れた。「月の涙」が祭壇に触れた瞬間、正と負の魔力が激しく衝突し、凄まじいエネルギーの嵐が地下空間を吹き荒れた。青白い浄化の光と、血のように赤い呪いの光が渦を巻き、耳をつんざくような甲高い悲鳴を上げて空間そのものを震わせる。
「な、何事だ!?祭壇が…!馬鹿な、なぜ浄化の力が!?」
宰相の狼狽した声が響く。黒曜石の祭壇に、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、床の呪術円が制御不能な閃光を明滅させながら消滅していく。地下空間全体が、まるで巨人の掌の上で揺さぶられるように激しく揺れ、ドーム状の天井から、岩や土砂が滝のように崩れ落ち始めた。壁画の冒涜的な王たちが、断末魔を上げて砕け散っていく。
フードの男たちは、暴走するエネルギーの奔流に巻き込まれ、悲鳴を上げる間もなく光の中に消えていく。
「リゼット、今だ!」
アレクシス様が、瓦礫を避けながら私の手を強く掴んだ。
私達は、崩壊し始める地下祭壇から、入り口である螺旋階段へと向かって、決死の脱出を開始した。
背後で、宰相の怒号が響く。
「逃がすな!王子を、あの小娘を、絶対に逃がすなァッ!我が悲願が…!ならばせめて、王子だけでもこの厄災の礎と…!」
だが、その狂気の叫びも、地下空間が崩れ落ちる轟音の中に、すぐにかき消されていった。私達は、ただひたすらに、地上へと続く光を目指して、闇の中を駆け上がった。彼の温かく力強い手が、この混沌とした地獄の中で、私が信じる唯一の道標だった。
第十八話へ続く