第十六話 礼拝堂の地下迷宮
父王の書斎で突きつけられた真実は、私達から休息と眠りを完全に奪い去った。工房に戻った私達は、夜が明けるまでの僅かな時間、まるで戦の前の兵士のように、来るべき潜入への準備を黙々と進めた。窓の外では、夜明け前の空が最も深い藍色に染まり、私達の決意を試すかのように静まり返っていた。
「敵は、我々が動くことなど想定していないだろう。だが、油断はできん」
アレクシス様は、腰の月鋼の剣に加え、鞘に収めた投げナイフ数本と、音を立てぬよう革で柄を巻いた短剣をベルトに差し込んだ。その眼差しは、もはや呪いに苦しむ王子のものではなく、見えざる敵国の心臓部へと切り込む、孤高の将軍のそれだった。彼の放つ厳しい緊張感が、工房の空気を引き締める。
一方、私は錬金術師として、この特異な戦いに備える必要があった。
「物理的な罠よりも、呪術的な仕掛けが施されている可能性が高いです。瘴気や毒気への備えも」
私は、煮詰めた薬草と鉱物の粉末を混ぜ合わせ、小さな壺に詰めた。一つは、瘴気や幻覚作用のある気体を中和するフィルターの役割を果たす練り香。もう一つは、塗ることで魔力の発する微弱な光や熱を吸収し、気配を断つための黒い軟膏だ。そして、万が一の時のための、数本の銀の針。これは、呪術的な束縛を受けた際に、自身の魔力の流れを刺激し、強制的に覚醒させるための荒療治の道具だ。
(これから向かうのは、錬金術の光が届かぬ、歪められた真理の領域…。私の知識は、果たして通用するのだろうか)
未知への恐怖と、錬金術師としての知的好奇心が、胸の中でない交ぜになる。だが、隣で静かに刃を研ぐアレクシス様の横顔を見ていると、私の心もまた、不思議と凪いでいった。私達は二人で一つ。彼の剣が道を拓き、私の知識がその道を守る。それだけを信じようと決めた。
「準備はいいか、リゼット」
「はい、いつでも」
私達は互いの顔に、気配を消すための黒い軟膏を塗り合った。彼の指が私の頬に触れた時、その冷たさとは裏腹に、確かな覚悟の熱が伝わってきた。私達は黒衣に身を包み、夜明け前の闇に溶けるように工房を後にした。
城が最後の眠りに就いている深夜、私達は礼拝堂へと向かっていた。月明かりと影を縫うように進み、衛兵の巡回ルートの合間を縫って、息を殺しながら壁際を渡る。遠くで聞こえる鎧の擦れる音、己の心臓の鼓動、そして隣を歩くアレクシス様の制御された呼吸だけが、この世の全ての音だった。
やがて、私達の目の前に、壮麗な礼拝堂がその姿を現した。日中は、神への祈りと荘厳なパイプオルガンの音色に満たされるこの場所も、今は月光に照らされ、巨大な骸のように静まり返っている。天高くそびえるステンドグラスには、歴代の聖人や天使が描かれているが、その慈愛に満ちた表情は闇に溶け、まるで私達の行く末を黙して見守る、冷たい監視者のように見えた。神聖なはずの場所が、今はどこか不気味な空気をまとっている。ここが、冒涜的な儀式の入り口なのだ。
重く冷たい扉を、音を立てぬよう慎重に開け、中へと滑り込む。堂内は、蝋と古い石の匂いがした。私達は、設計図に示された主祭壇へと向かう。豪奢な金銀の装飾が施された祭壇。その中央には、建国王が掲げたという聖印が鎮座している。
「設計図によれば、仕掛けはこの祭壇のどこかにあるはずだ」
アレクシス様が囁く。
私は祭壇に近づき、そっと手をかざして魔力の流れを探った。すると、祭壇の土台部分、一見するとただの石の装飾にしか見えない紋様から、微弱ながらも明らかに不自然な魔力が発せられているのを感じた。
「ここです。この紋様…これは、ただの石ではありません。魔力を通す特殊な鉱石が練り込まれています。そして、この魔力の流れ…単純な物理的な仕掛けではありません。特定の『鍵』にのみ反応する、高度な魔術的封印です」
「鍵、だと?」
「はい。おそらくは二重の。一つは、王家の血。そしてもう一つは…この魔術回路を起動させるための、特定の言葉…古の詠唱のようなものが」
アレクシス様は頷くと、躊躇なく短剣で自らの左手の親指を浅く切り裂いた。滴り落ちた赤い血を、彼は石の紋様の中央にゆっくりと塗り込める。すると、紋様が淡い金色の光を放ち始め、ブーンという低い共鳴音が私達の足元から響いてきた。
「第一の鍵は、受け入れられたようだ。だが、詠唱とは…星見の塔のものとは違うだろう。心当たりがない」
「詠唱の全ては必要ないはずです。回路を起動させるための、ほんの数語の『鍵言』でいい。初代城主が遺した手記に、あるいは…」
私は記憶を探る。手記に記されていた、数々の錬金術の円環と、それに対応する古の言葉。その中に、一つだけ、用途の記されていない、封印を思わせる一節があった。
「試してみる価値はあります。『―――光あるところ、影また生まれん。扉は血に開き、言葉にて繋がる』」
私がその一節を静かに口にすると、アレクシス様の血に染まった紋様が、眩いばかりの光を放った。ゴゴゴゴ…と、石と石が擦れる重い音を立て、巨大な主祭壇が静かに横へとスライドし始めたのだ。その下には、闇へと続く、黒い口のような螺旋階段が現れた。
階段の奥から、冷たく、淀んだ空気が、まるで地下牢に閉じ込められていた亡霊のように吹き出してくる。それは、嘆きの森の瘴気とはまた違う、腐敗臭とインクのような金属臭、そして知性と悪意に満ちた、人の手によって練り上げられた「呪いの匂い」だった。
アレクシス様は一瞬、その淀んだ空気に、父や祖先がこの闇に気づけなかった(あるいは気づいて呑まれた)無念を感じたのか、固く拳を握りしめ、その動きを止めた。私もまた、これから対峙するであろう「歪められた真理」への畏怖に、背筋が凍るのを感じていた。
私達は視線を交わし、無言で互いの覚悟を確かめ合った。
(もう引き返せない)
(真実を、この目で見届けるまで)
アレクシス様は頷くと、先に松明を手に取り、その闇へと一歩を踏み出した。私もまた、彼の作る影に続くように、その冷たい階下へと足を運んだ。
螺旋階段は、どこまでも続いているかのように思えた。壁は湿った苔で覆われ、私達の足音だけが、歴史の深淵に吸い込まれるように虚ろに響く。長い、長い降下の末、私達はついに、開けた空間へとたどり着った。
そこは、リゼットのビジョンで見た光景、そのものだった。
ドーム状の天井を持つ、広大な地下空間。その中央には、巨大な黒曜石の祭壇が鎮座し、床一面には、おびただしい量の血で描かれたのであろう、複雑で禍々しい呪術円が広がっていた。壁には、王家の栄光の歴史を歪め、嘲笑うかのような冒涜的な壁画が描かれている。建国王の偉業は悪魔との契約として描かれ、歴代の王妃は異形の化け物を産む母として冒涜されていた。
「なんという…なんという冒涜だ…!」
アレクシス様が、怒りに声を震わせる。
祭壇の上やその周囲には、おぞましい「実験」の痕跡が生々しく残されていた。捻じ曲がり、黒く炭化した植物。見るもおぞましい姿に変異させられた小動物の骸。そして、私達が森で発見した「黒い水晶」の原石が、いくつも無造作に転がっていた。中には、精製に失敗したのか、ひび割れて中からどす黒い液体を流し出しているものもある。嘆きの森の呪いが、ここで人為的に生み出され、長年にわたって研究されていたことを、目の前の光景が何よりも雄弁に物語っていた。
「彼らは、ただ呪っていただけではない…。呪いを『兵器』として完成させようとしていたんだ」
私の呟きに、アレクシス様は唇を噛みしめた。
その時、私は祭壇の中央に、一冊の分厚い本が置かれているのに気づいた。それは、人間の皮のような質感の黒い革で装丁された、見るからに不吉な日誌だった。私は恐る恐るそれを手に取り、ページを開いた。
そこには、細かく几帳面な文字で、呪いの研究記録がびっしりと記されていた。そして、王家への煮えたぎるような憎悪と、この計画の真の目的が、狂気に満ちた筆致で綴られていた。
『――王家の血は、呪われた血だ。彼らは初代城主の力を盗み、偽りの栄光の上に胡坐をかいてきた。我らこそが、真の知識を受け継ぐ者。古の厄災をこの地に再び呼び覚まし、その偉大なる力によって、この国を、偽りの王の手から解放するのだ。アレクシスの呪いは、そのための贄。彼の絶望と死が、大いなる厄災を呼び覚ますための、最後の鍵となる…』
「厄災を…呼び覚ます…?」
読んだ内容に、血の気が引いた。彼らの目的は、王国の乗っ取りなどという矮小なものではなかった。この国そのものを贄として、さらに強大な、おそらくは初代城主が封印したという「古の厄災」そのものを、現世に復活させようとしていたのだ。
その内容に戦慄し、顔を上げた、その時だった。
カツン、という硬い音が、私達が下りてきた螺旋階段の上の方から響いた。
続いて、複数の足音と、壁に反射する松明の光が、ゆっくりとこちらへ近づいてくるのが見えた。
敵が、戻ってきたのだ。
「隠れろ!」
アレクシス様が、私の腕を引いて巨大な祭壇の陰へと身を滑り込ませた。私達は息を殺し、心臓の音すら敵に聞こえてしまうのではないかという恐怖の中、階段の闇を凝視した。
やがて、姿を現したのは、フードを目深にかぶった数人の男たち。そして、その先頭を歩く人物が、松明の光に照らし出された。
その顔を見て、アレクシス様が息を呑むのが、隣にいてわかった。
そこに立っていたのは、ここ数日、病に伏せていると誰もが信じていた、この国の宰相、その人だった。彼の穏やかな知性の仮面は剥がれ落ち、そこには、日誌に記された狂気と冷酷な野望を体現したかのような、歪んだ笑みが浮かんでいた。
私達は、ついに蛇の巣の、その中心に足を踏み入れてしまったのだ。
第十七話へ続く