第十五話 王城の影
浄化された沼から城へと戻る道は、ひどく長く、そして異様なほど静かだった。森の空気は、まるで数世紀ぶりに深呼吸をしたかのように澄み渡り、瘴気の淀みは嘘のように消え去っていた。風が傷ついた森の肺を優しく満たすように、湿った土と雨上がりの若葉の香りを運んでくる。木々の間から差し込む陽光は、光の粒子となってきらきらと舞い、地面に落ちた雫を宝石のように輝かせていた。小鳥たちが、忘れていた歌を思い出すかのように、恐る恐る、しかし確かな声でさえずり始めている。土地の嘆きは、少しずつ癒え始めているのだ。
だが、その生命の息吹に満ちた光景とは裏腹に、私達の心は鉛のように重かった。私の革袋の中、柔らかな布に包まれた「黒い水晶」が、生きているかのように冷たく、その邪悪な存在を主張し続けている。脳裏には、思考にこびりつくタールのように、あの水晶が見せた悪意の残滓がちらついていた。王城、地下祭壇、謎の集団…。その光景は単なる情報ではなく、精神に打ち込まれた呪いの楔のように、私の思考を鈍らせ、悪寒をもたらしていた。
「リゼット、顔色が悪い。まだ、あの水晶の影響が?」
前を歩いていたアレクシス様が、不意に足を止めて振り返った。彼の声には、隠しきれない疲労の色と共に、私を気遣う優しさが滲んでいた。彼の黄金の瞳は、浄化の儀式をやり遂げた安堵よりも、新たな脅威への警戒心で鋭く光っている。
「…大丈夫です。少し、頭が混乱しているだけで」
「無理もない」彼は私の隣に並び、再び歩き始めた。「君は、我々が対峙すべきものの正体を、その目で見てしまったのだからな」
その背中は、以前よりも大きく見えた。しかしそれは、王としての威厳が増したからというよりは、彼が一人で背負い込んだものの重さが、その輪郭をくっきりとさせているように思えた。私達は言葉少なに、しかし互いの存在だけを頼りに、夕暮れに染まる城への道を歩き続けた。
誰にも見咎められることなく工房に戻ると、私達は互いに支え合うようにして椅子に崩れ落ちた。窓の外では、夕暮れの鐘が物悲しく鳴り響いている。ほんの二日前の出来事が、遠い昔のことのように思えた。アレクシス様は、まず薬箱を取り出すと、私の腕に残る火傷の痕に手際よく軟膏を塗り、新しい包帯を巻いてくれた。その手つきは驚くほど優しく、戦場で傷ついた仲間を幾度も手当てしてきたであろうことが偲ばれた。
「すまない、これも俺のせいだ」
「いいえ」私は彼の傷ついた手に触れた。「これは、私達が共に戦った証です。誇りに思います」
束の間の静寂が、張り詰めていた互いの心をわずかに解きほぐす。やがて、アレクシス様は顔を上げ、その瞳で私を真っ直ぐに見据えた。
「リゼット、君が見たものを、もう一度詳しく教えてくれないか。どんな些細なことでもいい。思い出せる全てを」
彼の声には、鋼のような硬い意志が宿っていた。私はゆっくりと頷き、記憶のタールを再び掬い上げるように、あの黒い水晶に触れた瞬間に脳裏に流れ込んできた、断片的なビジョンを言葉にした。
「…王城の、おそらくは地下深く。そこは、石造りの広い空間でした。星見の塔の神聖な雰囲気とは真逆の…生命を冒涜し、死を賛美するような、禍々しい祭壇がありました。祭壇の材質は黒曜石に似ていましたが、もっと冷たく、光を吸い込むような…まるで闇そのものを固めたような石でした」
私は一度言葉を切り、震える息を整えた。
「そして、見たことのない紋章を掲げた、十数人の者達がいました。全員がフードを目深にかぶっていて顔は見えませんでしたが、その動きは個性がなく、まるで何かに憑かれた人形のようでした。彼らは、古語に似て非なる、冒涜的な言葉を詠唱していました。それは祈りではなく、呪詛でした。他者の苦しみを蜜とするような、冷たい、冷たい悪意だけが、その空間を満たしていました」
私の言葉に、アレクシス様の顔から血の気が引いていくのがわかった。彼は拳を強く握りしめ、その指が白くなる。
「王城の地下に…祭壇だと…?馬鹿な、創建以来の王家の記録にも、そんなものは存在しないはずだ」
「いいえ、ありました。それは巧妙に隠されています。ですが、確かに…」
「つまり、この呪いは天災などではない。何者かが、俺を、王家を、この国を、内側から蝕むために仕組んだということか…!」
彼の声は、怒りと、そして自らの足元で静かに進んでいた陰謀に気づけなかったことへの深い無力感に震えていた。王として、あまりにも屈辱的な事実だった。
(父上、貴方もこの見えざる敵に…?貴方が晩年、不可解な病に苦しみ、誰にも心を開かなくなったのも、彼らの仕業だったというのか…!)
彼の脳裏に、病床で弱々しく微笑んだ父の顔が浮かび、胸が締め付けられる。あの時、父が抱えていた孤独の深さを、今になって思い知らされた。
「誰を信じればいい…」アレクシス様が、苦悩に顔を歪ませた。「宰相は、俺が幼い頃、乗馬を教えてくれた。騎士団長は、父上が最も信頼していた武人だ。彼らの顔に、裏切り者の影など、どうして見いだせる…?」
疑心暗鬼は、最も心を蝕む毒だ。敵は、それすらも狙っているのかもしれない。王を孤立させ、判断を誤らせることこそ、彼らの望むところだろう。
「疑うことは、今はあなたの身を守る盾にもなります」私は彼の手に、そっと自分の手を重ねた。「ですが、その盾でご自身の心を傷つけないでください。今は、私達二人だけを信じましょう。感情ではなく、真実を。憶測ではなく、証拠を。錬金術の探求と同じです。確かな証拠を掴むまでは、誰にも悟られてはなりません。私達は、光の中に潜む影を追うのです」
私の言葉に、彼はハッと顔を上げた。その瞳に、迷いを振り払う光が戻る。
「…そうだな。君の言う通りだ。嘆いている暇はない」
彼は立ち上がると、工房の隅にある、誰も触れることのない古い書棚へと向かった。「王家の者しか知らない、古い城の記録が保管されている場所がある。父上の書斎だ。そこになら、城の創建当時の、今とは違う設計図や、初代城主が遺した別の記録があるかもしれない。父も、あるいは何かに気づき、俺に何かを遺そうとしてくれていたのかもしれない…」
私達の新たな探索が、始まった。
その夜、私達は城の者達が寝静まるのを待ち、夜陰に紛れて王の私室へと続く廊下を歩いていた。ステンドグラスを通り抜けた月光が、床に幾何学模様の影を落とし、まるで巨大な獣の肋骨の中を進んでいるかのような錯覚を覚える。遠くから聞こえる鎧の擦れる音と衛兵の足音に、私達は幾度も柱の陰に息を潜めた。
やがてたどり着いた重厚な扉を、アレクシス様が慣れた手つきで開ける。そこは、彼の父君が亡くなって以来、時が止まったかのような静寂に包まれていた。空気には、古い羊皮紙と革張りの椅子、そして微かな燻香が漂っている。アレクシス様は、一瞬、懐かしむように目を細めた。執務机の上に置かれたままの羽根ペン、読みかけの歴史書、そして壁に掛けられた若き日の家族の肖像画。その全てが、彼の心を感傷で締め付けた。だが、彼はすぐにその感傷を振り払い、父を蝕んだであろう見えざる敵への、冷たい怒りへと変えた。
壁一面を埋め尽くす書棚を、私達は手分けして調べ始めた。歴史書、法典、諸外国との外交記録…。どれも、手がかりにはなりそうにない。焦りが募り始めた、その時だった。
「リゼット、これを見てくれ」
アレクシス様が、父王の巨大な執務机の、巧妙に隠された引き出しの奥から、一枚の古びた羊皮紙を取り出した。それは、一見ただの装飾板に見えたが、アレクシス様が父から教わったという特殊な手順で仕掛けを操作すると、静かに開いたのだ。
「父上が言っていた。『本当に大切なものは、誰もが見える場所に隠せ』と…。まさか、こんな形でその言葉の意味を知ることになるとはな」
羊皮紙は、城の設計図のようだったが、私達が知るものとは明らかに構造が異なっていた。特に、王城の礼拝堂の真下に、不自然な空白の空間が描かれている。
「この場所は…今の設計図には存在しない。塗り潰されているんだ」
「待ってください」私は羊皮紙を燭台の光に透かして見た。「錬金術用の溶剤を使えば、上に塗られたインクを分解できるかもしれません。ですが、もっと単純な方法が…」
私は羊皮紙に手をかざし、微かな魔力の流れを追った。すると、空白に見えた部分に、特殊なインクで描かれた微かな線が魔力に反応して青白く浮かび上がった。それは、螺旋階段と、一つの部屋を示す図だった。
「隠し通路です!礼拝堂の祭壇の裏に、この地下空間へと続く入り口が…!この隠蔽方法…これは明らかに、元の図を消して後から加えられた痕跡があります。計画的な犯行です」
見つけた。敵の巣穴への入り口を。
だが、同時に、別のものも見つけてしまった。その設計図の隅に、小さな文字で記された署名。それは、数代前の宰相の名だった。そして、その家名は…。
「…今、宰相を務めている男の、祖先だ」
アレクシス様が、凍てつくような声で言った。彼の脳裏に、幼い頃、その宰相の祖父に肩車をしてもらい、城下を眺めた温かい記憶がフラッシュバックする。その思い出が、今は鋭い刃となって心を抉った。
代々王家に仕えてきた忠臣の家系。その血筋が、この陰謀に深く関わっている可能性が、重い真実として私達の目の前に突きつけられた。
地下祭壇への入り口は、特定できた。しかし、その先に待ち受けるのは、単なる魔物ではない。王国の権力の中枢に食い込み、代々にわたって陰謀を巡らせてきた、狡猾で強大な敵。
「月の涙」による解呪は、まだ終わっていない。しかし、それ以上に根深い国の病巣を、私達は突き止めてしまったのだ。
アレクシス様は、設計図を強く握りしめた。彼は父王の空席の椅子にそっと触れ、何かを誓うように目を閉じた。再び開かれたその黄金の瞳は、怒りと悲しみを乗り越え、自らの手でこの国の闇を断罪するという、冷徹な王の覚悟に満ちていた。
「行くぞ、リゼット」
彼の声は、静かだったが、この部屋の止まった時を再び動かすような、揺るぎない決意に満ちていた。
「彼らが弄してきた歴史に、俺達が終止符を打つ」
私達は、次なる潜入と対決に向けて、亡き王の魂が見守る書斎で、静かに頷き合ったのだった。窓の外に広がる王城の美しい夜景が、今は巨大な敵の砦のように、不気味にそびえて見えた。
第十六話へ続く