第十四話 魂を喰らう影
黒い水面からぬらりと現れた「それ」は、定まった形を持たなかった。闇そのものが悪意ある意志を持って凝縮したかのような、不定形の影。沼の瘴気を呼吸するように纏い、その中心で不気味に脈動する様は、正視しているだけで魂が凍てつく悪夢の具現だった。
「来たか…。森を嘆かせ、我が民を苦しめる元凶め」
アレクシス様の瞳に、恐怖を凌駕する王の怒りが燃え盛る。抜き放たれた月鋼の剣が、淀んだ空気の中で悲鳴のような輝きを放った。
「リゼット、下がっていろ!こいつは、俺が断ち切るべき因縁だ」
彼の叫びと同時に、影は動いた。いや、それは物理的な移動ではなかった。影の一部が鞭のようにしなり、私達の足元の地面を抉る。それだけではない。ぞわり、と肌を粟立たせるような悪意が、直接精神に叩きつけられた。脳裏に、星見の塔で感じた畏怖とは質の違う、粘つくような絶望や後悔、悲しみといった負の感情が濁流のように流れ込んでくる。
(これは…ただの魔物じゃない!魂に直接干渉し、内側から心を喰い破ろうとしている!)
「くっ…!」
アレクシス様は剣を構え、果敢に影へと斬りかかる。だが、鋼の刃は嫌な手応えと共に闇を切り裂くだけ。影は嘲笑うかのように揺らめき、その体勢を一切崩さない。
(効かぬのか…!まるで実体のない幻を斬っているようだ!だがこの圧力と悪意は本物…!どうすれば…!)
彼の内心の焦りが、剣筋の僅かな乱れに現れる。
「無駄だ、アレクシス様!」私は叫んだ。「それはエーテルに近い、高密度の魔力の集合体です!物理的な破壊では、霧を斬るのと同じこと!」
私の言葉を証明するかのように、影は新たな攻撃を仕掛けてきた。今度は、より狡猾に、私達の精神に潜む最も暗い記憶を呼び覚まそうとしてくる。遠い日の孤独、無力感、失うことへの恐怖。一瞬、錬金術の研究に没頭するあまり孤立した過去の寂しさが胸をよぎり、思考が囚われそうになるのを、私は必死で振り払った。
「ならばどうする!このままでは、精神を喰われるぞ!」
アレクシス様の顔に焦りの色が浮かぶ。彼の胸の痣が、影の脈動と共鳴し、見るからに激しい苦痛を与えていた。瘴気の鉄錆の匂いに、魂が焼けるような異臭が混じる。このままでは、彼の魂が先に限界を迎えてしまう。
(冷静になれ、私。現象には必ず法則がある。これは…純粋な負のエネルギー。物質界への半実体化…ならば、叩くべきは形ではなく、その理そのもの!破壊ではなく、浄化。分解し、再構築する!)
私はポーチの中の「月の涙」を強く握りしめた。そうだ、答えはこの手の中にある!
「アレクシス様、作戦があります!」私は彼の背中に向かって叫んだ。「手記の最後の言葉を思い出してください!『王の血脈のみが、その封印に触れることを許される』と!あなたには、その影の動きを一時的にでも封じる力があるはずです!」
「封じる…だと?」彼の声に、苦痛と疑念が混じる。
「はい!あなたが影の動きを止めている間に、私が『月の涙』を使い、この場に浄化の錬金術を展開します!お願いします、私に時間をください!私達ならできます!」
私の提案は、あまりにも危険な賭けだった。王家の力で影を抑えることは、アレクS様自身の魂を呪いの源流に直接晒すことを意味する。そして、私もまた、これほど広範囲で強力な浄化の術を成功させる保証はどこにもない。失敗すれば、二人ともこの瘴気に飲み込まれておしまいだ。
一瞬の沈黙。アレクシス様は、苦痛に歪む顔で私を振り返った。その黄金の瞳に、激しい葛藤と、そして私への絶対的な信頼が宿るのが見えた。
(リゼットに全てを託すのか?俺が倒れれば彼女も…いや、違う。彼女の瞳は、この絶望の先にある真理を見据えている。疑うな、アレクシス。俺は王として、彼女の道を拓く!)
「…わかった。君の道を、俺が守る」彼は覚悟を決め、剣を地面に突き立てた。「だが、リゼット。必ず、生きて戻れ」
「はい、必ず!」
アレクシス様は剣の柄を両手で握りしめ、ゆっくりと目を閉じた。やがて、彼の唇から、星見の塔で聞いたものとは違う、重く、荘厳な古の言葉が紡がれ始める。
「――我が血は古の契約。我が魂は地の楔。汝、根源の嘆きよ、我が声を聞け!」
詠唱に呼応し、彼の体から眩い金色の光が、オーラとなって立ち昇った。胸の呪いの痣が深紅の光を放ち、まるで彼の生命力を吸い上げているかのように激しく明滅する。
「ぐ…うぅっ…!」
彼の苦悶の声と共に、金色のオーラは無数の鎖のように伸び、沼の中心で蠢く影を絡め取った。ジジジ、と光と闇が触れ合う音が響き、影の動きが明らかに鈍くなる。空間そのものが、王の意志によって捻じ伏せられていく。
(今しかない!)
私は震える手で「月の涙」の小瓶の蓋を開け、その奇跡の一滴を、黒い苔が覆う地面へと慎重に落とした。銀色の雫が地に触れた瞬間、ぱあっと清浄な光が円を描いて広がる。私はその光を核とし、つま先で地面に即席の錬金術円を描き始めた。増幅、安定、循環、そして放射!知識と経験の全てを、この一瞬に注ぎ込む!
「おお、万物の根源たる一よ!ここに穢れしものあり!その理を分解し、原初の清浄なる姿へと、再構築せよ!」
私が両手を地面につけると、完成した錬金術円が青白い光の柱となって天を突いた。光はドーム状に広がり、私達と沼全体を聖域のように包み込む。
―――ギャアアアアアアアアアッ!
浄化の光に焼かれ、影は初めて断末魔の叫びを上げた。黒い瘴気と青白い光が激しくせめぎ合い、嵐のようなエネルギーが周囲の木々を薙ぎ倒す。空気が悲鳴を上げ、まるで溶けた鉛の中にいるかのような熱と圧力に、私の意識も遠のきそうになる。
(届いて、私の祈り!この地の嘆きを鎮めて!)
隣で歯を食いしばり、影を抑え続けるアレクシス様の存在が、私を繋ぎ止めていた。
(耐えろ、リゼットがやり遂げるまで…!この光は、俺たちの未来だ!)
やがて、光が最高潮に達した時、影は悲鳴と共に霧散し、浄化の光はまるで夜明けの光のように、優しく、暖かく降り注いだ。
光が収まると、そこには信じられない光景が広がっていた。油のように黒く濁っていた沼の水は、嘘のように澄み渡り、底の小石までが見えるほどになっている。瘴気の鉄錆の匂いは消え、代わりに雨上がりの湿った土と若葉の香りが、優しく鼻をくすぐった。
「…やった…のか…?」
糸が切れたように、アレクシス様がその場に膝から崩れ落ちる。私もまた、全身の力が抜け、彼の隣に座り込んでしまった。アレクシス様の胸の痣は消えてはいない。だが、禍々しい輝きは収まり、深く安らかな寝息のような静けさを取り戻していた。
私達は、勝ったのだ。
疲労困憊の中、ふと、視線が沼の中心へと引き寄せられた。浄化された水底、あの枯れた巨木の根元で、何かが小さな光を反射している。私は最後の力を振り絞って立ち上がり、浅くなった沼へと足を踏み入れた。アレクシス様も、私に支えられるようにして後に続く。
光の源は、巨木の最も太い根に、まるで悪性の心臓のように埋め込まれていた。それは、人の拳ほどの大きさの、黒曜石のような水晶だった。表面には、私達が追ってきたあの黒い苔と同じ、禍々しい紋様が刻まれている。
「これが…『古の厄災』の、本当の核…」
私がそっと触れようとした、その時だった。黒い水晶が、血のような赤い光を放ち、私の脳裏に直接、冷たいイメージを送り込んできた。
―――王城の深き場所。隠された地下祭壇。そして、この水晶と同じ紋章を掲げる、ローブをまとった謎の集団の姿。彼らの口元に浮かぶ、冷酷な笑み。
「…うっ!」
あまりの悪意と情報量に、私は目眩を起こして後ずさった。
「リゼット、どうした!?しっかりしろ!」
「今…水晶が…何かを…見せました。この呪いは、自然のものでは、ありません。仕組まれたものです。それも、王城の…深い場所から…」
突きつけられた新たな真実。この厄災は、何者かが、意図的にこの地に仕掛けた呪い。そして、その根は、私達が最も安全だと思っていたはずの王城の、まだ知らぬ闇へと続いていた。
森の浄化は、まだ始まったばかりだった。そして私達の戦いは、この森を越え、王国の深き陰謀へと続いていく。
私は、アレクシス様と顔を見合わせた。手にした希望は、より巨大な絶望の入り口だったのかもしれない。だが、私達の瞳には、もう迷いはなかった。
「行きましょう、アレクGIS様。私達が取り戻すべきもののために。そして、この国を蝕む本当の敵を、見つけ出すために」
私達は、呪いの核たる黒い水晶を慎重に回収し、次なる戦いの始まりを、澄み渡った水面に映る空の下で、静かに覚悟したのだった。
第十五話へ続く