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第十三話 源泉への道標

星見の塔から工房へと戻る螺旋階段は、先程までの神聖な高揚感が嘘のように、ひやりとした沈黙に満ちていた。私達が掲げる松明の光が壁画の王たちの顔を順々に照らし出す。行きには威風堂々と見えたその横顔が、今はまるで、私達の行く末を憂い、何かを警告しているかのように陰って見える。一歩下るごとに、石に反響する足音が、心臓の鼓動を急かすように重く響いた。手にした「月の涙」の小瓶が放つ微かな銀光だけが、この上ない希望の証として、私の掌を温めていた。

工房にたどり着くと、燃え尽きかけた蝋燭が最後の光を揺らめかせ、私達の疲れた影を壁に長く伸ばしていた。言葉少なに、しかし互いの呼吸と存在を確かめ合うように、私達は夜が明けるのを待ちながら、次なる旅の支度を始めた。

「…本当に、すまなかった」

静寂を破ったのは、アレクシス様だった。彼は壁の地図を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

「君を、これほど危険な儀式に巻き込んでしまった。あの時、祭器が暴走しかけたのは俺の未熟さゆえだ。君がいなければ、俺は魂ごと光に焼かれていただろう」

「いいえ」私は、柔らかな布で幾重にも包んだ「月の涙」の小瓶を革のポーチに収めながら、穏やかに首を振った。「私達は、それぞれの役割を果たしただけです。王の血脈に流れる古の詠唱と、錬金術の真理。どちらが欠けても、この奇跡には届きませんでした。これは、私達二人で掴んだ希望です」

私の言葉に、彼はゆっくりと振り返った。その黄金の瞳に、深い感謝と、そして新たな決意の色が宿る。私はポーチの紐を首から下げ、彼の隣に立った。

「『森の嘆き、月を曇らす…』。神託は、この呪いが俺個人の問題ではなく、この森、ひいてはこの土地そのものの病だと言っているのだ」

彼の指が、地図上で不吉な濃い緑に塗りつぶされた森の中心部をなぞる。その指先が、微かに震えていた。

「『源泉を清めよ』、か。だが、この広大な森のどこに、その『源泉』があるというのだ…」

「汚染が広がるには、必ず起点と経路があります」私は彼の隣で、地図を覗き込んだ。錬金術師の視点から、地形や水の流れ、そして目には見えない魔力の通り道である地脈を読み解こうと試みる。「もし、初代城主がこの事態を予見していたのなら、手記に何かしらの手がかりを遺しているはずです。自然の法則を読み解くように、私達もこの手記に秘められた意図を読み解くのです」

私達は再び、重い手記のページを繰った。やがて、工房の窓から差し込み始めた朝の光が、羊皮紙に記された古の文字を静かに照らし出し、私達が進むべき道を暗示しているかのようだった。

夜明けの鐘が鳴り響くと共に、私達は城門をくぐった。城に残る数少ない兵士や使用人たちが、不安げな、しかし祈るような瞳で見送ってくれる。その無言の視線が、「どうか、この地を救ってください」と訴えかけてくるようで、胸にずしりと重い。彼らの生活もまた、この森の運命と共にあるのだ。

馬上の人となり、嘆きの森へと続く道を駆ける。以前訪れた時よりも、森から漂う瘴気の淀みは明らかに色濃くなっていた。鉄錆と腐葉土が混じったような異臭が鼻をつき、肌にまとわりつく湿気は、まるで生き物の粘液のようだ。道端の草木は黒ずみ、生気を失ってだらりと垂れ下がっている。その光景は、土地そのものが深い病に冒され、静かに呻いている姿そのものだった。

「ひどいな…。呪いは、今この瞬間も、この地を蝕み続けている」

アレクシス様が苦々しく呟く。彼の胸の呪いの痣が、森の瘴気に呼応するのか、時折、鈍い痛みを発しているようだった。彼は眉間に深い皺を寄せ、その痛みを意志の力で捻じ伏せている。

手記には、森の汚染に関する直接的な記述は見当たらなかった。だが、私は諦めなかった。手記に挟まれていた、一枚の小さな羊皮紙の断片。それは、森の動植物をスケッチしたもので、これまで重要視してこなかったページだった。

「待ってください、アレクシス様」

私は馬を止め、そのスケッチを改めて太陽の光に透かして見た。様々なキノコや薬草の絵に混じって、不可解な記述がある。

「『光を嫌い、淀みを好む苔。清き流れの傍らには決して育たず』…この苔の絵、見覚えがありませんか?」

スケッチの隅に描かれていた、黒く、禍々しい紋様を持つ苔。それは、私達が森の奥で遭遇した、あの魔狼の体表に浮かんでいた模様と酷似していた。

「…確かにな」アレクシス様は、忌まわしい記憶を呼び起こすように目を眇めた。「あの獣に刻まれていた、呪われた模様だ」

「この苔が、汚染の濃い場所にのみ発生するのだとしたら…錬金術で言うところの『指標生物』です。この苔の分布を追うことで、『源泉』へと近づけるかもしれません。これは、自然が私達に示してくれた道標です!」

私達は馬を降り、森の深部へと足を踏み入れた。私の仮説は正しかった。森の奥へ進むにつれて、例の黒い苔が木の根や岩肌にびっしりと張り付いているのが見られるようになった。それはまるで、大地の血管を流れる毒のように、ある一定の方向へと続いていた。

道なき道を進む。瘴気はますます濃くなり、呼吸をするだけで胸が苦しくなる。アレクシス様は、時折、胸を押さえて顔を歪めた。彼の呪いが、森の嘆きと共鳴し、その魂を削っているのが痛いほど伝わってくる。

「すまない、リゼット。少し、休ませてくれ…」

苔むした大樹の根元に寄りかかり、彼は荒い息をついた。その黄金の瞳には、焦燥と、王でありながら民も土地も救えぬことへの深い無力感が滲んでいた。

「初代城主は、なぜこんな回りくどい試練を遺したのだ。ただ力を与えるだけでは駄目だったのか…俺は、王としてあまりに無力だ…」

その弱々しい声に、私は胸が締め付けられる思いだった。彼の肩が、小刻みに震えている。

「いいえ」私は彼の隣に膝をつき、水筒を差し出した。「錬金術の基本は、理解、分解、そして再構築。初代城主は、あなたにこの国の病を『理解』させ、その原因を『分解』し、そしてあなたの手で未来を『再構築』させようとしているのかもしれません。これは罰ではなく、王となるための最大の試練なのです」

私の言葉に、彼はハッと顔を上げた。

「俺を…王として…」

「私にできるのは、錬金術の知識で道を照らすことだけです。ですが、その道を歩み、未来を切り拓くのは、王であるあなたの役目。私は、そのための剣にも盾にもなります。あなたは、決して一人ではありません」

私はそっと、彼の手に自分の手を重ねた。呪いの熱で熱い彼の手を、私の両手で包み込む。彼は私の手を強く握り返した。その手は熱く、震えていたが、そこには絶望の淵から這い上がろうとする、新たな覚悟の炎が確かに灯っていた。

再び歩き始めた私達の目の前に、やがて信じがたい光景が広がった。黒い苔の道筋を辿った先、森が開けた窪地の中心に、巨大な沼が広がっていたのだ。沼の水は、油のように黒く濁り、ぶつぶつと不気味な泡を立てている。そして、その中心には、天を突くかのような一本の枯れた巨木が、まるで巨大な墓標のように突き立っていた。

「間違いない…。ここが『源泉』だ」

アレクシス様が、腰の月鋼の剣に手をかける。沼全体から、これまでとは比較にならないほどの濃密な瘴気が立ち上り、周囲の空間を陽炎のように歪ませていた。あの巨木の根元こそが、この森全体を汚染する呪いの発生源。

手記の最後のページを、私は震える指で開いた。そこには、これまで気づかなかった、インクの染みのように見える微かな記述があった。強い光に透かして初めて読み取れる、警告の言葉。

『古の厄災、大樹の根に封じられし。月のなき夜、その怨嗟は沼を満たし、森を枯らす。心せよ、それは魂を喰らう影。王の血脈のみが、その封印に触れることを許される』

「古の厄災…魂を喰らう影…」私は息を呑む。「初代城主は、この地に何かを封印していたのですね。そして、長い年月の間に封印が弱まり、呪いが漏れ出している…」

その時、沼の中心、枯れた巨木の根元が、ごぷり、と不気味に脈動を始めた。まるで、巨大な心臓のように。そして、黒い水面が盛り上がり、中からぬらり、と巨大な何かが姿を現し始める。それは、定まった形を持たない、闇そのものが凝縮したかのような異形の怪物だった。

「来たか…。森を嘆かせ、我が民を苦しめる元凶め」

アレクシス様の瞳に、恐怖を凌駕する王の怒りが燃え盛る。彼は剣を抜き放ち、その切っ先を、沼の中心で蠢く"魂を喰らう影"へと向けた。

「リゼット、下がっていろ!こいつは、俺が断ち切るべき因縁だ」

「いいえ!」私は彼の隣に並び、首から下げた「月の涙」のポーチを強く握りしめた。「神託は『源泉を清めよ』と告げました。力でねじ伏せるだけでは、根本的な解決にはなりません。この『月の涙』が、そして私の知識が、必ず浄化の鍵となるはずです!」

眼前に立ちはだかる、古の厄災。手には、一滴の希望。

私達の戦いは、呪いを解くための儀式から、この国そのものを蝕む根源との対決へと、その様相を変えた。

月なき夜が訪れる前に、この嘆きの源泉を浄化できるのか。

私達は、互いの背中を預け、計り知れない闇との戦いの幕を開けたのだった。


第十四話へ続く


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