第十二話 星見の塔と、月の涙
工房に残された蝋燭の灯りが、まるで発見の衝撃に揺れる私達の心臓の鼓動を映すかのように、頼りなく揺れていた。アレクシス様が指差した窓の外では、月光を浴びた星見の塔が、沈黙の石の巨人となって闇夜にそびえている。まるで、私達を何百年もの間、ずっと待ち続けていたかのように。
「行きましょう」
私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。絶望的な状況の中で、次に進むべき道筋が見えたことへの、不思議な安堵感が腹の底に熱い覚悟を宿らせていた。アレクシス様は力強く頷くと、初代城主が遺した重い手記を、まるで聖遺物のように恭しく抱え上げた。
工房を出る前、私達は短い時間で準備を整えた。"月の涙"を受け止めるための、寸分の曇りもないガラスの小瓶。そして、何が起きても手記を離さぬよう、革紐で私の腕に巻き付ける。アレクシス様は、松明を数本束ね、腰の月鋼の剣の柄を、何かを確かめるように強く握りしめた。その横顔には、これから神域へ足を踏み入れる騎士の、厳粛な覚悟が浮かんでいた。
目指すは、城の西棟、その最も天に近い場所。
星見の塔へと続く長い廊下は、人の気配が絶えて久しいことを物語っていた。床には分厚い埃が絨毯のように積もり、私達の足音だけが、歴史の深淵に吸い込まれるように虚ろに響く。壁に掛けられた色褪せたタペストリーには、この国を建国した王達の威風堂々たる姿が織り込まれていた。だが、その顔は一様に闇に溶け、表情をうかがい知ることはできない。まるで、彼らの栄光が、これから私達が立ち向かう巨大な闇によって覆い隠されてしまった未来を、静かに暗示するかのように。
やがて私達は、巨大な樫の扉の前にたどり着いた。塔の入り口だ。アレクシス様がその錆びついた鉄の取っ手に手をかけ、渾身の力で引くと、ギィィ、と石と石が擦れる悲鳴のような重い音を立てて、扉がゆっくりと開かれた。中から、閉じ込められていた悠久の時の匂いが、ひんやりとした霊的な風と共に吹き出してくる。
「松明を」
彼の短い声に、私は用意していた松明を差し出す。彼が火打石を打つと、火花が散り、橙色の暖かい光が、螺旋状にどこまでも続く石の階段を照らし出した。壁には、歴代の王の治世と、その守護星座を描いたのであろうフレスコ画が、所々剥落しながらも続いていた。
「子供の頃、一度だけ忍び込んだことがある」
一歩一歩、反響する足音を確かめるように階段を登りながら、アレクシス様がぽつりと呟いた。
「城の者達は、この塔を畏れていた。『王家の魂が、夜ごと星々と語らう場所だ』と。言い伝えでは、"月の涙"は王家の正当な後継者を試し、認められた者にのみ力を与える、という側面もあるらしい。父上も、祖父も、この塔に入ることはなかった。…恐れていたのかもしれん、真実を試されることをな」
彼の言葉に、私は息を呑んだ。この儀式は、単なる解呪ではない。アレクシス様自身が、その血に流れる王家の宿命と、真正面から向き合うことを意味していた。
(王家の魂と、星々が語らう…。私の知識は、あくまで自然の法則を解き明かすもの。でも、これは…星と魂を直接結びつける、神々の御業に近い。私に、その介添人が務まるのだろうか…?)
おとぎ話と、錬金術の深遠なる真理が、今、この場所で一つになろうとしていた。その途方もない事実に、私の心は畏怖と武者震いの両方で打ち震えていた。
長い螺旋階段を登りきると、私達はついに塔の最上階にたどり着った。
そこは、ドーム状の高い天井を持つ、広々とした円形の部屋だった。星々の冷たい光と、石の匂い、そして微かな金属の香りが混じり合う、神聖な空気が肌を刺す。壁一面には、金と銀で描かれた精密な天球図が広がり、そこに描かれた星々は、まるで本物の宝石を砕いて散りばめたかのように、松明の光を反射して微かにきらめいていた。床には宇宙の法則を示すかのような複雑な幾何学模様が刻まれ、それ自体が淡い光を放っている。
そして、部屋の中央には、天球儀やいくつもの水晶レンズが連動した、巨大で荘厳な望遠鏡のような装置が、主を待ちわびた古の竜のように、静かに鎮座していた。
ドームの天井は、その一部が大きく開いており、そこから今宵の主役である満月が、まるで舞台上の私達を照らすかのように、完璧な円を描いて煌々と輝いていた。
「すごい…」
思わず感嘆の声が漏れる。ここは単なる天文台ではない。宇宙の法則を解き明かし、その力を取り込もうとした、壮大な魔法の儀式場だった。
「リゼット、これを」
アレクシス様の視線の先、装置の金属製の台座に、見覚えのある円環が刻まれていることに私は気づいた。工房の羊皮紙に描かれていた、錬金術の円環。私は手記と祭器を交互に見比べ、その構造を必死に理解しようとした。
「これは…ただの観測装置ではありません。『星の魔力を汲み上げ、月光を精製するための祭器』です!このレンズは純粋な水晶ですが、こちらの歯車は…隕鉄でできている。異なる世界の理を融合させているのね…。そしてこの円環は、魔力を増幅させるだけでなく、暴走を防ぐための安全装置でもある。初代城主は、この力の危険性をよく理解していたんだわ」
(なんというものを…初代城主は、星の力を薬に変えようとしていた…?)
その壮大すぎる発想に、畏怖と同時に、同じ道を志す者としての強い興奮が湧き上がってくる。手記の記述と、目の前の光景が、頭の中で完全に一致した。そして、手記は告げていた。この祭器を動かすことができるのは、ただ一人。
「アレクシス様。詠唱の準備を」
私の言葉に、彼は固唾を飲んで頷いた。今宵は、まさにその満月。私達に与えられた、千載一遇の機会。
「リゼット。もし俺が…この力に飲まれそうになったら…」祭器を前にした彼が、初めて弱音を漏らした。
「私が必ず、あなたの魂を繋ぎ止めます」私は彼の目を真っ直ぐに見つめ返した。「あなたは、ただ、あなたの血に眠る古の声を、信じてください」
私達は、短い言葉で互いの覚悟を確認し合った。
アレクシス様は祭器の前に立ち、ゆっくりと目を閉じて精神を集中させる。やがて、彼が覚悟を決めて顔を上げる。その黄金の瞳は、真っ直ぐに天の月を見据えていた。
「―――Ki el Fafnir, lu Ciel la siesta…」
彼の唇から、古の詠唱が紡がれ始める。それは、この世のどの言語とも違う、厳かで神聖な響きを持つ言葉だった。彼の声が、塔の石壁に、床の魔法陣に、そして天上の星々にまで共鳴し、空間そのものを震わせているかのようだった。彼の瞳が月光を反射して金色に輝き、胸の呪いの痣が詠唱に呼応して疼き始める。その苦痛に顔を歪ませながらも、彼は詠唱を止めない。
すると、詠唱に呼応するように、祭器が静かに唸りを上げて動き出した。巨大なレンズが微調整を繰り返し、寸分の狂いもなく月へと焦点を合わせる。集められた純粋な月光が、光の奔流となって台座に埋め込まれた水晶玉へと注がれていった。
(来る…!)
詠唱がクライマックスに近づくにつれ、アレクシス様の体から溢れ出す魔力もまた増大していく。祭器がギシギシと軋み、過剰なエネルギーに耐えきれず悲鳴を上げた。
(流れが強すぎる!このままでは彼の魂が焼き切れる!)
私は咄嗟に祭器の台座に駆け寄り、安全装置である錬金術の円環に両手を置いた。そして、自身の知識を総動員して、暴走する魔力の流れを必死に調整する。熱い!まるで溶けた鉛に手を浸しているようだ。だが、ここで引くわけにはいかない。
水晶は、直視できないほどの眩い光を放ち、やがてその表面に、まるで朝露が宿るように、小さな銀色の輝きが一つ、生まれた。
その輝きは、ゆっくりと雫の形になり―――ぽたり、と。
祭器の先端から、一滴、この世のものとは思えぬほどに清らかで、銀色に輝く雫がこぼれ落ちた。
(月の、涙…!)
私は息を止め、火傷しそうなほど熱い手を離し、震える手で用意していたガラスの小瓶を差し出す。その奇跡の一滴を、慎重に、確かに受け止めた。小瓶の中で、それは小さな銀河のように、無数の光の粒子を宿してきらきらと輝いている。
「…やったか」
詠唱を終えたアレクシス様が、その場に膝から崩れ落ちる。私も、張り詰めていた糸が切れ、彼の隣に座り込んでしまいそうだった。成功した。私達は、やったのだ。彼を支え起こすと、疲労困憊の顔の中に、確かな安堵の光が見えた。
だが、その時だった。
"月の涙"を受け止めた台座の水晶が、その内部に新たな文字を、警告のように、血を思わせるような赤い光で描き出したのだ。
『森の嘆き、月を曇らす。祝福を還すには、まず源泉を清めよ』
「…これは」
息を呑む私達の目の前で、赤い光は静かに消えた。手にした希望の輝きとは裏腹に、突きつけられた神託は、冷たく、そして絶対的だった。
解呪のための最後の鍵は、確かに手に入れた。だが、水晶に浮かび上がった神託は、新たな、そしてより困難な課題を私達に突きつけていた。
「どこまで…どこまで俺たちを弄べば気が済むんだ、セレスティア…!」
アレクシス様が、怒りと無力感に拳を握りしめ、低く唸る。
私は、手の中の小瓶を見つめた。この美しく輝く一滴は、希望であると同時に、これから流されるであろう多くの涙を象実に象徴しているのかもしれない。だが、それでも。
「いいえ、アレクシス様」私は彼の拳を、そっと両手で包み込んだ。「これは絶望の宣告ではありません。私達が次に進むべき道を示してくれた、新たな道標です。源泉を…森を、救いに行きましょう。あなたの呪いを完全に解くために。そして、私達の未来を取り戻すために」
戦いの舞台は、この古城から、嘆きの森全体へと、そしていずれは国そのものへと広がっていく。
私達は、手にした希望の小瓶と共に、その計り知れない戦いの始まりを、星空の下で静かに覚悟したのだった。
第十三話へ続く