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第十一話 工房の探求と、星見の塔の言い伝え

私とアレクシス様が「同志」としての新たな誓いを交わした翌朝、古城の空気は、再びその色合いを変えたように感じられた。昨日までの、どこか穏やかで閉じた静けさではない。夜明けの森の、露を含んだ草葉が最初の光を待つように、静寂の中に確かな意志と、刃のような微かな緊張をはらんだ空気が満ちていた。

私達の「戦う日常」が始まった。

アレクシス様は、夜明けと共に月鋼の剣を携え、城の周辺の森へと出かけていく。彼の呪いを解く薬に不可欠な『月雫草』と『安息苔』を、私の消耗を少しでも減らすために、彼自身が探しに行くと言ってくれたのだ。物々しい城門が開き、彼の姿が朝霧に消えていくのを見送った後、私は一人、広大な工房へと向かう。

(焦りこそが、最大の敵…)

自分にそう言い聞かせ、私は山積みの古文書の前に座った。銀の雫は、確かに効果があった。だが、彼の痣を「僅かに薄める」だけ。それは傷口に軟膏を塗るようなもので、病巣そのものを焼き切る力はない。完全な解呪には、何かが決定的に足りていない。薬の効果を増幅させる方法か、あるいは全く別のアプローチが必要なのか。答えは、この埃を被った知識の海に眠っているはずだ。

「リゼット、戻った」

昼過ぎ、アレクシス様が工房に姿を現した。彼の革袋からは、朝露に濡れた瑞々しい『月雫草』と、ビロードのような『安息苔』が顔を覗かせている。だが、彼の表情は晴れやかではなかった。まるで遠くの戦場の音を聞くかのように、その眼差しには険しい光が宿っていた。

「どうかなさいましたか?」

「…いや。森の様子が、少しおかしい」

彼は眉間に深く皺を寄せ、摘んできた薬草をそっとテーブルに置いた。「以前よりも、生き物の気配が薄い。鳥の声も少なく、風の音さえどこか悲しげに聞こえる。それに、嘆きの沼の周辺の木々が、どことなく元気を失っているように見えた。まるで、森全体が静かに嘆き、その生命力を根から吸い上げられているかのようだ」

(セレスティアの偽りの儀式が、森そのものを蝕んでいる…!)

彼の言葉は、私の胸に冷たい楔を打ち込んだ。猶予はない。私達がこうしている間にも、セレスティアの悪意は、国と森の根幹を静かに、しかし確実に蝕んでいるのだ。

その日から、私達の役割はより明確になった。

彼は、材料の確保と城の守りを固めるため、日に二度、森を巡回し、合間には中庭で激しく剣を振るった。カン、と響く硬質な剣戟の音。それは研究に行き詰まる私の心を鼓舞し、「お前は一人ではない」と語りかけてくるかのようだった。

私は、持ち帰られた薬草で銀の雫を増産しつつ、残りの時間の全てを古文書の解読に費やした。何日も経つうちに、工房の壁に貼られた羊皮紙には、私の手による書き込みや計算式が、まるで未知の魔法陣のように蜘蛛の巣状に張り巡らされていった。

「また、夕食を忘れているだろう」

ある晩、インクと古紙の匂いに意識が溶けかかっていた私の鼻先を、焼きたてのパンとハーブの効いた温かいスープの香りが掠めた。顔を上げると、呆れたような、それでいて心配そうな顔のアレクシス様が、年季の入った木の盆を持って立っている。

「…ありがとう、ございます」

「礼はいい。だが、お前が倒れれば、この戦いは終わる。それだけは忘れるな」

彼のぶっきらぼうな言葉は、今では心地よい響きを持っていた。その響きの奥に、彼が過去に守りきれなかった何かへの悔恨が滲んでいることに、私は気づき始めていた。スープを一口飲むと、疲れた体に温かさがじんわりと染み渡る。

「アレクシス様…この古文書に、興味深い記述がありました」と、私は口を開いた。「銀の枝は、単なる生命力の塊ではないようです。『月光の魔力を蓄え、魂の波長に共鳴する触媒』だと。だからこそ、強い鎮静作用を持つ『安息苔』の胞子が、激流を穏やかな流れに変える役割を果たしたのです」

「魂の波長…」彼は自分の左胸を無意識に押さえた。「この痣が、時折熱を持って脈打つ感覚のことか…?」

「はい。あなたの魂と、銀の枝の力が、正しく繋がり、共鳴する必要がある。でも、今の薬では、その『繋がり』が弱すぎるようなのです」

私の言葉に、アレクシス様は黙って耳を傾けていた。彼はただの番人ではない。私の理論を理解しようと努め、時には騎士ならではの視点から、「それは敵の鎧の隙間を突くようなものか?」などと、本質を突くような問いを投げかけてくる。彼は、紛れもなく私の唯一無二の戦友だった。

(守られるだけの存在ではない。彼の隣で、剣の代わりに知識を振るうのだ)

だが、研究は壁にぶつかっていた。最も重要と思われる文献は、工房の奥にある書棚、そこに収められた一際古い革張りの書物の中にあると直感していたが、その書物には精巧な錠がかけられており、私の知識では開けることができなかった。

その夜も、私はその書物を前に、途方に暮れていた。錠前には、この城の紋章である「月と剣」が精緻に彫られている。指でなぞっても、冷たい金属の感触が返ってくるだけだ。

「…これか。初代城主の手記だと聞いている」

いつの間にか背後に立っていたアレクシス様が、私の手元を覗き込んだ。彼は錬金術師でもあった、彼の祖先。その声には、私の焦りを察したような響きがあった。

「何か、開ける方法をご存知では?」

「いや…俺も、開いたところを見たことはない」そう言って、彼は私の隣に膝をつくと、「だが…」と呟き、何かを確かめるように、その革の表紙にそっと指で触れた。

その瞬間だった。

カチリ、と澄んだ音を立てて、錠に刻まれた王家の紋章が、淡い黄金の光を放った。アレクシス様の指先から溢れた微かな魔力が、血脈に呼応するように鍵を動かしたのだ。驚いて顔を見合わせる私達の前で、何百年も閉ざされていた書物の錠が、音もなく開いた。

「…まさか」

アレクシス様自身が、一番驚いているようだった。私達は、吸い寄せられるように、その手記を覗き込む。羊皮紙は酷く劣化していたが、そこに記された古代語のインクは、不思議な力を保って色濃く残っていた。

(読める…! 私の知っているどの言語とも違うのに、意味が、頭の中に直接流れ込んでくる…!)

それは知識というより、記憶の奔流に近かった。初代城主の苦悩と希望が、インクの一滴一滴に込められているかのようだ。私は夢中でページをめくった。薬学、錬金術、そして、この城に伝わる呪いと祝福の真実。初代城主は、全てをここに記していたのだ。そして、最後のページに、私達は探し求めていた答えを見つけた。

『銀の枝の祝福を呪詛に変えるは、偽りの声。その呪詛を解き、再び祝福へと還すは、王の血脈に流るる古の詠唱と、"涙"を流す月そのものなり』

「古の詠唱…?」

手記には、聞いただけでは意味をなさない、しかし神聖な響きを持つ難解な音節で構成された詠唱の言葉が記されていた。だが、問題はもう一つ。

「"涙"を流す月…とは、一体…?」

詩的な表現だろうか。それとも、何かの比喩? 私が首を傾げていると、アレクシス様が「…まさか」と息を呑み、立ち上がって窓辺へ向かうと、城の西の棟にそびえる一本の塔を指差した。月光を浴びて青白く輝く石造りのその塔は、まるで天への道を指し示しているかのようだった。

「あの塔のことかもしれん」

「あの塔は…?」

「星見の塔だ。城の者達の間で、古い言い伝えがある。『国が真の闇に覆われる時、星見の塔より月が涙を流し、王の血脈を導くだろう』…と」

おとぎ話だと思っていた、と彼は続けた。その黄金の瞳が、初めて見る希望の色に輝いている。この手記の発見が、その言い伝えに確かな現実味を与えているのだ。

私達の次の目的地が決まった。

工房という知の揺りかごでの探求は終わり、次なる舞台は、星々の謎を秘めた天文台。

偽りの聖女が振りまく闇が深まる中、私達は、古の言い伝えと、月に託された一筋の希望の光を追う。


第十二話へ続く


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