第十話 暴かれた真実、交わされる新たな誓い
暖炉の火が、ぱちり、と高くはぜる。
その乾いた音だけが、息をすることさえ忘れた私とアレクシス様の間に広がる、重い沈黙を揺らしていた。彼の魂を引き裂くような絶叫も、黒い瘴気と銀の光の壮絶な激突も、今はもう幻のように消え去っている。ただ、彼の左胸に刻まれた呪いの痣、その禍々しい紋様の中心が、嘘のように僅かに薄らいでいるという事実だけが、揺らめく炎に照らされ、現実のものとしてそこにあった。
(効いた…。でも、見てしまった…)
私の指先は、まだ微かに震えている。安堵と、それ以上に大きな戦慄が、体中を駆け巡っていた。
「……リゼット」
先に沈黙を破ったのは、アレクシス様だった。床に膝をついたままの彼の声は、ひどく掠れていたが、その黄金の瞳は、先程までの苦悶の色ではなく、嵐が過ぎ去った後の空のように、驚くほど冷静な光を宿していた。
「君の薬は、本物だ。だが、俺たちが見たものも…あれは、間違いなく…」
「はい。偽りの聖女…その言葉が、私の異母妹セレスティアを指していることに、疑いの余地はありません」
私はこわばる唇で答え、ようやく深く息を吸った。あのビジョン――彼の血に刻まれた古の王と、森の意志を告げる聖女の対話――は、あまりにも鮮明だった。それは、この呪いの本質が、単なる古の約束の反故などという曖昧なものではなく、今この瞬間も脈打つ、明確な「悪意」によって引き起こされていることを示していた。
「『神託を捻じ曲げ、完璧な敬虔さの仮面を被り、蜜のような舌で真実を毒へと変える…』」
私は、聖女が口にした言葉を反芻する。脳裏に蘇るのは、民衆の前で奇跡を演じ、誰にでも慈愛に満ちた笑みを浮かべるセレスティアの姿。
(あの時もそうだった。父上の前では私の薬草の知識を褒め称えながら、二人きりになると、その瞳は氷のように冷たく私を見下していた…)
彼女は、森の力を、そして聖女という神聖な地位を、自らの底知れぬ野心のために利用しているのだ。
「俺が王都を追われ、この呪われた城に幽閉されたのも…全ては彼女の筋書きだったというわけか」
アレクシス様は、苦々しげに吐き捨て、ゆっくりと上衣を身につけた。彼の白い肌が再び衣服に隠されると、先程までの壮絶な光景が嘘だったかのように、大広間にはいつもの静けさが戻ってくる。だが、私達の世界は、もう決して元には戻れない。
「彼女は、森の祝福を独占し、王家を意のままに操ろうとしているのかもしれません。そのために、森の理を正しく受け継ぐあなたの血脈が、何よりも邪魔だった…」
「そして、森の恵みを真に理解する君もな」
アレクシス様の言葉に、はっとする。そうだ。私が王都から追放されたのは、私がセレスティアの「偽り」を、その本質を見抜く可能性を持っていたからだ。彼女の作り上げた完璧な物語の中で、私は不都合な真実だったのだ。
私達は、互いの顔を見合わせた。手にした希望の一滴は、同時に、絶望的なまでに巨大な敵の存在を明らかにした。戦うべきは、千年の呪いだけではない。聖女の仮面を被り、国の光そのものを喰らおうとしている、巨大な悪意そのものなのだ。
「…どうする、リゼット」アレクシス様の声に、わずかな焦燥が混じる。「薬の効果は確かだった。だが、このたった一滴を作るのに、お前は五日も眠らずに…これ以上、お前を危険に晒すわけにはいかない」
彼の瞳に浮かぶのは、私を気遣う色だけではない。自らの無力さと、私をこの過酷な運命に巻き込んでしまったことへの深い悔恨の色だった。確かに、薬の精製は困難を極めた。材料である『月雫草』も『安息苔』も、嘆きの森の奥深く、限られた場所でしか手に入らない。彼の呪いを完全に消し去るには、一体どれだけの時間と労力が必要になるか、見当もつかなかった。
(怖い。私にそんな大それたことができるのだろうか。相手は国を欺く聖女。私は、ただの薬師なのに…)
一瞬、心が竦む。だが、私は首を振ってその弱さを振り払った。
「それでも、続けます」
私は、きっぱりと言い切った。彼の黄金の瞳を、まっすぐに見つめ返す。
「これはもう、アレクシス様だけの問題ではありません。セレスティアを止めなければ、森は嘆き続け、この国は彼女の毒に蝕まれてしまいます。私は、私の知識で、森が与えてくれたこの恵みで、あなたを救いたい。そして、何よりも…彼女の嘘を、この手で暴きたいのです」
私の言葉に、アレクシス様はしばし黙り込んだ。暖炉の炎が、彼の彫刻のような横顔に深い陰影を落とす。やがて彼は、決意を固めたように立ち上がると、私の前に進み出た。
「…昨夜の誓いを、少しだけ変えてもいいか」
彼の大きな手が、そっと私の肩に置かれる。その手は、もうぎこちなくはなかった。騎士の、鋼のように鍛えられた力強さと、私を壊さないようにと気遣う優しさが、布越しに伝わってくる。
「俺は、お前が俺にかけられた呪いを解く、その時までお前を守ると誓った。だが、今は違う」
彼は私の目を真っ直ぐに見つめた。その黄金の瞳の奥で、新たな炎が宿命を焼き尽くさんばかりに燃え上がっているのが見えた。
「リゼット。俺は、お前と『共に戦う』。この呪いを解き、偽りの聖女の野望を打ち砕く、その日まで。この命と、俺の誇りであるこの月鋼の剣の全てを懸けて、お前と共に」
それは、守られるべきか弱い薬師と、呪われの騎士の関係ではない。同じ敵を見据え、同じ未来を目指す、対等な同志としての魂の誓いだった。彼の言葉、彼の眼差し、肩に置かれた手の温もりが、私の胸の奥に燻っていた炎を、再び激しく燃え上がらせる。
「はい、アレクシス様」
気づけば、私の頬を熱い涙が伝っていた。それは、恐怖や不安からではない。ずっと一人だと思っていたこの世界で、初めて心から信頼できる同志を得られたことへの、魂が震えるほどの安堵の涙だった。
その夜、私達はほとんど眠らなかった。
暖炉に薪をくべながら、今後の計画を話し合うためだ。まず、薬の安定した供給ルートを確立しなければならない。そのためには、工房に残された錬金術の文献をさらに深く読み解き、より効率的な精製法を見つけ出す必要があった。
「同時に、外の世界の情報も必要だ。セレスティアが王都で何をしているのか…」
「城には、古くから使われている伝書鳩の塔がある。今はもう誰も使っていないが…あるいは、機能するかもしれん」
「でしたら、王都にいる信頼できる誰かに、手紙を…」
私の言葉を、アレクシス様は静かに遮った。
「いや、危険すぎる。セレスティアの監視の目は、王都の隅々にまで及んでいるだろう。下手に動けば、お前の存在が気づかれる。今は、動くべきではない」
彼の判断は冷静だったが、その声には私を案じる響きが滲んでいた。焦る気持ちを抑え、私達はまず足元を固めることに決めた。アレクシス様は、薬の材料の確保と、この古城という唯一の砦の守りを固めること。私は、工房での研究に全力を注ぐこと。
夜が明け、東の窓から差し込む清浄な光が、工房の埃っぽい空気を一本の槍のように貫いた。壁に掛けられた羊皮紙の天体の運行図が、まるで私達の運命の軌道を示すかのように、静かに朝日に照らされている。
私は、新たな決意を胸に、白鳥の首のようにしなやかな曲線を描く蒸留器を手に取った。ひんやりとしたガラスの感触が、覚悟を決めた心に心地よかった。
(セレスティア…。あなたが捨てた森の恵みと、真実の知識で、あなたの作り上げた巨大な嘘を、打ち破ってみせる)
昨日までの日々は、呪いを解くための穏やかな共同生活だった。
だが、今日からは違う。
これは、奪われたもの全てを取り戻すための、私達の戦いの始まりなのだ。
第十一話へ続く