第一話:追放令嬢と忘却の森
「リゼット・フォン・ヴェルナー! 貴様との婚約を、本日をもって破棄する! そして、聖女暗殺未遂という大罪により、貴様を王都から追放処分とする!」
硬質で冷たい声が、大理石の床に反響する。声の主は、つい先ほどまで私の婚約者だったはずの、クラウス第二王子。その美しい顔は、私への嫌悪と軽蔑で醜く歪んでいた。
磨き上げられた床に映る、豪奢なシャンデリアの光がちかちかと目を焼く。集まった貴族たちの煌びやかな装いは、まるで私という一点の染みを際立たせるための舞台装置のよう。彼らの囁き声と冷ややかな視線が、無数の氷の刃となって私に突き刺さる。
私の隣では、異母妹であり、この国の「聖女」であるセレスティアが、か弱い春の小鳥のように震えながら王子の腕にしなだれかかっていた。陽光を弾く桜色の髪、潤んだ青い瞳が庇護欲をかき立てる。彼女が纏う、ふわりと甘い花の香りと微かな神聖な気配が、その清らかさを何よりも雄弁に物語っていた。誰もが守りたくなる理想の乙女。――私の全てを奪っていく、完璧な偽善者。
「そんな…クラウス様…。私は、何もしておりません…! 信じてください!」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。
「まだ言うか! 聖女様の紅茶に毒を盛ろうとした証拠は挙がっているのだぞ!」
王子が忌々しげに指し示した先には、侍従が持つ銀のトレイ。その上に乗せられているのは、見慣れた一包みの乾燥したハーブ。それは間違いなく、私が調合したものだ。
――ただし、それは悪夢にうなされるというセレスティアの安眠を願い、心を込めて作った、ただのカモミールとラベンダーのブレンドハーブ。安らぎの香りを放つはずのそれが、今や私を奈落へ突き落とす「毒」としてそこにある。
(ああ、まただ。また、こうなるんだ)
熱を失った心のどこかで、冷静な自分が呟いていた。
私、リゼット・フォン・ヴェルナーには前世の記憶がある。科学と緑に満ちた「日本」という国で、「植物学者」として生きていた記憶が。
だから、この世界で魔力を持たずに生まれた「出来損ない」の伯爵令嬢と蔑まれても、絶望はしなかった。魔法がなくとも、知識があれば人の役には立てる。そう信じて、薬草やハーブの勉強に没頭してきた日々は、私の誇りだった。
けれど、結果はこの通りだ。私のささやかな知識も、地道な努力も、聖女である妹の天使のような微笑みと、真実味あふれる嘘の涙の前では、塵芥ほどの価値もなかった。
「お姉様…。どうして、このような酷いことを…。わたくし、お姉様の淹れてくださるハーブティーが大好きでしたのに…。信じておりましたのに…っ」
セレスティアが悲痛に瞳を伏せ、その青い瞳から水晶のような涙がこぼれ落ちる。その完璧な演技に、周囲の貴族たちは確信を深めたように囁き合う。「おお、聖女様がお労わしい…」「魔力もない出来損ないの姉が、偉大な聖女様を妬んだのだろう」「フォン・ヴェルナー家の恥晒しめ」。
もう、何を言っても無駄だ。私の言葉が届く場所は、ここにはない。
私はすべての反論を諦め、背筋を伸ばし、静かに頭を下げた。せめて最後の矜持だけは、誰にも奪わせない。
「――謹んで、お受けいたします」
その言葉を最後に、私は衛兵に乱暴に両腕を掴まれ、引きずられるように玉座の間を後にした。
その瞬間、衛兵たちの背後で、宰相が冷たい笑みを浮かべているのが見えた。普段は温厚な彼が、まるで獲物を追い詰めた猟犬のような目をしていた。
(……そういえば、少し前にアレクシス様が仰っていたっけ。宰相殿は私の錬金術を快く思っておらず、『世界の停滞』を打ち破るための『変化』を望んでいる、と……。まさか、あの時の宰相殿の視線が、私の力を測っていたのだとしたら……)
もう二度と、あの場所に戻ることはないだろう。
◇
ガタガタと不快に揺れる粗末な一台の馬車に乗せられ、半日。
着飾るためではなく、私を貶めるためだけに着せられていた豪奢なドレスは無慈悲に剥ぎ取られ、ごわごわした肌触りの、名もなき平民の娘が着るようなワンピース一枚で、私は森の入り口に突き出された。
目の前に広がるのは、昼なお薄暗く、よどんだ瘴気が霧のように立ち込める「忘却の森」。
その名の通り、一度足を踏み入れれば、二度と生きては戻れず、やがて人々の記憶からも忘れ去られてしまうと噂される禁忌の場所。ここが、私の新たな終の棲家らしい。
「せいぜい、魔獣に喰われんよう、せいぜい長生きすることだな。元・伯爵令嬢様」
衛兵は心の底からの嘲笑を浮かべてそう言い残すと、私という汚物を棄て終えたとばかりに、さっさと馬車を返し、走り去っていった。
一人残された私に、じっとりと湿った森の空気がまとわりつく。ねじくれ曲がった木々、地面を覆う毒々しい色の苔、そして鼻をつく腐葉土と瘴気の混じった甘く不快な匂い。木の葉の擦れる音さえ、死者のうめき声のように聞こえてくるようだ。
(死ぬために、ここへ来たわけじゃない)
冷たい空気の中で、ぎゅっと拳を握りしめる。
家も、地位も、名誉も、理不尽に全てを奪われた。けれど、前世から受け継いだ知識と経験、そしてこの体一つはまだここにある。
(大丈夫。植物は、毒にも薬にもなる。この森に生えるものも、きっと同じ。見極めさえすれば、必ず生き延びられる)
自分にそう強く言い聞かせ、私は覚悟を決めて森へと足を踏み入れた。
だが、私のちっぽけな覚悟は、夜の闇と共にいとも容易く打ち砕かれることになる。
太陽が完全に姿を消し、森が絶対的な闇に支配されると、昼間とは比べ物にならないほどの数の獣の咆哮が、四方八方から響き渡り始めた。
肌を刺すような殺気が、そこかしこから立ち上る。
――グルルルル…
すぐ側で、低い唸り声がした。茂みから爛々と光る複数の赤い瞳。
まずい、囲まれた。闇からぬらりと姿を現したのは、涎を垂らし、飢えた目をぎらつかせた巨大な狼型の魔獣が三匹。完全に、私をか弱く美味な獲物として認識している。
後ずさるが、背中がごつごつした大木の幹にぶつかる。逃げ場はない。
ああ、結局、私の人生はここまでなのか。あの玉座の間で一度は捨てたはずの命が、今になって無性に惜しくなる。無念と恐怖で、心臓が凍りつきそうだ。
一匹が、大地を蹴った。鋭い牙を剥き出しにした顎が、私の喉笛めがけて迫る。
ぎゅっと目を瞑った、その瞬間――。
ビュッッ!!
空気を切り裂く、鞭のような鋭い音。
直後、すぐ目の前で獣の甲高い悲鳴が上がった。
恐る恐る目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
飛びかかってきたはずの狼型魔獣が、私のはるか手前で、ありえない角度にくの字に折れ曲がり、地面に叩きつけられている。
そして、私の前には、一体の「獣」が立っていた。
狼たちよりもさらに巨大な、しなやかな体躯。
夜の闇をそのまま溶かし込んで固めたかのような、艶やかな漆黒の毛並み。
それは、まるで夜そのものが形を成したかのような、一頭の巨大な黒豹だった。
残りの二匹が怯え、威嚇の唸り声を上げるのも気にも留めず、黒豹は残忍なほど優雅な動きで狼たちに襲いかかる。閃光のような一撃、二撃。魔獣たちの断末魔は、ほとんど同時に響き、そして途絶えた。
圧倒的な力。この森の生態系の頂点に君臨する、孤高の王者の風格。
血の匂いが立ち込める静寂の中、黒豹はゆっくりとこちらに顔を向けた。
わずかな月光を浴びて、その瞳が爛々と輝く黄金色であることに気づく。
私は、その黄金の瞳に釘付けになった。
恐ろしいはずなのに、不思議と恐怖は薄らいでいた。
なぜなら、その瞳の奥に、ただの獣ではない、荒々しくも気高い知性の光が宿っているように見えたから。それは、まるで森羅万象を見通すかのような、深く、そしてどこか物憂げな光だった。
まるで、何かを問いかけるように私を見つめるその獣に、私は吸い寄せられるように、か細い声で問いかけていた。凍えた唇が、無意識に言葉を紡いでいた。
「…………あなた、は…?」
第二話へ続く