1 忘れられない貴女を
「ん〜…暇だなぁ…」
いつもと何ら変わらない春の休日、一人の一般人は家でゴロゴロしながらそう呟いた。
そんな彼の名は神庭柊。
ごく一般的な家庭に生まれ、ごく一般的な暮らしをしてきたごく普通の一般人である。
だがそんな普通の柊にも、実は一つだけ普通ではないところがあった。
(前世にはこんな暇な時なかったからこれでも幸せなんだけどな)
そう、柊には前世の記憶があった。
その前世では毎日のように戦が勃発していて、家でもろくに休めた記憶がなかった。
だがそんな苦労人の唯一の心の支えになったのが、妻の存在だった。
【あなたが私を支えてくれている分…いや、私はその何百倍もあなたを支えるからねっ】
そう言ってくれる彼女の笑みは何よりも眩しくて、これからも永遠に彼女を守ると神に誓った。
だがある日柊は最愛の妻とその間に生まれた娘を残して死んでしまい、今でもそのことを後悔している。
「…走りにでも行くか」
彼女の顔を思い出す度に彼女を残してしまった後悔が頭をよぎるため、柊は一旦それを忘れるために身体を動かそうと外に出ることにした。
「いってきます」
柊にとってこの言葉は大きな意味を持つが、当然それを知る人物はおらず、家族は何の変哲もない挨拶を返してくる。
「「いってらっしゃい」」
その言葉が最後になるかもしれない。
といった不安が毎回頭をよぎるが、いい加減忘れようと頭を強めに振って外に走り出た。
「あ、それは二階にお願いします」
「それ重いだろう?俺が持つよ」
「ふふ、ありがとう」
(ん?何やってるんだ?)
家を出ていつものルートを走ろうと右を向いたのだが、そこには引越し業者の大きなトラックが止まっていて、彼らは引越しを進めている様子だった。
そんな姿を見た柊は普段なら絶対にスルーして走り出すはずなのだが今回はなぜか使命感に駆られてしまい、すっかり走る気を失ってしまう。
「あの、すいません」
気づけばその引っ越してきた人に声をかけていて、そのお隣さんは首を傾げた。
「はい?」
「もしかして、この家に引っ越してきた方ですか?」
「はい、そうですけど…」
未だにその女性は状況を理解できていないようにポカンとした表情を浮かべていたため、柊はまずこちらが名乗って状況をわかりやすくしようと口を開いた。
「あ、申し遅れました。俺はそこの家に住んでいる神庭と申します」
「そこってことは…お隣さん!?」
「そうなりますね」
そこでようやく状況を理解したらしい女性は一瞬にして態度を改め、ペコペコと頭を下げ始めた。
「ご、ごめんなさいお隣さんに失礼な態度をとってしまって…!」
「いえいえ、こっちが突然尋ねたのが悪かったので気にしないでください」
直後お隣さんは頭を上げて一旦深呼吸をし、さらに態度を改めて落ち着いた表情で自己紹介を始めた。
「見苦しい姿を見せてごめんなさい。私は香賀楓と言います。これからよろしくお願いしますね、神庭さん」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
そう言って二人は軽く握手を交わし、直後に柊はある提案を持ちかけた。
「あの、もしよかったらなのですが、引越しのお手伝いをさせてもらえませんか?」
「え!?」
すると楓からは驚いた表情向けられてしまう。
「いやいや!!流石にそこまでしてもらうわけには!!」
「ちょうど身体を動かしたかったところなので大丈夫ですよ」
「で、でも…」
意外と簡単に押し切れそうになったためこのまま押し切ってやろうと一歩踏み出してみる。
「ん?何をしているんだ?」
だがそのタイミングで家から楓の夫らしい人物が出てきて、柊はビビって一歩下がってしまう。
「い、いやあのぉ…」
「こちらのお隣さんが引越しのお手伝いをしてくれるっていう話になってて」
「お隣さん…?」
その男は頭の上に?を浮かべつつ迫ってくるが、直後に状況を理解したらしく、楓の横に立って自己紹介を始めた。
「ああ、お隣さんか。これは失礼しました。私は香賀浩哉と言います。以後お見知り置きを。それであなたは…」
「俺は神庭柊と言います。これからお隣さんとしてよろしくお願いします」
柊と浩哉は先程と同様握手を交わし、ついさっきの話に戻った。
「それで、引越しの手伝いをしてくれるっていうのは…」
「ちょうどいい機会ですし隣同士で交流を深めておこうと思いまして。あと、運動したい気分なので」
「なるほど」
理由を述べると浩哉は納得してくれたように頷き、こちらに手伝いをお願いしてくる。
「なら、少し手伝って頂こうか。お願いできますか?」
「もちろんです」
「助かります〜」
という流れでお隣さんの引越しを手伝うことになり、柊は早速段ボールを持った。
「それは…佳奈美のものね」
「二階に登ってすぐ右にある部屋にお願いします」
「わかりました」
楓の発言からしてこの家にはこの二人以外にも住人がいるらしく、柊は今その人の荷物を運んでいることになる。
(結構重いな…一体何が入ってるんだ…?)
そのもう一人の住人のことも気になるところではあるがどうやらその人は買い出しに行っているらしく、その顔を拝むことは叶わなかった。
だからといって柊は手を抜くことなどせず、とてつもない勢いで荷物を部屋に運び込んだ。
「ふぅ…これでこの部屋は最後か」
数十分後にそのもう一人の住人の荷物は運び終わり、柊は一度そこに座って休憩することにした。
「…春だなぁ」
新築の匂いが漂うある人の部屋の中で、柊は虚空を見つめながらホッと一つ息を吐いた。
「そういえば、もうすぐ入学式か。さて、これからどんな出会いが待っているのかね」
これからの高校生活できっと新たな友人に出会い、共に新たな思い出を築いていくだろう。
その友人の中には親友と呼べるほどかけがえのない存在がいるかもしれないし、もしかしたらそれ以上の…
「流石に、クロエがいるわけないか」
仮に同じ世界に生まれ変わっていたとしても、多分彼女に前世の記憶はない。
だからもう、きっと諦めてしまったほうが楽になれるのだろう。
だが…どうしても抑えきれない思いが、魂に宿っている。
「いや、俺は諦めないよ。クロエ。仮に君が前世を覚えていなかったとしても、俺が絶対に君を見つけてみせる」
彼女がこの世界に転生している確率など地球という星が誕生した確率よりも低いだろう。
だが仮にどれだけ低かろうと、可能性がゼロじゃ無い限りは諦めることができない。
そういう諦めが悪い人間こそこの柊という男であり、リオの転生体の性であった。