クローン人間
私には記憶がない。
ある日、目覚めると、この訳の分からない施設の清潔な部屋のベッドに寝ていた。それ以前の記憶がないのだ。
――記憶喪失なのですよ。
と医師らしき人物、それに私の身の回りの面倒を見てくれる看護師らしき人たちは皆、そう口をそろえる。
愚かにも最初は彼らの言うことを信じていた。
だが、もう騙されない。
この施設は変だ。病院などではない。施設への入退場はセキュリティシステムにより厳重に管理され、生体認証でしか外部への扉が開かないようになっている。
普通、入って来る者を規制するだけだが、ここは、出て行く時も、生体認証による開錠が必要なのだ。ここには持ち出されては困るものがあるからだ。
施設の中にも生体認証でしか開かない開閉式のドアがいくつもある。きっとその部屋の何処かに、持ち出されては困るものがあるのだろう。
医師らしき中年の頭髪の薄い男性は「所長」と呼ばれている。ここは何かの研究所のようだ。だが、誰に聞いても何の施設なのか、何を研究しているのか、答えてはくれない。きっと極秘の研究がここで行われているのだ。
そして、私はその研究の成果物なのだ。この研究所は人に知られてはならないものを研究している。そう思えた。
記憶喪失だと言うが、私の頭には外傷を負った跡など見当たらなかった。
私は恐らく四十代だろう。幼少期から青年期にかけての記憶が一切、無いなんておかしい。それでいて、ちゃんと言葉を話すことが出来る。そういったことから、私はひとつの結論を導き出した。
――私はクローン人間なのだ。
だから、私には記憶がない。いや、記憶なんて必要ないのだ。恐らく私は、私のDNAの提供者に臓器を提供する為につくりだされたクローン人間なのだ。いずれ私は殺され、臓器を抜かれてしまう。
そんなの嫌だ。ここから逃げ出さなければならない。
私は脱出の機会を伺った。
夜間は部屋に閉じ込められてしまうが、日中は比較的、自由に施設内を歩き回ることが出来た。施設内には広々としたカフェテリアがあって、そこは壁一面がガラス張りになっている。庭が見渡せた。手入れに行きとどいた庭で、噴水まであった。部屋にはしゃれたテーブルと椅子がいくつもあって、コーヒーやノンアルコール飲料が飲み放題だった。
微かに軽音楽が流れていて、憩いのスペースなのだが、庭に出ることはできない。窓から見える景色は森ばかりで、この施設はどこか山深い場所に建てられているようだ。
食後に薬を飲まされていた。
「腎臓に障害あって、この薬を飲まないと命に係わるのですよ」と所長と呼ばれている男から言われていた。
嘘だ。医師でもないのに、いい加減なことを言うな。薬を飲んだ後、暫く頭がぼうっとしてしまう。この薬は鎮静剤の一種なのだ。私から反抗心を奪おうとしているのだ。
薬を飲んだ振りをして、トイレに流すことにした。これで、私は正気を保つことができるはずだ。
後は生体認証付きのドアをいかに突破するかだ。これが難問だ。
生体認証は指紋、顔、虹彩を用いた厳重なものだ。そこまでして管理しなければならないものが、ここにはあるということだ。それはクローン技術だとみている。
一刻も早く、ここから逃げ出さねばならない。何処かで刃物を手に入れ、看護師の一人を脅し、生体認証をクリアして外に出る。そう考えた。だが、手荒なことはしたくない。薬で眠らせてはどうだ? だが、刃物や薬をどうやって手に入れるのか?
私は生体認証をクリアする方法を考え続けた。
ところが、意外に簡単に解決方法が見つかった。いや、偶然、脱出に成功したと言った方が正しいだろう。
施設の一角にゴミ捨て場があった。
無論、ここにも生体認証があって、セキュリティシステムに登録されている人間以外、出入りすることができない。
ここのドアはステンレス製の内開きのドアだった。
たまたま目の前を大量のゴミを抱えた職員が通り過ぎて行ったので、こっそり後をつけると、生体認証でドアを開けて外に出た。
ドアはゆっくり、閉まろうとしていた。
私は廊下を駆け、ドアがまさに閉まろうとするその一瞬、ドアノブを掴むことに成功した。
このドアを通れば、外に出ることが出来る。晴れて自由の身だ。
私は素早くドアを開け、外に出た。
「所長。逃げ出した被験者が見つかったそうです」
若い看護師の言葉に所長と呼ばれた中年の頭髪の薄い男が「そうか」と頷いて言った。「追跡部隊を出しておいたので、捕まえたのか。馬鹿なやつだ。逃げ出したって、ここは絶海の孤島だ。何処にも行くところなんて無いのに。連れ戻して、また部屋に監禁しておいてくれ」
「それが・・・」と看護師が口ごもる。
「どうした?」
「どうやら死体で見つかったようです。追跡部隊に追われて、森の中を逃げ回っている内に、足を踏み外して崖から転落したそうです」
「死んだか」
「死にました」
「まあ、手間が省けた。長い間、誠心誠意、会長に仕えていたらしいからな。会長も殺すのが可哀そうだったのだろう。そこで、新薬の実験台にしていたのだ。もう少し、大人しくしていれば良かったのに。薬の効果が確認できれば、町に戻って、新しい人生をやり直すことができたはずだ」
「本当に。でも、彼は何故、記憶を消されたのでしょうか?」
「さあてね。見てはいけないものを見てしまったか、知ってはいけないことを知ってしまったのだ。君もそれを知れば、記憶を消されることになるよ。いずれにしろ、そのことで彼は会長を恐喝した」
「会長の逆鱗に触れてしまった訳ですね」
「うむ。この話はもうよそう。それで、データは十分、集まったのかね?」
「大丈夫です。ただ、服用すると、暫く、頭がぼうっとしてしまうようです」
「それくらい、仕方ない。何せ、記憶を消してしまう画期的な薬なのだから」
「記憶喪失」というタイトルで書き始めた作品。最終的にタイトルは「クローン人間」とした。




