美鶴子の恩返し
――珍しいものを拾ってきた。
山菜を取りに出かけたはずの春雄が、若い女性を背負って戻って来た。
「あら、まあ、大変!」明子が驚く。
「部屋に寝かせてやってくれ。俺は坂本先生を呼んでくる」
坂本は麓の病院の開業医だ。春雄はバンを運転して、坂本を呼びに行った。
春雄と明子は人里離れた山の中で旅館を経営している。腰痛に効くと評判で、山で取れる山菜と手打ちの蕎麦をメインにした食事も好評だ。一時期は客足の絶えない旅館だったが、麓にホテルチェーンが経営するリゾート・ホテルが出来てから、客足がぱったりと途絶えてしまった。
最近は、馴染みの客が昔を思い出して、宿泊に来てくれる程度だ。雇っていた仲居は麓のホテルに引き抜かれてしまった。何とか頑張って来たが、限界を感じ始めていた。今年、いっぱい頑張って、旅館を畳んでしまおう――と春雄は思っていた。夫婦二人の生活だ。蓄えは多くないが、生きて行くだけなら、何とかなるはずだ。
旅館の下には小川が流れている。切れ込んだ谷底を小川が縫うように流れている。上流にちょっとした滝があって、荘厳な景観なのだが、滝までの山道がきつくて観光には向かない。旅館下の狭い河原に女性が倒れていた。
若い女性は体中に無数の切り傷を負っていたが、右足首を捻挫していただけで、大怪我は負っていないようだった。女は美鶴子と名乗った。
「山歩きをしていて、足を滑らせて崖から落ちてしまった」と美鶴子は言う。
「そうかい」と春雄は頷いたが、美鶴子の話を信じていなかった。女性が一人で山歩きをするような場所ではない。
麓から人気のない山道を登ってきて、誤って転落したとは思えない。
「あれは、身投げしたのだと思う」春雄は明子に言った。
崖の上から身を投げたのだ。それが、うっそうと茂った樹木に引っ掛かって、落下速度が緩み、木の枝に何度もバウンドしながら、小川に落ちたのだ。そして、旅館の下まで流されてきた。
「春雄さん。警察に届けた方が良いんじゃないか?」と坂本は言ったが、「訳ありなんだろう。少し、様子を見るよ」と春雄は断った。そして、「また、身投げをされてはかなわん。それとなく見張っていてくれ」と明子に頼んだ。
幸い――とは言えないが、旅館に客はいなかった。春雄と明子は美鶴子に言った。「まあ、のんびりすると良い。うちの温泉は怪我や捻挫にも効く」
「そうよ~なんだか娘が帰ってきたみたい。みっちゃん――て呼んで良いかしら? 怪我が治るまで、うちにいてね」
夫婦には娘がいたが、生まれで直ぐに亡くなっている。
美鶴子は「ありがとうございます」と涙を滲ませながら答えた。優しい性格のようで、木の枝のように細い。坂本が「栄養が足りていないようなので、美味しいものを食べさせてあげて下さい」と言っていた。「客が来なくて、すっかりなまってしまった。リハビリだよ」と春雄は料理の腕を振るった。
食の細い美鶴子は「美味しいです。美味しいです」と時間をかけて、春雄の作った料理を一生懸命、食べてくれた。それを見て、春雄は嬉しくなった。
二、三日すると、美鶴子は歩いて回れるようになった。夫婦は美鶴子が「お世話になりました」と言い出すのが怖くて、美鶴子の前で、たわいのない会話を繰り返した。
「すいません。こんなにお世話になってしまって・・・あの・・・持ち合わせがないのです。もし、もし、よろしければ、こちらで働かせてもらえませんか?」美鶴子がそう言い出した時には、「うちで働きたい⁉ 勿論、大歓迎だよ~」と小躍りした。
美鶴子がいてくれるだけで、毎日、楽しかった。
不思議なもので、美鶴子が働き始めてから、ぽつぽつと客が訪れるようになった。
「あんたは、福の神だよ~」春雄がそう言うと、美鶴子は「そんな。私が福の神だなんて・・・私こそ、ここで働かせてもらって幸せです。毎日が楽しくて仕方ないんです」と言ってとびきりの笑顔を向けた。
「みっちゃん、いつまでもうちにいてくれて構わないのよ」と明子も言う。
美鶴子は幸せを噛みしめていた。だが、この幸せは長くは続かない。美鶴子にはそのことが痛いほど分かっていた。春雄は美鶴子が身投げをしたことに気がついている様子だったが、何故、身投げをしたのか、怖くて聞けないようだった。
美鶴子はある秘密を抱えていた。
多少、宿泊客が増えたとはいえ、旅館の経営は苦しいままだった。
そんなある日、春雄はバンに乗って買い物に出た。途中、旅館へと続く一本道を塞ぐ形で車が停められていることに気がついた。
リゾート・ホテルの嫌がらせだ。
ただでさえ宿泊客が少ないのに、これでは更に客足が遠のいてしまう。かっと頭に血が上った。次の瞬間、春雄はバンを車にぶつけてしまった。
警察が旅館に来た。
車を当て逃げされたとホテルから警察に通報があったようだ。春雄は素直に「私がやりました」と認めた。旅館にやって来た警察官が美鶴子の顔を見て、怪訝な表情を浮かべていた。
美鶴子は限界だと思った。
その夜、美鶴子は春雄と明子を前に、秘密を打ち明けた。
「私、夫を殺して逃げているのです」
見た目が良かったので、最初は自分にはもったいな人だと思った。だが、酷い男だった。結婚してからは、「これで遊んで暮らせる」とろくに働きもせずに、ギャンブル三昧、挙句の果てには「もっと稼いで来い」と暴力を振るうようになった。
なけなしの生活費を取り上げられようとして、夫を突き飛ばしたら、台所の角で頭をぶつけて死んでしまった。本当に、呆気ないほどだった。
美鶴子は死ぬ為に山に登った。
「これ以上、ご迷惑をおかけする訳には行きません。何時か、何時の日か、お日様のもとに出て来ることがあれば、この御恩をお返しします。きっときっと、お返しします」
美鶴子は涙ながらに語った。
「良いのよ。みっちゃん、そんなこと」
春雄も明子も、もらい泣きしていた。
美鶴子は旅館を去った。警察に自首した。
「もう無理だな」美鶴子が旅館を去り、一年が経った日に春雄が言った。
「十分、頑張りました」
リゾート・ホテルのお陰で客足は遠のく一方だった。
「みっちゃんが戻るまではと頑張って来たけど、次のお客で最後にしよう」
「そうね。みっちゃん、帰って来るところがなくなっちゃったね」
「旅館が無くても、ここに帰ってくれば良い」
「そうね。ここで待っていましょう」
最後の客を迎えた。若いカップルだった。「秘境みたいですね」と鄙びた旅館を気に入ってくれた様子だった。
夕食の準備をしていると、ドタドタと若いカップルが廊下を走って来た。
「鶴です。鶴がいます」と言う。窓から鶴が見えると言うのだ。
(こんな山奥に鶴なんて来る訳がない)
そう思ったが、窓から外を眺めると、眼下に見えるため池とその周りに広がった湿地に一羽の鶴が立っていた。優雅なたたずまいで、毅然と辺りを睥睨していた。
「鶴だ・・・」春雄は絶句した。
若者がSNSに鶴の動画をアップしたことで、旅館は一躍、「鶴が来る旅館」として有名になった。連日、満員で三か月先まで予約が取れない状況だった。
「是非、うちと提携してもらいたい」
ホテルチェーンはマネージャーを更迭し、旅館に支援を申し出た。人出が足りなくて困っていた。過去の確執は忘れて、春雄はホテルの支援を承諾した。
今日も鶴がいる。何故か一羽だけだ。毎朝、鶴に向かって明子が呟く。
「もう良いのよ。みっちゃん、早く帰ってきて。旅館なんて、どうでも良いの。私たちずっと待っているんだから」
「笑う門には福来る」と似た構成の作品ですが、鶴を使うことで差別化をはかっています。




