アスリートの苦悩
――地上最速の男。
俺はそう呼ばれている。
四年に一度の夢の祭典、オリンピックの花形競技、百メートル決勝を明日に控えていた。俺が負ける訳がない。
俺は鏡に聞いた。
「鏡よ、鏡。明日の決勝で優勝するのは誰だ?」
鏡の中の俺が答える。
「それはお前だ」
この鏡は「真実の鏡」と呼ばれている。何でも聞けば、鏡の中の俺が真実を答えてくれる。値が張ったが、オリンピック前に購入した。俺を、世界最速の男を讃える為に。
「ふふ。俺がトップでゴールを走り抜けるのだな」と俺が言うと、鏡の中の俺は意外なことを言った。
「違う。優勝するのはお前だが、トップでゴールを走り抜ける訳ではない。お前はゴール寸前にアキレス腱を断裂し、ゴールに転がり込んで、かろうじて一位になるのだ」
「アキレス腱を痛めるのか⁉」
「そうだ。そして、お前はもう走ることができなくなる」
それは困る。オリンピックの金メダルは名誉だが、アスリート人生が終わってしまっては元も子もない。今回が初のオリンピックで、これから二連覇、三連覇と連覇を続けるつもりだった。
「明日の試合、棄権すればどうなる?」
「当然、無事だ」
「四年後のオリンピックは?」
「出場できるが、メダルには届かない」
「そんな・・・」
俺は絶句した。決勝戦に出れば栄冠を勝ち取れるが選手生命が終わってしまう。棄権すれば選手生命が伸びるが、栄冠とは無縁に終わってしまう。
究極の選択だ。
俺は迷った。
翌日、俺は決勝戦に出た。
ここで華々しく散って終わろうと心に決めた。栄冠の無い選手生活を続けることに意味を見出せなかった。
疲労からか、決勝戦まで、どんよりと重く感じていた体が、今日は嘘のように軽かった。痛みもない。快調だ。
スタートの号砲が鳴った。
俺は抜群のスタートを決めた。軽快に速度を上げて行く。ぐんぐんと引き離す。誰も俺について来ることなどできない。
俺は先頭を走り続けた。
そして、ゴールの瞬間、俺の右足首のアキレス腱がバンと音を立てて切れた。俺は激しく転倒しながらゴールテープを切った。
俺の選手生命は断たれた。
俺のゴールのシーンは世界中で何度も、何度も繰り返し流された。
栄光と共に選手生活を終えた男。
俺は伝説になった。
了
拙作をご一読いただき、ありがとうございました。
三作目は陸上、それも百メートルを題材にしてみた。まだまだ出来そうだが、先ずはこの辺で。




