こち使いの詩
――誰? 僕のことを呼ぶのは。
白装束の若い男が壇上で一心不乱に祈っていた。
こち使いは風使い。風を自由にあやつることができる。その存在は人には見えず、太古の昔より大気中を漂っている。風の精霊だ。
かつて一人だった風使いは四人に別れた。南風をあやつる「はえ使い」、北風をあやつる「木枯らし使い」、東風をあやつる「こち使い」、西風をあやつる「神渡し使い」の四人だ。四人は四方に別れ、今日も風をあやつっている。
風を吹かせてくれと、こち使いを呼ぶ者があった。
――何故、僕のことを呼ぶの? おや⁉ 君の声は聞こえるけど、僕の声は聞こえないの? 残念だな~人と話をするなんて久しぶりだったのに。
こち使いは、ふわりと白装束の男の前に舞い降りた。
この寒空に、こち使いは体にぴったり密着した服を着ている。上下ひとつになったツナギのような緑色一色の服だ。ダイビングで着るウェットスーツのようだ。手袋に靴まで一体になっていて、靴先が異様に長く、尖っている。首の周りにはひらひらと花びらのような襟がついていた。
丸い顔に大きな眼が印象的だ。髪の毛を七三に分け、綺麗に撫でつけてある。
こち使いに向かって、男が懸命に話しかけてくる。
――風を吹かせてくれって? 雨使いはよく雨を降らせてくれって頼まれると聞いたけど、風を吹かせて欲しいなんて珍しいね。う~ん、困ったなあ・・・どちらが先に旅人の着物を脱がせることができるか、お日様使いと木枯らし使いが力試しをしてから、僕たち、人の営みには干渉しないことに決めたんだ。でも、まあ、木枯らし使いは懲りずにちょくちょく手を貸しているみたいだけどね。はは。
こち使いが話しかけたが、白装束の男は反応しない。
――そうかぁ~僕の声は聞こえないんだね。でも、こうやって人と話をするのは久しぶりだ。
こち使いは嬉しそうだ。
白装束の男に向かって、盛んに手を振って見せた。
――ねえねえ、こんなところで何をしているの? 何故、白一色の服を着ているんだい? 神渡し使いみだいだ。
白装束の男に尋ねたが、こち使いの声は男に届かない。
――折角、話ができると思ったのに、残念だな~ちぇっ!
こち使いは、飄々と男の周りをぐるぐる回った。
「頼みがあります」と白装束の男が言う。
――何々、願いを聞き入れてくれれば、お望みのものを進ぜようだって。僕の欲しいもの? そうだね~僕が欲しいのは友達なんだ。でも、君とは友達になれそうもないね。だって、君の声は聞こえるけど、僕の声は聞こえないみたいだから。話ができない。つまらないよ。君の願いはかなえてあげられそうもない。
こち使いは名残惜しそうに白装束の男の前に漂っていたが、
――もう行くね。君の声が聞けて、嬉しかったよ。
と、飛び去ろうした。すると、「待て、待ってください」と白装束の男が呼び止めた。
――おや⁉ 僕の姿が見えるのかい?
そうなると話は別だ。どうやら、こち使いの声は聞こえないが、姿は見えているようだ。
――僕はこち使い。君は誰? 名前は何と言うの?
こち使いが懸命に話しかけるが、男には伝わらない。
白装束の男は、「ちょっと待って」と両手を広げて、こち使いをなだめると、「いいかい。僕の言うことが分かったら、両腕で大きく丸を作るんだ。こんな風にね」と頭の上で、両腕で大きな丸をつくってみせた。そして、「分からなかったら、バツだ。ほら、こうして両腕を重ねるんだ」と言って、胸の前で、両腕でバツ印をつくってみせた。
――ああ、いいね。こうかい?
と、こち使いは両腕で丸をつくった。
「分かったということだね。これで簡単な会話ができそうだ」
丸バツの合図を決めてから、「僕」、「君」と少しずつ合図を増やして行った。二人で手話を取り決めて行ったのだ。
こうして、二人は会話を始めた。
こち使いは、会話に夢中になった。腹を抱えて笑い、踊り、絶叫を上げ、おんおんと声を上げて泣いた。白装束の男は、常に表情を変えず、水を飲むだけで、食事も取らず、眠りもせずに、こち使いと会話を続けた。
――ああ、幸せだよ。こんなに楽しかったことなんて、今までなかった。
三日目の夜、白装束の男が言った。「さて、そろそろ潮時です。私の願いを聞いてもらえませんか? 東南の風を吹かせてもらいたいのです」
――何故、そんなに風を吹かせたいの?
「風が必要な理由ですか? それは・・・漢王朝を簒奪し、中華の地に覇を唱えようとする魏の曹操を討ち払うためです。今、魏軍は赤壁に到着し、船をつないで、江南に攻め入る支度を整えています。これに対抗できなければ、甲冑を束ね、臣下の礼をとって曹操に服従するしかありません。江南の民は、この先、塗炭の苦しみを味わうことになるでしょう。
それは何としても避けなければなりません。
魏軍は遠征で疲れ切っています。今こそ、義軍を討ち滅ぼす、絶好の機会なのです。火攻めを行えば、魏軍を焼き尽くすことができます。その為には東南の風が必要なのです。今、東南の風を吹かすことができれば、我が連合軍の勝利は疑いありません」
――難しくて、よく分からないな。
こち使いは申し訳なさそうに両手を広げた。
「そうですか。では、もう一度、説明いたしましょう」
――ううん。もう良いよ。僕の友達になってくれたのだから、君の願いを聞き届けるよ。
「ありがとうございます」
――ねえ、君、名前は何と言うの? まだ聞いていなかった。
「名前ですか。私は徐州琅邪郡の住人、諸葛亮と申します」
――ふ~ん。亮君かあ。ねえ、また会えるかな?
「そうですね。また何時か、何処かでお目にかかりたいものです」
――そう。じゃあ、今から東南の風を吹かせるよ。
後漢末、二〇八年、長江、赤壁にて魏軍と孫権、劉備の連合軍が激突した。
河北を統一し、天下統一を目指す魏の曹操は徐州の劉備軍を一蹴し、呉の孫権が支配する江南へと攻め込んで来た。
孫権は劉備と連合し、魏軍と対決することを決めた。十数万と言われる大軍を擁する魏軍だったが、南方の風土に慣れておらず、疫病に苦しみ、船酔いを防止するために船を鎖でつないだ。当然、火攻めを恐れたが、この時期に東南の風が吹くことはない。逆風だ。魏軍は安心し切っていた。
魏軍を壊滅させるには、火攻めを成功させるには、東南の風が必要だった。
この難題を解決したのが諸葛亮だ。
諸葛亮は。南屏山に七星壇を築き、身を清め、白の道服を着て登壇した。不眠不休で祈ること三日、ついに東南の風が吹いた。
呉の周瑜が率いる精鋭部隊が魏軍に攻め込んだ。火攻めの開始だ。東南の風が曹操軍に吹き付け、炎はあっという間に魏軍を飲み込んで行った。
魏軍は大敗した。
大勝利を得た呉の周瑜は「天候さえ操る化け物、諸葛亮を生かしておいては、後々の為にならぬ」と兵を送って、諸葛亮を殺そうとした。
だが、諸葛亮は逃げ去った後だった。
「こち使い殿、久しぶりですな。ずっと、あなたとお会いしたかった」
諸葛亮が言った。
――そうかい。ついこの前、会ったばかりじゃない?
こち使いは悠久の時間を生きている。彼にとって一瞬でも、この世の人々には気が遠くなるほどの時間が経っていたりする。
「最後に、あなたに会えて良かった」と諸葛亮は言う。
――やだなあ~亮君。まるで明日、死んじゃうみたいじゃん!
二人で取り決めた合図がある。手話のようなものだ。諸葛亮には、こち使いの姿は見えるが、声は聞こえない。そこで、二人で取り決めた合図で会話をするのだ。
諸葛亮が淡々と答える。「天文を見ますに、明朝、私の命は燃え尽きるでしょう」
――ええっ! そうなの? そんなの嫌だぁ~何とかならないの。
こち使いが悲鳴を上げる。
「そんなに悲しそうな顔をなされなくとも、全ては天命なのです。誰も逆らうことなどできません」
――折角、友達になれたのに残念だなあ~。
「あなたと知り合いになれて、面白き人生でした」
奇しくも二人、似たようなことを言う。
――ごめんね~もっとたくさん、お話ししておけば良かった。何時だって、会いに来ることができたのに・・・なんだか、忙しかったし、亮君からお呼びがかからなかったものだから、ついつい億劫で、会いに来なかった。もう、本当、僕、嫌になる。
こち使いは、はらはらと涙を流した。
こち使いの言葉は通じなかったが、泣いている様子が見えた。諸葛亮が慰めて言った。「そんなに悲しまないでください。そうそう、今日、お出でいただいたのは、お願いがあるからです。また、風を吹かせてもらいたいのです」
――風を? 勿論、亮君の頼みだったら、僕は何でも聞くよ。
こち使いは二人で最初に取り決めた丸の合図をつくってみせた。諸葛亮が嬉しそうにほほ笑む。
「ありがとうございます。こち使い殿。明日、我が軍は徹底を始めます。その時――」
二三四年春、諸葛亮率いる第五次、北伐軍は、五丈原で司馬懿率いる魏軍を睨み合っていた。亡き主、劉備の宿願であった、漢王朝を復興させるには、魏を討伐する必要があった。
蜀軍は遠征軍だ。長期戦は不利だった。司馬懿に女ものの服を送るなどして、決戦を行うべく、挑発したが、魏軍は動かなかった。
八月、諸葛亮は病に倒れ、陣中に没した。過労死であったと言う。
司馬懿は星が流れるのを見て、諸葛亮が最後を迎えたことを悟った。
蜀軍が退却を始めた。今こそ、蜀軍を殲滅させる絶好の機会だ。蜀軍は大将を失い、統制を失っている。今、追撃を行えば、大打撃を与えることができるはずだ。
司馬懿は総攻撃を命じた。
その瞬間、大風が吹いた。
――亮君。君との約束を守るよ~!
草木がなぎ倒され、人や馬が、旗や武具が、木の葉のように吹き飛ばされて行った。地に伏した兵士たちは、大風が巻き起こした砂煙で、目を開けていられなかった。
司馬懿は軍を止めた。
蜀軍は逃げ去った。人は、
――死せる諸葛、生ける仲達を走らす。
と司馬懿を笑った。
拙作をご一読いただき、ありがとうございました。
風に関する逸話は何か考えた時、真っ先に思いついたのが赤壁の戦いでの諸葛孔明の東南の風。これを作品にしたくて書いた作品。こちは東風のことだが、その辺はご容赦を。