ナムカミナムカミツツゴウナキヤ
電車は今日も混んでいた。
朝の通勤ラッシュほどではないが、とても座ることなどできそうもない。今日も一日、大変だった。つり革につかまって、ぼんやりしていたら、隣の男が小声で何かつぶやいていた。
「ナムカミナムカミツツ――」
かすかに聞こえる。例の呪文だ。
都市伝説になっていた。吊革に摑まって、呪文を唱えると、吊革の魔人が現れ、「願いを叶えてくれると言う。魔法のランプの吊革版だ。
暇な学生が考えたのだろう。満員電車の暇つぶしだが、この都市伝説はSNSで拡散し、今や、電車で通勤、通学している人間で知らぬ者などいないほどだ。
暇だったので、真似してみた。
――ナムカミナムカミツツゴウナキヤ~
呪文を唱えると、隣の男が対抗心を燃やしたようで、ぶつぶつと呪文を繰り返し始めた。魔人が現れるのは、一日に一度で、しかも、一度、現れた人間のもとには二度と現れない。そういう話だった。
僕のもとに現れれば、彼のもとには現れない。
(馬鹿らしい。魔人なんて、いるはずないのに)
と思った瞬間、もやもやと雲のようなものが広がり、「わたしにご用事ですか~?」と吊革の上に小男の上半身が現れた。薄くなった額、卵型の顔、昔風の両端がぴんと撥ねた口髭、魔人というより、名探偵といった風貌だ。
吊革の上に広がった雲の中に、名探偵の上半身が浮かんでいた。
――吊革の魔人が現れた!
本当にいた。なんて、ついているのだ。吊革の魔人に出会えるなんて、宝くじに当たるより難しいはずだ。
(願いごとだ。何か願いごとを言わなければ。何にしよう。ヤバい、何も考えていなかった)
僕は焦った。実際に魔人が現れるなんて、思ってもいなかったからだ。咄嗟に、僕は、「世界一の金持ちにしてください!」と喚いていた。
まあ、悪くない。世界一のお金持ちになれば、何だってできそうだ。
魔人の姿は他の人間には見えない。だが、僕の喚き声を聞いて、周囲の人々は、吊革の上に魔人が現れたことを悟ったようだ。
皆の注目が集まる。
すると魔人は困ったような表情を浮かべて、「いえいえ、お待ちください。あなたの、その願いを叶えることができません」と言った。
「ええ~何で~⁉ 吊革の魔人は皆の願いを叶えてくれるんじゃないの!」
思わず大声になる。
「いえ、私はお隣の男性の依頼で現れたのです」
「隣――」
隣を見る。僕と争うように呪文を唱えていた、あの男だ。真っ青な顔をして、僕と魔人を交互に見ている。僕は彼に勝った。でも、何故、僕の願いは叶えてもらえないのだ。
「お隣の男性から願いごとがあったのです。あなた、呪文が間違っているから、正しい呪文を教えて欲しいと。正しい呪文はナムカミナムカミツツガナキヤなのです」
「えっ!」と叫んだのは隣の男性だった。
そうか。分かった。
僕が隣で間違った呪文を唱えるものだから、彼は呪文を唱えた後で、「ちっ! 誰か正しい呪文を教えてやれよ」とでも呟いてしまったのだ。魔人は彼の願いを聞いた。だから、彼にも魔人の姿が見えているのだ。
「ああ~待って~」
隣の男性の悲痛な叫びを後に、「あなたの願いは叶えてさしあげました~」と魔人は吊革の上でくるくると回転すると消えて行った。
沈黙が訪れる。
隣の男性と目が合った。さっきまで青白かった顔が朱に染まっている。怒っているのだ。殴られそうだ。
「ごめんなさ~い!」
次の駅で、僕は慌てて電車を降りた。
拙作をご一読いただき、ありがとうございました。
奇妙な呪文にしたお陰で、直ぐに本作のアイデアを思い付いた。こういうファニーな作品が大好き。




