第九章
しかし、病院内で亀谷君を見ることができたのは、例の「若草の会」の日が最後であった。
翌週の月曜日、つまり中秋の名月の日の翌日、亀谷君は作業療法に出てこなかった。そのときは今日はたまたま体調でも崩してしまい、作業療法に出て来られなかったのかな、と思い、心配で寂しかったけれども、私はひとりで黙々とその日与えられた作業をこなしていた。しかし翌日も、そのまた翌日も、亀谷君は作業療法に出てこなかった。
そして金曜日、「若草の会」の日が来る。亀谷君はそこにも出てこなかった。これで一週間も亀谷君の顔を見ていないけれど、どうしちゃったのだろう。だからといって、亀谷君はどうしたのか、と聞くわけにはいかないだろう。医療スタッフの守秘義務とかで答えられない理由があるのかもしれない、と思い、敢えて私からは聞かなかった。この週の「若草の会」。亀谷君がいなかったので、とくに何も楽しいとは思わず、私も口数少なく過ごしてしまった。
「島浦さん、今日はちょっと元気なかったわね」
その週の「若草の会」が終わって病室に帰ってから、私たちの病室に出向いてきた大江さんが私にそう声を掛けてきた。私がその言葉に対してしばらく無言でいると、更に大江さんが続ける。
「やっぱり、亀谷さんが居なかったから、かしら」
「そうです」と言わんばかりに、無言を続けながらもちょっと顔を紅潮させてしまった私。大江さんはそれを見て言う。
「亀谷さんは今週、退院されました。あまり詳しくは言えないけれど、元気で退院されましたよ。あ、そうそう、彼から島浦さんによろしくと伝言預かってるわ。亀谷さんの担当の看護師さん伝てだけどね」
伝言のことは本当は内緒だから、といわんばかりに、とくに台詞の後半をささやくように言った大江さん。
えっ、亀谷君も私のこと、一応は意識してくれていたんだ。そのことで、そのことだけで、舞い上がりそう、なんていうと大袈裟だが、妙に嬉しくなってしまった。だけれど、退院してしまった亀谷君にはもう会うこともないんだわ、という現実を次の瞬間に思い出して、嬉しい気持ちもすぐに萎えてしまった。彼の連絡先を知っているわけではないのだし、教えてもらうようなことも当然できないのだから。亀谷君とのこともあくまでも入院中の「ちょっとした恋の思い出」として、心に密かに留めておく程度でいいのかもしれない。
そういえば、亀谷君の「元カノ」であるという織田さんもどうしちゃったのだろう。まだ保護室に入っているのだろうか。出てきたという噂も聞かないのだし。あれからもうひと月は経つのにそんなに長く保護室に入っているとも考えにくいけれど。まぁ、彼女のことまでをも深く考える必要もなかろう。
暑かった夏も終わり、秋が少しずつ深まっていく。山間にあるこの病院。まもなく紅葉の時期を迎えることになるだろう。病棟の窓からも季節の移り変わりを望むことができる。季節の移り変わりはゆっくりだが人事に関係なく確実に巡ってくる。私も随分長くこの病院にお世話になっている。もう十月になるのだから、六、七、八、九と四ヶ月だ。
作業療法にも休まずに参加して、与えられた作業を真面目にこなしている。「若草の会」にも落ち着いて参加している。まだ六月の姉の結婚式で暴れたという「事実」を私の中で思い出せていないというのが本当のところなのだが、そろそろ退院の声が掛かる頃だろうか。いくら快適な環境とはいえど、入院生活は入院生活なのである。そろそろ退院して「普通に暮らす」ことができればそれでいい、いや、それがいい、と私も思う。
十月に入った頃からソーシャルワーカーの結城さんとの面談の機会が定期的に設けられるようになった。取り敢えずは年内の退院を目指して、ということである。
退院するまでには開放病棟に移る必要はあるかと私は結城さんに聞いたが、別に開放でも閉鎖でもそんなに変わることはない、と結城さんは言われた。開放病棟は改築前のまだ古い建物なので、正直なところまだ閉鎖にいたほうが私としても過ごしやすい、といったところである。同室の桃ちゃんと金ちゃんとも少しは仲良くなってきたのだし。しかし、そのお二人ともいずれは退院するときが来るのだろうか。精神のどこを病んでいるのかわからないくらい落ち着いたお二人なのだし。
ただ、退院にあたっての問題として、例の「医職住」が真っ先に挙がる。「医」についてはこの病院の外来に掛かればよいとして、「職」には就けるのだろうか。そして何よりも「住」についてが大きな問題となる。更に、やはりお金のことがそれ以上に気に掛かる。生きていくのにどうしても必要なのがお金。収入源としての障害年金の申請が通らないことにはどうにもならないだろう。