第八章
お盆休みが明けて三日目。この日、久しぶりに広田医師の診察があった。
「どうですか。最近は」
開口一番の広田医師の質問に対し、私は答える。
「えぇ、まぁ……。作業療法の方にも少しは慣れてきまして……」
「そうですか。私のほうから見ましても、島浦さん、だいぶ表情など良くなって来られたと思いますよ」
決して悪いことを言われたわけではないのだが、それを聞いたときあまり良い気持ちはしなかった。広田医師のような男にずっと経過観察されていたのかな、と改めて思い直すと、である。もちろん、医師としては担当する患者の経過観察なんぞは職務として当然のことではあるのだが。
「さて、入院してからもうじき三ヶ月、ですね。そろそろ私どもとしましても、島浦さんの退院に向けてのサポートをしていこうと思いまして……」
そうか、もうそんなに月日が経つのかと、広田医師の言葉で気がつく。最初は不安だらけだった入院生活だが、今ではそれもすっかり日常のものとなってしまっている。病棟というにはずいぶんと洒落たこの建物の中で、三食付きで昼寝も可能、であるのだから。毎日の作業療法も亀谷君と一緒に「仕事」をするようになってからは、それもまたちょっとした楽しみになっている。
だからといって、このまま入院し続けるのもお邪魔なハナシだろうし、入院費というのもかかるであろうし、それはどこから出てくるというのか。それにやはり入院生活は入院生活なのだ。しかし、退院したところで、できたところで、次はどこに行けというのか。
実家は受け入れてくれるのだろうか。いくら肉親であるとはいえど、姉の結婚式を散々荒らしてしまったという私を、もはや未成年でもなくなった私を、扶養していく義務なんてもはやないのだから。
広田医師は私が気になっている、ちょうどその辺のことについて説明を始めていた。
実家は今のところ入院費を立て替えてくれてはいるけれど、当然、返せるのならば返してもらうつもりだと言っていると。そして、退院後の私を再び受け入れるつもりはないと。そういった態度を示しているという。
オブラートに包むような言い方でこれらのことを説明した広田医師。かえってそれがわざとらしく聞こえて、まるで生春巻きの皮がそのままぬるりと食道を通っていくかのようなそんな不愉快さを感じてしまった。
そういう状況下でもあるので、精神障害者保健福祉手帳の取得と、障害基礎年金の受給。それらの申請を医療スタッフ側としても強く勧めるということである。精神科に入院させられた時点でそうなのかもしれないが、これにて私も「精神障害者」となってしまうことになるのではある。
それに、お金のことについては、入院中はあまり気に留めることなく過ごしてきたが、やはり切実なハナシではある。入院前のフリーター生活では、月十万円どころか八万円すら稼ぐのが目一杯ではあった。その中からいくらかを実家に入れて、さらに年金などを払う。その上で小遣いとしていくらか使うとなると、貯金もままならない状況であった。親元にいるにも関わらず、ゆとりはほとんどなかったということである。親の定年後、亡き後、そのことを視野に入れないこともなかったが、このままだと自立なんて夢のまた夢だと思っていた。
今紹介された障害年金というのも、やはりそれだけでは生きていくのに決してゆとりのある額ではないらしいが、「障害者」として認定されているという事実だけで国からお金が貰えるわけなのである。
とにかく、これからの働き口も保障されるわけではないのだから、活用できる制度は活用しましょう、と。広田医師はそんなことを言ったのだった。
このような身の上になってしまった私がこの世知辛い社会で生きていくことをより容易くしてくれるもの。それが福祉という概念の元に成り立っている、障害者を対象にした各種制度の最大限の活用であるとのことである。
まぁ、当事者であるという自分自身でもよくわからない病名を精神科医に付けさせられて、しかもそれを更に誇張して、あたかも重篤な精神病であるかのように行政への診断書に書かれるというようなこと。それは申請が通る確率を少しでも上げるための方便というものであったとしても、やはり不愉快さを覚えることなのだが、それはそれで仕方のないハナシではあるのかもしれない。
そんなふうな説明があったあと、広田医師からソーシャルワーカーさんにバトンタッチされる。担当のソーシャルワーカーさんは結城さんという男性で、年の頃はこれまた三十ほどだろうか。広田医師とは違い、爽やかな印象を受ける。スリムで眼鏡も似合っている。しかし、指輪などをはめていないので独身なのかもしれない。別に医療スタッフの品定めなんてするつもりはないのだが……。
障害者手帳や年金の話に加えて、高額医療費の公費負担制度についてなどの説明を詳しく受けた。無事に年金の申請が通れば、そこから入院してからの医療費もなんとか賄うことができるそうだ。
まぁ、こういうことはソーシャルワーカーさんに任せておけばよいのだ。結城さんからも、困ったことや心配なことなどがあったらいつでもなんでも相談してください、と言われた。そうでなくても退院するまでに何度もお世話になるだろう。退院後の「衣食住」ならぬ「医職住」については心配しないで、とのことで。これは単に文字っただけにしては妙に的を射ている現代を生きていくのに重要な三要素であるとのことだ。
さて、八月のお盆過ぎから私は作業療法に加え、グループセラピーなるものに参加することになった。平日の午前中、一時間ほどの時間を所属病棟や老若男女の壁を越えて、心理士や看護師の監督の下、入院患者さん同士で話題をシェアしたりしつつ、和気藹々と時間を過ごすのである。コミュニケーションの練習などを身につけることも目的であるとのことだ。
いくつかの曜日にそれぞれグループセラピーは行われているが、中でも毎週金曜日のグループでは比較的若年層の参加者が多いらしく、私のいちばん信頼できる看護師の大江さんもスタッフとして参加するとのことなので、私はこの日に参加することを決めた。金曜日のグループには「若草の会」とかいう名前がついているらしい。
金曜午前十時の「若草の会」。これが私にとっての毎週の楽しみになった。実はというとあの亀谷君も「若草の会」に参加しているのだ。参加者の男性患者の中には女性患者の気を引こうと躍起になって話題を振ろうとすることがある者もいたが、それも度が過ぎると心理士のストップがさりげなく入るのである。その中で亀谷君は穏やかそうに控え目にしている。
まぁ、なんて素敵な紳士なんだろうか。
さて、九月に入ってしばらく経った日の「若草の会」にて。その次の日曜日には「中秋の名月」つまり「十五夜」を迎えるということで、それに関してのことが話題になる場面があった。
亀谷君は月のことについても詳しいようだ。この日の「若草の会」では、いろいろな月についての雑学をふるまっていた。
「明後日が十五夜ってことだから、今日は十三夜ってことになりますよね。十五夜だとほぼまん丸な満月なんですけど、十三夜はこれからもう少し満ちることができる。つまり伸びしろがあるってことなんですよね。だから十五夜もさることながら、日本人のうちでは十三夜ってのも愛でられて来たらしいんですよ。今夜もまた、そんな伸びしろのある月を眺めてみてはいかがでしょうか」
「ところで月って自転周期と公転周期が同じ長さなんですよ。まぁ、こう言ってもわかりにくいかもしれませんが、要するに地球に対していつも同じ面しか向けていないんです。地球に向けて月の裏側を見せることは決してないんですよ。月って裏側を見せない、意外と腹黒い奴かもしれませんね」
こんな饒舌な亀谷君を見たことはない。そろそろ心理士さんのストップが掛かるかも、と思いきや、みんなフンフンと興味深そうに亀谷君の話を聞いているようだ。ちなみに、「若草の会」に同席している心理士さんは検査担当だった澄野さんとは別で、澄野さんと年の頃は同じくらいだろうけれどそれとは違ってほんわかとした雰囲気を持った女性と、まだ若くて駆け出しっぽいやや小柄なこれまた女性の二人が担当だった。
亀谷君、さすが大学生だけあっていろんなことを知っているんだな、と尊敬の念を抱かざるを得ない。本人も気に入っているという彼の「美月」という名前にふさわしく月のことにはなおさらの関心があるのかな。
そういえば、「十五夜」の次の日は「十六夜」と書いて「いざよい」と読むわね。この日から月はだんだん欠け始めるということになるけれど。更にそれを過ぎれば立待月、居待月、臥待月とどんどん欠けていくわよね。それに対して、今夜の月はまだ伸びしろがある月、かぁ。もちろん明後日、名月の夜は天気が是非良くなって欲しいけれど、今夜の月も気になるわね。私もそんなことを思い巡らし、亀谷君とおしゃべりする格好の材料とさせてもらった。私も高校生の頃、そういうのが気になって調べたことがあるんだよね。それが今になって「役に立つ」ことになるとは思わなかった。
私も自分の持っている知識をフルに披露しようとするが、間の取り方なども上手い亀谷君と違って、それが下手くそな私のほうが心理士さんのストップを掛けられそうになってしまっていた。
日曜日の夜、名月の夜になる。その日は夕食が終わって、薬を飲むとすぐに、私は病棟東側のデイルームに向かい、それから消灯直前まで夜空の名月を見ていた。
生憎、一昨日金曜日の「十三夜」は天気が曇りで月がはっきりと見えなかった。雲が薄くなっているところから「伸びしろのある」という月の明かりが漏れているのがわかったりはしたものの。それに対して今夜は絶好の月見日和である。あの上でうさぎが餅をついているなんて童話もあったかしら。それとも竹から生まれた娘があそこへ帰っていくっていうのだったっけ。
しかし、お月見なんてまた雅なことをするのも何年ぶりかしら。同じ病院の敷地内、開放病棟の窓から、亀谷君も同じ月を見ていることだろう。そのことを思いながら、ときめきつつ私は月見を続けていた。月は夜が更けるにつれて高く上ってきていた。